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■[希望のトポス]ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク(1/n) <注>お手数ですが当記事の画像は下記URLでごらんください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701 ・・・歴史から「倫理」(絶えざる善の欠損状態の修復)の意義を学び直すことが急務!/AI・BD-Web高度情報化に因る<社会情報の“断絶”>と<個人の“原始化(孤人化)”>を乗り越えるための試論・・・ (Cover Image)A certain summer impression/ Source:Olga's Gallery - Online Art Museum. http://www.abcgallery.com/ Claude Monet‐The Bridge at Argenteuil.1874. Oil on canvas. Musée d'Orsay, Paris, France. Claude Monet−Young Girls in a Boat. 1887. Oil on canvas. National Museum of Western Art, Tokyo, Japan./Olga's Gallery (プロローグ)再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材性についての考察が必須 ・・・以下は、[20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 ]の部分的な再録、プラス(+)アルファ(α)・・・ ◆「同じと思われる光景」でも我われは異なる現出(実在・真理と信ずる射影、イメージ表象)を見ている/が、一方でその最大公約の表象(最大の共通項となる)が客観性(間主観性が保証する)である ・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化が可能になる。・・・ Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD f:id:toxandoria:20180618043213j:image:w340:rightこのこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる表象(イメージ・射影))を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として全く同じものを見てはいないということだ(その極端な現れの事例として立体イリュージョン(立体錯視)の問題がある⇒http://www1.odn.ne.jp/sugihara/illusion/illusion.html)。 また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。 そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。 だからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。 我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易いイメージ(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのように少しでも油断するとかなり曖昧となる日々の状況の中で生きており、又そうでなければ生きられない生き物でもあるので、ここが厄介なところなのだ。 但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。 どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語など<マッハ感覚論的素材性>の交換によるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させるウソ(虚言)政策>を作為的に一環して採っている)。 ともかくも、その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。 また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である。 ・・・以上で、再録の部分は終わり・・・ ところで、情報Webネットワークの高度化が進むにつれて、新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識が世界的に拡がりつつある。より具体的に言えば、それは<「AI・BDセマンティックWebの高度化」(委細は第1章に譲る)に関わるデータ原理主義的な社会の解釈によって新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識>である。 言い換えれば、それは「AI・BDセマンティックWebの高度化」で「“フーコー生政治”(偽装道徳強制&生命・医療衛生支配)型の新たなアンシュタルト(Anstalt/不可視の一強支配構造)」が出現し始めており、その先には「データ原理主義的な社会の解釈に因る新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスク」が高まりつつあるということだ。 そして、そのような悪しきトレンドを照射する重要な切り口は「(1)AI・BD型Web情報化に因る社会の“分断と断絶”」、および「(2)同じく、それに因る個人の“原始化”」という二つの異なる次元のリスクの問題である(個人の原始化については、第三章に譲る)。 因みに、この悪しきトレンドが意識されつつある背景となっているのは量子コンピュータの実現ということだ。完成までは未だ時間を要するようだが、その処理スピードは古典的なそれの比ではなくスパコンの約1億倍ともされており、それがビッグ・データ(BD)の利用拡大、セマンティックWebネットワークの進化と合わさることで、やがて想像もつかぬほどの巨大な「ネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」を新たに創造することが予想される。 しかし、量子コンピュータと「AI・BDセマンティックWeb」(一定の文脈を理解できるWeb検索だが 未だ実現されていない)の連携で如何に<巨大な電脳汎“知”ワールド>が出現しようとも決して忘れるべきでないことがある。 それは、<我われ人間社会のコミュニケーション(リアル世界で日々に、かつ瞬間的に更新され続ける人間が連帯し日常を生きているという生命感覚論的な意味で持続的な意識世界の交流的な繋がり、いわばそれは間主観性のエルゴン(ergon/アリストテレスの用語で、流動・共感的な活動の意味)の拡がりであり、かつそれは必ず自己言及的な未来への“残余”を伴うマッハ感覚論的素材性である)>と、<その殆どはリアル日常世界の間主観性に関わる多様な諸々の意識の流れから切断され抽象化された非文脈的で断片的な情報知の集まりである「電脳汎“知”世界」>との間には、そもそも決定的な『断絶』が存在するということだ(委細は本論へ譲る)。 実は、この「生命感覚的な意識」に対し、非常に注意深く原理的に注目することで始めて理解できるのが「マッハ現象学」に始まる一連の現象学の流れであり、それが最もヒューマンなM.アンリ『情感の現象学』に結晶したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。 ◆20171109toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 ところが、情報科学、量子コンピュータ、IT・BD技術系等の先端領域に従事する専門家らの一部に、抽象的で自立的な「電脳汎“知”世界」(デジタル情報データが乗るデバイスは電子or量子構造)と「生命感覚的な生身のヒトの意識世界/生命感覚的な意識」(マッハ的な感覚要素、つまりマッハ感覚論的素材性である内的な表象・本質直観)が繋がった<恰も西部開拓史時代の米国における新世界の如きニューワールド(膨大な抽象的ネットワーク構造が生命圏をも一元的に包摂する画期的な新世界)の出現>を主張する声(抽象的デジタル情報データ・アニミズム論?)が存在するのは実に不可解なことだ。もし、彼らが本気でそれを信じているなら、彼らこそマッド・サイエンティストか、あるいは日本のアベ・シンパ(その実像は古色蒼然たるアナクロニズムである日本会議流“追憶のカルト”)の如き新種のカルト信者のジャンルではないのか? 要するに、「マッハ感覚論的素材性(マッハの内面的表象)」とは、内外のエトノス(自然・文化環境)と殆どアニミズム感覚的に交流・共鳴する「ノントリビアル・サイバネティクスの内部観察者(obserber)」(委細、後述)に相当すると考えられる。とすれば、それは生命論的、ないしは人間論的な意味で時間の流れと同期して進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのもののことでもある。 つまり、<事実上、もし我われがスマホという名の“Webネット型DB(データベース)ロボット”の操作なしでは一日たりとも日常が生きられなくなっている>とすれば、今や、この“リアル意識obserber(生身のヒト)”そのものである我われは、<抽象的なWebネット型DB上に君臨するクラウドAI汎“知”>の支配下で完全にそれに組み敷かれるか否か?の瀬戸際の時代を生きつつあることになる(ソフトバンクのクラウドAI型ロボット、ペッパーの脱人間化『知能』の設計アーキテクチャはその典型事例、https://www.softbank.jp/robot/)。 |