メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、日本で目立つ主要TV・新聞・国民の・・・(4/n)  2019/09/21


■マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主
要TV・新聞・国民>らの「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る
<想像力>消滅(4/n)

<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

 (新たなコンシリエンス時代が到来!?の予感/日本国民の豊かな想像力“再生”への期待)

・・・以下では、日本でも量子力学等の先端科学フィールドを軸として、特に若
手研究者の中に理系・人文系の垣根を超えた、人間そのものへ新たな理解が深ま
りつつある!?と思しき事例を少し取り上げておく。・・・
<注>人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)の委細につ
いてはコチラを参照!⇒20161107toxandoriaの日記、http://urx3.nu/AH4L 

松岡正剛『千夜千冊』(https://1000ya.isis.ne.jp/0004.html)によると、R.
ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房 1994)には「コンピュータ・心・
物理法則」という副題がついている。そのため、「コンピュータは心を表現でき
るのか」との積年の疑問への解答か?との期待を持つ向きもあったようだが、そ
の期待はあっけなく裏切られる。
しかし、「心の科学」の観点からペンローズは同書の中で「コンピュータ(AI)
に対峙する人間の心の特性(換言すれば全宇宙におけるヒトの心の特異性?(換
言すると一回性的な意味で)のヒトのスケールのユニークさ(例えば“対数目
盛”に換算して見る限り人間の寿命は殆ど宇宙の年齢と同等に長いとも言え
る!)を発見しており、奇しくも此の観点がマクダウエルのリアリズム倫理と深
く共鳴することに驚かされる。/補、toxandoria)」を解き明かしたとも言える
(関連参照 ⇒既出の ペンローズ『心は量子で語れるか?』(講談社)。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000226689)

また、量子力学(量子的な絡み合い、量子もつれ)によれば、起こり得たかも知
れないが実際には起こらなかった過程についての情報を得ることができる(関連
参照 ⇒既述の量子的爆弾検査問題http://www7b.biglobe.ne.jp/~fortran/education/Doshisha/bomb.pdf)
[事例1]波動関数の収縮(崩壊)はパラドクスではない!20140405堀田昌寛
/2019年度: 東北大学, 理学研究科, 助教http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/05/094917 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1165459574897299456
1 【メモランダム/QT】波動関数の収縮(崩壊)はパラドクスではない!
20140405堀田昌寛/2019年度: 東北大学, 理学研究科, 助教・・・以下、部分転載・・・コペンハーゲン解釈を学ぶ時、一番最初にひっかかるのは「波動関数の
収縮(崩壊)」という概念ではないだろうか。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

2 ある量子系を測定して結果を得た途端、その状態は瞬間に別な状態へと変化
するという、あの話だ。古い教科書で学んだ先生方からは、「そんなことは気に
するな。まずは計算ができるようになれればいい。と親切なアドバイスを受けた
人もいるだろう。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

3 それでも何か気持ち悪い感じが残っている人も多いらしい。従来の教科書では
コペンハーゲン解釈の本質的パーツの説明が抜けているから、こういう消化不良
を起こすのだと思われる。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

4 「コペンハーゲン解釈では波動関数(量子状態)は物理的実在ではなく、認
識論的情報概念である」としっかり理解すれば何も問題は起こらないのだ。観測
者が持っている系の情報量に応じて、1つの量子系に対する波動関数は人によっ
て異なってもいい。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/
5  それは、実在論的解釈(ontological intepretation)ではなく、認識論的解
釈(epistemological interpretation)の問題なのである。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

6 また、猫や人間を含む有限自由度のマクロ系でも量子力学は適用できるとい
う点も認めれば、コペンハーゲン解釈のどこにもパラドクスは生じない。シュレ
ーディンガーの猫の思考実験もパラドクスではないのだ。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

7 量子コンピュータの概念が多くの研究者に浸透するとともに、マクロ状態の
線形重ね合わせを原理的に否定する考え方は廃れてきた。もちろん「デコヒーレ
ンスを抑えれば」’(関連参照 ⇒https://www.weblio.jp/content/%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%92%E3%83%BC%E
3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9 )という前提があるのだが、http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

8 マクロ系でも量子コヒーレンスをうまく保つ(デコヒーレンスを抑える)方
法があの手この手で模索されている。実用に耐える巨大量子メモリを持つ、スケ
ーラブル量子コンピュータ(scalable quantum computer)を夢見る研究者の多
くにとって、http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

9 波動関数は言わば量子情報(様々な物理量の確率分布の束)そのものなのだ。
現代的コペンハーゲン解釈での波動関数の収縮(崩壊)は、測定による量子系の
知識の増加に過ぎない。・・・以下、省略・・・http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

[事例2]<研究ノート> 「コペンハーゲン解釈」とは何か : ニールス・ボーア
と崩壊解釈は両立するか:森田 紘平、京都大学大学院文学研究科・科学哲学科
学史研究 (2014), 8: 77-87 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185330/1/phs_8_77.pdf
 
 1 はじめに
量子力学の哲学におけるテーマの一つに解釈問題がある。解釈問題とは,その名
の通り,量子力学の理論をどのように解釈するべきかという問題である(補足、toxandoria/[事例1]で堀田昌寛氏( 東北大学, 理学研究科, 助教)が指摘す
るとおり、それは実在論的解釈(ontological intepretation)ではなく、認識
論的解釈(epistemological interpretation)の問題!愈々、この領域は理系・
人文系の垣根を超えたコンシリエンスの視座が必須であると、特に若い研究者の
間で共通理解されつつある!)。
・・・以下は、同論文より部分転載・・・

量子力学の解釈としては,van Fraassen の様相解釈や,DeWitt の多世界解釈,
Bohm の隠れた変数理論などが挙げられる。中でも,最も有名であり標準的な解
釈とされているのが,コペンハーゲン解釈である。一般に解釈問題を扱う際に
は,標準解釈とコペンハーゲン解釈は区別して用いられるが,量子力学を波束の
崩壊を認めるか否かで二つに分けるとすると同じグループに属すと言える。波束
の崩壊を認める立場では,量子力学における状態の時間発展に射影公準(射影
仮説)を認め非連続的な変化を認める(後述)。コペンハーゲン解釈はこの波束
の崩壊を認める立場であり,多世界解釈などはそれを認めない立場である。

<参考>マクダウエル「リアリズム倫理」(コンシリエンス的な心の哲学フェ
ーズ)で留まり、下(◆2、◆3)の世界へはあまり踏み込まぬ方が無難かもし
れない?(苦w)
◆1「使われない公理」扱いされているが、実は「射影仮説」は重要である http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/~shmz/zakkifiles/01-11-07.html 
◆2量子言語は、(A1)と(A2)の折衷案 
http://chanelkant.blog.fc2.com/blog-entry-191.html 
・・・(A1):射影仮説を採用しない(したがって、波束の収縮はない)、
(A2):射影仮説を採用する(したがって、波束の収縮はある)
◆3"量子言語入門:量子力学の言語的解釈" http://www.math.keio.ac.jp/~ishikawa/QLEJ/indexj002.html
・・・
コペンハーゲン解釈はその名の通り,コペンハーゲンで生まれたとされる解釈
であり,デンマークの物理学者Niels Bohr が発案者とされることが多い.また,1930年代前後にBohr を支持していたとされる幾人かの物理学者たちもコペンハ
ーゲン解釈の支持者と考えられている。例えば,Werner Heisenberg やWolfgang Pauli,Ernst Jordan,L`eon Rosenfeld などがコペンハーゲン解釈を支持し,
発展させた物理学者であるとされる(Camilleri 2007,pp. 27&#8211;28).中でも特
にHeisenberg とBohr は20 世紀前半の量子力学の議論をリードしてきた物理学
者である。

この二人の量子力学解釈はコペンハーゲン解釈と呼ばれることも少なくない。こ
のような立場では,例えば相補性や全体性といった概念に対する態度や,崩壊過
程を肯定する態度はBohr とHeisenberg に共通する量子力学解釈であるとみなさ
れている。しかし,このような捉え方に反して,Heisenberg とBohr との間に解
釈の違いがあることは1970 年代前後から指摘されてきた。後述するが,崩壊過程(量子崩壊、波動関数の崩壊)を認めるか否かという問題でさえ,Bohr とHeisenberg は異なる立場にある。とはいえBohr とHiesenberg が異なる解釈を
とっているとしながらも,20 世紀の量子力学史研究ではコペンハーゲン解釈は
存在するはずで,その核となる主張が曖昧なだけであるとされてきた。つまり,
Bohr とHeisenbergの主張は合致していない部分もあるが,それでもコペンハー
ゲン解釈なるものが存在し,その内容を明らかにするという研究方針が20 世紀
には主流であった。

しかし,このような研究の方針自体をHoward は否定している(Howard 2004).Howard はそもそもコペンハーゲン解釈は虚構であり,その内容を探究する試み
は無意味であると考えた。Camilleri はHoward と同じ立場をとり,現在では有
力な立場の一つと言っていいだろう。一方で,旧来の方針を踏襲するGomatam の
ような立場もある。どちらの立場が正しいかという問いは本論では扱わない。し
かし,このGomatamの議論は波束の崩壊に関する議論において決定的な問題があ
る。本論では,その問題点を指摘する。

本稿の構成は以下の通りである。第2 節ではHoward(2004)までのコペンハーゲ
ン解釈研究を概観する。加えて,Kragh(1999)やJammer(1974)といった量子
力学史,および量子力学の哲学の標準的な本においても,コペンハーゲン解釈の
内容が曖昧であることが指摘されている点を確認する。続いて,第3 節では科学
史的な側面から現代のコペンハーゲン解釈研究を見る。特にCamilleri はコペン
ハーゲン解釈の誕生に関する説得的な議論を展開している。第4 節では,波束の
崩壊に注目し,Bohr の解釈との整合性に関する議論を見る。そこではHoward(2004)とGomatam(2007)を扱う。そして,第5 節においてGomatam の
議論に対する決定的な反例を提示しよう。・・・途中、省略・・・ 
     
4 Bohr(Henrik David Bohr/1885 - 1962/デンマークの理論物理学者) と崩
壊解釈

<補足>「量子力学の育ての親」とも呼ばれるニールス・ボーアは、特にブッダ
や老子ら東洋の思索家が直面した認識上の問題に関心があり、「ヒトの存在は観
客でもあり演技者でもある」ことに関心を向けていた(INTHETIC『量子力学と東
洋思想』https://inthetic.com/about_attracting)。 ・・・ボーアは、次の
ように言っている。⇒「原子物理学論との類似性を認識するためには、我われは
ブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題(認識論的解釈(epistemological interpretation)の問題)にたち帰り、大いなる存在のドラ
マのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするよう
に努めねばならない。」 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

・・・

ここまでで,コペンハーゲン解釈の研究に関する,いくつかの重要な論文をまと
めてきた。この節では,崩壊解釈とBohr の解釈が一致するのかという観点から
検討する。コペンハーゲン解釈が虚構であるとされる根拠の一つとして,コペン
ハーゲン解釈の特徴とされていた波束の崩壊を認めるというアイディアが,支持
者の中心人物であるはずのBohr と両立しないという点が挙げられている。これ
以外にも,この解釈の支持者の間で解釈が一致しない概念があり,結論として,
コペンハーゲン解釈が虚構であるとされている。例えば,相補性や全体性などが
その好例であるが,ここでは波束の崩壊に絞って議論を進める。

最初に波束の崩壊を定義しよう。Howard(2004),Gomatam(2007)において波
束の崩壊と射影公準は区別されていないので,本論でもそれに倣う.波束の崩
壊とは,ある系(その状態を| &#10217; と表すとする)が観測機器と相互作用すること
で,この系 は観測しようとした物理量A に対応する固有状態|a&#10217; に変化するこ
ととする。また| &#10217; , |a&#10217; とする。波束の崩壊を認めるか否かによって,量子力
学の解釈を分類できることはすでに述べた。コペンハーゲン解釈は一般的に崩壊
解釈であるとされている。しかし,Bohr は波束の崩壊を認めない。この点に注
目してHoward とGomatam の議論を追って行く。&#8727;・・途中、省略・・・・

Bohr が波束の崩壊という言葉を一度も使っていないという点はHoward,Gomatam
によって指摘されている(Howard 2004,pp. 670&#8211;671;Gomatam 2007,
p. 738)。ただし,Bohr が波束の崩壊やそれに類する主張をしていないことは,Teller(1980)やKragh(1999)でも指摘されている。Howard はBohr が崩壊を
認めなかった根拠として,観測の標準的な扱いに関する議論を提示する(Howard 2004,p 671).Howard によれば,量子力学の観測過程がどれほど新奇なもので
あれ,観測は物理的なプロセスであるとBohr は考えていた。一方,波束の崩壊
を認めるということは観測に通常とは異なる時間発展を認めることに他ならな
い。これはつまり,観測過程が特殊な物理的なプロセスだと考えていることに
なる。Bohr は1927 年のComo 会議で以下のように述べている。

量子仮説は,原子的現象のすべての観測には,観測装置との無視することのでき
ない相互作用がともなうということを意味している。それがために,現象にたい
しても観測装置にたいしても,従来の物理学の意味における独立した実在性なる
ものを付与することはできなくなる。(Bohr [1927]1999,pp. 54&#8211;55,邦訳pp.
 20&#8211;21)この引用は,Bohr が独立した実在を認めていないことを意味している。
さらに,Bohr は観測による擾乱を生涯認めることはなかった(Howard 2004,p. 672)。
観測機器は古典的に記述して,対象系は量子力学的に記述するという機器と対象
の二元論をBohr は否定する。むしろ,Bohr の立場では機器と対象はエンタング
ルメントを起こすのであるから,この二つは分離不可能である(Howard 2004,p. 675)。古典力学の範疇ではエンタングルメントは生じないので,観測機器が対
象とエンタングルメントを起こすなら機器も量子力学的に扱うべきであるという
のが理由である。

Howard によればBohr は観測過程を物理学における相互作用の一種とみなし特別
扱いを認めず,加えて,分離不可能性を用いて波束の崩壊を認めていなかった。
この分離不可能性は,機器の扱いと対称系の扱いを区別することを禁じている。

・・・当画像は、http://maruyama097.blogspot.com/2017/05/epr.html より。
<補足>分離不可能性について

・・・分離不可能性とは、量子も含む物理量が「分離不可能」な一つの系を成し
ていると理解すべきなので、そもそも“完全な理論には、実在のそれぞれの要素
に対応する要素が、理論自体の中にあるべきだ!”とする、いわゆるEPR論文(A. Einstein, B. Podolsky, and N. Rosen、http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/lecture_note/kstext04_ohp.pdf)の立場である。

・・・そして、ボーア(ブッダなど東洋の思想・哲学に関心を持っていたとされ
る!/既述)も同じ考え方であったのでは?とするのが、当「森田紘平」論文の
立場でもあると思われる。

・・・因みに、このボーアの考え方は、“現在の量子理論(コペンハーゲン解
釈)には何か二、三の基本的な公理の如きものが欠けているのでは?と見るR.ペ
ンローズの疑問、あるいは「“第一の自然”と“第二の自然”を等置しつつマク
ダウエルが説くリアリズム倫理」(同じく既述)の考え方とも共鳴する点がある
ように感じられて興味深い(関連参照↓ブログ記事▼)。

▼世界中の天才たちを悩ませた「謎」とは? 物理学史上最大のドラマ/科学ジ
ャーナリスト:Louisa Gilder(訳:山田 克哉、窪田恭子)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49977?page=4
・・・
続いてGomatam の議論も確認しよう.Gomatam もHoward 同様に,波束の崩壊が
Bohr の解釈と両立しないと論じている。しかし,Gomatam は崩壊を量子文脈性
と分離不可能性を用いて議論している点で異なっている。

さらに,Gomatam はコペンハーゲン解釈に様々なバージョンがあるとしながら
も,コペンハーゲン解釈には核があるとして議論している点も特徴的である。こ
のGomatam の立場は,Howard やCamilleriが明らかにコペンハーゲン解釈になん
らかの核を認めないこととは対照的である。以下で,詳しくみていこう。

 Gomatam は量子文脈性について以下のように定義する(Gomatam 2007,pp.
 738&#8211; 739)。量子文脈性とは,波動関数は個々の系を記述しているが,物理量
の明確な値は 観測の文脈でしか予測されないというアイディアである。つま
り,固有状態・固有値 は観測によって,かつ観測が行われた時に作られるとす
る立場である。この量子文脈性こそがコペンハーゲン解釈を特徴づけるもので
ある。これは Gomatam において波束の崩壊がコペンハーゲン解釈の要素である
ことを示していると言えるだろう。
・・・当イメージ画像はhttps://quantumleap.fandom.com/wiki/Genesis:_Part_I_(episodeより)

<補足>量子文脈性の問題を、一挙に、いわゆる“クォンタムリープ(量子的
飛躍 /science-fiction)”なる怪しげな?カルト概念(orサイエンス・フィク
ションの世界)へ結び付けるのは危険である(苦w)。そのように一気にleapし
たいという人々の気持ちが分からぬ訳ではないが、例えば、ボーア・ペンローズ
られっきとした科学者、又はマクダウエルら哲学者の如く、あくまでも「実在論
的解釈(ontological intepretation)と認識論的解釈(epistemological interpretation)の相剋」というコンシリエンス・アカデミズムの領域に止まる
べきである。因みに、AIに因るシンギュラリティ(画期の新時代)への劇的な相
転移が出現する!なるサヴォナローラ風の預言?も、此のクォンタムリープのジ
ャンルに属する、一種のハイな酩酊意識だと考えられる。

<蛇足1>【現代日本のクォンタムリープ!(量子的飛躍)こと“共依存シンド
ローム”の土壌?】・・・現代「勲位制」にしぶとく遺る、戦中・戦前期「英霊
界位階制≒神階制」なる国家守護神制(国立亡(英)霊鎮護国家?)の残照
・・・・・・位階(神階)は、著しい業・功績をあげたと評価される政治家・大
学名誉教授・財界人らの著名人に対し、主にその死後に日本政府から下賜される
“従四位、正四位・・・”らの叙位称号のことを指す。

・・・日本国憲法第7条では、栄典の授与を内閣の助言と承認のもとに行われる
天皇の国事行為と規定しており、勲章や位階などは天皇の名により授与する形式
をとっている。

・・・又、この規定は「天皇以外の機関(国会、内閣総理大臣、都道府県知事、
市町村長ら)が授与を行う栄典の制度を設けることを排斥するものではない」と
される。

・・・日本における位階制は古代律令制に基づく政治行政制度とともに中国から
輸入し、爾後に独自の発展を遂げたものである。

・・・他方、一般に律令の位階と混同されることが多い神階(神位)は、神道の
神に授けられた位階のことで、「神道と日本人」(春秋社)の著者・葉室頼昭氏
(故人/春日大社宮司・医師)によれば、「国家神道(国家英霊を尊崇する)は
明治政府の大きな誤りで、そもそも伝統神道には“英霊”に連なる神位の考え方
はなかった」とされる。Cf.
http://www003.upp.so-net.ne.jp/tomoiki/kokkasintou.htm

・・・そして、「国家神道」イデオローグの下で「英霊に連なる神位」を創作す
ること、換言すれば「一強官邸(>司法・検察・官憲)麾下の顕彰教義に埋め込
まれた侵略への“総忖度・共依存”型の大政“翼賛“動員という政治目的を、聖
戦教義(聖戦を煽るアベ様から下賜された嫌韓の呪文に溺れ、かつ浮かれ舞い上
がる現在の日本世論の空気にも似た(苦w)日本人の“情”を擽るこのみいくさ
論/Cf.↓&#9832;)・英霊教義の似非宗教トリックで粉飾(クォンタムリープ(量子
的飛躍)化)する」ための国家宗教施設として制度化されたのが靖国神社である。

&#9832;【戦後JPNクォンタムリープ一強超然権力の元祖!/半島“極右権力”と同根
/聖戦を煽る社会的“共依存”の空気は小さな風穴から吹き始める!】「名にか
へて このみいくさの正しさを 来世までも語り残さむ」 岸 信介(安倍晋三
・祖父)、https://mie-net.hatenablog.com/entry/20140105/p1

<蛇足2>日・韓(安倍・朴)両政権が共有する“カルト超然権力”の核心は旧
日本軍(関東軍/旧満州統治)方式の『軍事国家主義』
・・・https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20160109/p1 より、部分転載・・・

 ・・・朴槿恵の父・朴正煕は日本の陸士出身で関東軍・陸軍中尉の経験があっ
た。その朴正煕(岸と同じ満州国人脈!/韓国第三共和国大統領)が米国(米産
軍複合体)支援の下で行った経済開発の手法は旧日本軍(関東軍)仕込みの「軍
事国家主義」政策であった。

・・・ところで、韓国の反共理念が米国の基本利益に一致するとの判断から「韓
米経済軍事援助協定、http://ur0.xyz/q9Nq」が締結されたのと同年、1954年の
5月1日に「世界神霊統一協会(明らかにカルト教団!)」が韓国で設立されて
おり、この符号は不気味である。

・・・しかも、《霊的なもの、あるいはカルト》が暴走的な政治権力と軍事パワ
ーに対し支配的に関わり(場合によって、その影響力は原子力などの科学技術や
文教・文化政策にまで及ぶ)、その「一般市民・庶民層に対する買弁的な抑圧の構図」は作為で創られるという意味で、そこから<中東においても、米産軍複合体
がアルカイダ・ISらイスラム原理主義テロ集団の草創期に関わっていた>ということ(事実)が連想させられ空恐ろしくなる。

・・・やがて、70年安保の直前にあたる1968年には、「世界神霊統一協会」の政
治活動部門である「国際勝共連合」が韓・日の双方で発足しており、日本では岸
信介、ほか判事経験者など法曹界系の国会議員らがその活動に参画したことがよ
く知られている。(ウイキ情報あり)

・・・発足時から日本「国際勝共連合」が掲げてきた主要目標の中には、≪改憲
(9条放棄ほか)・軍事力強化(三原則放棄など)・原発推進≫などがあり、こ
れらはまさに現在の安倍政権が躍起になって取り組む重要政策となっていること
だ!(ウイキ情報あり)

・・・現在の朴槿恵には韓国の経済再建という絶対的な命題が伸し掛かっており、
その意味でも「漢江(ハンガン)の奇跡」(http://ur0.pw/qeDj )を実現した
父・朴正煕の偶像化と再評価に縋りつくという思いが強いと考えられる。

・・・つまり、安倍晋三と朴槿恵の両者は、日韓両国の「民衆・市民レベルの歴
史」とは全く異なる、殆ど異次元と言っても過言ではない特異な、米国(米産軍
複合体)が“公式にではなく戦略的に公認”する私的歴史観(=関東軍仕込みの
軍事国家主義史観)を共有していることが理解できる。・・・以下、省略・・・

・・・

 Gomatam における崩壊の記述を確認する。Gomatam は波束の崩壊に対して定義
を 与えていない。しかし,崩壊仮説に対する説明は加えている。そこでは,崩
壊が観測によって生じることと,崩壊仮説に基づけば波動関数は,個々の状態と
関連している ことを述べている(Gomatam 2007,p.738)。量子文脈性は,この
崩壊仮説を含む形で 定義されている。なので,ここでは量子文脈性に注目して
議論しよう。

先の引用でも見たように,Bohr は対象と観測機器を区別するということを認めない。 このことを Gomatam は分離不可能性と呼ぶ。ここでの分離不可能性とは,
個々の系 の記述と量子力学的な形式を関連付けることを認めないということで
ある(Gomatam 2007,p. 739)。言い換えると,量子力学の形式の対象である量
子系を観測系と被観測系の全体として捉えることである(Gomatam 2007,
p. 738)。

Gomatam は,この意味での分離不可能性と崩壊解釈が両立しないと論じている。 
換言すると個々の系に対して波動関数を割り当てるとする量子文脈性は,Bohr
の分離不可能性と両立しない。分離不可能性に基づけば,個々の系に対して波動
関数を 割り当てることは許されない。

したがって,Bohr の立場と量子文脈性は両立しない。 Gomatam によれば,Bohr 
の分離不可能性に基づく解釈は,崩壊仮説を回避している。 なぜなら,Bohr は
個々の粒子に波動関数を関係づけることを認めていないからである (Gomatam 2007,p. 747)。つまり,波動関数は対象だけを独立に記述することが出来 な
いとする Bohr の立場は,対象だけに波動関数を割り当てることができないとす
る量子文脈性とは両立しない。この議論は量子文脈性にのみ適応されるものでは
なく, 波束の崩壊にも応用できる。

Gomatam の議論を引き継げば,波束の崩壊における二つの時間発展と分離不可能
性が両立しないと言えるだろう。 このように Howard,Gomatam はともに崩壊解
釈と Bohr の量子力学に対する立場 が両立しないと主張している。結論は同じ
であるが,そこで用いられている議論が異 なっており,Howard の議論に比べ,Gomatam の議論には直ちに反例を与えることが できる。その点については次節
で確認しよう。

5 Gomatam の問題点 
・・・この参考画像「固有値と固有ベクトル」は、ウイキより。
Gomatam(2007)の議論は,分離不可能性によって,波束の崩壊を回避できると
いう主張であった。しかし,分離不可能性に反せずに波束の崩壊を認めることが
できる例を提示できる。 Bub が述べているように,観測機器との相互作用によ
る時間発展では,観測機器と の相互作用によって生じるユニタリ
(補・toxandoria/直交行列を複素数体へ拡張した)な時間発展
(補・toxandoria/固有値ないしは固有ベクトルを持つヒルベルト空間での)
と,非ユニタリな時間発展(補・toxandoria/固有値の不在があり得る実数空
間での)の二つがあ る(Bub 1999,pp. 34&#8211;37)。

したがって,波束の崩壊を回避するために被観測系に波動関数を割り当てること
ができないという分離不可能性を用いても,観測機器と被観測系の複合系におい
て崩壊過程が生じうる。よって,Gomatam の議論は成立しない。
より正確には,分離不可能性だけでは,波束の崩壊を否定する根拠たりえない。
した がって,Bohr が分離不可能性を支持していたことだけでは,Bohr が波束
の崩壊を否定していたことを導けない。それでは結論も否定されるのだろうか。
つまり,観測機器との相互作用によって生じるユニタリな発展と,非ユニタリな
発展の二つの時間発展があるという点をBohrは認めるだろうか。Gomatam の用い
る分離不可能性の議論だけでは,この点を十分に 否定できない。

しかし,Howard の議論を用いればこの点にも反論できる。つまり,前述した通り Howard によれば,Bohrは観測機器の相互作用を特別扱いすることを認め ない。
Bohr は特別な時間発展を,この場合では非ユニタリな時間発展を量子力学に認め
ることを否定しているからである。

従って、Bohr は波束の崩壊を認めないと言えるだろう(補・toxandoria/しかし、同時にボーアは波束の崩壊を認めていたとも言えそうだ。それは、この二者択一
の決着は“観測”によらざるを得ない筈だが、その先では再び“観測問題”が登
場することになり、このアポリア状況の連鎖が“入れ子”構造的に連続する筈で
あるからだ。)。

6 おわりに 

本論では,2000 年代以降のコペンハーゲン解釈研究について見てきた。現在は Howard(2004)の影響もあり,この解釈が虚構であったとする立場が優勢であ
る。し かし,彼らが共通の概念を使っていたことも明らかである。例えば,相
補性や全体性などの概念は Bohr らに特徴的である。
とはいえ,彼らが同じ意味で用いているとは 言い難い(Cammileri 2009,
pp. 45&#8211;48)。そこで,Bohr らを総称してコペンハーゲン学派と呼ぶことは問題
ないだろう。むしろ,コペンハーゲン解釈という言葉よりも, より正確な呼称
ではないだろうか。いずれにせよ,コペンハーゲン解釈という言葉を無批判に用
いることは非常に危険であると言わざるをえない。
Bohr の解釈はいまだに議論の的であるが,歴史的な分析が十分に行われている
わけではない。例えば,Gomatam は本論でも指摘したように,議論には根本的な
問題点が ある。Bohrの解釈を再定式化しようとする試みは少なくないが,歴史
的な分析は少な い。今後は,歴史的な分析に基づく Bohr 解釈を構築していく
必要もあるだろう.・・・以下、省略・・・

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