メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、・・・(1/4)  2018/03/08


[情報の評価]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/
敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須(1/4)

*お手数ですが当記事の画像は下記URLで御覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 

toxandoria2018-03-07
クロード・モネ『ジヴェルニー、春の効果』
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・・・Claude Monet「Effet de printemps, Giverny」1890 100 x 60 cm oil on canvas London, Private Collection 
Lefevre Fine Art Ltd.

Debussy - Fantaisie pour Piano & Orchestre - Andre Gallo
https://www.youtube.com/watch?v=Lxjcxo7LdBI

(Preface)

・・・新たに判明した歴史「事実」である<維新政府が隠蔽した「白日」の発見>を安倍晋三・内閣が毛嫌いする不可解!
その「白日」とは、カント「情念統制、論理構成」の二理念とも呼応する<吉田松陰ら幕末期“草莽の獅子”たちのリベ
ラル共和的な“普遍”への覚醒>であった!・・・

(安倍政権に付き纏う≪『公文書改竄』常習犯罪≫の問題)

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・・・それは恰も“一強アベ様による<対総国民「パワハラ政治」暴走の観>を呈し始めている”が、<民主国家の「法
の制定者」(つまり、主権者!)である筈の一般国民>が余りそれを感じていない?のが、今や最大のリスク(日本の存
亡の危機)”となりつつある!・・・

・・・そもそも、政治・行政のドキュメント情報は「隠蔽したり、捏造・改竄したり、むやみに又は勝手に削除(消去)
したり」できる、悪意を持った立場にとって好都合なツール(政治の小道具、打ち出の小槌)ではなく、それを如何に正
当に評価してインテリジェンス化できるかを考えるべきものであり、それこそが政治・行政に関わる情報リテラシーにつ
いての正しい理解である・・・

独裁を意味する英語、dictatorship(動詞dictate)には、そもそも「人に要件を書きとらせる、ヒトに命令する」の意味
がある。指図のコトバを書きとらせ、あるいは口頭で命令するということは、つまり人の意識や内面で発するコトバその
もの(ヒトの文化的意識の出入口たる動作環境(口と手)と意識全体)を強権的に、かつ一方(強)的に、特定イデオロ
ギー(これは思想に非ず!)で強制支配することになる。すなわち、そのように見ると実は独裁が政治的な意味に止まら
ず、国家の一定フレームを共有する国民の文化トータルに対する一強支配であることが分かる。安倍政権に付き纏う<「公
文書改竄」常習犯罪>の問題も此処に淵源がある!

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加えて、“驚くべき一強政権”とさえ呼ばれる安倍内閣には一般の定義(その委細はエピローグ末尾の<補足2>にある)
から外れた非常に奇妙な「デジタル独裁」の傾向が顕著である。具体的に言えば、それは(1)SNS活用によるネトウヨ仲
間“増殖”orインスタ映え戦術など、と(2)無定見で節操がないシンギュラリティ万歳!(経済財政諮問会議による最
強の科学技術“前特異点”創造戦略)の二本柱である。

ところで、健全な思想は「寛容」であり、それは人間の生命と共に無限に深化するがイデオロギー(化石観念化して霊界を
漂う面妖な思想、例えば安倍晋三・政権、日本会議、あるいは米トランプらが囚われている“追憶のカルト”、“マイ・フ
ァースト妄想 ”など/補、toxandoria)とは全く別物と見るべきである(参照資料:ルイ・メナンド『メタフィジカル・
クラブ』―みすず書房―/<注>この書名(というより、そもそも其のクラブ名)は、過剰に形而上学世界へ傾斜すること
の危険性を批判し警告する意味で付けられている)。

一方、如何に過酷な状況に嵌った(あるいは、仮に欺かれたり嵌められたりして敗者(負け組)側の煉獄に堕ちた)として
も、健全な思想を求め格闘しつつ、その持続を覚悟する者たちは(例えば、吉田松陰、坂本龍馬、中江兆民、福沢諭吉、中
里介山ら)は、只の無節操な転向とは全く異質な思想のエンドレスの深化の方向性を実存化する。そのためのヒントは“大
文字の生” (内外のマクロ・ミクロ双方をしっかり視野に入れた意味での全エトノス環境)に生かされている“小文字の生”
(人間)に必須の「寛容かつ普遍的で共有が可能な覚醒」であり、それは「只のメタフィジカル(ひたすら天空ないしは霊
界へ超然と飛翔するだけの理念)の意味ではなく、一般の国民層(つまり草莽たち)が生きるリアル・ゼロの地平にこそ必
要な価値を、日々、新たに発見する」ということである(中里介山の長編小説『大菩薩峠』の主人公、机龍之介の過酷で理
不尽な生き様の“メタファー”が提示する覚醒!/参照資料:野口良平『幕末的思考』―みすず書房―) 

一方、余りにも露骨な<「公文書改竄」常習犯罪>の問題が急拡大しており、最も肝心な「政権自体への信用」がフリーフ
ォールし始めたかに見える。この裏に隠れた安倍首相の心理(ホンネ)は「敗者、異論者、敵対者」に対する不寛容、ヘイ
ト、そして特異イデオロギー押し付けである。言い換えるなら、これらの人々を全く信用しない!ということであるが、政
治理論的にも「異論者・政敵(政争の敗者)らも含めた相互信頼関係を重視」する政治が経済・財政的に最もリーズナブル
であることが分かっているため、この安倍内閣の政治手法は完全に誤りである。

従って、我われ有権者は(今からでも遅くはないので)「思想とイデオロギーは本源的な意味では全く異質なものであるこ
と」(それこそが当記事の通奏低音であり、結論でもある!)についての理解を深めつつ、特に<敗者、異論、敵対者らへ
の寛容な思想の回復>を急ぐべきである。

<注>吉田松陰・坂本龍馬らを教科書から削除!の主張(左右両サイドからの?)の背後に蠢く安倍政権・日本会議らの不
可解な空気!

・・・歴史研究の成果で、吉田松陰・坂本龍馬らの思想が、実は日本会議、安倍晋三首相ら、いわゆる偽装極右派(決して
彼らは正統保守に非ず!)の期待と真逆で、実は「普遍」への自生的な覚醒(正統な愛国心の根源への気づき!)であった
という新たな事実が判明してきている(出典:中野良平『幕末的思考』(みすず書房))。


(プロローグ)戦国期まで遡る17世紀・江戸「プロトモダニティ」(列島自生“普遍”の苗床)の源流

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・・・(左上→左下(二段目)→右下(二段目)→右下(三段目)の順)上杉本(右隻)、同・部分1:鉦叩き(左隻第5
扇下部)、同・部分2:高野聖(右隻第6扇下部)、同・部分3:三条西邸(右隻第6扇中央)(画像はウイキより転載)


国宝指定(1995)の上杉本「洛中洛外図」屏風は、米沢藩藩主の上杉家に伝来したもので、米沢市上杉博物館が所蔵する。
織田信長が上杉謙信に贈った狩野永徳の作品(16世紀)とされる。なお、「洛中洛外図」は、戦国時代(16世紀初頭)か
ら江戸期にかけ制作されたが現存する良質作品は約30〜40点である。


・・・


・・・おそらく日本伝統「プロトモダニティ」の原点は「洛中洛外図」屏風の世界にあるが、市民生活の全貌を表す景観
を、ある高さから俯瞰しつつ個々の姿を平等に描く芸術家(画人)の行為の賜物である「洛中洛外図」には斬新なプロト
モダニティ意識(西欧の遠近法とは異なる日本美学的な水平の視点)の発見ということがある。・・・

・・・そして、この伝統こそが、後年に日本列島で自生することになる地生えの普遍への覚醒たる吉田松陰の「白日」
(委細、後述)、又は“一揆など武力蜂起に限らず自律的な闘い方(司法的な戦い方/その嚆矢となったのが『白岩目安
往来物』)があり得ることを記憶する百姓たち(『白岩目安往来物』関連/下記の◆参照)”を誕生させた苗床であった
と考えられる。・・・

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本
法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107

目下、盤石に見える(?)国民の支持を得て一強を誇る(奢る?)安倍政権は、愈々、この4月から全国の小学校で「道
徳の“教科”化」を始動させる。しかし、明らかに、この動向には日本人を「玉砕(全滅死)をも辞さぬ自己犠牲で皇国
の扶翼のために尽くすという国策“道徳心の精神世界”」(明治20年代以降の勝者側による、天皇の密教的な政治利用)
へ連れ戻す(戦前回帰させる)という思惑が潜んでいる。

それは、「安倍政権が、既に、議員から提出された質問主意書に対する答弁書の形で“憲法や教育基本法に反しないよう
な形で教育に関する『教育勅語』(衆参両議院の決議で、敗戦から3年後の1948年6月25日に勅語謄本は焼却されている)
を教材として用いることは否定されない”、と決議しているからだ。

因みに、勅語謄本の焼却(廃棄)に敗戦から3年もの時間を要した背景には、占領軍が天皇の権威(これは“顕教(文化)”
的の意味)の利用で占領を円滑に進めようとした意図が隠れている。

しかし、この『教育勅語』に関わる戦後史の一コマは日本会議を守護神と仰ぎ必死で戦前回帰を追い求める、換言すれば
天皇の“密教”的な政治利用(政権の意思で好きなように国民を動かし、戦わせ、働かせるための祈祷・呪術の道具とし
ての天皇)の取り戻しを謀る安倍政権が決して正統保守ではなく、只の偽装極右(高々でそれは殆ど非合法な“暴力団か
ギャング、あるいは暴力テロ組織”のジャンル)であることの証拠にもなっている。 

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つまり、それは列島トータルの滅亡が危ぶまれる混乱の極みであった幕末期の「尊皇攘夷Vs尊皇開国」のドグマ・フレー
ム思考から一歩も外へ踏み出ていないからだ。本来なら、幕末期〜維新期〜敗戦〜現代に至る日本政治に関わる約150〜
200年の文化・精神史の視座から、内外のリベラル共和、客観合理(ネオ・プラグマティズム/関連で末尾“エピローグ”
を参照乞う)の深化らに関わる動向なども、より大きく俯瞰しつつ爾後の日本であるべき正統保守(リベラル共和主義も
取り込む形での)の姿を構想するのが筋である。

1 明治維新政府が隠蔽した「幕末期“普遍”意識」自生の問題

・・・おそらく、「アヘン戦争」の情報が「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードとなった! そして、宇都宮黙霖
・山県大華との対話で「白日」(自生の普遍意識)に覚醒した吉田松陰は、偽装極右の教祖でも、テロリストでも、「顕
密二元論」(密教的な“天皇の政治利用”)の祖でもなかった!・・・

「皇国史観」の神話論理(ミソロジー)が、初めは「維新政府」内で少数の<非主流派>であった尊皇テロリスト派によ
って更に観念的に過激化され、やがてそこから軍国主義国家・日本の諸政策が誕生したとの原田伊織氏(『三流の維新、
一流の江戸』(ダイヤモンド社)の著者)の見方にほぼ同意するものの、その尊皇テロリストの筆頭として吉田松陰が入
れてあることには賛同しかねる。

というか、これは従来の大方の見方であったのかも知れない。しかも、だからこそ日本会議、安倍晋三・首相らのアナク
ロ偽装極右派(彼らは決して正統保守に非ず!)の人々は、そのような意味で明治20年代以降に輪郭がハッキリしてくる
「顕密二元論システム」(参照、<注>↓)創造の第一義的な貢献者として吉田松陰を高く評価してきた節がある。

しかし、そもそも吉田松陰の思想の変遷には分かり難い点があった。それは、近年の日中関係史研究の中から、このこと
について根本的疑義を突きつける事実が発見されているからであり、例えば王暁秋著・木田知生訳『中日文化交流史話』
(日本エディタースクール)によると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源の著書
を吉田松陰が読んでおり、その大きな影響を受けていたからである。

アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である魏
源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰(いま述べたとおり松陰には状況体験と知識
・思考の深化に伴う思想内容の変化があるので、その時点での尊皇攘夷派の意味!)ら幕末日本の知識人へ紛れもなく大
きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられるのだ。

つまり、松陰は特異イデオロギーに囚われたテロリストどころか、ルイ・メナンドが著書『メタフィジカル・クラブ』で
教えてくれる“本物の思想の人”(自分が選ばなかった選択肢が常にあり得ることへ十分に柔軟な配慮ができる人物!)
であったのだ(この論点についてはエピローグで更に少し詳しく触れる)。

さて、「幕末的思考」(みすず書房)の著者・野口良平氏によれば、驚くべきことに、吉田松陰は山県大華、宇都宮黙霖
との対話の経験からカント「a論理構成理念、b情念統制理念」の区分(その委細は後述する)から導かれる考え方、つま
り「普遍」の観念のレベルに殆ど到達しており、吉田松陰はその自らが想像した、この列島「自生」の重要な観念を「白
日」という言葉で言い表していた。

言ってみれば、松陰は「大和魂」(そもそもはカミカゼ・玉砕などとは無関係な渡来系文化を柔軟に吸収・消化した後に
伝統化を志向して形成された列島文化の固有性)と「白日」(人類・世界の普遍性)という、普通の考えでは繋がり難い
二つの項を結びつける正統な思考回路を全くの徒手空拳で創造していたことになる(とはいえ、ハリス来日の安政3年
(1856)に行われた大華・黙霖との対話で何らかのヒントを学び取ることで!?/特に、黙霖との対話の影響が大きいと思
われる)。


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なお、山県大華は長州藩「明倫館」の学頭にして朱子学者の人物だが、吉田松陰との間で行われたその「国体論争」で名
高く、松陰の師にあたる人物。両者の意見は激しく対立したことが知られているが、当時、すでに80代であった山県大華
が、「(その時の松陰の)日本中心の考え方は時代遅れであり」、「せめて朱子学の祖国である今(その当時の)の中国
並に世界へ視野を向けるべきだ(おそらく、正統保守的な意味での「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードと見るべ
き「アヘン戦争」(1840 - 1842)を意識したか?)」と説いていたことが注目される(画像はウイキ)。

<補足>見過ごされてきた「斉藤竹堂、渡辺崋山、高野長英の先行的な慧眼」

・・・それは「アヘン戦争」に潜む欧米侵略主義の“野蛮さ”(植民地資本主義の限界、正体)の核心が当時の欧米民主
主義思想の裏面(欠点)であることを見抜き、自生の「普遍」観念の必要性を警告していた。これは単純な攘夷論に非ず!

・・・斉藤竹堂:仙台藩・養賢堂で学んだ人物、著書『鴉片(あへん)始末』/渡辺崋山:三河国田原藩の藩士・画家、著
書『慎機論』/高野長英:江戸の医者・蘭学者、著書『戊戌夢物語』

宇都宮黙霖は江戸時代末期の聾唖の勤王僧だが、水戸学の「尊皇敬慕」に強い抵抗感を持っており、“そもそも民を安ん
じる王道”(古神道の重要な理念/専門研究者の一部は、既にその中に象徴天皇の観念があると主張!Ex.神道学者・小山
悳子氏http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109 )と武力支配の「幕府の覇道」は両立せず草莽(底辺の庶民層)に
こそヒトの真の価値があるとも主張していた(<注>勤王は勤皇と同意/佐幕派に対して京都朝廷のために働いた一派)。

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