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■[希望のトポス]ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク(3/n) <注>お手数ですが当記事の画像は下記URLでごらんください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701 2 データ(マッハ感覚論的素材性としての)と情報知の「断絶」がもたらすAI・BD‐Webリスクの正体とは? 2−1 N.ルーマン“社会システム論”が暗示するAI・BD‐Webのリスク SNS等のネットワーク・メディアが本格化するより少し前の時代に生きたドイツの社会学者、N.ルーマン(Niklas Luhmann/1927- 1998)は異端の社会学者と呼ばれている。それは、従来の社会学が「社会は人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為の総体」と見るのに対し、ルーマンは「人間の実在性ならぬ抽象化したコミュニケーションの連鎖構造を社会の構成要素」と見たからだ。 8 f:id:toxandoria:20180623105855j:image:w250:rightそして、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)によれば、ルーマンが社会(社会学)を理解する必須の要素として「抽象化したコミュニケーションの連鎖構造」を採用した背景には、ルーマンが1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)を重視し、そこから更に自らの思考を深めたということがあるようだ。いわば、ルーマンはトリビアル・サイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)の理解の延長として「社会は、抽象構造化したコミュニケーションの連鎖的接続で産出されるという“閉じた生命観”」を社会のダイナミズムに適用し「オートポイエーシス・システムと同じく社会も“閉じていること”が、その正体である」と論じた訳だ。 オートポイエーシス (auto‐poiesis/自己産出的‐創造) は、1970年代初頭にチリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生物の生きた有機構成」とは何か?という本質的な問いに答えるため提唱された、当時の最先端の生命システム論で、それは「ホメオスタシス(外気温の変化に抗しつつ一定範囲で体温を保つが如き活動)や散逸構造(喩えれば川の流れの中での揺らぎから渦が出現するが如く無秩序な生体環境の中で立ち現れる秩序)」ら<外部環境との相互影響>を徹底して排除した考え方である。 つまり、オートポイエーシスは、ホメオスタシスや散逸構造とは真逆に「どこまでも“認知”に因り神経系等へインプットされ、そこで初めて発生し定着したものであり、それはその後の時間と共に流れる因果的“実在”レベルでの環境(エトノス環境)との相互作用から導出されることを徹底的に拒否し、あくまでも“認知→神経内インプット→定着”という構造化プロセスだけを持続的“自己創造”>と見る、“極めて閉鎖的な機械的システム”を「生命の本質」とする考え方だ。その証左は例えばハエの捕捉で舌を伸ばす行動を神経内プロセス構造化したカエルはハエでない小動体が飛来しても舌を伸ばすこと等に見られる。 因みに、マイクロバイオーム等の研究の深化(進化)で、この1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス的な生命の“自己創造”機序(N.ルーマンの特異な社会学が大きな影響を受けたとされる、このオートポイエーシス論)について、それが今や生命の本質の全てではないことが明らかとなりつつあるということは、(1−2)で既に述べたとおりである。それどころか、2nd.オーダー(ノントリビアル)・サイバネティクスこそが生命活動の全体をコントロールしている可能性が高い! ところで、この様な意味でN.ルーマンの社会学の特異性は理解できる訳だが、少し視点を変えて見ると、実は、それが今や我われの目前に立ち上がりつつある巨大な「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」の特徴をズバリ予見していたのではないか?とさえ思われてくる。それは、ルーマンの社会システムにおけるシステムと構造が以下(a、b)のように定義されているからだ。 a 社会システム=その時々のコミュニケーション・プロセス b 社会構造=そのプロセスの反復で結晶化する、コミュニケーション統制の持続パターン そして、bが次第に機能分化することで社会が複雑化する方向へ進化し、遂にはその抽象的社会形態が巨大化することになる。従って、これは従来の社会理論パラダイムと決定的に異なることになる訳だ。 しかも、「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」は、[それが<リアル因果=時間と共に流れるマッハ感覚論的素材性がリアルに共鳴・交流する現実世界>から切断されているという意味で、つまり断片的かつ閉鎖的な情報知の集まりである(行政文書か、私文書か、正規DB(データベース)か、非正規DBか、ツイッター等SNSか、ブログ記事か、メールか、掲示板か、学術論文か、雑誌・図書・新聞等etc・・・という内容の如何を問わず)]という意味で、極めて抽象構造的で、かつ非文脈的である。 つまり、我われはルーマンによって、リアル社会が<(ィ)「伝統社会学が想定する人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的・持続的・因果的な活動)の総体」と(ロ)「閉鎖的コミュニケーション・システムが固定構造化した抽象的な社会形態」(アンシュタルト化(Anstaltの原義は精神病棟施設などの意味だが、国家・教会・司法組織、教育・医療機関、会社組織などの団体が不可視の強制・監視権力化した状態を指す/M.ウエーバー)の恐れがある!)>という、そもそも二つの成分からできていると理解すべきではなかったのか?ということを教えられたことになる。 2−2 逆説的に有意義な示唆を与える、東 浩紀「ルソー、一般意志2.0」の提起 2−2−1 東 浩紀のルソー『一般意志2.0』なる楽観的<AI・BD‐Webユートピア政治論> f:id:toxandoria:20180620153221j:image:w150:left(2−1)で見たとおり、異端と呼ばれることが多かった社会学者N.ルーマンの「社会システム論」が、恰も量子物理学の世界の如く、実は、人間社会が以下のように全く異なる二つのベクトルの機能的側面(開放的、閉鎖的)を併せ持つ(が重なって存在している)という重要な理解を与えてくれた。 (ィ)人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的な未来志向型の持続的・因果的な活動の総体)・・・これは、伝統社会学が想定してきた社会の定義にほぼ相当する。 (ㇿ)閉鎖的な情報コミュニケーション・プロセスが固定構造化した、ルーマン抽象構造的な社会形態(放置するとアンシュタルト(不可視の強制・監視権力)へ急速に内向する恐れがある) ところで、東 浩紀は著書『一般意志2.0』(講談社)で、『J.J.ルソーは全体意志と一般意志の違い(差異)について“数理的”説明を行っている』という興味深い説(ルソー『一般意志』についての新しい解釈)を唱えている。が、このことを理解するため我われは先ずルソーが「一般意志」と「全体意志」に全く異なる意味を与えていたことを復習しなければならない。 それは、<「全体意志」は参加者(国民)すべての意志(意見/特殊意志)が完全に足し合わさったものの総体で、「一般意志」は個々人の“意志(意見)の差異”を統合的に集約したものである>というのが、この二つの言葉についての普通の理解であり、そのことが「ルソー社会契約論における市民社会の正当性の原理の前提」となっている。しかし、前者は現実的に実現不可能なことであり、また後者についても、現実的にはほぼ不可能である。だから、結局それは理念(観念)的なもの(仮設的真理)だということになる。しかも、この点こそが今も民主主義の意味に曖昧さを与える大きな原因となっている。 ところが、東 浩紀によれば(東がルソー『社会契約論』の原著に当たり詳細に検証したところ)、実はルソーは、近代数学の多くの概念が出揃うより2世紀以上も前の18世紀半ば頃であったにも拘わらず<「一般意志」=特殊意志に関わる、±のベクトル相殺を加味した数学的「差異のベクトル総和」である/…somme des differences>と主張していたようだ(正確に言えば、東がそう主張している!/委細は省略)。東は。“数理的”説明を行っていたとされるルソーの一般意志に『一般意志2.0』の名を与えたうえ、更に次のように述べている。 ・・・だから、一般意志は政府の意志ではないし個人の意思の総和でもない。一般意志は数学的な存在である。もしそうなら、私たちはここから、民主主義のあり方を根本的に考え直すことができる。つまりく21世紀の情報技術を前提として一般の人々が思い浮かべるのはおそら電子政府や電子(ネット)投票等の実現なのだろうが、それも違う。それは、このように数学的にルソー『一般意志』を読むと、むしろ一般意志は政府の外側にあるべきだ!と理解できるからだ。・・・ 上に続け、数学的にルソーを読み<「一般意志」の新たな可能性>を発見した東 浩紀は、更に、次のようなことも述べている(以下、要約+補記)。 9 f:id:toxandoria:20180625121259j:image:w270:right・・・従来の理解と異なりルソーの「一般意志」が純粋に数学的な存在であったということを前提とすれば、加えて「人工知能、ビックデータ(AI-BD)」らの技術を十分に活かした「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレント、ハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつあるからには、全く、異次元の社会アーキテクチャ設計へ挑戦するべきではないか?それが、<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース技術」で市民の無意識(特殊意志の差異のベクトル総和)の積極的吸収で巨大DB集積化を実現すること、つまりトーキング・キュア(Talking cure/隠(さ)れた巨大な欲望の塊りを徹底的に抉り出し語り尽くす精神分析療法)と呼ばれるフロイトの精神分析を援用して巨大なDB集積を実現することで人間の知能を遥かに超えた電脳汎“知”世界の構築と、それによる一般意志・知識・情報・データ・社会資源の“配備=集立”(ゲシュテル/Gestell/近代技術の本質を表したハイデッガーの用語/集約→意思決定→適正再配置の社会的循環構造)を全面的に実現する>ということだ。・・・(両著書の結論(東=楽観的ユートピア政治論、大黒=倫理の役割の再考)は全く異なるが、電脳汎“知”によるゲシュテルの可能性については、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)もほぼ同様のことを述べている/toxandoria、補足) そして、東 浩紀『一般意志2.0』は、次のようなユートピア世界の実現で終わる(要約)。 ・・・従って、ルソーの一般意志は、広く考えられているのとは異なり「討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合的な無意識を意味している。そもそもルソーは、理性の力を殆ど信じておらず、彼はむしろ「野生の人」の本能に信頼を置いていた。本書の解釈の独自性は、その理解をそのまま「社会契約論」に持ち込んだだけだ。来るべき国家においては、議会は政治の中心にならず、それは楕円の二つの焦点の片方のようなものだ。「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」(その殆ど“万能の神と同然”化した←toxandoria、補足)が立地土壌(もう一つの楕円の中心)となる未来の国家では、動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供することになる。前者には国境があり後者には国境がない。前者が公的領域を形づくり、後者が私的領域を形づくる。そのような未来世界は、国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの二重構造で制御(殆ど議論や討議がなしで←toxandoria、補足)されることになるだろう。が、それが夜警国家へ傾くか、福祉国家へ傾くかは未だわからない。・・・ 2−2−2 『一般意志2.0』(楽観的AI・BD‐Webユートピア政治論)の逆説的な意義 ・・・これは逆説的な理解となるが、『一般意志2.0』(東 浩紀の楽観的ユートピア政治論)は、Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース時代>における「“ネオ優生学”発生のリスク」と異次元の高度情報化が実現した時の「新たな倫理の必要性」という、二つの重要な課題を、我われへ挑発的に突きつけている。・・・ そもそも、「間主観性」無効論(一般意志2.0/東 浩紀ら)への反論として無視できないものとしては、西垣 通、西川アサキら情報科学・AI研究者の「基礎情報論」(井出英策“理論”を有効化させる重要な方向性、と考えられる)、または川人光男ら脳情報科学者による決定的な反論がある。 10 f:id:toxandoria:20180625121504j:image:w220:rightこの「基礎情報論」は、西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』(角川選書)で詳しく紹介されているが、そのエッセンスとなる部分を参考として[20170104toxandoriaの日記/西垣 通の情報基礎論、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104]から下に転載(部分的に補足し)しておく。 ・・・東 浩紀・著『一般意志2.0』と同じく「Web‐DBの集合知」を活かすアイデアだが、西垣のそれは、その集合知を再びリアル対話で現実の因果へ関与させ、つまりコミュニケーションの作動で新たな文脈を創造するダイナミズムを冷静に捉えている。この西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』における西垣の議論で最も注目すべきは下の二点である。 (1)そもそも、従来の自然言語(話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語(DBレベルで言えば、正規DBと非正規DB)も同じ「機械語」であるという認識上のコペルニクス的転回が先ず肝要だ!← 因みに、東 浩紀『一般意志2.0』論の主柱と位置付けられる<Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース>では、それがトーキング・キュアの視点でフロイトの精神分析を援用しつつ全ての国民の無意識を含めた感情世界が総浚いで巨大DB化することが想定されているが、そこではこの西垣が指摘する『従来の自然言語(話し言葉、および文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語も同じ“機械語”であるという認識上の転換/もっと言えば、a「あくまでもリアル世界の一環であるデータ(マッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶」という問題意識(1−1)』が決定的に欠落している!(toxandoria、補足) (2)「AIの知(仮に、近未来においてAI意識が創出される?としても)」と「人間の知(文脈的・エトノス環境的意識)」の違いを理解するには、先ず西欧中世の「決疑論」と近代啓蒙主義における「観念的な間主観性」意識の発達&共有化(これが政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代の司法・裁判制度、あるいは近代以降のジャーナリズムの成立などに繋がった)の問題についての理解が重要! ⇒ この視点が基礎情報学で言うネオ・フィードバックシステム(=2nd.オーダー・サイバネティクス) まず(1)の問題であるが、人間が古来馴染んできた自然言語であってもそれが書物に記されると、途端にその意味内容は潜在化し(既述のとおり、マッハ感覚論的素材性の性質が失われるということ!)、途端に、それは機械情報化する。すなわち、その意味ではデジタル(変換)言語も自然言語も同じである(そこにある差異は書物等とコンピュータという、書き言葉、話し言葉などの“情報”を収容するデバイス&ツールの違いだけ!)。だからこそ我々は“書物・本・文書・言明などを(自分の意思、常識、あるいは権威ある一定の倫理・哲学的解釈、学説、科学合理的知見、司法判断らに照らしつつ)文脈的に読み解くor理解・共感するor批判する”などの表現を使っている訳だ。 また、この「決疑論」を一定の言説(緒学説・司法判断・常識的解釈等)に関わる文脈解釈の歴史として観察すると興味深いことが見えてくる。それは「混沌の時代→政教(祭政)一致権力→双方(教皇権・皇帝(王)権)権力並立→ローマ法・教会法・決疑論が鼎立の時代(〜16世紀頃)→近代啓蒙主義→政教分離・現代憲法成立・・・」という「宗教・政治・司法」の三つ巴の絡み合い(“権威⇔権力”闘争)が、<歴史文献・学術資料・行政文書等の文脈的理解を巡る解釈論争史のプロセス>となって見えてくることだ。 おそらく、このようなことと関連する思われるが、西垣 通は、西川アサキ(同じ情報基礎論の研究者)が<人間社会のAIシュミレーション(システムはトリビアル閉鎖オーダー)で、仮に全ての個人を統治に関する完全開放(権力を監視する司法の威信が激劣化の環境)へ投げ入れてみると状況が一気に不安定化し「行政独裁⇔アナーキー(無政府状態)」の間を激しく彷徨する恐るべきループに嵌った社会モデルを観察した>と報告している。 ・・・ここで、部分転載おわり・・・ 11 f:id:toxandoria:20180625121927p:image:w300:left<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレント、ハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつある>という前提そのものに大きな違和感を覚えるが、特に昨今の日本政治をめぐる社会意識の劣化傾向(国民の政治参加意識の退化と幼稚化、司法・検察・警察・NHK・主要メディアらの堕落・無力化・忖度&翼賛機関化などに因る)を見せつけられると、このAIシュミレーションの結果は、まさに現下の日本に当たらずとも遠からずの感がする(苦w)。 しかも、「一般意志2.0」(ルソーの一般意志は特殊意志に関わる±のベクトル相殺を加味した数学的な差異のベクトル総和であるとする)なる非常に斬新な切り込みであるにも拘わらず、やがて「国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの二重構造」のバランスが自ずから取れるような時代になるだろう?というのでは、余りにも楽天的に過ぎるのではないか?それは、おそらく「一般意志2.0」を論ずる東 浩紀の視点に、(1)「電脳汎“知”データベース時代における“ネオ優生学”ファッショ発生のリスク」、(2)「異次元の高度情報化が実現しても必ず新たな倫理が必須となる」という、人間社会についての最も基本的な二つの観点が欠落しているからではないか?と思われる。 ところで、東 浩紀「ルソー一般意志2.0」と大黒岳彦「世界システム論(情報社会の哲学)」とでは、同じ「AI-BDセマンティックWeb汎“知”世界」(未だ開発途上とされるが、AIで自動的にウェブページの一定の意味を解釈しつつ検索できる技術)という、同じネットワーク技術が創造する高度ヴァーチャル世界を語っているにもかかわらず、両者には決定的な違いがある。 それは、東 浩紀のヴァーチャル世界(フロイトの無意識世界との共鳴を想定!)がニューサイエンスの「地球生命体」や「全体意識(ホロン)」的な(極論すればマッドorカルト・サイエンス的な)方向へミスリードされる懸念を感じさせるが、大黒岳彦「世界システム論」においては、あくまでもその近未来のAI・BD‐Web「世界システム」と「人間の意志(意識)」との間は非連続的な(宿命的に断絶している)プロセスであることを受容したうえでの<人間としてのメタモルフォーゼ(変容・創造の可能性)>であるということだ。 それ故にこそ、大黒岳彦の場合には、その非連続的な両者(マッハ感覚論的素材性としてのデータと情報知/委細、関連参照 ⇒第2章)の間には多元的な「倫理」の役割の可能性が十分に残されていることになる!(同じく、委細は要参照 ⇒大黒岳彦著『情報社会の哲学』(勁草書房)のp116〜、およびp236(92)) |