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幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、・・・(2/4) [情報の評価]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/ 敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須(2/4) *お手数ですが当記事の画像は下記URLで御覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 2 伊藤博文の「内閣制度」創設に重なる<「顕密二元論システム」完成と「吉田松陰らの白日」隠蔽>の問題 日本の内閣制度(立憲議会制度)を作ったとされる伊藤博文には、もう一つの隠れた実像を見るべき、との知見が提示 されている(出典:中野良平『幕末的思考』‐みすず書房‐)。 明治維新の初頭(明治4年)まで生きた津和野藩出身の国学者・大国隆正は、非常な勉強家であり、そのため一応は内 外の情報を広く知悉していた。しかし、その大国が『グロティウスの万国公法』を、おそらく作為で<万世一系の皇国 史観による国体論>の中へ読み替えていた可能性が高いこと(著書『新真公法論』)は一般的には殆ど知られていない (ネット上に検証資料がある/参照↓◆)。そもそも大国隆正は「靖国顕幽論」の基盤を構築した平田篤胤の門下生で もあるので宣なる哉、納得!ではあるが。 ◆神戸大学経済経営研究所:新聞記事文庫/外交 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10169381&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 この『グロティウスの万国公法』の皇国史観(国体論)への読み替え(つまりパクリ!)が、会沢正志斎(江戸末期の水 戸学を代表する学者)らの特異イデオローグとも融合しつつ、明治期の日本の政治思想界の『底流』に大きな影響を与 えていたと考えられる。 「1881年(明治14年)の政変」の後に維新政府内の主導権争いが繰り返されるうち、やがてその異常な『底流』が『深 層奔流』となり、更に、一応は民主主義的なカムフラージュと如何にも洗練されたような修辞が施され、“女好き”で 知られる伊藤博文の内閣制度の完成(明治18年)へ流れ込んでいったが、それこそが「顕密二元論による皇国日本の支 配システム」である。 <注>(1)1881年(明治14年)の政変 (2)伊藤博文の“女好き(女狂い?)、についての委細は下記を参照。 (1)⇒ 維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの 理想が混在し、せめぎ合っていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 (2)⇒ アベの<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい? https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c そして、この「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の暴走が太平洋戦争の悲劇(日本国民から基本的人権を剥奪 し、侵略戦争主義を押し付ける方向)に雪崩れ込んだのは言うまでもない。無論、安倍晋三・首相の“非常に不自然な改 憲強行”の不退転の意思!の背後に潜むのは、この戦前型「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の取り戻しであ ることは間違いがないし、その強力なブースターが日本会議である。 しかもそれだけではない。実は、伊藤博文が「大日本帝国憲法」の起草者の一人である伊東巳代治(殆ど学者同然であっ た内閣書記官長)に命じて作らせた英訳版は「The Constitution of the Empire of Japan」であり、 英語に堪能な伊東 巳代治 (同じく学者同然の官僚、井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画した)が誤訳するはずはないの で、おそらく伊藤博文が指示していたか、又は他の政権内から指示があり、伊藤がこれに知らぬふりを決め込んだか何れ かの可能性がある。 ともかくも、このような流れの中で、当時の日本政府は国内では「大」日本で国民層を威圧する一方、対外的には東アジ アで初の民主主義憲法を詠い、かつ“吉田松陰らに端を発する『自生(列島に自生えしていた白日の観念=日本型リベラ ル共和的な正統保守思想へ深化する可能性を秘めた普遍の観念)』”を隠蔽しつつ、天賦人権論と真逆に国民主権を否定 する“顕密二元論による皇国日本の支配システム”を完成させていたことになる <注>顕密二元論システム(天皇の“密教的な政治利用”)について ・・・これは、明治20年代〜終戦期(敗戦まで)に日本を一強支配した、神憑りファッショによる日本の独裁支配システ ム。別に言えば「顕密二元論システム」(皇国日本の支配システム/天皇の“密教的な政治利用”へ傾斜した統治方式)。 そもそもの嚆矢は、事実上、伊藤博文が黙認したことに因るのでは?と考えられる。 ・・・久野修(哲学者、評論家)による「天皇の権威と権力を通俗(顕教)と高等(密教)の二様解釈で組み合わせて政 治利用する」との用法が嚆矢とされるが、“顕教”は伝統文化的な天皇制への国民の共感の利用、“密教”は特定の政治 目的のため天皇制を利用すること、と考えると理解し易い。 ・・・なお、「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立したプロイセン・モデル・官僚体制の定 着と共に、およそ明治20年代に戦前日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」(天皇の“密教的な政治利 用”)の着想がほぼ現れたと見るべきだが、それには「a神道系」、「b文化・芸術系」、「cリアル政治」の三つの伏流 がある(a〜cの委細は、それぞれ下記を参照乞う)。 a ⇒国家神道・患者、穴クロ安倍晋三/明治維新期における廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道の流れ https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2aef4fc7-a2bb-4815-858a-4c87aa1fab50/1177931b96714cec353f0c76d9b913d3 b ⇒太平洋戦争を煽り現実逃避(イロニー)で国民の惨禍を賛美した日本浪漫派なる悪の華 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130924 c ⇒アベ(安倍晋三)の<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい?日本! 3 カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件 (カントには、理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべきとの考え方があった) カントには<理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべき>との考え方があり、カントのこの慧眼の無視こそが、「構 造災」の系譜として今に繋がる我が国の科学技術政策のジレンマをもたらしたといえる(構造災の委細については以下、 (1−2)で詳述).。このカント整理すると以下のようになり、a、bを明確に区分して自覚することが所謂「普遍性」に 繋がる。 a:情念統制理念:たとえ実現可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に 基づく ) b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容 今の日本で言えば、ここで言う構造災は、「特にAI、原子力利用、生命科学など先端科学技術分野までもが、一強化した 政治権力(安倍政権)に媚び、迎合、忖度、又はマイファースト・エゴ利権の先兵」と化すこと、つまり余りにも由々し き「先端科学の“錬金術”化の問題」となって現れつつある(<注>左画像のアベPMは、各省庁内を巡っているとされる “安倍首相の秘密指令(クロをシロにせよ!との特命指示)”を意味する!)。 f:id:toxandoria:20180306020029p:image:w360f:id:toxandoria:20180306020053p:image:w360 また、過去の典型となるのが「無謀な太平洋戦争(その敗戦史プロセス/満州事変〜ポツダム宣言に及ぶ十五年戦争)が 内外でもたらした悲惨」と、あの「恐るべき3.11フクシマ過酷原発事故が引き起こした悲劇」である。 『情念』統制理念とは高次元なのでたとえ永遠に実現不可能なものである場合でも、その目標とすべき理念を掲げること でのみ、悪へ誘惑されがちな情念を統制しつつ現実(リアル政治/『論理』構成理念)の改良へ取り組む努力が持続でき る(理性の情念統整的使用)」ことになる。それが“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性の原理”が意味すること だ。 (“情念統制理念、論理構成理念”がリベラル共和主義の前提となる理由) 既述のとおり、「a情念統制、b論理構成、」の区分を明確に自覚することが所謂「普遍性」に繋がる訳だが、そもそも理 念を求める意識がなければ人間は生きることの意味が永遠に理解できなくなる。つまり、理念とはヒトが生きることの意 味を絶えず再検証するために必須のものである。言い換えれば、それは人間が薄暗い道を先へ先へと些かの予見を持ちつ つ歩むために必須の灯火(ともしび)である。 その意味で一定の理念に照らした「予見」を必要条件とするヒトの意識の内容は「情念」と「論理」から成っていること になる。また、このような意味での「情念」と「論理」のカップリングで成り立つ意識はヒトと他の動物、あるいはAIと の差異を際立たせる特徴ともなっている。因みに、このような視点から見ればAIシンギュラリティ信仰(狂信的な論理的 知能礼賛主義)を告白する下記、二冊の本は反面教師の意味では読むに値するかも知れない(苦w)。 ●ニック・ボストロム『スーパー・インテリジェンス/超絶AIと人類の命運』(日経出版) ●ポール・チャーチランド『物質と意識/消去主義的唯物論』(森北出版) これは、後で論じる「個体生命維持のためRAS作動で常に捨てられている8〜9割の生体内“情報”」の問題とも絡むのだ が、この「予見、情念、論理」のスリー・ペアの動作を、経営・政治またはスポーツの戦術などリアル現場へ落として見 た場合に留意すべきことがある。 それは、その場面ごとの結果に繋がる<一つの選択の意思決定>は、必ずしも十分に論理的な選択ではありえず、殆どの 場面では8〜9割の関連情報が常在的に捨てられているということだ(感情・情念の応援も得て残余を捨てずには決められ ない!)。つまり、ここでは委細を省くが、これは「限定(ヒューリスティック)合理主義/客観的合理性(主観合理主 義の対概念)」に絡む問題で、関連して重要なのは<傲慢が最大のリスクで、謙虚・反省そして持続的な信用こそが最大 の得物(有益なツール)!>という現実を理解することである(関連参照↓下記▼)。 ▼ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について ・・・「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重 なるのは自明といえる。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴する ものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられ る。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 ところで、“何かが起こる場合には必ず論理的に説明できる原因がある”という、ごくありふれたリアル事象に対し、何 やら難しそうな「充足理由の原理」と命名したのはG.ライプニッツ(17世紀ドイツの数学者、哲学者)である。 しかし、ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―によれば、近 年のAIを活用した先端的な脳研究分野でも、人間の「論理展開の能力」(科学合理的判断力)と「感情・情念」が深く相 関していることが観測されており、我われが普通に見聞している「人に関わる充足理由の原理」(人が原因となる個々の リアル事象)は、ライプニッツが予期(懸念?)したとおり、そう単純でないことが理解されつつある。 例えば、同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的)な統合合理性」の実現(個々の目的に応ずるベス ト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る必要性)のため、敢えて「RASによる視覚の死角/脳内フィルター 機能、脳幹網様賦活系(reticular activating system in brainstem)が必要情報だけに絞り込むため発生する脳内の死 角」を発生させ個の生体の「生命全体の安全を確保」している。そして、無論これは視覚だけに限るものではない。 なお、このRAS作動による個体維持の機能の存在は「進化論的軍拡競争」(ダーウイン進化論の先を見据えた一種の限定 合理性の選択による種の保存則の問題で、アベ様らが好む軍事国家主義とは真逆の知見!というよりも自然・エトノス環 境の摂理(永続性の原理)?(関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104) つまり、人間の意識の核であるノエマ(ノエシスが感受し、考えるその内容/ノエシスは感受し、考える作用それ自身) も同じことで、おそらくその「生命全体の安全保障」のための意識の焦点化と共に凡そ8〜9割以上の情報(夥しい数の 射影の廃棄/“フッサール現象学で言う現出、個々人にとってのリアル”の残余)が常在的にRAS作動で捨てられている という実に驚くべきほど精妙な意識の真相が理解できることになる。 換言すると、この「人間の意識についての観察」は、明らかに、先に述べた<「予見(理念に基づく)、情念、論理」の スリー・ペア動作>のリアル問題とも絡んでいる。つまり、これは従来の一般常識、AIシギュラリティあるいはビッグデ ータ信仰などには反するのかも知れぬが、「捨てられた情報、敵対する情報、敗者の情報(意思)、無視された情報、無 駄と思われる情報(or仕事、趣味など)」の中にこそ我われの無限の可能性と未来があることになる。その意味からして も、アベ様、トランプなどを巡る<異様に傲慢に見える諸現象>は愚の極みとも言えるだろう。 このように逆説的な観点から見れば「大文字の“生”」(エトノス環境と同意⇒関連参照↓◆)の構成要因たる「個々の “生”」(個体)の維持に関わる緻密で、深遠な作用系を理解するにつけ、我われは持続的な<生命の安全と文化深化> のためにも社会的「間主観性」(最大公約or最小公倍的射影)を同定し保持する記録・ドキュメント、および絶えざるコ ミュニケーション(生命と共に歩む、理念と記憶を持続させる作業)の非常に重要な意義が十分に理解できるはずだ。 ◆『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 また、このような視点から見ても、常在的にシロをクロと強弁しつつ記録文書や証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽 し、又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける(具体的には“PMメモ”なる官邸発の怪文書を徘徊させることで官僚らの 現場へ圧力をかけ続ける)安倍内閣の政治手法(小児的な安倍晋三氏の恐るべき資質上の欠陥 “耐性の欠如”に起因する) は余りにも異常だ。理想の「リベラル共和」(関連で下記★を参照乞う)とまではいかなくと、いやしくも民主主義国を 名乗る日本政府がやるべきことではない。 ★あるべき必然の流れとしてのリベラル共和主義へ(H・アレント、フーコーのノモス・エトノス観念)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 因みに、上で観察してきたことに鑑みれば、安倍首相の“PMメモ”方式での<証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽し、 又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける>という、ひたすら権力維持だけが目的の異常な行為は、言ってみれば、日本 国民の未来の可能性の殆ど全てを破壊するに等しい蛮行であり、万死に値する犯罪に他ならない。いずれ、このままでは 日本が予期せぬ根源的な超リスク(自然災害のみに非ず!)に襲われるのが必定である。 |