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■マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主 要TV・新聞・国民>らの「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る <想像力>消滅(3/n) <注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255 (マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プ ラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採る べきだという主張) ところで、一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)のデカルトが考えたような物理的世 界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウェルの言う『威丈高なプラ トニズム』)、逆に物性物理的・還元論的な性質に還元されて説明されるか(同 じくマクダウェルが言う「露骨な自然主義」)という二者択一に常に迫られると いうジレンマに陥っていることになる。 マクダウェルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」と が実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI ‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近 代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意 味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張している(これが、 マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学と ジョン・マクダウェルのアリストテレス的自然主義(岩手大学、音喜多信博/ KAKENhttps://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/) マクダウェルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前 のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマー がディルタイの生の哲学のなかに再発見したとされる“”古代ギリシャ・ローマ にまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念でありそれ こそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンとアリス ストテレス主義(徳の倫理学/二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受 け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)もア リストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられるこ と)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514 ) (マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見 なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある) [画像]https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166906719974244352 [画像]://twitter.com/tadanoossan2/status/1166906855035035648 たまたまのことだが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語 を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であっ た。それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わ りつつある(話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコン ピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使 い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入った というユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と 見るべき「想像」( imagination)が苦手である!?という、当ブログ記事のテ ーマでもある「ヒト故の想像力のユニークさ(重要性)」と重なる論点を提供し ているからだ。 【補足】『人間の壁2』と「選言説」について ・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの 日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言 語哲学の立場であり、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism) と対置されるが、マクダウエルでは、これが「ヒトの意識=第二の自然と定義 し、それを第一義の自然と等置する考え方」のベースとなっている。 ・・・「マクダウエルの≪選言説≫に因る意味論」でも、その第二の自然たるヒ トの意識はそもそも胎盤的な謂い-の環境である第一義の自然の影響を当然のこ と受けている(諸感覚を経由して)はずなので、たとえ固有名詞であっても初め から固有の価値を持つとは考えられない‐ということになる。 ・・・『人間の壁2』は、準汎用AIの高度機械生産性の角度から見れば『人間の 壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、 抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)に重な る(委細参照 ⇒ (1)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 , (2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514) ・・・つまり、上の記事(2)で述べた『人間の壁2』(“感じる”ヒトは高度 デジタル抽象的なビジネス・サービスだけでは十分に満足できないという)問題 は、<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名の一義的 な「意義」と概念の形成に先行すると見る「選言説」と関りが深いことになる(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/42/1/42_1_1_29/_pdf/-char/en)。 <参考>マクダウエル自身は概念説(表象説)と選言説の結びつきについて明確 な論述を施していないが、われわれは、ひとまず両者の関係を次のように整理す ることができる ・・・概念説と選言説はそれぞれ対立する立場との間に論争を巻き起こしつつ、 現代の知覚の哲学における中心的な関心領域の一部を形成している。マクダウエ ル自身はこれらふたつの説の結びつきについて明確な論述を施していないが、わ れわれはひとまず両者の関係を次のように整理することができる。 ・・・一方の「概念説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれ の信念は合理的な制約を獲得する」という論点であり、他方の「選言説」が確保 しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの心に提示されるのは実在の在 り方そのものである」という論点である。 ・・・したがって、これら二つの見方は、相伴うことで「経験は信念に対して実 在からの外的な合理的制約を与える」という論点を構成すると考えることができ る。換言すれば、選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および 「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを正当化の序列のなかに 正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる(出典:知覚経験の選言 説と概念説/小口峰樹(東京大学総合文化研究科科学史科学哲学/現・玉川大学 脳科学研究所、特任助教)。https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/pdf/知覚 経験の選言説と概念説.pdf 【補足】「選言説Vs概念説」の緊張関係がヒントとなる「AI時代の民主主義の新 たな可能性」について(小論) ・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズムの創始)が提唱したタイプ(脳内で自由に変 容する可能性がある概念そのもの)とトークン(その概念と対峙する関係にある、 確固たる実在としての因果の連鎖に縛られる特定・個別の対象)の区別 (Type-token distinction)という考え方がある。 ・・・デイヴィドソン(Donald Herbert Davidson/1917- 2003/米国の哲学者 /最も著名な論文は『行為、理由、原因(1963)』)によれば、現実的には、個 々人の心理面におけるこの両者の対応関係は一筋縄では行かない。そこで、例え ばある固有名詞(特定タイプの言語表象)ら多様な言語表象の組み合わせに因る 一定の言語表現(厳密に言えば、それによる或る人の心的理由の説明)は、必ず しも因果論的ないしは論理的に首尾一貫性を確保するとは限らないことになる (画像は、https://www.s9.com/Biography/davidson-donald-herbert/ より)。 ・・・別に言えば、如何に客観合理性を謳うとしても、安定的に、それが中立性 ・公平性を担保するのは非常に困難であることが理解できるはずだ。 ・・・実は、このような点にこそ、マクダウエルが「選言説」(intentionalism /必然的に脳内外の諸環境の干渉の影響下にある感情こそがヒトの日常言語にお ける固有名の一義的な意義と概念の形成に先行すると見る立場/その極致が、い わば居丈高なプラトニズム)と「概念説」(表象説、概念相対主義/relativism /その極致が、いわば露骨な自然主義)に関わり、これら二つの視座の融和・和 解に因る真のリアリズムの自覚を取り戻すこと(それによって真のリアリズムを 復権させること)が、愈々、必須である!と警鐘を鳴らす根本的な理由がある。 ・・・しかも、この論点は現実的に現下の国際政治の局面(言い換えれば、世界 の民主主義と世界経済の行き方を占う!?)にも絡んでいることが理解できるは ずだ。 ・・・それは、例えば今や混迷を極める隘路に嵌ったかに見えるBrexit問題にし ても、実は、それが「英国=欧州」関係に止まらず、<選言説を採るか、概念説 (表象説、概念相対主義)を採るか、そしてこれ等と「流動化しつつあるAI時代 の民主主義」の新しい在り方とを、どのように結び付け、どう理解し、どう議論 を深めるべきか?の問題に通底している>ことが歴然としつつあるからだ。 ・・・因みに、『ネット階級社会ーGAFAが牛耳る新世界のルールー』(早川書房 /カズオ・イシグロ推奨)の訳者(中島山華氏)の“訳者あとがき”によると、 この本の著者アンドリュー・キーンは英国生まれのIT起業家(シリコンヴァレー のインサイダー)であるが、キーンは前著二冊の主張(ユーザー生成コンテンツ (日常言語主義がベースとなる)への過度な依存となることに因るネット・メデ ィアの質の低下と、フェイスブック・ツイッターらSNSが促す“超可視性/hyperbisibility”(見た目&表層的分かり易さ重視)の危うさを指摘)を踏ま え、以下のように<我われが準汎用AIがもたらす『人間の壁』に囲い込まれる危 険性>について警鐘を鳴らしている。 ・・・『更に、インターネットを万能の解決策のようにとらえる現代人のものの 見方、ズバリ言えば、その民主主義の特異な在り方への傾斜の危険性、換言すれ ば「一般社会の『非選言説』的な思考への傾斜によって、我われは『第一の自 然』と『第二の自然』(両者ともマクダウエルの命名)の双方から過剰に乖離し つつある。いわば、それは我々が“準汎用AI機械化経済化によって【人間の壁】 (過剰な抽象世界における只の可能性に過ぎないAI高度生産性)の奴隷と化しつ つある”ということだ。』(委細は下記★を参照乞う)。 ★AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しが できる https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514 ・・・ 【補足】試される民主主義/ヤン・ヴェルナー・ミュラー著 [画像]https://twitter.com/tadanoossan2/status/1170440578519031808 【構想の死角】それは紙一重ながら、ヒトは冷戦的な視点と平和の理念の相剋 (試され続ける民主主義)のリアリズムのなかでこそ世代を繋ぎつつ生き抜くこ とができる! ・・・「民主主義=A第一自然(モノ) Vs B第二自然(ヒトの意識)の相剋」 と見れば(マクダウエル他)、「民主主義=制度化された不確実性の実験」が腑 に落ちる。つまり、プラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)とアリストテレス の徳の倫理学を批判的に受け止め深く双方の着地点を理解する実験だ!と、マク ダウエル流にそれを見立てることができる。 ・・・従って、いま内外で復活しつつある「冷戦的な視点」は、“A Vs B”の ≪相剋≫ならぬ“マイファースト(謙虚さの対極である傲慢に流された)故の、 “A Vs B”の≪代理戦争≫意識”に他ならぬ。その意味で「著者ミュラーの定 義=民主主義は制度化された不確実性」は実にタイムリーな再確認である。 ・・・換言すると、両者の関係が≪相剋≫であるか?≪戦争≫であるか?の差異 は、永遠に≪紙一重≫であろう。しかし、汎用AIマシンならぬ生身のヒトは、 “A Vs B”の≪戦争≫ならぬ両者の≪相剋≫(ヒトの生誕環境)のなかでこそ、 世代を繋ぎつつ生き抜くことができる。 ・・・このような現実(リアリズム/マクダウエル流に言えばリアリズム倫理) に覚醒不能であるのが「悪しきポピュリズム」(および、それと共依存した政治 権力・主要メディアら)の病理である。(関連/Cf.↓★) ★マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主 要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る 「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/ |