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「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナ ルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・ア ベの課題r (3/3) * お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 3 個人の尊厳を重視する「欧州(EU)GDPRの先進的規定とそれを見習いつつある 米国/一方、政財労界&メディアおよび国民の殆どが無自覚かつ無防備な日本 3−1 恐るべきAIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク)の脅威 ・・・日本では、多数派国民が「AI-SNS社会化に特有のフィルター・バブル」(=AI デジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク))らのリスクの問題に殆ど無関心で ある現実が、安倍政権の<“公文書”改竄・削除・隠蔽>と相まって、この二つの合 併症である<共約不可能性(incommensurability)>症候群の重篤化を促す!・・・ (1) それ故、一般国民目線でAIデジタル・ナルシスを制御し、共約不可能性を解 消する新たな「日本国憲法の役割」の発見が急務 すでに述べたことだが、プラグマティズム創始者の一人、パースは「トークン(個性 的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点を提供しており、これは「超類型化AI社会」(≒ AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国に とっても非常に重要で、新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。 なお、共約不可能性とは、例えば 1と√2の比のように、いかなる整数比によっても 表現できない量的関係を表す数学用語で、「共通の物指しで測れないこと」を意味する。科学史家、科学哲学者のトマス・クーンが『科学革命の構造』(1962)において 科学史上の異なる研究パラダイム間の関係を表現するために用いたことによって、 科学史、科学哲学の重要な用語となった。 (2)「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI 社会リスク)暴走の危機! ・・・それは強欲と傲慢の極み、そして余りの反知性主義というおぞましさ、人間 の性(さが)という罠に堕ちた安倍政権・・・ 安倍政権が退陣しようが、しまいが、<モリカケらを筆頭とする一連の大スキャン ダル、アベ・ゲート事件の根本原因が、維新政府の時に仕込まれた「幕末ミッシン グ・リンク(戦前期のダミー市民宗教(ルソー)たる顕密二元論の隠蔽”であった こと、つまりそれはアベ型“構造災”であるという、戦前からの連続性がリアルに 意識され、周知されなければ、第二・第三のアベ・カルト(今度は、超類型化AI社 会リスクと更に深く癒着した!ビッグデータを高速処理するAIに対する過剰な期待 がほぼ信仰の対象である神のレベルまで亢進することにより、国民層が類型化処理 され、分断化されるという実に恐るべき社会的危機を意味している)が出現するの は必定である。 f:id:toxandoria:20180503094331j:image:w240:left 20 なお、「超類型化AI社会リスク」(AIデジタル・ナルシス(デジタル専制社会化) とほぼ同義)は、『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦 氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブ ル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&『デイリ ー・ミー』(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化 する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第 13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)」が完全破壊される時代の到来を警 告するための造語である。 因みに、第1章で取り上げた「デジタル専制国家」とは、「AI+BD(ビックデー タ)」の本質が、例えば下のような点●(出典:山本龍彦著『おそろしいビッグデ ータ』)にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを悪用する政治権 力(“安倍政権”的な国体カルト政権?)が、再び新たな専制支配力を手中にする可 能性が高まることを意味する。 ●フィルター・バブル、デイリー・ミーなどで、AIシンギュラリティ信仰は際限な く人々をセグメント化するパワーを得ることになり、新たな差別(バーチャル・ス ラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊により 新たな差別の発生が懸念!https://www.cvfinance.com/contents/support/report. html?act=d&kind=1&id=333)が次々と生まれる恐れが大きくなる(関連参照 /3−1(2)) ●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、しかも無限に生長するため、AIの判 断能力とスピードに人が追いつけなくなる ●プログラマーがAIディープラーニング(AI自動学習)のアルゴリスムを理解でき なくなるレベルに入ると、AI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的 警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspx など) ●AIのBD分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得るこ と)の問題が付きまとっている。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけ の相関関係)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。 ところで、山本龍彦・著『おそろしいビックデータ』によれば、最も懸念すべきが「AI・BD分析」で『日本国憲法第13条が保証する“個人の尊重”』と『同25条が保 証する“国民の生存権、国の社会保障的義務」”』が根底から破壊される可能性が 急速に高まっていることだ。我われはネット利用環境の中で、個人プロファイリン グが既に日常化しているため普段はあまり意識しないだろうが、よく考えてみれ ば、生活の凡ゆる側面がネット利用とクロスする次元で個人プロファイリングの監 視網の中に今や際限なく取り込まれていることを自覚とすると空恐ろしく感ずるの ではないか。 同書の中で山本龍彦氏は、その問題点を次のように指摘している。・・・憲法上の 「個人の尊重原理」は、(1)人間の尊厳(職歴・犯歴・趣味などのデータ・ステ グマの否定)→(2)狭義の個人の尊重(血(民族・出自)・階級など集団からの 解放)→(3)個人の尊厳(過去の差別の助長などの排除による、自律の保証)→(4)多様性の尊重(誰でもが対象となり得る新たな差別発生の排除)という4 層から成っているが、野放図な「AI・BD分析」の利用は、これらの全てを根こそぎ にする恐れがある。・・・ その結果として、予想されるのが「前近代への退行、AI・BD分析による個人の自由 の制限(一方的に、絶えず決めさせられる私の出現!)、そして民主主義そのもの の崩壊」という、まさに悪夢の如き由々しき世界の到来である。このような現実を 目前として、我われはどのように対処すべきなのか?日本の「安倍国体複合カルト 政権」の「お仲間ネポティズムこと政府主導“偽装合法談合”、大嘘、改竄、隠蔽、 削除」など<腐臭芬々たるアベ式“大スキャンダル”の山>から、只ひたすらの逃 避行を謀るバカリであるのを傍目に、欧米諸国は、着実にこの問題への先進的な対 応を模索しつつある。 3−2 刮目すべき欧州(EU)GDPRの先進的規定 ・・・欧州とアメリカの<民主主義と憲法>に関わる議論は日本と全く異なる状況 であり、それは欧州型(“普遍”理念の重視)と米国型(個々のリアリズムを尊重 するプラグマティズム)という<二つの異なる政治哲学の培地>から生まれたが、 次第に同じリベラル共和の実現へと進みつつある・・・ f:id:toxandoria:20180503100820p:image:w360:right21 [資料]欧州GDPRの先端的規定、プロファイリングに異議を唱える権利(中止請求権) など/EU一般データ保護規則(GDPR)の概要(前編、後編) http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr01.html http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr02.html (欧州/EU) 欧州における民主主義の特徴を短く言えば「理念型“普遍”の価値=欧州連合基本 権憲章、欧州人権条約で集約」を培地としつつ、同「憲章」などの価値理念が経済 秩序を包摂するという思想がベースとなっていることである。従って、持続経済と 経済活性化のため市場原理を活用するにしても、“普遍”の価値理念を冒すことは 許さない。 ただ、既に触れた<リップマン“大衆論”>の予見どおりであるが、“グローバリ ズム・情報・AI”化(21世紀型の新たな巨大大衆化現象)が急速に深化しつつある 昨今では、益々、一部専門家集団による政策主導への傾斜という由々しき問題が影 を落とていることも否定できない。例えば、特に東欧における右傾化(というより も、保守を騙りつつ歴史について不勉強な偽装極右化に因る社会的分断の発生)は その典型であり、いま欧州連合は、EUエリート層化した一部専門家集団(テクノ ストラクチュア/ガルブレイス)による政策主導のあり方について様々な修正が迫 られている。 しかし、これは今の日本が嵌っている『民主主義憲法と歴史を蔑視する“反知性主 義的な意味での歴史修正主義者、日本会議”らが主導する、いわば『アベ様のお仲 間(ネポティズム)によるスペックイン(政府主導の偽装合法談合=モリカケ、財 務省の超堕落事件および齊藤元章@PEZY ComputingのAI&スパコン・スキャンダル がその典型!)の跋扈&横行』という昨今の安倍内閣を巡る、実におぞましい<狂 気政治の所業>とは全く異質であることを肝に銘ずるできであろう。 ともかくも、欧州では「民間企業による個人情報取り扱いの規制およびデータ保護 (法制)」と「人間の尊厳、個人の尊厳(個人の尊重)など基本的な憲章上の価値」(日本の場合、これは日本国憲法第13条(個人の尊重)、および同第25条(国民の 生存権、国の社会保障的義務)に関わる)が切り離されることなく、しっかりと議 論されている(関連参照⇒上掲のEU一般データ保護規則(GDPR)の概要)。 因みに、欧州(EU)GDPRの第1条は<本規則は、自然人の基本権利および自由、 ならびに、彼らの個人データ保護に対する権利を保護する>と明確に書いており、 それが加盟各国の憲法の価値観を最重視していることを強調する。 f:id:toxandoria:20180503102955p:image:w340 f:id:toxandoria:20180503103020p:image:w450 f:id:toxandoria:20180503103051p:image:w300 22、23、24 結局、それは『AI・BDの個人ファイリングに対し、人々は異議を唱える権利(right to object)を有する、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイ リングを中止しなければならない』という、最も重要な欧州(EU)GDPRの第21条 一条を支える砦となっている。AI・BDプロファイリングへの意義申立どころか、そ れより遥かに低次元な<アベ様の暴政>に対し、彼が嘘つきの極みであると分かり つつも、一向に何らright to objectを実行しようとしない国民が多数を占める今の 日本の現状との余りの落差に愕然とするばかりである(画像参照)。 (米国) オバマ政権下のアメリカでは、ビッグデータの利用例がマイノリティー排除や差別 に繋がる懸念から、政府内部において熱心な検討が繰り返されてきている。ただ、 アメリカの場合は、理念型の“普遍”に因るリベラル共和志向の欧州と異なり、プ ラグマティズムに因るリベラル共和志向の伝統に基づいているため、裁判所による 緻密な判例を積み上げる手法で、ビッグデータの利用の規制が検討されつつある。 オバマ政権の政策を全否定することをモットーとするトランプ政権下でも、例えば トランプ大統領がモラー特別検察官の解任(トランプ自身のロシア疑惑関連で)へ 踏み切れないことが象徴するとおり、アメリカではたとえ大統領であっても、米国 民主主義の“虎の尾”を踏むことを意味するため、合衆国憲法と米国法制そのもの に反する行為を断行するという決断へは、なかなか踏み切れない。 因みに、米国民主主義の“虎の尾”(過半超の米国民が辛うじて、しかし強固に共 有する逆鱗/これは、トランプ支持が約4割で歩留まりし米国民の分断が固定化さ れていることの原因の一つとも考えられる)が意味するのは、もしその事態となれ ば米国史上で最大の政治危機(思想Vsイデオロギーの闘争であった南北戦争の火種 が再燃する恐れ/関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 ) となることに加え、これまで述べてきたプラグマティズム法思想の伝統から、必然 的に「薄氷を踏む憲法上の争い」に嵌ることを意味する。 f:id:toxandoria:20180503113053j:image:w230:left 25 また、それが辛うじて維持されてきた司法積極主義(特に、リベラル傾斜のウオー レン・コートいらい強く意識化されてきた/出典:松井茂記『アメリカ憲法入門』 ―有斐閣―)の伝統ということでもある。従って、トランプ政権下のアメリカとは いえども、少なくともAI・BD利用についての規制に関するかぎり、オバマ政権で検 討を重ねてきた、マイノリティ保護をはじめとする個人の基本権を尊重するという 憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されないことであろう。 そして、近年は「ウイスコンシン州最高裁のルーミス判決」(AI自動処理によって のみ重要な決定を下されない権利についての判決)に類する判決が、裁判所による 判例法として承認される事例が多くなりつつある(関連参照/下記▼)。 ▼再犯を予知するソフトウェアは人種差別的?http://www.sekaiwoyakusu.com/entry/machineracism (エピローグ)希望は「日本型リベラル共和」の可能性(結論に代えて) (再認識すべき、“ルソー市民宗教”としての伝統日本文化の意義) ・・・その特質は、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識) が歴史的に存在してきたということ・・・ f:id:toxandoria:20180503112443p:image:w850:right26 『重要文化財 http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/184.htmlより部分転載 ・・・すでに江戸時代(17世紀初頭〜前半、寛永期頃〜)の日本には、俵屋宗達あ るいは本阿弥光悦のような“現代のエトノス環境論にすら匹敵する、マクロ・ミク ロ両世界に広がる非常に広大な世界観を「巻物」なるアナログ空間(それと相対的 に見れば書物(図書上の図版・画像)は頁ごとに分散したデジタル空間)のなかで 見事に演出、あるいは表現できる優れた美学や芸術作品”を大いに支持し、愛好す る、もはや上下の身分層を遥かに超えるという意味では、十分に水平的なプロトモ ダニティ(日本型リベラル共和意識のタネ)が、いわば“近代的な市民感覚の種 苗”がすでに自生的に先行し、存在していた事実に驚かされる!(Cf.要参照↓★) ★盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国 家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されているhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 f:id:toxandoria:20180503112931p:image:w360:left f:id:toxandoria:20180503122034p:image:w360 27、27−2 その意味で、日本には「リベラル共和」型の民主主義を本格的に実現する素地が十 分にあると思われるが、問題はその歴史的事実に対する日本国民の覚醒の有無であり、“今や<嘘・改竄・隠蔽>が溜まり過ぎて、恰も<完全出口ナシ汲取便所>式 の<複合カルト妖怪>と化したアベさまに体よく騙され続けているようでは一向に 埒が明かない!苦w(日本のプロトモダニティの委細は下記▼を参照乞う)。 ▼2017051・toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三 ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相 が隠されている、 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 f:id:toxandoria:20180503122414p:image:w380 f:id:toxandoria:20180503122449p:image:w325 f:id:toxandoria:20180503122533p:image:w380 28、29、30 [自民総裁選の番頭に聞く:萩生田幹事長代行「首相交代が国益に叶うか?」 日本 の将来が懸かる外交こそ安倍政権の使命!20180423産経]という実に“異様な情報” (安倍“国体論”複合カルト政権の呪文?苦w)が象徴するとおり、“そのウソの山”が悉く白日に曝されたにも拘わらず、支持率が3〜4割で下げ止まり(3〜4 月:読売43%、同:朝日31%)、アベ改憲すら否定されている”にも拘らず、張本 人の安倍首相が未だに意気軒昂であり、その使命たる?w外交に勤しむことができ るのは何故なのか? f:id:toxandoria:20180503123356p:image:w300 f:id:toxandoria:20180503123738p:image:w490 f:id:toxandoria:20180503123554p:image:w330 31、32、33 しかし、安倍首相が、外遊先で相も変わらず巨額の国民の税金を鷲掴みにしてバラ 撒く“御大尽外交”に狂奔する一方で(安倍在任中のバラ撒き累計額はmin.30兆円!?)、肝心の日本外交の基盤が、添付画像の如く外務省・内閣府など中枢部分 から激しく腐敗し崩壊し始めている! 結局、究極の原因は、これは以前から指摘されてきたことであるが、日本国民一般 の主権者としての自覚の欠如ということであり、その「日本の民主主義のアキレス 腱」が3〜4割の<固定アベ支持岩盤>として統計的に濃縮された形て表れている 訳だ。より具体的に言えば、その症状を引き起こしている病原体は第1章で取り上 げた『恐るべき「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体/病巣=日本会議 ら』と、本来あるべき正統保守の決定的な違いを日本国民の殆どが理解していない ことである。 f:id:toxandoria:20180503124448p:image:w220:right34 それに加え、最も危惧すべきは<「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル ・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!>ということであり、更にそ の致命的な悲劇を危惧させる動向の根本には、例えば、これも今まで見たとおりで あるが、必然的にリベラル共和を志向すると思われる民主主義が先ず前提とすべき 「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の不在ということだ。しかも、これは必 ずしも英米型のそれに拘らずとも、例えば、上で取り上げた事例サンプルの如く日 本的な「伝統文化と美的感性」などを“ルソーの市民宗教”として活用できる「感 情と道理性」の政治哲学(or政治美学)があり得るにも拘らずである。例えば、こ の日本的「伝統文化と美的感性」の新たな可能性に関わる議論は、米国の宗教・神 道学者トマス・カスリスが論じている(関連参照↓★)。 f:id:toxandoria:20180503161835j:image:w240:left ★多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』 の警告 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 (感情と道理性をめぐる政治哲学の議論/ローティのロールズ批判、およびディビ ッドソン『基本的解釈』の重要な意義) f:id:toxandoria:20180503153255j:image:w270:left そこで、「安倍首相・去就の問題」はさておくとして、その先に予想される「より 深刻な危機」へ備える心構えの参考として、最も先進的な<「感情」と「道理性」 をめぐる政治哲学>の議論に関わる、特に注目(重視)すべきと思われる論点を纏 めておく(なお、以下は大賀裕樹著『希望の思想プラグマティズム入門』―筑摩書 房―を参照しつつ,toxandoriaの見解を整理したものである)。 既述の「主要論点」では敢えて触れなかったがネオプラグマティズムの代表者の一 人であるリチャード・ローティは、「自然の鏡」(Mirror of Nature)のメタファ ーで、我われの心が恰も自然の諸相の中から唯一の真理をありのままに映しだす能 力がある「鏡」であるかの如く仮定するデカルト、ロック、カントらの近代哲学を 批判する。また、「自由・民主主義・基本的人権」を彼らと同じく擁護しながらも、 特に、カント的な理念(正しい概念・範疇の表象を規定する)を根拠とするロール ズ、ハバーマス(ドイツの社会哲学者)らをも批判している。 ジョン・ロールズは、プラグマティズムとは異なる欧州的な思潮のジャンルに入る 米国の政治哲学者で、カント的構成主義で正義を説く1971年の著書「正義論」で名 声を博した。ロールズは、社会契約に因る正義の原理は自己の利益を求める合理的 な人々が共存するための合意がもたらす構想ととらえ、その構想が必然的に不平等 をもたらすとしてホッブズに始まる功利主義を批判したのである(<注>カントには“情念統制理念、論理構成理念”の考え方があるので、必ずしも100%観念傾斜 だとは言い切れない、と思われるが・・・)。 ロールズの「暫定協定(暫定契約)に基づく財産所有制民主主義」(ロールズは、 これが歴史的な繰り返しの過程で必ず定着、共有されると考えていた)は<カント 流の西欧的な普遍観念(功利主義と同じく“理念(観念)”の世界に傾斜し過ぎ) であり、もしこれが唯一の普遍的な正義のあり方だとすれば>、そこから生じる覇 権的「強制力」は、やがて非西欧的な文化や社会と必ず衝突することになるとして、 ローティはロールズを誤った意味でのプラグマティズムだとして批判した。 見方を変えれば、これは「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン (個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」(Type-token distinction)という、 非常に重要なパース(パース流プラグマティズム)の着眼点に相似していることが 理解できる。つまり、正義や平等の価値を重視するのは正しいとしても、それをリ アルに(我われが生身で生きる世界で)実現する方法は、エトノス環境(当然、そ こには生命そのものと分離できない感情・情念・情感も含まれる)の意味での自然 ・文化・伝統・社会など凡ゆる内外の因果的緒条件との絡みで、日々に更新される ことが必然であると見るべきだということである。 そして、ここからローティは『道理性(reasonability)と合理性(rationality)』 の違いということを導く。つまり、ローティは<ロールズが西欧近代の政治文化を ベースとする正義の原理と基本的人権の観念を『万民の法』と捉え、それをそのま ま他の文化圏にも適用が可能な普遍性(普遍的観念)と見る>ことに対し、“普 遍”観念と因果連鎖のリアルを峻別する視点から疑義を主張したことになる。 そして、我われはローティの説く道理性(reasonability)が感情(情念)と深く 関わっていること、道理性(reasonability)と合理性(rationality)は対立関係に あるものではなく、また両者の関係が一律で普遍的なものではないことも理解しな ければならない。それは、合理性も感情(情念)と深く関わっているからだ。因み に、動物一般では彼らが言語を持たぬためヒトより遥かに厳しく苛烈な一回性の生 のリアルを生きていると考えられる。ともかくも、人類の場合はこの道理性と合理 性のバランス関係の一回性(ルドン美学が発見した“ミクロ・マクロ世界に跨り環 境内を浮遊しつつ際限なく生成と消滅を繰り返す、そして夫々は掛け替えなく個性 的な中間の媒介的生命の連鎖であり続ける”という目前の幻想的光景)こそが、実 は言語を持つ人類の場合であっても、逆説的になるが、それこそが多様な文明・文 化を育んできたのだという事実を深く理解するべきではないか?と思われる。 だから、その道理性であっても、それが唯一の観念的“普遍性”として強制権力的 ・武力威圧的に定義され、それを非西欧的な世界や異なる民族へ押しつけることに なれば、例えば安倍政権が掲げる積極平和主義の如く衣の下の暴力(先制攻撃の刃) へ転化してしまいかねないことになる。そこで、必須となる考え方がドナルド・デ ィビッドソン(分析哲学の系譜の研究者といえるがカント、クワイン、ローティら 欧米哲学を一つの視点から捉え直すという観点に立つ米国の哲学者)の『一つの世 界についての複数の記述(根本的解釈)』の問題ということである。この視点から は「生き方としての民主主義」を重視する方向性が生まれ「討論型世論調査」http://keiodp.sfc.keio.ac.jp/?page_id=22 など新たに民主主義を深化させる工 夫への取り組みも始まっている。 ともかくも、『根本的解釈』について短く言うならば、それは<そもそも異なる信 念をもつ者同士であっても一方に威圧的な感情が存在しない限り“程々の意思の疎 通としての会話”は成り立っており、ほぼ平和裏に折り合いがつくことが多い>と いう考え方である。たしかに、平和裏で日常的なコミュニケーションやヒトとペッ トの関係等々の様々な場面を振り返ってみると、多くのケースでは、必ずしも、そ こでは“普遍”的でパーフェクトな会話は必要とされておらず、その「一つの世界 についての複数の記述」という交流環境にも拘らず個々の個性的文化のあり方や生 ある者としての個々の生き方(尊厳性など)は尊重されている。しかし、我われは、 再び、ここでデューイのプラグマティズムの「保障された言明可能性」という考え 方を想起すべきである。 逆説になるが、特に高度な言語コミュニケーション社会(契約社会)の中で生きる 我われ人類の場合は、そもそも当たり前であったはずのローティ―『根本的解釈』 の世界を維持するためにこそ、言い換えれば「哲人・聖人・君子ならぬ凡人のため の民主主義」を保全するためにこそ、血みどろの闘いのプロセスで漸く人類が手に 入れた社会契約に因る“普遍”およびそれに対する批判から、一層より深く理解で きるようになった道理性(reasonability)に基づく円滑なコミュニケーションのあ り方などの大前提となる、政治行政の<信用>を繋ぎ留めるために必須の<公文書 (ドキュメント)・歴史資料等>を最重視すべきだということになる。このような 意味でも安倍内閣の<嘘・改竄・隠蔽に頼る行政手法=戦前型の国体論なるカルト 幻想観念(追憶のカルト)に因る詐欺政治>は、非人道の意味でも最悪である。 f:id:toxandoria:20180503160954p:image:w400:left つまり、安倍政権がやっているのは<人類が経験してきた民主主義へ至る歴史を無 視しつつカネメのバラマキとウソ八百を抱き合わせ、一方的かつ威圧的に相互理解 をムリクリに強制する非常に野蛮な政治>であり、近々の国際関係悪化に留まらず 日本社会の調和的コミュニケ―ションの崩壊が急速に高まる恐れがある。おそら く、その危険性を経験的・歴史感覚的に最もよく理解されており、その学びから得 た象徴天皇制(日本国憲法)の意義に対する自らの信念(責任感)を<象徴として のお務めについての天皇陛下のおことば20160816>の形で表明されたのが今上天皇 である。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 このことを、『国体論−菊と星条旗−』の著者・白井聡氏は<天皇のアルカイスム ―国を支える「祈り」―>と表現しているが、当然、その深層には「古代〜江戸プ ロトモダニティ〜戦後〜現代」へと伏流してきた、世界に対しても大いに誇るべき 日本文化(東アジア系の渡来複合文化を基層とする皇室文化が源流となる)の伝統 が存在する。今こそ、このような観点から、例えば幕末期〜明治維新の英傑たち (吉田松陰、坂本龍馬、福沢諭吉ら)の日本的“白日”(日本的“普遍”の気づき) の意味を深く噛みしめ直すことが肝心であるだろう。それは、必ずそこから欧米流 とは異なる日本型リベラル共和へ進む途が見えてくるはずであるからだ(関連参照 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307/なお、日本国憲法下の現代日本 で生かすべき、十分に生かし得る天皇のアルカイスムの問題については、白井聡氏 とほぼ同様の視点で、宗教学者・小山悳子氏が論じている/関連参照↓▲)。 完 |