メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!(4/n)  2018/07/04


■[希望のトポス]ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク(4/n)

<注>お手数ですが当記事の画像は下記URLでごらんください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701 

3 技術開発に伴う近未来のメディア「展相」(Potenz/力能の発展の諸段階)を見据えた新しい「倫理」の必要性

3−1 AI・BD‐Webネットワーク型「電脳汎“知”」時代における“ネオ優生学”ファッショ発生リスクの高まり

(矢張りカギとなるのはマッハ感覚論的素材性)

そもそも、ルソーの「市民宗教」(関連参照 ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307)は、より多くの人々の<情感的統合>のための何らかの旗印、いわば自己安定のためのトークン巡回アルゴリズムの一種と理解すべきであるだろうが、当記事で反面教師的に取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』は、ルソーの市民宗教については、一切、何も触れていない。

しかし、既述のとおり「マッハ感覚的素材性」が市民意識を感覚レベル(ないしは情感/厳密に見れば感覚はあく迄も感覚器の作用面であり、情感はそこを介しインプットされ、内面で発生し、濃縮され、循環し、滞留する“無意識も含むリアル感情のマグマ”)で統合する重要なファクターと考えられるので、ルソーの「市民宗教」についてもそのような意味でリアルな<マッハ感覚論的素材性>的なもの、つまり生命誕生とヒトの意識(意志と感情)の発生そのものへの関わりすら窺われる、特に重要な役割の分担が想定されている可能性がある。

トークンとはプラグマティズム哲学の創始者の一人であるパースによれば、それはこの世界における「個性的な個々の実在」、つまりリアル因果(生命&物理現象が同期する現実の流れ)の連鎖(しばしば、これは抽象論理と混同される!)のことであり、個々の人間の意志(意識)もその一つの現れと理解できる(委細、⇒ 「パース流プラグマティズム」の着眼点(Type-token distinction):「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503

また、ルソーの「一般意志」は、<東 浩紀の理解の如き特殊意志(言わばトークン)の数学的「差異のベクトル総和」>ではありえず、それは永久の課題である民主主義(人間が平等の共有価値観の下で生きるための合意システム)の持続のため、技術革新に伴う「AIデジタル・ナルシス/超類型化AI社会リスク」が制御可能となるよう、A.ミシェル「情感の現象学」(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)などへの理解を深めつつ絶えず新たな「倫理の視座」(時に、AI・BD−Webネットワーク関係の技術発展に伴う展相の倫理学の視座)を発見することではないかと思われる。 

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f:id:toxandoria:20180627062725j:image:w180:rightなお、「超類型化AI社会リスク(AIデジタル・ナルシス=抽象的AIデジタル・ワールドの超独善化)」は『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&「デイリー・ミー」(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)が完全破壊されるリスクの到来を警告する造語である。

それは「デジタル専制国家」の出現リスクとほぼ同義であり、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを専ら自らの権力強化と維持のために、そしてクローニー(お仲間)資本主義的な利益のためだけに悪用する政治権力(例えば“安倍政権”の如く日本会議の支配下で戦前アナクロニズムへの回帰を謀る国体カルト政権)が、更に強靭(or狂人)化した専制支配力を手にするというリスクが高まることを意味する。

●フィルター・バブル(見たくない情報を遮断するフィルター機能が、まるで私をバブル(泡)の中に囲い込む如く見たい情報しか見えなくする)、デイリー・ミー(ネット上で日々に私の全人格的な性向(出生、生活環境、嗜好、趣味、関心、過去の行動パターンなど)に合わせてカスタマイズされ送られてくる情報)などに因ってAIシンギュラリティ信仰が際限なく人々をセグメント(分断)化するパワーを得るため、バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊で新たな差別発生が懸念されるhttps://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)。

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、かつ無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

●プログラマーがAIディープラーニング(自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入るとAI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspxなど)

●AIのビッグデータ(BD)分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとう。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

(歴史的な“優生学”誕生への道筋/倫理・道徳的には中立でなかった統計学(“統計法則”確立)の歴史)

統計学(つまり“統計法則”)が確立するまでのプロセスをふり返ると、我われは、むしろそれが優生学思想を助長するリスクと紙一重の歴史であったことに、先ず驚かされる。そこで“統計法則”が確立するまでのデータ化の歴史のふり返りで重要なのは、それを推し進めた主体は誰で、その目的とデータ化の対象は何であったか?ということになる。

ところで、(2−2−2)で既に見たとおりであるが、先ず我われは西垣 通が、その「基礎情報学」で<自然言語(話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もコンピュータ上のデジタル(変換)言語も同じ「機械語」(行政文書・書籍等デバイス上の)である(つまり、それは決してマッハ感覚論的素材性ではない!)という、根本的な認識上の転換の必要性>を指摘していたことを再び想起すべきである。

例えば、それは国勢調査(census)なる言葉が古代ローマ帝国時代のケーンスス(census/税額の根拠となる人口調査)であったことからも理解できるが、近代統計学の始まりと見るべきルーツは17世紀後半のイングランドにおけるF.ベーコン(“経験‐帰納主義”者)を祖とする、数値化と図表化を重んじる「政治算術」学派にあるとされている。そして、ほぼ同じ頃のドイツにも「国勢学派」と呼ばれる社会統計学が存在したが、こちらはデータ(数値)化よりも、文化や精神性の記述を、より重視したため“統計法則”史の上では存在感が薄い。

いずれにせよ、これら両派に共通するのが<各統計を求め、それを推進した主体は絶対主義国家の君主>ということであり、その統計の目的は<君主の所有物である国家の財産目録を作ること>にあり、その対象は国家(厳密に言えば君主の所有物たる国家を構成する、君主の所有物たる国民と国土)であった。やがて絶対主義に代わり欧州各地に市民社会が成立すると統計の主体・対象・目的に変化が現れる。

つまり、「主体=国家の主権者となった特権的ブルジョワ市民/対象=人口数だけでなく公衆衛生・医療統計等、いわば出生・死亡・犯罪・自殺ら“個人の意志を伴う道徳現象”そのもの/目的=ケトレーが言う“平均人”(統計的平均を具現化するブルジョワの理想像)のためのホメオスタシス(理想的平衡状態)の創出・維持」への変化であり、それはダーウイン「進化論」やスペンサー「社会進化論」等の影響も受ける。そして、最終的にその“統計法則”の手法はベルギーの数学者・統計学者、アドルフ・ケトレーの「社会物理学」として結実する。

ケトレーはガウスの「誤差の確率分布」を初めて社会集団の分布へ読み込むことに成功したが(つまりケトレーは確率論的統計を社会統計へ導入した最初の人)、やがてケトレーは単なる出生や死亡という社会を舞台とする自然現象に飽き足らなくなり犯罪や自殺などの「道徳統計」についての有意な法則を次々と発見する。言い換えると、かつて政治算術的な統計の時代には“個人の代数和”と素朴に見られていた社会であったが、「ケトレーの社会物理学」によって、<実は確率論的な統計学でのみ正しく理解しできる独自の抽象的法則に支配されたものが社会である>という、全く新しい社会の姿が発見されたことになる。

やがて、ダーウインの甥にあたる19世紀イギリスの統計学者・遺伝学者F.ゴールトンの「生物測定の統計学(biometrics)」から“平均(凡庸さ)への回帰と収斂”を回避するためとして、その社会物理学の合理性を歓迎する広範な社会の空気を背景に<人為的な「種」の改良(人種改良と社会改良)を良しとする“優生学”思想(eugenics)>が立ち上がった。無論、第二次世界大戦後の「世界人権宣言」(1948、国連採択)で「人種・国籍・宗教を問わず凡ゆる人々が結婚と家庭を持つ権利を持っている」ことが定められ、優生学が遍く批判の対象となったことは周知のとおりである。

f:id:toxandoria:20180701045534p:image:w360:leftf:id:toxandoria:20180701045603p:image:w360:leftしかし、グローバル社会の混迷度が深まる世界状況と恰も機を同じくするかの如く急速に進化の速度を上げつつあるAI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(新たな21世紀型の“独自の法則(確率論的な統計法則)に支配される確固たる抽象構造世界”)の出現によって、今や、再び政治的横暴化の意味で“優生学”(eugenics)の足音が聞こえ始めたと言えるだろう。例えば、ウソ吐き安倍政権下での「“過労死”ら恐るべき労働環境劣化の現実」あるいは「殆ど予測不能なAIナルシスと権力側の癒着リスク」等を無視した「高プロ/働き方改革法」の成立強行などはその典型と見るべきである。

f:id:toxandoria:20180701045404j:image:w170:rightつまり、液状化で揺らぐ資本主義を口実とする政治権力の横暴化がAI・BD‐Webネット型の新種の“優生学”(統計法則の悪用の意味で言えば、その本質は19世紀と全く同じ!)をもたらしつつある訳だが、それは先に述べたフィルター・バブル、デイリー・ミーなどの如き単純な「AIシンギュラリティ信仰」に限るものではなく(というか、本質は同じなのだが!苦w)、例えば安倍政権下における一連の弱者苛めやヘイト現象などの激化傾向、あるいは米国トランプ政権の過激な移民規制なども、ケトレーの時代と同じく「統計的・抽象的合理性」信仰によるリアル現実の無視という悪しきポピュリズムの空気の拡大が背景になっていることも押さえる必要がある。

また、これまで反面教師的なテーマとして取り上げてきた<東 浩紀「ルソー一般意志2.0」の“楽観的”な問題提起>も、AI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(ヒトの意識の淵源とも見るべきエトノス環境と断絶し超抽象化した世界)への無防備さという意味でこの“優生学”の問題へも関連してくるのではないか。それは、確率・統計論的に再解釈されたルソー『一般意志2.0』は、その“統計法則”確立の歴史と西垣 通「基礎情報学」が指摘する<『機械語』‐『アナログ語』の断絶>の問題とも重なる<マッハ感覚論的素材性>への無関心という、独特の無防備さによって<AI・BD‐Web時代のネオ優生学思想>へ容易く回収される恐れが大きいのではないかと思われるからである。

3−2 高度情報システムの<暴力的な包摂と排除>への傾斜を乗り越えるための倫理学のあるべき視座

それは、<更なる技術発展に伴う情報メディアの展相(Potentz/関連技術の進歩に伴う力能の発展の諸段階)とグローバル市場原理の更なる深化、およびその相乗・相互影響の次元>を見据えた「倫理」の再発見が必須だということである。その意味では、益々、グローバル高度情報化しつつある現代社会では、従来はとかく同一されがちであった道徳と倫理は明確に区別されなければならないことになる。

具体的に言えば、それは<各国家内で慣習化・無自覚化した道徳を超えて生まれる新たな“善の未到達”状態こそが、より良いグローバルのフェーズへと進む現代世界の普遍の真理である、と見なす<「絶えざる善の欠損状態/Absence of good」への持続対応の必要性の再認識>ということだ。因みに、それは資本主義の出発点と見るべきマンデヴィル、A.スミスら18世紀“道徳哲学”の重要テーマでもあった。

ところで、(2−1)で触れたN.ルーマンは、同じような意味で、あるシステムの外部からの観察に基づく道徳(ある社会や国家などのシステム内のルール)への反省が倫理(それは新たな展相へ移行した新しいシステムのための一次元上のルール)であると論じていたが、興味深いのはルーマンに大きな影響を与えたとされるA.ゲーレン(ドイツの社会学者・哲学者)の存在だ。

ゲーレン(一時ナチスに入党していたとされるがハイデッガー、C・シュミットらの事例もあるので、その功罪はさておく)は、著書『技術時代の心』(1957)の中で産業社会の特性を<(1)社会の抽象化、と(2)人間の原始化>の並存に見定めていたが、それは<AI・BD‐Webネットワーク世界(電子・量子構造的に自立した抽象世界)>と、<その影響によるネオ“優生学”ファッショ発生リスクの高まり>を見事に予告していたことになる(出典:大黒岳彦『情報社会の哲学』‐勁草書房‐)。そして、ルーマンもこの考え方を共有している。

ルーマン「社会の抽象化」とは、社会が高度に専門化(必然的に抽象構造化)することで一般人がその全体像を理解できないブラックBOX化することを意味するが、そもそもAI・BD‐Web世界が出現する以前の産業社会でも専門化を遂げた法律、経済、医療らが各領域ごとの道徳を持っていたので、そこでも社会統合の原理である道徳ルールが溶解する傾向にあった。しかし、AI・BD‐Webネットワーク時代に入ったからには、その程度が比較にならぬほど苛烈化することを意味する。

つまり、個々人の道徳・倫理は人々の心の内側へ押し込められ不分明化し、やがて専門知識の縮小とも相まって個人の内面は空白化する。その結果、社会の専門的な高度抽象構造へ、益々、意識的判断の多くを委ねることとなるため人々の内面では専門“知”の縮小と反比例して不分明な空白)が急速にシェア拡大することになり、その心の空白を埋めるのが<非常に主観的で恣意的なものと化した情念のマグマ>である。このようにして一種の抜け殻(カラッポ)となった心の状態をゲーレンは「人間の原始化」と呼ぶ。おそらく、それはG.アガンペン(伊の哲学者)が言う「孤人」(無用の演算素子として抽象構造システム外へ放擲された“剥き出しの人間”)に相当する。

そして、その「人間の原始化」(心がカラッポの“孤人”)へ容易く侵入するのが、ヘイト攻撃、あるいは異分子・異端者・異人種・弱者らへの敵対心と排除の心理であり、かつ新たな優生学への誘惑ということだ。これと同じことをN.ルーマンも「情報社会における排除の意味」として語っている。だから、理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーションと公共圏構築を無効と見なすマッド・サイエンス的な思考(高度情報システムの暴力的な包摂と排除)へ抗い、それを克服するためにも、人間が生きることの意味についての熟慮などの哲学的視点を十分取り入れた歴史観と絶えざる自然観(エトノス)の深化に基づく「倫理」の多次元的なあり方の探求こそが、新たな情報社会の「展相」への第一条件であることを、今こそ肝に銘じる時である。(本文/完)

(補足)マッド・サイエンス的な人間論の事例/驚愕すべき、その倫理観の軽さ!

■【マッドサイエンティストの倫理学?/鄭 雄一著『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法 (扶桑社)』】「アベ国体論カルト」を忖度する『JPN先端AI・BD情報科学』?w ・・・鄭 雄一氏は東大・大学院工学系研究科教授。

(情報源:https://www.evernote.com/shard/s440/sh/6c063f92-3db9-40b9-9efa-c0042834b141/0c9a21eb3abad820)

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f:id:toxandoria:20180628075432p:image:w400:right情報倫理ブーム(アマゾン検索で数百点にもおよぶ)らしいが?お決まりは、サルでもできる?演習問題が付くことだ。そこには明らかに比較的若い国民層を上から目線で一定方向へ洗脳する意志が潜むと思われる。「一定方向」とは<この4月から安倍政権が「教科」へ格上げさせた小中学校「道徳」、および教育現場での「著作権」教育の必要性を指摘する声に応えるためとする後期中等教育科目「情報」の設置、および高等教育課程に「情報倫理」を明確に位置付けること、そしてそれを多数派一般国民に認めさせることである。

・・・以下は、https://www.evernote.com/shard/s440/sh/aafccaeb-6ed3-4e62-93b4-74ebafa2c11c/c9f5345ddc1408727771c083688a52c4より部分転載・・・

『道徳・倫理』は三つの「定義の柱」の複合体で、それは恰も自然環境の如き我われの周囲の「第二の自然」である。つまり、それに対し存在理由を問わないのは我われが自然に対し存在理由を問わないのと同意である。そして、これは生命ある人間が社会の主人公である限り、「情報倫理」についても同じことだと思われる。また、道徳・倫理はある程度まで“普遍的”な“法則”としての性格を持つが、その“普遍性”は自然界を統べる物理法則とは異なる。

(1)法に先立ち共同体統合の機能を果たす、内面的な観念上の社会的メカニズムである。

(2)同時に、それは無根拠(自明性)を基礎とする所与的事実性である

(3)同時に、それは内面化された規範であるにも拘らず個人の恣意的運用を超えて行為を拘束する、ある種の超越性を持つ 

思想史的に見れば「道徳の法則」が持つこの“普遍的で超越的な性格”は自然界の物理法則と区別して「妥当性(Gelten)」と呼ばれる。恰もそれはプラグマティズムにおける「限定合理性」の謂いに近く、いわばパースが言う<タイプ(普遍観念)とトークン(個々の因果的実在)の間で生きる我われ生命ある存在(生命の実存)>の「道理性」(合理性ならぬ!)ということである。

従って、我われは、人間にとり最も根源的な問題である「我われはなぜ生き続けなければならないのか」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」、「なぜ嘘を吐いてはいけないのか?」(日本国民と安倍総理が分からない、最大の難問!w)などヒトの生命の根源に関わる問題を道徳上の疑問として問うようなこと、つまり、ここで取り上げた<倫理ノウハウ本?>の如く超便利な道徳アルゴリズム活用の演習問題を解くことで、道徳・倫理についての疑問が平易にスッキリ解ける!などの言説を主張することはしない。

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f:id:toxandoria:20180628075633p:image:w400:left 2018603朝日

■【今の日本では<道徳の教科化>よりも<政治家の倫理・道徳の確立>が最優先すべき課題/英紙ガーデアンが報じた<日本の「法の正義」の失墜>とはアベ政権が自らの不道徳(てんこ盛りのウソ)を政治的詭弁でムリクリ道徳化(政治権力への忖度を強制)することに等しく、その教育(特に道徳教育)現場への悪影響は計り知れない! ☞ 道徳を理由に人権侵害の懸念 木村草太、2018603朝日https://www.evernote.com/shard/s440/sh/448e2f73-ab08-4715-b473-c6d7c961559f/1f544e512af0cbfe12eb55e81484816b


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f:id:toxandoria:20180630053040p:image:w400:right■【日本での放送も期待!/ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!】「日本の秘められた恥」 伊藤詩織氏の約1時間に及ぶドキュメンタリーをBBCが6月28日夜に放送、http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44638987

(完)

The Walk. Lady with a Parasol.1875. Oil on canvas. National Gallery of Art, Washington DC, USA.

f:id:toxandoria:20180628094118j:image:w360

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