メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:新コロナの警告/・・・(2/2)−6  2020/06/13


■新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)−6
 
<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449
 [3]新時代の倫理の前提2/マクダウエル「リアリズム倫理」の核心と見るべき選言説
・・・マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシア的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだとの主張・・・
<注>ジョン・マクダウエル/John McDowell(1942‐ )・・・ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講
師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトン・アリストテレスに代表される古代ギリシア哲学、倫理学、言語哲学、 認識論、心の哲学、ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。
カント、ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。つまり、
ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の【根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズム/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる(委細、後述)。
 
★AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514
 
一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)のデカルトが考えたような物理的世界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウエルの言う『威丈高なプラトニズム』/恰もハイエクとミルトン・フリードマンが嵌ったリバタリアニズム(抽象合理一神教とでも言う他に言いようがないほど異常に強度の概念硬化がもたらした完全自由主義)が連想されて興味深い!)、逆に物性物理的な性質に還元されて説明されるか(同じくマクダウエルが言う『露骨な自然主義』/“観念Vs自然”なる二元論の対概念としての自然の意味であり、その立場からすれば、例えばマルクス・ガブリエルの新実在論(外界の思考)でも絶対に認められないことになるだろう!)という二者択一に常に迫られるというジレンマに陥っていることになる。
 
マクダウエルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」とが実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張している(これが、マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学とジョン・マクダウエルのアリストテレス的自然主義(岩手大学、音喜多信博/KAKEN https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/)
 
マクダウエルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーがディルタイの生の哲学のなかに再発見したとされる“古代ギリシア・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念”であり、それこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンとアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学/二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)もアリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514 )
 
・・・マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある・・・
たまたまのことだが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であった。
それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わりつつある(話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコンピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入ったというユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と見るべき「想像」( imagination)が苦手である!?(従って、益々、これからの時代において我われヒトの会話と文章、つまりその意識から想像力が失われて“我われが動物化”する宿命にあるのでは?)という、当ブログ記事のテーマでもある「ヒト故の想像力のユニークさ(特に、そのあらゆる意味での“潜性イノヴェーション”の宝庫でもあり得るという意味での重要性)を本格AI化の時代に入りつつある今こそ再認識すべきだ!という問題意識」と重なる論点を提供しているからだ。
 
 【補足1】『人間の壁2』と「選言説」について
 
・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固有名などの一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場であり、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、マクダウエルでは、これが「ヒトの意識=第二の自然と定義し、それを第一義の自然と等置する考え方」のベースとなっている。
 
「マクダウエルの≪選言説≫に因る意味論」でも、その第二の自然たるヒトの意識はそもそも胎盤的な謂いの環境である第一義の自然の影響を当然のこと受けている(諸感覚を経由して)はずなので、たとえ固有名詞であっても初めから固有の価値を持つとは考えられない‐ということになる。
 
『人間の壁2』(労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)は、準汎用AIの高度機械生産性の角度から見れば『人間の壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)に重なる(委細参照 ⇒ (1)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 , (2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514)
 
つまり、『人間の壁2』(結局、“感じる”ヒトは高度デジタル抽象的なビジネス・サービスだけでは十分に満足できないという)の問題は、<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る「選言説」と関りが深いことになる(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/42/1/42_1_1_29/_pdf/-char/en)。
 
<参考>マクダウエル自身は概念説(表象説)と選言説の結びつきについて明確な論述を施していないが、われわれは、ひとまず両者の関係を次のように整理することができる概念説と選言説はそれぞれ対立する立場との間に論争を巻き起こしつつ、現代の知覚の哲学における中心的な関心領域の一部を形成している。
 
「概念説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの信念は合理的な制約(フレーム)を獲得する」という論点であり、他方の「選言説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの心に提示されるのは実在の在り方そのものである(いわば、マルクス・ガブリエルの外界の思考に近い?)」という論点である。
 
したがって、これら二つの見方は、相伴うことで「経験は信念に対して実在からの外的な合理的制約を与える」という論点を構成すると考えることができる。換言すれば、選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる(出典:知覚経験の選言説と概念説/小口峰樹(東京大学総合文化研究科科学史科学哲学/現・玉川大学脳科学研究所、特任助教)。https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/pdf/知覚経験の選言説と概念説.pdf
 因みに、ケンブリッジ分析学派(ヴィトゲンシュタイン学派)は“非選言説”の立場を採る。また、「選言説」はマクダウエル「リアリズム倫理学(ヒトの意識=第二の自然と見て、それを第一義の自然と等置する)」のベースと見るべき問題でもある。更に、ここで言う「意義」はフレーゲ言語学での「実在の直接的な意味、意義(概念)、表象」の区分を意味する。

【補足2】「概念説Vs選言説」の緊張関係がヒントとなる「AI時代の民主主義の新たな可能性」について
 パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズムの創始)が提唱したタイプ(脳内で自由に変容する可能性がある概念そのもの/つまり、概念説に接近する)とトークン(その概念と対峙する関係にある、確固たる実在としての因果の連鎖に縛られる特定・個別の対象/選言説に接近する)の区別(Type-token distinction)という考え方がある。
デイヴィドソン(Donald Herbert Davidson/1917- 2003/米国の哲学者/最も著名な論文は『行為、理由、原因(1963)』)によれば、現実的には、個々人の心理面におけるこの両者(タイプとトークン)の対応関係は一筋縄では行かない。
 
そこで、例えばある固有名詞(特定タイプの言語表象)ら多様な言語表象の組み合わせに因る一定の言明(言語表現/厳密に言えば、それによる或る人の心的理由の説明)は、必ずしも因果論的ないしは論理的に首尾一貫性を確保するとは限らないことになる。いわば、個々人の内心それ自身は常に多様性に満ちていることになる。(画像は、https://www.s9.com/Biography/davidson-donald-herbert/ より)。
 
別に言えば、如何に客観合理性を謳うとしても、安定的に、それが中立性・公平性を担保するのは非常に困難であることが理解できるはずだ。ましてや、何か絶対的に梃子でも動かぬソリッドな固定観念か何かが自己の中核的で、個性的な生命力の正体だと理解することはできないといえる。逆に言えば、個々の個性的な、しかも一回性は個々の信頼に基づく関係性にのみあることになる。
 
この「一回性は個々の信頼に基づく関係性にのみある」という点にこそ、マクダウエルが「選言説」で上の二つの視座、「概念説と選言説」を融和・和解させ、それによって「真のリアリズム」を取り戻すことが、愈々、必須だと主張する理由がある。
 
そして、必然的にこれは<脳内外の諸環境の干渉の影響下にある「感情」こそがヒトの日常言語における固有名などの一義的な意義と概念の形成に先行する>と見る立場につながる。しかも、この論点は現実的に現下の国際政治の局面(世界の民主主義と世界経済の行く末を占う)にも絡んでいることが理解できる。
 
それは、米トランプ政権の「自国第一主義」の異様な暴走、あるいは我がJPNルイ16世(ゼロサムのファシストこと安倍晋三・首相)の底知れぬほどの無責任政治からさえ何か学ぶべきことがある筈だという気付きであり、より肝心なのはその覚醒の内外における共有を急ぐことである。
 
直近の事例に関連付ければ、例えば今後も世界の民主主義が存続するため必須と見るべき基本的条件は何か?ということである。そして、それは疾うに行き詰まったかに見える世界の民主主義が、再び、その限界をブレークスルーするための良き契機ともなり得る「啓蒙思想の“普遍”観念に関わる重要な格率とも見えるデューイ・プラグマティズムの原点」である<凡人の保障された言明の希望(可能性)>の問題意識が真に全世界できるようが共有できるようにするため、ポスト新コロナパンデミックの日本が全世界に先駆けて取り組めるよう努めるべきである。
 
それは、7年にもおよぶ「あまりにも異常な安倍政権下の忖度&記録改竄政治」の欠陥に関わる政治病理的な分析が、このデューイの格率と相まって十分に有意な反面教師の役割を果たし得ると思われるるからである。無論、それは此の反面教師が自己チュー・トランプの治療のためにも些かは役立つだろうと思われるだけに止まらず、何よりも「パース哲学、マクダウエルのリアリズム倫理、同じく“選言論Vs概念論”の緊張関係(論争)、デューイの凡人の保障された言明の希望(可能性)、AI時代の民主主義の新たな可能性」が深く共鳴しつつ世界の民主主義の再生と深化のためにも十分に役立つと考えられるからである。
 
また、「選言論」との関連で想起すべきは(これは“赤の女王”の足枷の問題の説明でもふれたことだが)、一般的には一つしかあり得ないと思われる自然の理解についても、実は<(1)地球環境の内外で分ける(即ち、“内=自然(生命系)、外=非自然(非生命系)”)とする考え方と、(2)地球環境〜全宇宙までを含めてオール自然と見なす考え方>の二通りが成り立つことが理解できる。そして、例えば「AIシンギュラリティ」論は明らかに(2)の立場である。
 
そこで、ここでは「AI時代の民主主義の新たな可能性」のフレームを明確化させるため、「我われヒトの“潜性イノヴェーション”(ヒトの意識、外界の思考があればこその?)が、実は(1)の自然系でしか成立し得ないのでは?と思われる点について少し述べておく。
 
それは、もし仮にAIシンギュラリティに適応でき得るヒトの“潜性イノヴェーション”((1)地球型自然の意味での外界の思考)が成立可能だとすれば、それは現在のヒト(人類)とは全く異次元の生命体(果たしてそれが生命体と呼び得るかどうかも?だが)というべきかもしれない、と思われることである。
 
それは、例えば非常に長時間の宇宙滞在が実現した暁には、究極の目的である別の星での生活のため宇宙空間で食料を全くゼロから作り出すことが不可欠の課題となり、何らかの方法で科学的に合成された食料を食すことが普通となった時代のヒトは、果たして我われと同じヒトと定義できるのか?そのような視点から見ると、マクダウエル『リアリズム倫理学』のベースともされる「選言説」についての理解がより深まるのではないか、と思われるからだ!」
 
[3]ハイエク哲学の限界をブレークスルーするマルクス・ガブリエル『新実在論』、“外界の思考”の視座
 
・・・以下は、当シリーズ記事(1/2)より部分転載・・・
ハイエクは著書『隷属への道』(1944)で<「ファシズム政権や社会主義者が主張する配的正義は人間の意図せざる行為の結果として市場において自生する自生的秩序(Catalaxy)が実現する交換的正義には敵わない。なぜなら、仮に金持ちから余剰なカネを奪い取り、それを社会的な弱者層へ平等に分配する(分配的正義を実現する)ことが可能であるとしても、それは一強・強権独裁化したファシズム国家でしかあり得ないことになるからだ。>という「趣旨のこと」を主張する。
 
また、そのためハイエクは「長い歴史的な時間をかけ自生的に形成された言語・慣習・伝統および市場の知識を遥かに超えた大いなる力が、つまり人間の力を超えた意図せざる結果として自生的な秩序が市場のなかで生まれる」ことを最重視すべきだとも主張する。
 
たしかに、このような視点は重要であり、それは現代「知」の先端と見るべき「エトノス(ヒト・自然・文化環境)論、新実存主義(@マルクス・ガブリエル/↓▲)、批判実存論(Critical Realism)」などの先取りかと見紛うばかりである。
 
▲マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel/1984 - /ドイツの哲学者、ボン大学教授)の新実存主義/序論:穏健な(“普通の”のニュアンス/補、toxandoria)自然主義と、換言論への人間主義的 抵抗(廣瀬 覚訳、2020.1.21/岩波文庫)
 
・・・以下は、当著書の序章「ジョスラン・マクリュール(Joceran Maclure/ラヴァル大学教授/1973− )のガブリエル・新実存主義についての紹介文」より部分転載。・・・
 
ガブリエルは、数々の形而上学の重要問題について、大胆な見解を唱えている。たとえば、以前の著作では、存在論や認識論で構成主義(自然科学に似た要素還元論的な)が乱用されるいま、新たな実在論が求められていると論じた。
 
我われの現実(日常的な)をかたちづくる対象領域―すなわち「意味の場」(つまり『日常』/補、toxandoria)―の多元性(マッハ感覚論的素材性(‐実在性)/補、toxandoria/関連参照↓★)を中心に据えた実在論である。
 
★マッハ感覚論的素材性(実在性)について:再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1
 
★同上関連/西田哲学の形成に影響を及ぼした現代物理学の影響についての思想史的考察:矢崎彰(早稲田大学大学院博士課程)http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1994_21_hikaku_10_yazaki.pdf
 
★日本哲学という意味の場—ガブリエルと日本哲学/浅沼光樹:西田幾多郎とマルクス・ガブリエル、特に「場所」以後の西田と『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルの基本思想の類似を指摘する!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/10ae5d94-4fb6-444c-be2a-6f296cc224f0/1c472734a1d9d1ebdc7a6b98d0d387c6
・・・
心の哲学の研究者も、神経科学者や認知科学者も、ガブリエルとコメンテーターの個々の議論に疑問を抱き、そこにある不備をとがめようと思う人は少なくないはずである。そして、それこそが健全というものだ。それでこそ、新実存主義はより強固なものに育っていける。
 
だが、アカデミズムの有力な一角で、また文化の広範な領域で、換言論的自然主義(特に、一部のAI系研究者やフィンテック系の投資コンサルタントらに見られる素朴な!の謂いでの/補、toxandoria)が幅を利かせる現状に不安を抱く者にとって、ガブリエルらの見方が抵抗の時の到来を告げるものであることは確かなのだ。
私(ジョスラン・マクリュール)の目に映る「心は頭のなかだけにあるのではないと考えるガブリエル」とは、抜き難い心の文化的・社会的側面に注意を促す哲学的人類学者というものだ。
・・・ここで、引用転載おわり・・・
 
この哲学的人類学者のイメージが、ある程度まで後述する≪ハイエクのカタラクシーに特徴的な考え方≫に重なる点のあることが興味深い。
ただ、ハイエクの場合、それはガブリエルの所謂「ヒトの意識(心)の“絶えざる多様性と開放性”の創出の作用」(更に付言すれば、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識、つまり“凡人の言明の保障の意義”なる暗黙知の重要な役割についての理解)という水準まで深まることはない。
 
それどころか、折角のその貴重なエントランス部分への気付きが、結局は、もう一つのハイエクの関心事であり、ハイエク自身の大きな拘りでもあった自由市場原理主義(個の完全自由に基づく市場原理を崇拝するリバタリアニズム(その完全自由主義なる超設計主義(自己撞着)があらゆる埒外の余人の自由を厳しく規制するリバタリアニズム2.0)、つまりリバタリアニズムという経済計画論(完全な個の自由の絶対保全)による新しいタイプのリバタリアニズム国家(開放系の多様性を排除し市場原理の埒外の一切の価値観を否定する方向)に回収されている、と思われる。
 
片やミルトン・フリードマン については、シカゴ大学時代に同期で同僚でもあった宇沢弘文の証言によるとフリードマン自身が金融投機のカラ売りで一儲けすることに熱中するタイプのリバタリアニスト( The Complete Libertarianist)であったようだ。だから、ミルトン・フリードマンはガブリエル哲学的な意味での実存主義的な理解とは程遠い世界のヒトであったようだ。
 
ただ、ミルトン・フリードマンの名誉のために補足しておけば、既述のとおり<「重要論文F35」の読み直しから、実は<フリードマンが「諸経済理論F・システム大系を哲学的視点でネットワーク化し、真の経済理論が完成する迄のさし当りの道具としての市場原理である/道具主義(プラグマティズム)の市場原理」>と考えていた節がある。>という説もある。天才とされる経済学者フリードマンも、ハイエクに負けず劣らずの大いに迷える人間であったのかもしれない。
https://twitter.com/tuneleconnaispa/status/1268192144428154881
https://twitter.com/mipom11/status/1268446915462434817
とすれば、ハイエク、フリードマンら新自由主義の聖人たちの正体と欠点を或る程度は知りながらも、それを巧みに政治利用して私腹を肥やし、只管お仲間らの権力強化にうつつをぬかして我が世の春を謳歌する輩(例えば現代日本の安倍晋三(ファシズム2.0政権の領袖)や竹中平蔵ら)の如き、余りにも野蛮で狡猾で強欲な政治家や盗人同然の御用学者は、この<市場原理主義の二大聖人>に対しても大いに無礼なのではなかろうか?w
 
[4]危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない。(寄稿)京都大学人文科学研究所:藤原辰史・準教授/2020426朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1255028914612695040 
https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-12593245917.html  
https://twitter.com/tadanoossan2/status/1255029249573978112
◆全国民を小バカにした<アベ粉飾劇場>のチョー強引「“黒川の場”幕引き」の一幕!605朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268792512224714752
 
◆【告発の行方?】告発:代理人@刑訴239‐1、告訴:告権者@同法230で同等効力!法務省アベ忖度&対国民主権蔑視の虚偽“国会”発言!法的正義不在ニッポン!→ >告発は刑訴法の規定で代理を認めない:法務省・川原刑事局長/桜を見る会めぐる首相告発を1.31不受理・東京地検・・・首相主催の「桜を見る会」をめぐり、憲法学者らが1月に安倍晋三首相を背任の疑いで告発した問題で、東京地検が告発を不受理にしていたことが分かった。26日の衆院法務委員会で共産党の藤野保史氏が明らかにした。不受理の通知は1月31日で、「代理人による告発を受理できない」などの理由だったという。 ←コレは、法務省・川原刑事局長の真っ赤なウソ!https://www.asahi.com/articles/ASN5W44RNN5VUTIL04K.html
 
・・・以下、「2020426朝日/藤原辰史・寄稿記事」の部分転載・・・
 
【歴史に学ばず、現場を知らず、統率力なき言葉】
   ワクチンと薬だけでは、パンデミックを耐えられない。言葉がなければ、激流の中で自分を保てない。言葉と思考が勁(つよ)ければ、視界が定まり、周囲を見わたせる。どこが安全か、どこで人が助けを求めている
か。流れとは歴史である。流れを読めば、救命ボートも出せる。歴史から目を逸(そ)らし、希望的観測に曇らされた言葉は、激流の渦にあっという間に消えていく。
 
   宮殿で犬と遊ぶ「(JPN)ルイ16世」の思考はずっと経済成長や教育勅語的精神主義に重心を置いていたため、危機の時代に使いものにならない。IMFに日本の5・2%のマイナス成長の予測を突きつけられ、先が見通せず右往左往している。それとは逆に、ルイとその取り巻きが「役に立たない」と軽視し、「経済成長に貢献せよ」と圧力をかけてきた人文学の言葉や想像力が、人びとの思考の糧になっていることを最近強く感じる。
 
   歴史の知はいま、長期戦に備えよ、と私たちに伝えている。1918年から20年まで足掛け3年2回の「ぶり返し」を経て、少なくとも4千万人の命を奪ったスペイン風邪のときも、当初は通常のインフルエンザだと皆が楽観していた。人びとの視界が曇ったのは、第1次世界大戦での勝利という疫病対策より重視される出来事があったためだ。軍紀に逆らえぬ兵士は次々に未知の疫病にかかり、ウイルスを各地に運び、多くの者が死に至った。
 
   長期戦は、多くの政治家や経済人が今なお勘違いしているように、感染拡大がおさまった時点で終わりではない。パンデミックでいっそう生命の危機にさらされている社会的弱者は、災厄の終息後も生活の闘いが続く。
・・・途中、略・・・
 
  研究者や作家だけではない。教育勅語と戦陣訓を叩き込まれて南洋の戦場に行き、生還後、人間より怖いものはないと私に教えた元海軍兵の祖父、感染者の出た大学に脅迫状を送りつけるような現象は関東大震災のときにデマから始まった朝鮮人虐殺を想起する、と伝えてくれた近所のラーメン屋のおかみさん、コロナ禍がもたらしうる食料危機についての英文記事を農繁期にもかかわらず送ってくれる農家の友人。そんな重心の低い知こそが、私たちの苦悶を言語化し、行動の理由を説明する手助けとなる。

   これまで私たちは政治家や経済人から「人文学の貢献は何か見えにくい」と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
 
   だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。
 
   危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない。
 
(後置)『人間の壁』を脱出する条件は「リアリズム倫理」(農業知)への覚醒
・・・「ディープラーニング〜準汎用AI」時代こそ警戒すべき、『人間の壁』から『バベルの塔』構築への暴走・・・ 
・・・その<暴走>の先駆けが、GAFA型「差別(選別)化による大格差」の発生・・・
 
(1)GAFA型差別(選別)化の根源にある『人間の壁』 
近未来において「汎用or準汎用AIロボ‐Web]のIOT環境(
https://mono-wireless.com/jp/tech/Internet_of_Things.html)が完成した暁には、グローバル金融を完璧に組み敷きAIロボを所有・支配する数パーセントの人間が9割超の<AI‐IOTが理解できない!という意味で彼らより“AI形式≪知≫的”に劣る人間を一方的に支配するデストピアトピアが出現するのでは?との悲観的な議論も、愈々、喧しくなりつつある。
 
一方、日本においては、まるでそのAI‐IOT周辺での哲学・倫理の不在を嘲笑うかの如き体たらくであり、実に不埒なJPNルイ16世(ゼロサムのファシズト/アンシャンレジームへの回帰)を騙るマイファースト・ネポティズム(ウソ吐きお仲間)権力派が、つまり<“ドラエもん”なんでもポケットAI‐IOT派>が相変わらず優勢である。しかも、そのネポティズム派の元締めを自負してきた安倍政権は、先端AI‐IOTのみならず「数学」や人文知の政治・経済利用まで繰り出してJPN『バベルの塔』の建設に勤しむ日々を送っている。
 
例えば、京大・望月新一教授が証明したとされる<「数学の超難問ABC予想、検証に7年半、新理論「宇宙際タイヒミュラー理論」>など、最先端の数学理論等の政治利用まで狙っており、肝心の『人間の壁』(新自由主義に呑み込まれたAI形式《知》に因る成長原理主義がもたらす本源的な格差拡大の問題)は放置したままで「数理資本主義」による日本再生などを吹聴している(画像は『4章−1』から再録)。
 
また、関連基礎研究と技術力の劣化、果てはAI‐IOT関係者ら中の「下位パラメータ(一定チューニンク゛が可能な部品アルゴリズム)」系技術者(いわば首切り自在の“みなし”職人層)の伝統的な地位の低さという悪条件をまるで好餌とするかの如く、安倍政権を筆頭に<“政治利用”AIお神籤派(所謂、AI式“ドラエもん”なんで
もポケット派)が相変わらず幅を利かせている。それは、非自由原理主義的な産業構造の改革に無頓着な政権および日本財界トップ(経団連・経済同友会はては御用組合幹部ら)の本音が、潜性イノヴェーションには全く無知のままの古典的「成長至上主義」であるからだ。
 
しかも、同時にそれは“福祉・厚生を敵視する新受有主義に因る、積極的な格差(人間の壁1・2)の”拡大策でもあるため、準汎用AI時代に必須の真っ当な「転相マクロ経済政策構想」のイメージEx.https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)も描けず、専らネポティズム・アナクロ産業を基軸とする既得の権益構造にしがみつくバカりで、実に残念ながら、日本は「真に先進的なAI‐IOT産業が基軸の先進国グループ」から着実に脱落しつつある。
 
おそらく、安倍首相ら「視野狭窄マイファースト派」からすれば、公僕ならぬ今や自らの手駒or傀儡と化した<高級官僚らと中央官僚組織は「AIディープラーニングにおける「一定のハイパー(指令型上位アルゴリズム)」下でしか全く身動きが採れない「下位パラメータ(一定チューニンク゛が可能な部品アルゴリズム)」と化している様に見えるのかも知れない。w
 
しかし、このようにある意味で素朴な「AI‐IOTを巡る日本の後進的な社会・経済環境」を尻目に、グローバル世界は,AI『人間の壁』に因る格差拡大との闘いに関わる「新たな転相の局面」へと向かいつつあるようだ(無論、アナクロな米国トランプ現象の如き揺り戻しに襲われつつあるのも確かではあるが、そのような意味での大きな潮流は変わらぬだろう、と思われる)。
 
<注>AI『人間の壁』に因る格差拡大との闘いに関わる「新たな転相の局面」とは?・・・それは、今や世界が<『“AI‐Web機械経済”がベースであるデジタル社会構造を無条件に是認する立場』Vs『クワイン、ガダマー、マクダウエルらアナログの“意味の全体論”を重視する立場/当記事でふれてきた!』>の激しい論争の場と化しつつあるということ。別に言えば、それは「世界が文化・経済・自然科学トータルのあり方(新たな倫理観念の創造)を巡る、本格的な知的闘争(あるいは啓蒙ルネサンス)の時代に入りつつあることを意味する。 
既に、『人間の壁』の問題については当記事の中で再三ふれてきたが、上で見るような意味での新しい倫理、「リアイズム倫理」(@マクダウエル、@マルクス・ガブリエル)を理解するための大前提となることでもある
ので、若干の補足も加えつつ、以下にその概要を改めて取りまとめておく。また、この新しい「リアリズム倫理」を簡潔に表現した言葉としては、マルクス・ガブリエルの「外界の思考」(『5章‐(2)』)が」特に重要と思われる。
 
まさにそれこそが農業経済史を専門とされる京都大学人文科学研究所の藤原辰史・準教授が言う【歴史に学ばず、現場を知らず、統率力なき言葉】(JPNルイ16世(ゼロサムのファシスト)に対する厳しい批判!)の「現場」と共鳴するからだ。しかも、それは当記事の基調に据えた「カール・メンガーからミーゼス経由でシュンペーターへと流れるオーストリアンの伝統、エトノス生態系orエコロジー論」とほぼ重なっており、その培地でこそ「メンガーが既に見ていた「日常(生活)における潜性デュナミス生産性」が未生の芽を吹く(無限にエネルゲイア化する)のである。
・・・
『人間の壁1』
・・・そもそもは、準汎用AIロボが本格化する(と思われる)近未来に実現すると予測される<機械生産性(デュナミス潜在生産性)vsヒトの生産性(リアル生産性)>の大きな壁(大格差)の発生を意味する。無論、機械生産性と労働生産性の格差に限定すれば、それは既に産業革命以降に起こってきたことである。
 
・・・つまり、機械の生産力がヒトの生産力を遥かに凌駕するのは、そも第一次産業革命(蒸気機関 の発明)以来のことなのでそれはIT(AI)革命の専売特許ではないが、そのAI機械の高度生産性が従来型の機械生産性を遥かに大きく桁違いに上回ることになるということだ。
 
・・・従って、何らかのマクロ政策的な(例えばベーシックインカム(BI)のような)意味での相転換で、前者の高度機械生産性を後者(ヒトの生活に直接的に役立つリアル・マネー、エネルゲイア)へ適切に転換(再分配化)する工夫を怠れば、益々、貧富の格差は拡がる事態となり、遂には資本主義そのものが終焉する可能性すらある(Great Decouplingの病死/委細参照 ⇒https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)。
 
『人間の壁2』
・・・これは、<「リアル経済」(ヒトの生活に直接的に役立つリアル・マネー)の可能性(伝統経済が定義する生産性の意味)が地球の自然・文化エトノス環境に対し開かれているの(開放系であること)に対し、ビッグデータに基づく「AI機械計算またはディープラーニングの予測値」が閉じている(電子的作動であるため、それは衣食住のリアル世界に生きるヒトとは異次元の形式知ワールドであるが、その意味でマイペースの閉鎖的な抽象体系である)こと>、という意味での大きな断絶が存在することを意味する。(委細参照⇒第三章『想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか?・・・』(仮説))
 
・・・誤解される可能性を恐れずに思い切り短くすれば、結局、それは「AI形式知ワールド/その終着駅がシンギュラリティ妄想?!」Vs「ヒト暗黙知ワールド」の“絶対的な断絶”ということである。しかも、これは言うまでもないことだが、『人間の壁1』がもたらす高度生産性の内側に( )書きの如くにそれは内包され続けていることになる。故に、だからこそ「外界の思考/リアリズム倫理」が必須!ということになる。
 
(補遺)ハイエク、フリードマンら新自由主義の「聖人」達(日本では竹中平蔵ら?w)の思惑とは異なり持続すべき資本主義の培地は<エトノス「感情の海」=外界の思考>を揺蕩う「99%派“凡人”の日常」にある
 https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1269076937013514240
・・・それは『日常』に潜む「凡人の保障された言明の希望(可能性)@デューイ/“凡ゆる言明記録の保全こそが必須”という格率と表裏の関係にある!」こそが、米国デュー・プロセスのベースにあるプラグマティズム法思想(ヒューリスティクス、いわば限定合理主義)の伝統の核心であり、同時にそれは、ポスト「トランプ&アベ(JPNルイ16世/ファッショ2.0:ゼロサムのファシストたち)」の世界における啓蒙思想ルネサンスの契機ともなり得ると考えられるからだ。・・・
 
・・・モネの連作『ルーアン大聖堂』なる作品なかに“外界の思考”を見据えていたフランスの政治家ジョルジュ・クレマンソーの慧眼・・・
 
およそ100年以上も前に、この<エトノス「感情の海」=外界の思考、視界の多様性>の視覚化をモネの連作『ルーアン大聖堂』なる作品なかに見据えていたフランスの政治家ジョルジュ・クレマンソーは、自ら主宰する『ラ・ジュスティス』紙 1895 年 5月 20 日号の第一面に 「大聖堂の革命」なる賛辞を掲載し、そのモネの「外界の思考」(周辺の自然エトノス環境と交感・共鳴し、そして刻々と流れる時間に伴いながら多様に変化し続ける大聖堂の“光と色彩の印象”)を見事に文章化している(画像は、https://www.armedconflicts.com/Clemenceau-Georges-Benjamin-t31156 より)

因みに、左派から保守派へ転向した政治家で、ジャーナリストでもあったジョルジュ・クレマンソー(GeorgesB. Clemenceau/1841 - 1929)は、優れた文章家でもあり印象派芸術家たちの中でも特にモネの最も信頼に足る友人でもあった。以下は、下記★の部分転載である。
 
★原典史料翻訳/ジョルジュ・クレマンソー「大聖堂の革命」(『ラ・ジュスティス』、1895 年5月20日号より)岡坂桜子:Aspects of Problems in Western Art History, vol.10, 2012 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009577594
・・・
・・・前、略・・・印象主義者たちの登場を以て、ついに光の至上性が確立される。光は炸裂し、存在するものを浸食し、 征服者然として幅を利かせて世界を支配している。それは、印象主義の栄光への踏み台であり、彼らが勝利するための手段であるのだ。  今日の眼が昨日の眼とは異なる世界を捉えるということを、もはや誰が理解しないと言うのだろうか。長きにわたる努力の末に、眼は、はじめは薄暗く、そしていまとなっては光り輝く自然を発見した。それだけで はない。我々の視覚能力の究極の進化によって、見る〔という行為〕が洗練されたとき、どれほどの喜びが 待ち構えているのか、知る由もない。  ひなげし畑を前に 3 枚の画布を並べるモネが、太陽の動きに応じてパレットを取り替えるのを目にしたとき、 私は、不動の主体〔モネ〕が光の流動性を強く際立たせるだけ一層、その描写が光を正確に捉えたもので あるという印象を受けた。  これは、見る、感じる、表現する〔という行為に関する〕新たな方法が開始された革命であったのだ。3 本の楡の若木で縁取られたひなげし畑は、事物の表現方法においてのみならず、その知覚の方法においても時代を画したのである。・・・途中、略・・・
 
・・・途中、略・・・20 の光の状態を巧みに選び取っている20 枚の画布(この時点では30作品の中の20点まで完成していた/補。toxanoria)は、完璧な展開の中で、整列し、分類され、補完し合っている。偉大な太陽の目撃者たるこのモニュメントは、空に向かってその圧倒的なマッスの上昇感を突きつ け、太陽と対峙している。〔大聖堂という〕マッスの深部、突出部、明瞭な襞、あるいは鋭い稜線部分にお いて、無限の空間から押し寄せる陽光の巨大な流れは砕け散り、光のプリズムとなって石に衝突し、あるい は灰暗く和らいだ波と化している。この〔陽光と石造建築の〕出会いから生み出されるのは、生命のある一日、 すなわち、黒、灰色、白、青、深紅〔と姿を変える〕日々である。これらすべての色彩が輝きの中で燃え、 デュランティの言葉を借りれば、「7 つのプリズム光が、無色の輝きすなわち光へと融合する光の統一体に還元されてゆく」。  ありのままの姿で壁に掛けられた 20 枚の画布は、我々にとって、見事な 20 通りの新事実であるが、各々 の画布が結びついてできる密接な関連性は、鑑賞者から瞬く間に逃れてしまうことを、私は危惧している。各々の役割に応じて並べられた画布は、芸術と現象の完璧なる等価性を出現させている。まさに、奇跡である。 20 枚が、今日のような大きな 4 つの壁に並べられているのを、ただし光の状態の順に並んでいるのを想像してほしい。灰色のグループから始まる大きな黒のマッスは、絶えず明るくなり続け、白のグループは、ぼやけ た明るさからはっきりとしたまばゆさへと移行し、それが続いて虹色のグループにおいて完成を見る。そしてそのまばゆい光は、青のグループの静寂の中で和らぎ、崇高な紺碧の靄の中へと消えてゆくのである。  さて、視線を大きくぐるりと巡らせることによって、あなたがたは朦朧としながら、この驚くべき知覚体験をされることだろう。灰色の大聖堂は、金色を帯びた緋色もしくは紺碧となる。きらめく柱廊を備える白い大聖堂は、緑、赤、青の光彩で溢れてう。虹色の大聖堂は、回転するプリズムを通して眺めているようである。青い大聖堂は、赤色でもあり、不意に
永続的なヴィジョンを与えてくれることだろう。これらは、太 陽の大きなサイクルの中にあって常に変わらぬ大聖堂の、もはや 20とは言わず、百、千、一万通りの姿で ある。これがまさに、生命そのものということになろう。最も強烈な現実の中で我々に与えられ得る感覚のよ うなものなのだ。芸術の究極の完全性は、これまで達成されてこなかった。 * * * これが、私がモネの大聖堂に見出したものであり、デュラン=リュエルが20 枚を並べ、連作全体の調和の 中で感じ取らせ理解させようと目指したところである。カタログが伝えるところによれば、とある素人がこの 連作の中から、特に魅了された 1 点を購入し、また別の素人も別の 1 点を購入しているということだ。一体なぜだろう! 漠然とでも構わないから、これら20 の大聖堂が並べられている意味を理解し、株券を一束買うように、「私がそれ一式を購入しよう」と申し出る億万長者は現れないのだろうか。だからロトシルトのやることに嫌悪感を覚えるのだ。・・・以下、略・・・(完)

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