メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!・・・(2/3  2018/01/07


[希望のトポス]明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示
す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!(2/3) 
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107

2 幕末の不平等条約を引き継ぐ明治期「外交」の最大“眼目”は平等「万国対峙」の確立であったが・・・


・・・かくて、近隣の中国(清朝)と朝鮮に対し“国威を輝かす国権外交”で先ず臨んだが、先行した列強と平等に対峙する
ためとはいえ、その露骨な侵略・植民地主義こそが、そもそも誤りであり、後世に禍根を残した・・・

 

(維新期“平等『万国対峙』の確立”の理想 ⇒“植民地・侵略主義”へ変質した契機は西郷隆盛『征韓論』(西郷の真意が何
処にあったか?はともかく)にある)


f:id:toxandoria:20180106165823p:image:w300:leftいつの時代であっても、革命、侵略、戦争などを想定しつつ国家権力の
側が「国民」の「国家権力による一定の保護の囲みの外へ追い出される不安」を煽るためには、これまでの「政治対象とは明
らかに異質だ」と一般国民が感じる、全く新たな具体的かつ作為的な「緊張」が必要になる。


民主国家にあるまじき水準まで酷く歪んだ国政選挙制度の放置、格差&不平等税制拡大、金融財政制度改革の停滞 、経済・ 
教育・科学技術・産業・労働・高齢者医療等福祉環境の劣化(例えば、悉く失敗したアベノミクス)、森友・加計・スパコン
疑獄に止まらぬ政治・経済・利権が奥深くで癒着・混交する<アベ一強ユガミ政治スキャンダル>の底なしの拡大・・・と今
の日本の政治の実相(リアル)は行き詰まりを見せている。


このため、「囲い込まれている安心の感情」はもはや多くの人々に共有されておらず、作家の辺見庸氏が言うように今やこ
の国が「新しい内戦」下にあるとするなら、権力にとってはまさに「内乱を冀(ねが)う心」(一般国民層の内心の奥深く
に沸々と滾り始めたルサンチマンのマグマ)を外に移す必要があり、その「不安」の責任(原因)を新たに転嫁する対象
(多数派国民層がヘイト&差別の感情を激しくぶつけるべき)へのニーズが高まる。


そもそも、専制政治であれ民主政治であれ資本主義であれ社会主義であれ共産主義であれ、「囲い込まれている安心感」
や「囲みの外に出る(出される)という不安感」を「国民」に刷り込むことさえできれば「統治改革」としては「成功」
となる。更に、「囲いを広げる為政者側の邪な野心、例えば安倍政権では追憶のカルト(シュゴシン(守護神)たる日本
会議の異常イデオローグ、靖国顕幽論)まで付け加えることができれば「大成功」だ。つまり、「内乱を冀う心を外に移
し国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。


ところで、「内乱を冀(ねが)う心」というコトバは、1873(明治6)年の「征韓論政変」の直接的契機となった「朝鮮国
遣使」問題(日本商人の密貿易を理由に朝鮮側が日本を“無法の国”と呼ばわったことへ、開国直後の維新政府が国威を
輝かす国家戦略の大前提下で如何に対処するかが大論争となった/李氏朝鮮は様々な事情等から当時は未だ鎖国状態、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1182871906)に際し、筆頭「征韓」派の西郷隆盛が、太
政大臣の三条実美に対し、その「征韓論」の意味は「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」であると説明したとされ
る史実(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873.8.17)に由来する。


当時、明治維新の相次ぐ変革で既得権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり(ピークは“ 1874(明治7)年2月‐3月、
1876(明治9)年10月‐12月、1877(明治10)年2月‐9月”/明治10年には征韓論争で敗れ下野した西郷隆盛が原因とな
り西南戦争が起こる)、他方、各地では暴政に対する民衆の一揆も続発していた。


因みに、西郷の真意については諸説があり未だにその決着はついていない。例えば、江戸城“無血開城”での勝海舟らと
の交渉・交流から西郷には正統保守主義的イデオロギー(急進的啓蒙の実行は逆効果なので、日朝の夫々の国の伝統と国
民の主権を尊重しつつ軍事強化主義へ傾斜せず教育に注力して先ず民心(民度)を高めるべしとの考え方)があったとの
説もある。


しかし、少なくとも当時は国内の社会不安がもたらす政府への反発を抑えるため、一人歩きし始めた「征韓論」(西郷
の真意はともかく、結局、これが爾後の時代における日本侵略主義イデオローグのルーツとなった/出典:勝田政治・著
『明治国家と万国対峙』、関連後述)を利用しつつ、一般国民の不満の矛先を朝鮮へ向けようとしていたのは確かだと思
われる。


首相官邸HPの“明治150年”を盛り上げるためか、西郷隆盛を人情噺風味で(?)救国の英雄の如く取りあげる大河ドラ
マ『西郷(せご)どん』のNHKテレビを筆頭に各メディアがコレぞとばかり西郷どん大翼賛の空気を煽り始めているが、果
たして如何なものか?である。


事実上、国際情勢に関する限り当時の日朝両国の多数派国民は盲目同然であった。但し、コレは識字率のことに非ず、特
に当時の庶民層を含む日本人の識字率は世界トップクラス!で、それは、(1−1)と(1−2)で既述のとおりである。また、
これは日本文化の基層を持続的に固めてきた“歴史的・文化的”な事実(古代いらい波状的に伝来した中国、朝鮮からの
渡来系“漢字”文化の賜物)に因るものだ。


f:id:toxandoria:20180106170103j:image:w220:rightなお、このような論点をより実証的に証明・強化し文化に関わる内
面の意識から気付かせてくれる優れた著作(添付画像)があるので参考資料として紹介しておく(芳賀 徹著『文明として
の徳川日本』‐筑摩書房‐)。ともかくも、国民に正統保守的な観念を根付かせるべきという西郷の秘めたる狙いがあった
か否か?という“西郷の真意”に関わる「征韓論」解釈の決着はついていない。


ところで、岩倉具視(京都、公家/内務優先を唱え征韓論に反対の立場)、大久保利通(薩摩/ 初代内務卿(実質上の首
相)を務めた内閣制発足前の政界リーダー/産業振興による富国政策を重視 /征韓論で江藤新平、西郷らと対立)、大隈
重信(佐賀/立憲主義を目指す内政改革と殖産興業 を主張し征韓論に反対/会計検査制の創設にも尽力)、木戸孝允(桂
 小五郎/長州/台湾出兵など、国威を海外に張る外政論に反対し立憲主義、三権分立の確立およびマスコミの重視を主
張)、伊藤博文(長州/木戸と同じく外政論に反対/ 初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣 /プロイセン法の影響
を受けたが国際協調主義)らもこの意味で言えば同様の正統保守的な考え方を持っていたとされる。


ともかくも、この征韓論(論争)の影響(中国・朝鮮ら周辺諸国を野蛮な国家と見下す(実は殆ど一心同体的な歴史・文
化(漢字文化圏)・民族のヒューレーを共有)は現代、安倍政権下の日本にも深い影を落とす。なお、西郷隆盛・大久保
利通・ 木戸孝允は明治維新の三傑とされる。


(維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在
し、せめぎ合っていた)


f:id:toxandoria:20180106171048p:image:w200:left近年の研究成果である 勝田政治・著『明治国家と万国対峙』(角川
選書、2017年8月・刊)によれば、一般的な理解(大久保が日本近代化モデルとして採ったのはプロイセン流の議会制限
型の君主制だとする説)と大きく異なり、そのモデルは意外にも英国型の殖産勧業(人民産業)行政(民力・民度の向上
が最大の狙い)で、そこで目論まれた国家政体もプロイセン型ではなく「英国型立憲君主制」で内務省もフランス内務省
をモデルとするものであった。


この「事実」があるにも拘わらず、その死後に大久保の腹案であった筈の 英国モデル「内務省」構想がどのような経緯
を経て(定説と異なる理解の流れで)プロイセン・モデルの官僚体制へと歪曲され(定説では井上 毅が深く関わったと
される)、遂には<「国家神道」(超然宗教の名を付与された大日本帝国の精神基盤)を支える内務官僚組織>に一方的
に支配される官僚制度(植民地主義の侵略国家・日本を支える)へと変質したのか?


その具体的な過程については、別途、詳細な研究成果を待たねばならない(これも定説に従い、列強並みの軍事力強化に
よる対等な万国対峙を目指した“山形有朋”一人の軍事国家主義にそのことを帰することで、果たして満足できるのか
?)。いずれにせよ、このような大久保らについての新たな発見によって、維新開始〜内閣制度創始の時期における<正
統保守のルーツの在り処とその変遷の姿>を正しく理解することが重要と思われる。


つまり、大日本帝国の骨格としてプロイセン・モデルの官僚体制を定着させたのは「明治十四年(1881)の政変」と見る
のが従来の説明であるが、必ずしもそれだけではないと考えられる。因みに、「明治十四年(1881)の政変」とは、1881
年(明治14年)に自由民権運動の流れの中で憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリ
ス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの
慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明
治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったとされる。


ともかくも、それはその後にも、例えば井上毅(明治十四年の政変で大隈重信らを追放する勢力に加担したが、同上政変
の時に井上は未だ参事院議官・内閣書記官長兼任で、自らは「保守漸進主義」(これは正統保守そのもの!)の考え方か
ら先ずプロイセン型国家を構想すべし、つまり プロイセン型の憲法を先ず導入すべしと主張していた)らが英国型の立
憲主義(議会重視)にも注目していた節があるからだ。実は、井上毅は究極的には現代の日本国憲法下の象徴天皇制に近
い「顕教的な天皇の政治利用」をさえ考えていたのではないかと思われる。


(敗戦後70年超の現在でも日本の立憲民主政は未完である!だからこそ、戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する
態度は却って危険!)

因みに、「同上の政変」で大隈重信が政府から追放された後も益々高揚する自由民権運動への対抗策として政府が出した
「国会開設の勅諭」(1890(明治23))の起草者も井上 毅なので、ここで井上の暗躍が功を奏し、名ばかり英国議会モデ
ル(内実はプロイセン流の非政党内閣制(天皇を唯一の主権者とする))への誘導が成功した、と 勝田政治氏は理解され
ているようだが、この点については果たしてそうだろうか?との疑問が湧く。

それは、先に述べたとおり井上の考えていた天皇のあり方が実は現代の「日本国憲法」の象徴天皇制(憲法上で主権者を
国民とする)に近いものであった(天皇に因る人治の徳政を期待しつつ憲法上で天皇を主権者とする、大日本帝国の天皇
の密教的な政治利用に対して)可能性が高いからであり、同じく、井上 毅については、彼が法制局長官の時に大隈重信
の命で携わった教育勅語(原案作成)についても、次のようなエピソードがあるからだ。 

・・・<、井上は、a「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」、b「教育勅語は宗教、哲学、政治、イ
デオローグとは関わりない中立的な内容で記す/後述する、ケルゼン“純粋法学”の概念に近い?」ことを前提として、
つまり宗教色など世俗性を排することを企図して教育勅語の原案を作成した。また、井上は自身の原案を提出した後、一
度は教育勅語構想そのものに反対して、その中止を進言した(c)が、山形有朋の「教育勅語」制定の意思が変わらないこ
とを知り、再び、自ら教育勅語起草に関わるようになり、この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まってい
る。> 井上 毅が<この>ように紆余曲折した一連の経緯には、戦前の国家主義(大日本帝国)の黎明期に活躍した人
物らの内心には正統保守的な考え方(現代のリベラル共和主義に繋がる可能性をも秘めた)と、現代の安倍晋三・日本会
議らに繋がる偽装極右(エセ保守)的な考え方が混在していたことを示唆する。別に言えば、現代の「政治哲学」的な観
点からすれば上のaに「哲学」が入っている点に曖昧さを感じるもののa・b・cが事実であるとすれば、やはり井上毅の内
心にはライシテ(laicite/フランスの厳格な政教分離原則/Cf.↓注記2)的な観念が存在したと考えられる。因みに、
教育勅語が軍人勅諭と共に皇国史観的な内容として偏向解釈のうえ、国民へ押し付けられ、それが戦中期まで尾を引く結
果となったのは絶大なまで影響力を強めた軍部の介入によるものであったことが知られている。・・・

(注記)ライシテという言葉の歴史上の初出は1870年代の初め頃とされているが、司法省の西欧使節団(8人)の一員と
して井上 毅は1872年(明治5/フランスでライシテ(フランスの厳格な政教分離原則の観念)が定着し始めた頃)に渡欧
しており、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。

・・・

従って、現代の我々が「戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は、却って危険である」と思われる。益々、
冷静な批判力が求められる所以である。その意味では、当書『明治国家と万国対峙』の著者・勝田政治氏が「有能な井上
毅は、国家主義の基盤たるプロイセン流の憲法(明治憲法)を伊藤博文らに制定させるため暗躍した」という記述に止ま
っている点に物足りなさを感じる。

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