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■マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主 要TV・新聞・国民>らの「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る <想像力>消滅(1/n) <注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255 (Cover Images) ボッティチェリ『プリマヴェーラ』(Primavera/春の寓意)』Sandro Botticelli(1445- 1510)「Primavera」c. 1482 Tempera on panel 202 cm × 314 cm Uffizi Gallery, Flore ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』(Related image)Sandro Botticelli (1445 – 1510)「The Birth of Venusc」1485 Tempera on Canvas 172.5 x 278.5cm Galleria degli Uffizi, Florence (ボッティチェリに係わる二つの発見) ー形式的イマージュの発展(想像力の泉1)ー ギリシャ・ローマ古典の意味を見直すことで人間の復興と新たなヒューマニズム の可能性を期待し、それを大いに賛美するルネサンス芸術の代表者とされている ボッティチェリであるが、一方で彼の絵にはメディチ家周辺の後期ゴシック(中 世末期)的な美意識が深く投影されている。そのため、この<春>という愛の季 節を讃える初々しい感性にあふれているはずの『プリマヴェーラ(春の寓意)』 でも、その絵の全体にはなぜか“やや暗め”の霊気のようなものが漂っている。 無論、それもボッティチェリの美学を引き立てる魅力の一部ではあるが。 その人物像を取り巻く繊細な風景描写のなかに、おそらくボッティチェリは、そ の後期ゴシック(中世)的な霊気のようなものを殆ど無意識に塗りこめているは ずだ。だから、彼が描く自然の風景には変化に富み生きいした自然の風景が必ず しも反映されてはおらず、むしろそこには綴れ織り(京都の西陣織/一説で、そ の起源は古代エジプトのコプト織にあり、中国・朝鮮半島経由で古代の機内(京 都)へ伝来したとされる)のような感触のやや暗みを帯びた自然物が描かれいる。 やがて次第にボッティチェリはそれらの形象を更に装飾的なものへと変遷させて 行った(形式的イマージュの発展)。 ー新たな物質的イマージュの創造(想像力の泉2)ー 一方で、これは逆説的なもの言いとなるが、ボッティチェリの絵から、その霊気 を帯びた暗さと、恰も綴れ織りの如く過剰に装飾化した自然描写にもかかわらず、 その「絵」全体の印象ではボッティチェリ的な空気とでもしか言いようがない不 思議な瑞々しさ(その正体は様々な花や樹木らの植物群と黒い土のなか、および やや暗めの霊気(空気)のなかに漂う“水”の成分の印象/厳密には、そのボッ ティチェリの絵を見たことによる共感が励起し鑑賞者の心に宿るエトノス感)を 鑑賞者は感じさせられるはずだ(新たな物質的イマージュの発見)。 そのことは『プリマヴェーラ(春の寓意)』から約10年後の作品となる、直接的 に海の「水」をモチーフとして描いた『ヴィーナスの誕生』では、より分かり易 く現れる。瑞々しく美しい裸体に恥じらいを宿すヴィーナスは、青みがかった緑 の海原に散る花々、風になびくエロチックな長い髪、あるいは色濃く茂る神秘の 樹木、それらの全てが、恰も「水」の成分の仲立ち(物質環境的想像力)によっ て、ルネサンスの美意識を背景としつつギリシャ・ローマ古典古代と後期ゴシッ ク(中世末期)の二つの美意識が、新たな息吹と新たなエトノス感に目覚めたル ネサンス期の人間の心のなかで和解したかの如きである。 (モネ『カピュシーヌ大通り』は、到来する市民社会に相応しい『“斬新な視覚”と“色彩混合”、“水の想像力”(市民社会エトノス感)』の発見) モネ『カピュシーヌ大通り』Claude Monet,(1840 – 1926)「Boulevard des Capucines」1873-74 Type Oil on canvas 80.3 cm × 60.3 cm Nelson-Atkins Museum of Art, Kansas City, Missouri 我われがいま最もその批判対象と見て警戒すべきは、エンドレスで格差の再生産 へと大暴走し、もはや正統な資本主義とは言えぬまで、そして殆ど統制不能のレ ベルまで怪物化した<グローバル市場金融資本主義>に悪乗りして、妖怪カルト 守銭奴(その象徴がアベノミクス!)と化した、正統保守を騙る偽装極右(偽エ トノス)派)の跋扈&一強支配である。現在の日本でいえばそれは1%派の利権 保守で原子村らの御仲間と諸利権(カネ、カルト、排他的ネポティズム構造)絡 みで日本社会の深部に浸潤する 日本会議 、神道政治連盟、神社本庁らを意味す る(浸潤=本来その組織固有でない細胞が組織の中に出現すること)。 一方、血みどろの凄惨な戦いが繰り返されたフランス革命など「市民革命」の意 義(極言すれば応報・連鎖したテロ同然の内戦・闘争の歴史的意味)を表層的or 勧善懲悪的に理解するのは危険である。 それは、ここで正しい歴史認識と歴史への反省及び自由・平等・国民主権、ある いは憲法の授権規範性や立憲主義の意味が正しく読み取れ(理解でき)ない限り、 新たな世界規模の危機状況の到来(特に、マイファースト権力・刹那的ポピュリ ズム・主要忖度メディアの共依存的な癒着構造の暴走による大パニック出現?) が囁かれる昨今の状況下では、ほんの僅かな情勢の読み違えから、我われ普通の 世界市民が再びエンドレスの血みどろの応酬戦争を繰り返す、愚かな過去の時代 と同等の煉獄の罠に易々と嵌りかねないからだ。 ところで、カピュシーヌ大通りはオペラ座を正面にして左右に伸びる大通り(オ ペラ座とルーブル美術館を結ぶオペラ通りとクロスする)であるが、そこにはモ ネがこの絵を描いた1873年頃は未だ「パリコミューン(1871)」の惨劇(内戦、 テロの応酬)の生々しい空気が残っていたはずだ。しかし、このモネの絵から、 その不穏な血生臭い空気は一切感じられず、それどころか急速に賑わいを取り戻 しつつある繁華街と、そこで未来への希望を手に入れたパリ市民らの新たなエト ノス感の発見に因る未生の活力と生命力が感じられる。 その「明るい希望」への急速な意識転換のエポックを感じさせるこの絵の秘密は どこにあるのだろうか?まず考えられるのは、「ある種の心地良さを感じる適度 な俯瞰の視点(ふわりと浮いた適度な高さの鳥の目線による、一定の中立的で普 遍的な視座の確保)」ということだ。具体的に言えば、それは1874年に第一回印 象派展の会場となったナダール写真館(3階)から俯瞰した構図の発見であり、 その後これは活性化した市民意識(特に、新興の中間ブルジョアジー層)の活躍 を感じさせる「大都会の群衆」(その草創期における希望に満ちたより良い意味 でのポピュリズム感覚)を描く印象派の一手法(いわば、それは矢張り形式的想 像力の新たな発見)として定着する。 モネ『水連』1914(Related images) Claude Monet「Water-Lilies」 1914. Oil on canvas. 200 x 200 cm National Museum of Western Art, Tokyo, Japan. もう一つは、印象派の画家たちが創り出した色彩混合(視覚混合/並置した二つ 以上の色彩が遠くから見ると混じり合って一つの色に見える光学現象を応用し た)の技法だ。特に色彩の鮮やかさとイマージュ的感性で捉えた光の煌きの一瞬 の同定を粘り強く追及したモネはこの手法に優れており、周知のとおり、それは 漸くジヴェルニー庭園に落ちつき、そこで晩年に描かれた水連の連作に結晶して いる(後述するバシュラールに通じる水に関わる物質的(環境的)想像力の新た な発見!)。 この絵の色彩的な特徴を端的に言うなら、それは<その殆どが地味な黒とブルー、 そして少々の茶色と白色で描かれているだけであるにもかかわらず、なぜか晩年 の連作「水連」にも通じる「水」にまつわる瑞々しいバシュラール的な斬新な感 性、言い換えればエトノス感覚的なイマージュの印象、いわばその奥深い背景に 潜む未生のパワーを連想させる生き生きと果てしなく広がる、自然界に生きる諸 生命の根源としての水の波紋の印象が強く鑑賞者の心に残ること>である。 ・・・Erik Satie: Gymnopédies & Gnossiennes (Full Album) Lara Fabian – Ma vie dans la tienne (Official Video) (プロローグ)「マイファースト&ポピュリズム」共依存の漂着先・・・ ・・・それは、ヒトの歴史と現実が崩壊する「人類文化デコヒーレンス」なる過 激<歴史修正主義>の席捲かも?そして、そのお先棒を担ぐのは近親憎悪的な? TV等メディアの率先で今や<嫌韓>一色に染まるアベ・ニッポン鴨?・・・ ・・・当画像は。20190516国立遺伝学研究所プレスリリースhttps://www.nig.ac.jp/nig/ja/2019/05/research-highlights_ja/pr20190516.html より。 画像 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166878265916743681 【ジョンソンは米トラ・日アベらと同質の歴史的に過激な“歴史修正主義者”の 典型となる鴨?!】・・・スコットランドが連合王国から抜ける?更に北アイル ランドでも英国からの分離とアイルランドとの南北統一を問う住民投票を止める ことは困難になる。⇒ 英ジョンソン首相の暴走で「連合王国」は崩壊か903 岡 部 伸、JB.プレス https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2 画像 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2 画像 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2 1 “混迷”日本の克服に有効な“バシュラールの(a)形式的想像力と(b) 物質環境的想像力”についての気付き ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard/1884 – 1962/フランスの科学哲学者、詩的想像力の研究にも業績)の著書『水と夢/物質的想像力詩論』(及川 馥(かおる)訳、法政大学出版局)によれば、我われ人間に備わる想像力は大いに 異なった二つの軸に沿って展開する。因みに、想像力の一般的な意味は「ヒトゆ えの、共有世界の感覚認識に由来する諸要素から、心の内側で部分的または全体 的な個人の意識の中核的な領域(しかも、それは諸環境下における個性的な一回 性のもの)を生み出す能力」ということになるだろう。 その一つは観念的な形象イマージュであり、それは絵画的で多様な変化、偶然の 出来事の連鎖や組み合わせなどから「新しい楽しみや発見の形」を取り出す傾向(spring、beginning)があり、この想像力は絶えず美しい春を描き出し様々な 花を生み出すとされ、バシュラールはこれを形式的想像力と名付けた。そして、 いみじくもそれはボッティチェリ『プリマヴェーラ(春の寓意)』を想起させる。 もう一つの想像にかかわる能力群は、リアルな存在(物質)の根底を掘り進み、 その根底のなかで絶えず原始(初)的・始原的なものと永遠なるものを同時に見 出そうとするる。つまり、こちらの能力群(想像力)は歴史(Ethnos&History) と季節(Season)を支配している。 それは我われの外である自然のなかで、あるいは我われ内部の自然のなかでも、 絶えず様々な未生の萌芽を発見したり、あるいは作り出し続けたりしている。そ れゆえバシュラールはこれには物質的想像力の名を与えており、そのなかでも特 に「水」に関わる物質環境的想像力を重要と考えた。 視点を変えれば、この二つの想像力は恰も「論理・推理による観念的・抽象的構 想力」と「自然・エトノス環境の因果(律)に関わる観察眼と皮膚感覚による感 性的な発見」に対応すると考えられる。 <注>エトノスとは? ・・・エトノス(ethnos)とは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定 のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来) へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未 来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界の理解/関連参照 ⇒ マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「民族主義、レ イシズム=非合理”の発見」, https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2017/03/20、ロブ・デサールほか 著・斉藤隆央訳『マイクロバイオームの世界―あなたの中と表面と周りにいる何 兆もの微生物たち』‐紀伊國屋書店‐、https://honz.jp/articles/-/43555)を 常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を 最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となる ローカルの風土』を意味する。 ・・・しかし、そのethnosは古代ギリシア語に由来しており、それは村や都市に 集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集 団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が 変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉では なかった(関連、http://u0u0.net/EyB6)。おそらく、それは「生命」現象その ものと同じく、永遠に揺らぎつつも持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるの かも知れない(委細参照 ⇒ https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1)。 ・・・ 無論、殆ど刹那的に生きているかに見える一般の動物ならぬ我われ人間の場合は、 その精神のなかの全く異次元のフィールドでこれら両者が個別に機能していると は考え難く、この二つの想像力は絶えず相互の影響や浸透によって多少のぶれを 見せつつも、歴史や記憶の蓄積と生きいきした感性的イマージュの再生産を繰り 返しながら、それらが精神にもたらす交感・交流、あるいは共鳴のプロセスで絶 えず「中立的」な判断力や豊かな感覚的イメージが生み出されていると考えられ る。 言い換えれば、我われの内面で行われるその「中立的」な未了の精神活動こそが、 我われ人間に対して絶えず<健全でアグレッシブな思考と新たな生命力と活力> を与え続け、健全な前進へのパワーを供給してくれることになる。 さらに少しだけ付け加えれば、その「中立的」な精神活動は決して日和見的なも のではありえず、いわば自然・エトノス環境と人間社会の間の<未了の相克>を 持続させるための批判的意思がそのための必須条件となっている。又、あくまで も相対的な比較であるが、どちらかといえば皮膚感覚に近い(b)物質環境的想 像力の方が、(a)形式的想像力よりも、地球上の自然エトノス環境との関わり が深いと考えられる。 しかも、これら二つの想像力、つまり「形式的想像力」と「物質環境的想像力」 には、それぞれ「善と悪」(あるいは生と死)の相反する要素が常に潜むのが当 然なのだという自覚(我われ自身もその二つの成分、「善と悪」(あるいは生と 死)からできていると理解する謙虚さ)を先ず持つことが肝要である。 それは、より広く捉えてみればたとえ「形式的想像力」と「物質環境的想像力」 といえども、その内側で我われ自身が無意識の内に誕生していた生来の自然・エ ノス環境の賜物であり、いくら高度なAI・コンピュータを使いこなすことが出来 るとしても、その自然・エトノス環境との調和を抜きにした人間の力だけでは絶 対に「善と悪」(あるいは生と死)は支配できない現象であるからだ。 ともかくも、この<それぞれに「善と悪」(あるいは生と死)の要素を潜ませた(a)形式的想像力と(b)物質環境的想像力の二つの想像力が、絶えず相互の 影響や浸透、又は共鳴によって多少のぶれを見せつつも、我われは一回性の歴史 や記憶の蓄積と生きいきした新たなイマージュの再生産を繰り返すことが可能と なる訳である。 しかも、それら広義のエトノス(自然・文化・社会環境)が個々人の精神との間 で交わす交感と交流のなかでこそ、「中立的」で豊饒なイメージや新たな判断力 を絶えず生み出すことができる>というバシュラールの豊かな想像力についての 考え方を理解することが重要であるだろう。 そして、このような点を援用すれば、先に取り上げたボッティチェリの『プリマ ヴェーラ(春の寓意)』に関わる新たな解釈としての水の想像力」も、あるいプ ロローグで取り上げた「モネの絵画における水の想像力(つまり、新たなエトノ ス感を想像する水の能力)の発見」も、十分腑に落ちることになるはずだ。 |