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■新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」 で繋ぐ『日常』にある(2/2)−2 <注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449 4−1 オーストリアン(オーストリア経済学派)の祖カール・メンガー ・・・“時代を先取りした『人間の壁−喩えれば、人と機械の間のバカの壁』”の発見 ・・・ ・・・それは、99%派市民層の主観的リアリズム(実存の意識)が創造する「『日常』の潜性イノヴェーション」(“緑のカ ナリア”)への予感であった!?鳥のオペラのプリマドンナ、美しい声のカナリア(緑のカナリア)のピピネラの物語は「潜 性イノヴェーション」の在り処の象徴にも見える?! https://www.iwanami.co.jp/book/b269250.html・・・ 【◆それにしても、ヒタスラ沈黙し静観するバカリの日本法学界(法曹界に非ず日本の大学アカデミズムもアベ忖度か!?】 ・・・付け加えておけば、アベが政治利用する(新)自由主義のルーツ、カール.メンガー(ハプスブルグ最後の皇帝ヨーゼフ 1世の皇太子(謎の死を遂げたルドルフ)の家庭教師でもあった)も反「アンシャン・レジーム」だった!(JPNルイ14世こと? アベ様(自称はルイ16世?w)と異なり、メンガーの教えを理解できたルドルフ皇太子はハプスブルグ・アンシャンレジーム を否定していた!) 因みに、アンシャン・レジームとは、例えばアベ一派、日本会議らの如く只飯喰らってヒマ持て余しカル ト化するバカリの世襲議院らの同好会、つまりアベ様的な妄想『英霊界式貴族趣味』の世襲・既得権集団)!w <注>そもそ もAncien regimeは、フランス革命以前のブルボン朝(特に16〜18世紀の絶対王政期フランス)の世襲・既得権化した古い社会・ 政治体制をさす。(@Tweet:水のイマージュ) →【元検事総長ら意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿、17世紀J.ロック「統治二論」は「法が終わるところ暴政 が始まる」と警告!515朝日(画像はウイキ)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1261393559359418369 参考資料/「アベは犯罪を犯罪とも思わぬほどの破廉恥ヤロー!」を、その批判に付け加えるべきだ!苦w →検察OB意見書が 引用したジョン・ロックの訳者は安倍首相の大学時代の教授! しかも「無知で無恥」と安倍首相を徹底批判518リテラ https://lite-ra.com/2020/05/post-5428.html カール・メンガーが活躍した時代のオーストリアはハプスブルグの本拠ではあったが、相対的な謂いで先を進むドイツと違い 明らかに農業国であった。つまり、オーストリアン(オーストリア限界効用理論派)の始祖、カール・メンガー(Carl Menger /1840 - 1921)の出発点は農業経済論的な発想であり、そもそもそれは今で言うエトノス生態系orエコロジー論と親近性があ るものではなかったのかと思われる(画像はウイキより)。 それは、本格的なAI‐Web時代になった現代であるからこそ、近未来で有意な「ヒトのため持続し得る資本主義」という視野の 中で漸くその輪郭が見え始めてきた、否、というよりも、漸く、今のプロセスでこそ気付かれつつある「『日常』における潜性 イノヴェーション」の問題ではないかと思われる。 言い換えると、それはオーストリアンの始祖である、このウイーン大学のカール・メンガーの残照ともいえるものであり、それ は欧州における広義の農業経済の伝統の遥かな先にメンガーが見ていた「日常(生活)における潜性デュナミス生産性」という ことではなかったのだろうか。 メンガーはジェヴォンズ(W. S. Jevons/1835 - 1882/英国の経済学者、論理学者)、ワルラス(M. E. L.Walras/1834 - 1910/スイス(仏生誕)の経済学者)らと共に「限界効用理論と近代経済学」の創始者の一人に挙げられる。因みに、限界効用 理論とは、マルクスの労働価値説と異なり、財価はヒトの効用で決まると見なす限界効用『逓減』の考え方である。 しかし、メンガーは数学・統計学に長けていたものの、古典派経済学の「価格の決まり方(その決定の理論、アルゴリズム)」 と「実際の市場(市民の日常がベースとなる)での価格の決まり方(リアルな値動き)」との不一致ということに気づいてい たとされる(コレは後で述べる『人間の壁2』(労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、および そのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)への気付きともいえよう)。 そして、そもそもメンガーは絶対(原理主義)的な使い方という意味での経済学の<数学>的定式化(一定の抽象論理でリア ル経済のトータルを括ること)に懐疑的であり、かつ均衡点の分析よりも均衡に至るリアル過程をむしろ重視していたので、 同じ近代経済学の祖であるとしてもメンガーの限界効用論へのアプローチがジェヴォンズとは根本的に異なっていたと見るべ きだろう。 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1266460075712905216 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1266460075712905216 例えば、京大・望月新一教授が証明したとされる「数学の超難問ABC予想、検証に7年半、新理論「宇宙際タイヒミュラー理論」 を10年以上かけ構築 (数学の相対性理論/経済投資効果も巨大!?)403朝日https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200401003891.html」は、この問題と関連がありそうで大変興味深いのだが、 <数学>的な業績を短絡的にリアル経済効果とストレートに結び付けるメディア一般と日本政府の“新自由主義”に呑み込ま れたスタンス(↓*)は可笑しいのでは?というか、彼らは望月新一教授の新理論どころか“数学”そのもののレゾンデート ルが分かっていないのではないか?(wごとではないがw!/望月氏の画像はhttp://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/ より) <補足>数学のみならず自然科学および人文《知》の根本的な役割は、決して“新結合エネルゲイア(普通の意味で顕在化し た経済イノヴェーション)、いわば<金の生る木>などではなく、それらが「ヒトと全く対等な現実(リアリズム)との関係 性の一環」でありつつ地球エトノス環境の保全とヒトが遍くより幸せになることに資するための「潜性イノヴェーション」で ある、ということだ。また、これこそ「マクダウエルのリアリズム倫理学」が主張する核心でもある(委細後述)。 → *[関連情報/数学はカネの生る木(企業の道具)だったのか???]報告書、「数理資本主義の時代」のご紹介2019 年9月4日/経済産業省 商務情報政策局 情報技術利用促進課・守谷 学、http://www.infsup.jp/utnas/190904moriya.pdf https://www.evernote.com/shard/s440/sh/b8e88370-dd4d-4aa5-aacb-eac37abca00c/67d502e5758a5015aacfc46fed9f11e4 <参考>タイヒミュラー理論/タイヒミュラー空間について、(タイヒミュラーの画像はウイキより)https://www.evernote.com/shard/s440/sh/b03e392d-e5f6-4cd8-8062-fa1fe2662bff/be0ce4936e414125d767a78719dd5 Paul Julius Oswald Teichmuller (German/1913−1943) was a German mathematisian who made contributions to complex analysis He introduced quasiconformal mappings and Differential Geometricmethods into the study of Riemann surfaces. Teichmuller spaces are named after him./ 宇宙際タイヒミュラー論(望月IUT理論)の源流は、O.Teichmüller「タイヒミュラー空間」理論にある!タイヒミュラー:ナ チ党信奉者で突撃隊へ入隊し30歳で早世(戦死)したドイツの天才数学者。 https://mathoverflow.net/questions/114787/what-is-teichm%C3%BCller-theory-and-its-history… https://pic.twitter.com/64dmYg3x00 ・・・ むしろ、メンガーの経済思想の中では同じ限界効用「逓減」ではあっても<機械生産(今流に言えばAI‐Web、IOT化など)の 導入による“労働節約型”高度生産性と、(経済的レント/economic rent)の追求”に因る不均衡な「価格」価値の発生> (『 価値ある価格の経済(ローカルで生きる人々の日常を最重視する経済)』という「逓減」過程による大きな格差の発生) の問題に関心が向いていたのではないか(それが予期的なものであったにせよ)と考えられる。 因みに、レント(Rent)は、次善の機会と隔絶した、不可逆的な超過利潤を意味するが、これは経済発展にとり必要不可欠で あると同時に格差をもたらす要因ともなる。古典経済理論の完全競争市場においてはレントが存在しないと見なされ、今流に 言えば、それはGreat Decouplingの問題となる。 例えば、それは「スキル偏向技術進歩(AI‐Web、IOT化など高度技術イノヴェーション)に因る“見かけ上の雇用一人当たり の生産性向上(GDP総額増加)」と「実質的な一家計当りの所得減少」との間の<大乖離>という形で出現している/関連→https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)。 また、直近ではBrexitと並行して明確になった「アイルランドのレプラコーン経済」と呼ばれる「大格差」の発生がある。こ れは、まさに「新自由主義(グローバル市場原理)+科学(AI・金融工学等)」の賜物であり、気付きが遅れたと!自戒する クルーグマンがトランプ企業減税(過激ネオリベラリズム政策)でも同じ問題が発生する懸念を指摘している。そして、同構 図は今や日本においても他人事ではなくなりつつある(関連→https://himaginary.hatenablog.com/entry/20171111/leprechaun_economics) ◆【ペテン師アベが仕掛けたアベコベの罠】新コロナパンデミックは、『価値なき価格の暴走』から『 価値ある価格の経済 (ローカルのヒトの日常を最重視する経済)』への転換が必須!を我々へ警告しているのではないか?→古典百名山:「実体 が主体」という独創 ヘーゲル「精神現象学」大澤真幸が読む502朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1256553681396174850 ・・・ これは明らかに「人間の壁」と呼ばれる大格差発生の問題であり、それは『(ヒトにとり、その儘では意味がない)価値なき 価格の暴走』が生じていることを意味する。そして、それこそここ十数年来において中間層が没落してきた主な原因となっ ている。AI機械に因る「人間の壁」とは、先ず、そもそもはAI機械から創出された価値のままではあくまで可能性に止まる高 度生産性だということを意味する(人間の壁1)。 更に、それが不公正なレント的な分配(ここでは、主に機械化によって過剰利潤が発生していることを意味する)の形となっ ているため、多数派層の個々の人々のリアルな『日常』の充実に資するマネー(いわば生命個体におけるエネルギー通貨の 如きもの)として役立っていないことを意味しており、おそらく殆ど無意識であるにせよ、それは必然的に多数派のヒトに 対し大きな不満や不安感を与え続けると考えられる(人間の壁2)。 <注>「人間の壁1」について・・・生命体のヒトにとって、AIの高度機械生産性は、それが抽象化である限りあくまでも可能 性の次元に留まることになるので、それは「AI抽象化デュナミス潜勢態(潜在生産性)」と表現することができる。別に言え ば、準汎用または汎用AIロボが実現すると思われる近未来においては、愈々、「機械生産性(デュナミス潜在生産性)vsヒト の生産性(リアル生産性)」という非常に大きな壁(基本的なレベルでの大格差)が発生することを意味する。そして、結局 は「人間の壁1」の公正な分配の工夫を政治が怠れば、益々、格差拡大が昂進するため、やがて深刻な「人間の壁2」(労働 生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)をもた らすのは必然と考えられる。(関連参照 → https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514)。 ところで、著書『純粋経済学要論』で一般均衡理論(限界革命)の父と見なされてきたワルラスについても、従来の一般的評 価とは異なり、「ワルラスも“限定合理主義”的で、どちらかと言えば“分配の公正 (社会的正義)、 生産力増大(社会的 利益)を同時に実現する”という「公正経済学」的な発想の持ちであった」ことが次第に理解されつつあるようだ。例えば、 鈴木則稔・筑波学院大学教授の下記論文▼によれば、レオン・ワルラスを自由原理主義の祖の一人と考えるのは明らかに短絡 的であるようだ。 ▼「ワルラスの経済学観と科学への視点」―英国モラルサイエンスとセイの間で―/鈴木則稔・筑波学院大学教授、https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2013/04-suzuki.pdf それによれば、シュンペーターが高く評価した人物でもあるワルラスは、経済分析に得意な数学的手法を活かし一般均衡理論 を最初に定式化したのは確かであるが、個々人の力では及ばない大きな動きという意味での自然現象として経済を観察し分析 しようというスタイルであり、その意味で経済学を自然科学(というか、言い換えれば“自然・文化エトノス環境論”)のジ ャンルと見立てていたことになるだろう。 そのうえで、ワルラスは人間的要素の介在のどの部分までをそこに含めるのか、どこから先を「道徳科学」など別の科学に委 ねるのか、その線引きという微妙な問題に取り組んだのであった。従って、ワルラスの理論経済学の最大の目的は自由競争が 適用されるべき範囲を画定することであった。だから、「ワルラスを自由原理主義のルーツの一人と考えるのは誤りである。 そもそも、ワルラスは効用価値説の立場であり、むしろ『公正資本主義』的な発想の持ち主であった」とも言えることになる。 が、オーストリアンの祖、メンガーが創始したと考えるべき「平凡な一般の人々(民衆)の主観的リアリズムが創造する 「『日常』の潜在イノヴェーション」への接近(気付き)」という問題意識の流れは、その後のプロセスで紆余曲折があるも のの(特にハイエクでは反動(リバタリアニズム)へ一気に反転する!@T.トドロフ/関連参照 →https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 )が、更にその大きなオーストリアンの流れはミーゼス、 ハイエク、シュンペーターへと続いて行く。 因みに、江戸期以降の日本にも農業経済の思想、つまり農政経済論の伝統が存在したが(↓★)、例えばに二宮尊徳の先進的 な「文化資本主義主義」の理念(報徳仕法/太平洋戦争期以前における日本思想の源流)は、特に僥倖の勝利(まぐれ勝ち!) に過ぎなかった「日露戦争」以降には「国軍の父」とも称される山縣有朋らを中心とする人脈によって、軍事国家主義を支え る偏った精神主義の方向へ著しく捻じ曲げられてしまった(↓●) 具体的にいえば、二宮尊徳の「仕法」と呼ばれた農業経営の実践(日本オリジナルの文化資本主義的で、かつエトノス自然環 境諭的で、リベラル共和主義的な農業経営論に従った)は山縣有朋らの軍事国家政策(国策)の下で禁止となったばかりか、 結果的に、それは一般的にも真逆の「富国強兵国家」の精神原理としてだけ見られるようになり、まさに<印象操作>的に悪 用されてしまった。 ★ 日本農政思想の系譜:理事研究員・清水徹朗/農林金融2019・8、https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n1908re2.pdf ●京都学園大学経済学部教授・川田耕『道徳と主体』https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/39/2/39_97/_pdf https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1 4−2 ミーゼス、ハイエク、シュンペーターに通底するのは、メンガーに始まる“農業経済論・地域環境論”的な空気 ・・・そもそもミーゼス、ハイエク、シュンペーターはオーストリアンの精神的な基層としてメンガーの農業経済論的な気質 を共有するが、それは「ドイツ歴史学派とオーストリアンの『近親的相剋』」の流れと言い換えることができる。・・・ 根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』(NHKブックス)によれば、ミーゼス(L.H.E. von Mises/1881- 1973)、ハイエ ク(F. A.von Hayek/1899 - 1992)、シュンペーター(J. A.Schumpeter/1883ー1950)の三人は落日のハプスブルグ帝国の ウイーン大学で学んだことのほかに、資本主義の可能性について、ある精神的な基層(気質のようなもの)を共有していたと 思われる。<注>そのように根井雅弘が強く主張している訳ではなく、当書の読後にtoxandoriaが感知したことである。 すなわち、彼らが「18世紀末〜19世紀、ドイツ・ロマン派にもつながる空気、いわば崇高でアカデミックな抽象美への単な る憧れ(崇敬)と対照的な主観的・直感的な気質(感覚的な感情を主成分とする、ある種の統合的で個性的な意識)」を共有 していたと思われることだ。但し、厳密に見ると、ドイツ経済思想の本流から逸脱しているとされ、ドイツ歴史主義経済学派 から嘲笑を含む意味でオーストリアン(オ―ストリア学派)と呼ばれてきたという経緯があるので、この辺りは、更なる、よ り深い検証が必要ではないだろうか? ともかくも、歴史学派とオーストリアンは共にドイツ・ロマン派から何らかの影響を受けているのは確かである(つまり、そ れは『ロマン主義、地域自然主義』的であり、かつカント的な普遍的抽象性への“過剰”な傾斜を批判する、という意識?)。 ただ、この「近親的相剋」の経験からすれば、歴史学派が個性的な人間文化とその進歩・発展の歴史をより重視(一定の強固 な概念的普遍性、いわば概念飽和(Concept Saturation)の問題をより重視)するのに対し、オーストリアンには現代的に言 えばより自然に接近した「エトノス環境論」的なもの(換言すれば、限定合理主義的なもの)、伝統用語で言えば「農業経済」 のような空気が圧倒的に漂っていると思われる。 ここで、[・・・伝統用語で言えば「農業経済」のような空気が圧倒的に漂っている・・・]と書いたのは、繰り返すが、特に21世紀 の現代経済へも大きな影響(リバタリアニズム、新自由主義というフレームとして)を与えるハイエクが、オ−ストリアン伝 統の「エトノス環境論」の空気から、まるで「ルビンの盃」(画像)のように地と図の関係が逆転(一気に反転)し、市場原 理主義なる「趙抽象的な観念/余分なフリンジを一切排除する超“設計主義”」に嵌っているからだ。 <参考>ドイツ歴史学派とオーストリアンの「近親的相剋」についての概観(抜粋)/全文はコチラ →ドイツ歴史学派 (The German Historical School)、https://cruel.org/econthought/schools/historic.html ・・・ドイツ歴史学派は、19 世紀終わりにカール・メンガーやオーストリア学派との長い 「方法論争」(Methodenstreit) を開始するまでは、自分たちが学派だという認識すらなかったかもしれない。しかし、自分たちのやっている経済学が、リカ ードやミルの古典派アングロサクソン世界でやられているものとはまるでちがうことは、ずいぶん前から認識していた。かれ らの経済学は、名前からもわかるとおり、「歴史的」で、だから経験的、帰納的な理由づけに大きく依存していた。 ルーツ はヘーゲル哲学であり、リストやミュラーのロマン主義・国粋(というか地域/補記、toxandoria)主義的な「抽象理論」へ の批判にある。英仏海峡を越えた仲間意識は、古典派とではなく、イギリス歴史学派とのものだった。 ・・・歴史学派の初期の手法原理は、ヴィルヘルム・ロッシャー(Wilhelm. G. Roscher/1817 - 1894/ドイツの経済学者で、 経済学における旧歴史学派の始祖)によって決められた。ヘーゲルに従って、ロッシャーは普遍的な理論体系という考え方を 否定した――経済的なふるまい、ひいては経済の「法則」はその歴史的、社会的、政治的な文脈に依存しているのだ、と論じ て。 ・・・つまり、経済的な手法はどうしても学問領域をまたがるものとなる。経済活動は、経済学者としての目だけでなく、歴 史家と社会学者の目をもって見る必要がある。だから最初の仕事は、その社会における経済組織と社会組織との関連について の発想を得るために、歴史を細かく検分してやることだ、ということになる。結果として初期の歴史学派の仕事―特にロッシ ャーの初期の弟子たちの仕事は、歴史を通じた経済組織の段階論に集中している。 4−3 【ハイエク、フリードマン】新自由主義の二つの盲点/市場原理主義(リバタリアニズムに因る)なる概念飽和(Concept Saturation)の囚人たち ・・・『効用価値説』をめぐる概念上の混乱、そして「概念飽和」の問題・・・ ツベタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/1939 - 2017/ブルガリア出身/仏の思想家、哲学者、文芸批評家)の著書『民主主 義の内なる敵』が最も強調するのは「新自由主義(市場原理主義)の盲点」ということだが、それは「(1)ロック、ホッブ スら革命(啓蒙)思想家からハイエク、ミルトン・フリードマンら新自由主義者が受け継いだ抽象的・普遍的価値観の重要 性」と、「(2)同じく彼らが啓蒙思想家から受け継いだ“ヒトを物質的 or 合理的な利益を求める欲望のみで動かされるエ ゴイスト”と見立てる『効用価値説』(完全合理主義のジャンル)に立脚すること」の二つに、過剰に嵌り込んでいるという ことだ。 (2)の『効用価値説』は、いわゆる近代経済学(『労働価値説』に立つ“古典派経済学とマルクス経済学”から区別した呼 び方)の特徴であり、現代につながるこの『効用価値説』の流れの中に新自由主義(市場原理主義)も入る。また、産業革命 の成熟期と歩調を合わせるかのように、19世紀末の西欧でオーストリアのメンガー、英国のジェボンズ、スイスのワルラスの 新古典派経済学(効用価値説)の理論が登場する。 一方、アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall/1842 - 1924/ケンブリッジ学派を形成した経済学者)は効用価値説と 労働価値説を統合した。しかし、マーシャルはヘーゲルやドイツ歴史学派の影響を受けている。だから、マーシャルは新古典 派と激しく対立していたドイツ歴史学派に近かった。 従って、上の<参考>でふれたドイツ歴史学派とオーストリアンの「近親的相剋」の関係へも視野が届いていることになり、 マーシャルは、ジェボンズの純粋な効用価値説の合理主義よりもむしろワルラスの“一定の人間的要素の介在を必須と見る” ような視座、あるいはメンガーの農業経済論的な視座(というか『人間の壁』への気付き)に接近した新古典派経済学という べきかもしれない。 つまり、同じ効用価値説とはいっても、既に見てきたとおりのことから、より厳密に見れば「メンガー(出発点は農業経済 論的な発想)、ジェボンズ(完全合理主義の“正統”効用価値説)、ワルラス(限定合理主義的な効用価値説)という具合 で、そもそも三者には『効用価値説』それ自体の理解について可成り大きなニュアンスの違いがあったと見るべきだろう。 4−4 「批判実在論(Critical Realism)」の眼差しと「概念飽和(Conceptual Saturation)」の問題 ところで、このように「一定の規定概念」に関わる可成り大きなニュアンスの違いは何故に生ずるのか?この点を深く追求 したのが、『社会科学の方法−実在論的アプローチ−』(ナカニシヤ出版)の著者アンドリュー・セイヤー(Andrew Sayer/1949− ) が同書のテーマ「批判実在論(Critical Realism)」を説明するために重視する「概念飽和」の問題意 識である。 アンドリュー・セイヤーは、英国ランカスター大学社会学部教授で、専門は社会理論および政治経済学である。社会科学に 関する哲学的諸問題に一貫して関心を寄せ研究をしてきたが、その研究は社会の実質的な諸問題、特に政治経済と不平等の 問題の研究と常に結合している。上の著書は、欧米で30年にわたり版を重ね続ける名著で待望の初訳である(当パラグラフ は@ナカニシヤ出版の案内文)。 ・・・ [これは概念飽和ならぬ概念硬化】アベJPNルイ16世「内閣」は、相変わらず“黒は白だ!”のアベコベ閣議決定を乱発し ている! →「黒川マージャンは、適切処理済みなので再調査必要なし」の答弁書を閣議決定 605朝日]↓ https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268792512224714752 ・・・ 「概念飽和」を理解する手掛かりとして、卑近な事例となるが「安倍政権がゴリ推しした件(くだん)の検察庁法改正に関 連して“自由民主党国会対策委員長(第57代)森山裕氏の発言、「検察官は準司法官と言う立場もあるので公務員法との分 離は不可能だ!」という根本的な間違い、というか心得違いの問題を取り上げてみる。 →(関連)@金子勝さん/【三権 分立と法の支配の否定】検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBが法務省に意見書を提出。ルイ14世の「朕 は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせるような姿勢だと指弾し、ジョン・ロックの「法が終わるところ、 暴政が始まる」を引用する。https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1261383887403573249 https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1263223416007438336 ◆【訓告は行政処分にすら当たらない!】森法相も、安倍総理も「検察(官)は国民の権利保持のための仕事(懲罰権と表 裏の関係)に奉仕する重要な役割がある」のを理解出来ない<概念破綻>のバカでは?同病相哀れむ訓告でのお茶濁しは国 民への侮辱だ!(あるいは、ひたすらバカの振りに徹している?w) https://twitter.com/tadanoossan2/status/1263499595679596546 ・・・そもそもジョン・ロック「法が終わるところ、暴政が始まる」(法の支配の原則)とモンテスキュー「三権分立」の 立場から、司法の一角を担う検察官には国民の権利保持のための仕事(検察の懲罰権と表裏の関係にある)に奉仕するという 重要な役割が(も)存在する。 ・・・従って、「法の支配および三権分立」の原則からすれば、「安倍政権がゴリ推す件(くだん)の検察庁法改正が導く べき言説は、普通の意味では<検察官は準司法官と言う立場でもあるので公務員法との分離は可能だ!つまり、それは分離 すべきである!>となるべきであり、森山裕氏の準司法官についての理解はこの当たり前の理解とアベコベとなっている。 よりハッキリいえば、これは異常解釈である(あるいは、安倍首相と同じで全く基本知識に欠けているのかもしれない! それとも、やはり悪質な作為か?)。 ・・・そして、この「森山裕氏の異常発言」を許した原因は、そもそも「法の支配および三権分立」なる夫々の「規定概念 としての概念飽和の定義内容を作為で変えるべきではない法律用語だ」ということにある。 ・・・ ところで、先に挙げた用語「批判実在論(Critical Realism)」の創始者は現代イギリスの哲学者ロイ・バスカー(Roy Bhaskar 1944―2014)である。梶原葉月氏(社会学者、立教大学社会福祉研究所研究員、ジャーナリスト/↓★)によれば、 英国の哲学者ロイ・バスカーが提唱した社会科学論のベースとなる新しい認識論である「批判実在論」は、中世〜啓蒙期に 革命的な視座を提供した事実同定型の「実証主義」、1950年代以降に米国で台頭した“社会の多様性”が前提の「(言語) 解釈主義」に次ぐ、「“経験、観察(客観現象)、分析(各現象内構造)”の3領域の説明的な統合理解(認知)こそが実 在の在処(正体)だ!と見る新しい認識論の立場」である。 ★梶原葉月オフィシャル・ブログ:批判的実在論、 https://hazuki.ddtune.com/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96/ ・・・ 社会科学は予測可能性で評価されるものではなく、その説明力で評価されるべきであると主張し、ロイ・バスカーは、新し い認識論である「批判実在論(Critical Realism)」に基づき「説明的社会科学」(explanatory social science)を提唱 している。 この広角な視座は、「人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)/▼」への接近を連想させるものでも あり、本格的AIの時代に入りつつあると喧伝される昨今であるからこそ、ヒトとAIの根本的な差異の問題はもとより、改め てヒトの正体を正しく理解し直すためにも、更に、例えば批判実在論とコンシリエンスの融合のような試みから如何なる新 たな認識論が可能となるかを検討すべき時代に入りつつあるのかもしれない。 ▼抑制的なAI活用を視野に文化進化論・進化経済学らによる新しい知の総合、コンシリエンスの視点で21世紀の多元的『啓 蒙市議ルネサンス』を目指すべき、https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2016/11/07 4−5「概念飽和(Conceptual Saturation)」と「概念規定(Conceptual Provision)」の関係、という視点の重要性 ところで「概念飽和」的な考え方は普通に我われが、殆ど無意識に理解していることでもある。 例えば、物や色などを表す言葉の意味(概念・イメージ表象)、または抽象的な言葉の定義(概念・表象)などが、ある程 度は一定の範囲に止まる「概念規定(Conceptual Provision)」がなければ、我われの日常的なコミュニケーションが取れ なくなるはずだ。 従って、そのような場合に一定の範囲で言葉上の概念の領域が留まることは、それ自体が概念飽和であり、そのような意味 での概念飽和は、至極あたりまえのことであるといえる。それどころか、この意味での概念飽和(つまり概念規定)がなく て、もし一定の範囲の意味が共有できない(その意味での概念飽和がない)とすれば、日常会話でのコミュニケーションは 無論のこと、特に法律や科学技術など専門分野の用語では致命的な問題に繋がることになるだろう。 一方、ものごとの寛容な理解や、多様性を大切にしたり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や豊かな想像 力の発揮などのためには、その意味での概念飽和(これは概念規定と言うべきだが)に余りにも過剰に固着すると、それら に関する新しい可能性や能力発揮の機会を逃したり、又はヒトにとって最も重要な人間性を破壊したり人道上の犯罪を犯し たりする如き悪行さえ、人間社会で当然視されることにもなりかねない。 だから、個々の「概念飽和」(厳密に言えば、概念飽和または概念規定)をコミュニケーション媒介として日常的に利用せ ざるを得ない人間社会では、多様な概念がそれ自体としては絶対に独立的に超然と存在(君臨)することはできず(数理的 なそれは別として抽象概念そのものさえもが)、我われは必ず「エトノス自然・文化環境」と数多の「ヒトの生命の一回性」 との多面的で生命論的な関係性での共鳴と干渉の場のなかで相互に生かされ、生きている存在なのだという理解を前提にし て(選言論(説)のテーマとなる視点/↓★)、絶えず謙虚に目前の<リアル(実存)>を理解する努力を持続させる必要 があることになる。 ★選言論(説)とは?・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固 有名等の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場である。「選言説」は、一般的には概念説(表 象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、ジョン・マクダウエル(John Henry McDowell/1942− /南アフリカ 出身の哲学者、ピッツバーグ大学教授)の「リアリズム倫理学」では、これが「ヒトの意識=第二の自然」と定義する根拠 とされており、それを第一義の自然(従来からの自然)と等置する考え方のベースとなっている。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125305 ・・・ これはゼロサムのファシスト!つまり、“概念硬化”野郎! ↓ 安倍晋三の画像 つまり、「ヒトとしての傲慢な心性を遍く捨て去り、そのような謙虚な態度を前提条件」としさえすれば、たとえそれが専 門用語の概念規定の謂いでの「概念飽和」であるとしても、又はたとえそれが啓蒙思想の普遍観念(高度に抽象的で歴史的 に確立された)であるとしても、その規定的な意味の変更をアカデミズム(学界)や周囲の社会一般の人々との間で、等し く十分に文脈的で民主的で説明的なコミュニケーション(マクダウエル“リアリズム倫理学”↑★のフェーズでの対話)を 介する微調整で変容させることは可能であることになる。従って、それが安倍政権下の如く、一強化した政治権力の下の詐 術的・隠蔽的な手法で一方的、対国民“調教”的に行われることは論外である(関連/↑画像)。 4−6 概念飽和というより「概念硬化症」と化した、ハイエクの市場原理主義(@リバタリアニズム) ハイエクはカール・メンガーの流れを汲んでおり、かつシュンペーターに大きな影響を与えたオーストリアンの一人でもあ るミーゼス(厳密にいえばネオ・オーストリアンの創始者)の弟子として、その影響を受けた人物である。このため、ハイ エクは「ファシズム独裁を左翼に分類した自由主義派の経済学者」と見なされいたミーゼスの思想を、基本的にその「誤解」 のまま受け継いだといえる。 そもそも、ハイエクは「法哲学・政治哲学フィールドでのマンデヴ ィル(↓▲)の研究に始まり、ヒューム(感覚論哲学) とアダム・スミスの研究を経て自らに流れ込んだ自由主義を「反合理主義的、あるいは進化論的」自由主義と名付けており、 それが「正しい」自然主義の伝統、すなわち英国コモンロー(慣習・判例法)の伝統を受け継ぐものだと説明している(↓★)。 ▲マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン(内 需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331 ★[論文]ハ イエクとヒ ューム、スミス/社会秩序の形成過程をめぐって:太子堂正称(東洋大学)/経済学史学会年報、 第43号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/43/43/43_43_52/_pdf/-char/en つまり、 ハイエクはデビッド・ヒューム (David Hume)の経験論の基盤たる感覚哲学(観念連合(観念連想))を頂点と する 道徳哲学の流れ(スコットランド啓蒙主義)、あるいはクヌート・ヴィクセル(Johan Gustaf Knut Wicksell/1851 −1926/オーストリアンの祖、カール・メンガーの影響もあったと見るべき“限定合理的な限界効用学派であるスウェー デン学派”の祖)らの影響を受けており、初めのころのハイエクは、幅の広い、非設計主義的で道徳哲学的な視野が感じ られる。 一方、後述するがミーゼスの特徴はメンガーに始まるオーストリアンの「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主 観主義)に基づく主張にあると考えられるので、その影響を受けたハイエクの思想の根本には、やはりメンガー、ミーゼ スらと同質で、単なる<超>設計主義である市場原理主義を超えるとの意味で十分に普遍性があるものになる筈だったと 思われる。無論、ハイエク自身およびそれを高く評価する向きは普遍性があることを今でも固く信じている。 ところが、ハイエクはその自らの研究史の長いプロセス(モンペルラン協会設立〜カタラクシー(Catalaxy/自生的秩序) を経て、究極的にはリバタリアニズム(完全自由原理)に因る「市場」万能主義、いわば完全な「流石のアダム・スミス も想定していなかった市場原理主義」の世界に回収された。 換言すれば、ハイエクは「完全抽象概念の硬化症(概念飽和の1タイプ)であるリバタリアニズムを基底観念とする完全抽 象設計主義(『効用価値説』の混乱(完全合理であるべきか?or限定合理であるべきか?の問題を考えること、それ自体 の放棄)に、またはジレンマの逃げ口とも見える絶対コレしかない主義の囚人化?)であるグローバル市場原理主義」に、 見事に回収されることとなった。 そこへ至る経緯と、その「市場原理主義なる概念飽和ならぬ概念硬化症」にハイエクが回収されるまでのプロセス描写につ いては下記▼(当シリーズ記事(二回)の1/2)を参照乞う。 ▼新コロナの警告/ファシズム2.0に抗いつつ持続できる新たなイノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する 自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 4−7 ミルトン・フリードマンも概念硬化症! ・・・ミルトン・フリードマン『効用価値』の経済学が生命論(ヒトの『日常』)を無視して「整序枠組み (Filing System)」なる「“抽象”概念硬化」の発想で統一理論の完成を期待したのは誤りではないか?・・・(添付画 像はウィキ) ミルトン・フリードマン(Milton Friedman/1912-2006/米国の経済学者:新古典派経済学、マネタリズム、市場原理主義、 金融資本主義の立場でケインズの総需要管理政策を批判した。ノーベル経学賞受賞)は、ハイエクの勧誘による「モンペル ラン協会(委細↓★)」への加入で「ハイエク本人と同協会の“完全な市場原理主義化・リバタリアニズム化”」に大きな 影響を与えた。なおフリードマンはユダヤ系ハンガリー移民の子であった 。 ★新コロナの警告/ファシズム2.0に抗いつつ持続できる新たなイノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する 自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 そもそも、ミルトン・フリードマンはシカゴ学派の第一世代(道徳哲学がベース)の経済学者であるフランク・ナイト (Frank H. Knight/1885‐1972)の弟子であり、フリードマンは同じ数理経済学者の宇沢弘文(フリードマンとは異質な 数理経済論(不均衡動学理論)に因る“社会的共通資本”論などヒューマンな経済理論を大系づけた)とはシカゴ大学で同 僚関係であった。 因みに、道徳哲学に裏付けられた自由主義を主張したフランク・ナイトは、マーシャル(一定の人間的要素の介在を必須 と見る人間的な限界効用理論)を継承するシカゴ学派の第1世代と呼ばれる経済学者であるものの、自由競争(市場原理 主義)に全幅の信頼を置くフリードマンとは違い政府による政策的な介入をある程度は是認する立場を取っており、ミル トン・フリードマンとは一線を画していた。なお、周知のとおり、シカゴ大学で同僚だった宇沢弘文もフリードマンを厳 しく批判している(フランク・ナイトの画像は↓★より)。 ★本が聴けるアプリAudible(オーディブル)、 https://www.audible.co.jp/pd/Frank-Knight-and-the-Chicago-School-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82% AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/1481542575 ところで、既出のアンドリュー・セイヤー著『社会科学の方法−実在論的アプローチ−』によれば、フリードマンは「直観 の人」とされることが多いようだが、それは只の直感ではなく、数学的才能に恵まれたミルトン・フリードマンの「市場原 理主義」論は、市場経済が物質における重力の法則と類似の法則に支配されていることを前提としている。 因みに、過剰な経済成長(ミルトン・フリードマンらの市場原理主義に基づく右肩上がりのGDP準拠方式)は、生命活動と同 じく「熱力学第二法則」に抵抗する活動(エネルゲイア)であるべき!なので、 そもそも論的に見れば、辛うじて「同法 則」、いわば「ゼロサムの赤の女王」に抗っているかに見える「生命活動のあり方」から大きく外れることになる。従って、 GDP原理主義(過剰なレント経済(人間の壁1,2)をも善しとする永遠の右肩上がりGDP準拠方式)によるロストウ発展段階 説(ロストウ理論、http://note.masm.jp/%a5%ed%a5%b9%a5%c8%a5%a6%cd%fd%cf%c0/)の延長としての経済活動の永遠飛行は エントロピー論的にも不合理である。 だから、地球エトノス環境を上限とする定常経済社会を未来に向けた最重要ターゲット(エンテレケイア)と見るべきであ り、そこから逆照射すれば必然のイメージとして『展相(Potenz)経済学』の廻廊(新たな発展プロセス)が新たに構想で きるはずだ(関連参照↓◆)。 ◆「定常経済」へ向かうステップとして「“シュッツの日常性”重視」(委細後述)と「自然と生命のあり方」を見倣う <オープンソース循環型経済>への期待 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180806/p1 <注>添付画像(↑)は、生命現象(自然界における個々の生命維持現象の内外の大きな繋がり)をモデルとしつつ、ケイト ・ラワースが「クズネッツ曲線の誤り」の発見から着想した「自然界の繁栄を支えるネットワーク」のイメージ(https://www.weforum.org/agenda/2017/04/the-new-economic-model-that-could-end-inequality-doughnut/より)。 ・・・ また、アンドリュー・セイヤーによれば、フリードマンに特徴的な<「抽象概念基底的な意味」での“抽象”概念飽和>を 示す典型的な表現はミルトン・フリードマン自身が好んで使った「整序枠組み」(ファイリング・システム/Filing System) という用語である。いわば、ファイリング・システムの如く「分類・論理・体系」的に整然と配列され続ける経済理論体系 のイメージだ。 従って、ミルトン・フリードマンにおいては「リアル経済に関わる客観・実在・因果的合理性/多数派の人々、自然環境な どのリアル実存と遍く対応する『現場』の論理」(あらゆる人間の実在とエトノス環境のための大きな合理主義)と「抽象 概念的な主観・論理的合理性」(特定の人間の欲望に因る局在的で小さな合理主義)の混同が見られるということになる。 ツヴェタン・トドロフが指摘する<市場原理主義(リバタリアニズムに因る)なる、この種の偏狭な『市場』の理解に距離 を置いたのがシュンペーターであった。つまりミルトン・フリードマンの「マネタリズム(金融資本主義)と市場原理主義」 もハイエクと同じく『市場』なる一定の抽象的な領域に固着した、概念硬化の意味での概念飽和(Concept Saturation)> だということになる。 特に、ミルトン・フリードマン経済学の場合は、その重力物理学(修正重力理論/数学)の概念を援用した市場原理に関 わる抽象的で物理数学論的な表現ロジックが、あまりにも過剰にその客観性・科学性に拘るあまり「経済学が真に凡ゆる 人々の厚生の充実のための科学利用へと更に深化する機会を奪ってしまったのではないか?」と考えられる。 <参考>ジェフ・マドリック『世界を破綻させた経済学者たち:許されざる七つの大罪』(早川書房)一見エレガントな 理論が、実はとんでもない破局の元凶だった。/ニューヨーク・タイムズの名物コラムニストが、フリードマンからアセ モグルまでのスター経済学者を筆刀両断(評論家・佐高信の造語)、今後の対処策を示す痛快作。 ・・・ ロイ・バスカー、アンドリュー・セイヤーらの「批判実在論」における「概念飽和」という考え方の半分は、我われが普 通に、しかも殆ど無意識に理解していることである。それは、ある言葉に伴う概念(意味)が一定の範囲内に留まること がなければ、人間社会でのコミュニケ―ションが殆ど不可能となるからだ。例えば、「ご飯論法の達人?」として揶揄さ れる、JPNルイ16世(ゼロサムのファシスト)こと安倍晋三・首相に起因する現下「日本の大混乱」を想起してみればよ い。w 一方、ハイエク、ミルトン・フリードマンらリバタリアニズム(完全自由主義)の立場から生まれる非常に厄介な、時と 場合によっては非常に有害な概念飽和(というよりも概念硬化)が、アカデミズムや社会通念の中で権威化されてきたも のにも必ず存在することも我われは知ったはずだ。 つまり、ものごとを寛容に理解したり、内外の環境変化に適応し永続的に信用を繋ぎ留めたり、多様性へ適切に対応した り、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や斬新な想像力の発揮などのためには、概念規定または概念硬化 の意味での概念飽和に拘り過ぎるのは有害だということである。 ハイエク、ミルトン・フリードマンらのリバタリアニズムや市場原理主義の如く、そのあまりにも専門的で権威的な「概 念飽和(概念硬化)」に固着し過ぎると、新たな可能性の発見や能力発揮の機会を逃したり、またはヒトにとって最も重 要な人間性を破壊したりする人道上の罪を犯す悪辣な行為さえもが、人間社会で当然視されることになりかねない。 ともかくも、個々の生命の“一回性”と“永続性原理”の橋渡しと見るべき生命・生態論およびリアルな人間社会の日常 性と深く関わる人文・社会科学フィールドでは、自然科学(数学・物性物理学あるいは量子物理学ら)の如き意味で究極 の統一理論の完成を期待することは、それ自体が誤りではないか。なお、このような論点については、新進気鋭の哲学者 マルクス・ガブリエルも「新実存主義」の立場で主張している。 だから、これはフリードマンの師であったフランク・ナイト(道徳哲学が原点!)の立場と重なるが、絶えず、より広範 な視座を提供し続ける哲学・倫理の視座こそが最も重要であり、その哲学・倫理を頼りに「整序枠組み」(ミルトン・フ リードマンが好んだ用語)へのアプローチを、絶えず広角の視座で大系づけし直し続けることが重要だということではな いか? 無論、このような態度は人文・社会系でも重要であるはずだが、自然科学系でも、特に生態環境の中で生きざるを得ない ヒトを視野に入れた生命論・生態論を土台とする視点(いわば、その意味での科学哲学の視座)が究極的には必須となる はずだ。換言すれば、それこそがヒト自身を認知理論的に理解するための多様性に満ちた開放系ワールド(潜性イノヴェ ーションが偏在する世界)へのエントランスの確保ということになるだろう。 さもなければ「科学の過剰サービス化(カール・マルクス/デヴィット・ハーヴェイの解釈に因る/Cf. デヴィット・ ハーヴェイ著『経済的理性の狂気』−作品社−)が主張する通りになるだろう。つまり、完全「設計主義」的な”新自由 主義(リバタリアニズム)に呑み込まれた新古典派経済学の如く、科学・科学技術が完全に人間(ヒト)離れした市場原 理主義に吸引される恐れがあるということだ。 |