メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!・・・(1/3)  2018/01/07


[希望のトポス]明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す
日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!(1/3) 
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

【Cover Image】Claude Monet/The Cart:Snow-Covered Road at Honfieur, with Saint-Simeon Farm.

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・・・c.1867. 65× 92,5 cm Oil on canvas. Musee d'Orsay, Paris, France


(プロローグ)首相官邸HP「明治の精神に学ぶ日本人の強み」とは何を意図するのか?

・・・明治維新期が近代日本幕開けの一画期であったのは確かながらも、そう単純ではない賛美・礼賛史観、暗黒史観、理想史
観などの区別!・・・

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明治維新は確かに「“普遍的価値観”追求」開始の画期であったと見るべきで、「明治の精神」(正体は“立憲主義、富国(経
済)政策”確立と植民地・侵略戦争主義の葛藤)を一括りで捉えようとして「明治維新の強み/国民の戦争志向精神への雪崩込
み(軍事国家ナショナリズム・植民地主義への突入)という戦前期の暴走奔流」だけを高く評価しようとする日本政府の姿勢に
違和感!2017年12月30日 只のオッサン@shinkaikaba https://twitter.com/shinkaikaba/status/946872688756252672

・・・@hi_kashi 苅部直氏はグローバル化の現在での国民国家的な維新顕彰の問題点を指摘。むしろ維新は普遍的価値観の追求
であったとの指摘は重要 自由、平等こそ「明治の精神」 維新150年、苅部直・東京大学教授に聞く1227朝日、

https://twitter.com/hi_kashi/status/945987278341410816 

・・・Cf.1「明治礼賛」でいいのか 政府は来年「150年記念事業」を大々的に計画20170210東京夕刊・毎日、https://mainichi.jp/articles/20170210/dde/012/010/002000c 

・・・Cf.2「明治150年」に向けた関連施策の推進について(20171104首相官邸)

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/ 


2017/12/6共同通信によると、日中両政府が沖縄県・尖閣諸島などをめぐる東シナ海での偶発的衝突を回避する「海空連絡メカ
ニズム」設置案について、上海で開いた「高級事務レベル海洋協議」で大筋合意した。これは自衛隊と中国軍が接近時の連絡方
法などをあらかじめ定めて衝突を防ぐ仕組みで、日中間の最大懸念の一つである尖閣を巡る緊張緩和と日中の関係改善の流れが
加速することが期待されると報じられている。


おそらく、これは、「北」問題をさて置くとすれば習近平が内部分断の圧力(“中国近・現代史の特異性”由来=米・日・共和
国・民国による、清朝末期いらいの“三つ巴”ならぬ“四つ巴(or五、六つ巴)”の極東地域における植民地争奪戦という過酷
な“近代史”の悪しき余韻)を抑制し、外部分断(加害)力の張本人である米国および日本(特に米国)とリアルかつ前向きに
対峙する余裕を持ち始めたということかも知れない。


つまり、東西冷戦下の中国(民国、人民共和国ともに)ですら<自らの法治規範モデル>を日本の優れた文化力に求めていた節
があること(委細:本文で後述)からしても、今こそ近世における真の極東史を直視しつつ、歴史的な意味での極東諸国の対米
警戒(日本でも左右派の垣根を越えて深くこの意識が潜在する)を解く努力に邁進するのが日本の役目だとする下記ブログの指
摘は重要である。

 ⇒ 北朝鮮危機 日本の役割は「米朝対話」を促すこと1123ブログ・山ちゃん

https://ameblo.jp/kalle2/entry-12327267502.html 


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しかし、安倍政権はこの歴史的事実を完全に無視しており、それどころか更なる国民の犠牲をすら厭わぬ冷酷な態度で隷米(厳
密に言えば、“トランプ氏と100%一致!”との物言いで対“米国産軍複合体勢力”盲従=正統保守ならぬ対米盲従の偽装極右)
の姿勢を貫いている!

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左の画像で掲げた本(中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』―講談社―)の<中国を中心とする近代
極東史のエピソード(中華人民共和国・成立後の顛末も含む)>は、「今や中国自身をも酷く蝕む共産党一党独裁の弊害」と
「今後も含めその軌道修正に貢献し得る日本政治の役割」>を考えさせてくれる。特に「中華民国・中華人民共和国」両憲法と
「日本国憲法の憲政観念(厳格な法治観念と“日本国憲法”の平和主義)」が決して無縁でないことが分かり驚かされる。


因みに、民国(中国大陸にあった中華民国/1912〜49)が掲げていたスローガンである五族共和(漢族、満州族、蒙古族、回
(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の五民族の協調を謳ったものだが、そ
もそも言語も異なる民族の数は遥かにもっと多い)にあるとおり、古来、中国の政治権力には多民族を束ねて統治するという宿
命が付き纏っており、それは近代から現代に至る中国でも変わりがない。


例えば、満州人の王朝である清朝を倒し漢人国家を復興する意味の「排満興漢」が清朝支配下の革命運動のスローガンとして使
われていた。そもそも清朝成立後の時代のそれは明朝の復活を意味するが19世紀になると漢人国家の復興を期すナショナリズム
の色彩を帯び孫文ら革命派の重要スローガンとなった。そして、現代中国でもこの“漢人問題”は潜在すると見るべきである。


古来、「一般に中国では西洋、東洋、中国大陸(自国辺り)を区分する世界観がそれほど強くなかった」(例えば20世紀初頭の
中華民国の時代に至るまで中国王朝・中央政府が所管する国家財政は、一部の直轄地を除き伝統的に家政的な性格を持ち続け
た)ため、日本のように極端なアジア主義(例えば、田中智学が皇国史観と国体思想に基づく日本植民地主義による世界統一の
原理として 1903年に造語した八紘一宇の如きスローガン)が生じる可能性は小さかった。


しかし、これは日本と比較しての意味合いであるが、れっきとした漢字文化という非常に優れた基層(古来のオリジナル伝統
文化)があったにもかかわらず、日本よりも桁違いに広大な国土と厳しい自然環境の風土、そして多民族から成る中国は国民の
過半超を遥かに超える割合で占め続けてきた庶民層(特に農民層)の中から「プロトモダニティ」(“近代民主主義”成立の前
提となる高い識字率など)の基本条件を効率的に自生させることは困難であったと見るべきかもしれない。


他方、目下、日本政府は「明治150年」にスポットを当てて日本国民の愛国心とナショナリズムの鼓舞に必死のようであるが、
その「明治維新の画期」(西欧的な意味での日本近代化)への水先案内人と見るべき重要な「プロトモダニティ」が存在する
ことを見落とすべきではない。そして、その重要な「二つのプロトモダニティ文化」は、奇しくも、徳川幕府体制下の「17世
紀江戸時代」に自生しており、ある意味でこれら二つの近現代日本文化の苗床とも言える前提条件がなければ、あるいは「明
治維新の画期」も、後で詳述する東アジア文化圏の中で飛びぬけた存在感を示す日本「法学」アカデミズムの伝統も存在し得
なかったのではないか、と思われる。


1 重要なのは維新期に先立つ17C江戸プロトモダニティ、二つを発見すること


1−1 皇室文化を胎盤とする江戸プロトモダニティ


(日本『正統保守』の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見)


【画像】江戸の都会的シック(粋)、ほか/江戸期のトビウオ(自覚してシビックな水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間/千
住酒合戦


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・・・一枚目、歌川豊国『文読む女』はロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美
と礼節の絆』が表紙で採用)、二枚目の喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』は日本切手の図案として採用された作品。


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・・・千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb

・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技
会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自
称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、
町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワ
ークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。

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ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789―1851/米国の
作家・批評家)は、1838年(ペリーが日本の浦賀に来航する16年前)の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等
を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それで
もなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆
いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれな
い。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことは
そのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主
義の完成は持続的な永遠のテーマ(油断を許さぬ、そして決して強靭とは言えない)であることが理解されるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆の構図となるが)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の
江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、いわば<封建制の身分差を超えた水平空間への希
求>が存在した。その分かりやすい典型が上の画像『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子・著『美と礼節の絆』は、
「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公(比較的裕福な庶民層を中心に身分差を越えて自生しネットワーク形
成された公)”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と
見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパ
ブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興する明治維新期より遙か前に、この国の「水平・平
等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律的な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと
言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である。


俳諧・狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻
き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やは
り和歌(鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についても、上は貴族・武士階層から下は農民
・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリッ
ク圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知
恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩)」でもある天皇制の根本には、古代
期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)について見た場合も、そこにはこの象徴的・美的パブリック
圏と共鳴する『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代
にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新
期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権
を否定する天皇の密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


(『江戸プロトモダニティー』、弱い紐帯の平等なパブリック圏の5つの特質)


・・・その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダの
みならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上
掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)なお、ここでは全体スペースの関係
から、(3)と(4)以外は項目だけに止めるので、その委細については下記◆を参照乞う。・・・


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合
史」に真相が隠されている20170518toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


(1)取引情緒コスト、つまり礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見

(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現

(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ

・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定
が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)が存在する。それによれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男
子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウ
イキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。

・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率は寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体
で70〜80%程度(農民層を含む庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高
々で20〜30%程度であったと推測されるのと比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o http://u0u1.net/Dk3r )。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がった江戸“商業ネットワーク”の下地)

・・・江戸期プロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタロ
グである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となってい
る。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録
(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。

・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが
交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造した
ことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文
化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。

(5)美的社交の場たる、いけ花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物
など「水平空間」の創造


1−2 皇室文化からの学びと異質な「自生的に闘いを記憶する百姓たち」の江戸プロトモダニティ(目安往来物の拡散)


近年における「日本法制史・日本教育(教科書)史」の研究分野の新たな検証と努力で、特に中世〜17世紀の「目安往来物」
の役割が看過できないことが分かってきた。そもそも「往来物」とは、中国(唐)伝来の『杜家立成雑書要略』(とかりっせ
いざっしょようろく/正倉院宝物)を始祖とする、千年以上にわたりその利用が日本列島内の庶民層にまで普及してきた、実
際の手紙(交換文書)等を手本とする、漢字での文体表現を活かす文章作成のための教科書のような性質の文書写本である。


つまり、それは多様なテーマの書簡や交換文書が手書き写本の形で繰り返し再生されたものであり、やがてそれが実際に役立
つ手書き文字と用語、社会的知識、社会常識などを庶民・農民らの庶民層の人々が学ぶための教材として幅広く利用されるよ
うになっていたことが明らかとなりつつある。


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しかも、特にこの本が取りあげている「目安往来物」(“目安”とは、理不尽な課税・徴税について農民らが作ったお上(諸
藩ないしは幕府)への訴状(公正な裁判を求める切実な要望書)の要旨を箇条書きにしたものを指す)の写本の分量が従来知
られてきた以上に非常に膨大なものであることが分かってきた(出典:八鍬友広『闘いを記憶する百姓たち/江戸時代の裁判
学習帳(目安往来物)』‐吉川廣文館‐)。


つまり、その「目安往来物」の具体定内容は一揆などの裁判事件に関わる訴状・訴訟関連の記録文書などであるが、山形地方
・白岩村(現在の寒河江市/西村山郡)のそれ(白岩目安)が、その後に日本列島中で普及することとなった「目安往来物」
の最初のもの(雛形)であった(これは実に瞠目すべきことである!)という意味で、特に重要であることが分かってきた。


そして、白岩村の農民層らに対する指導者的な役割を担っていた出羽三山、慈恩寺等の修験者・神官・僧侶・関連宗教者・知
識人らの存在と役割が注目されており、彼らは渡来系文化(そもそも当地域(寒河江)には、関東(寒川)に居た渡来人が移
住し再入植したというグローバル多元文化的な前史がある)を下地としているようだ。


これら知識人・宗教者らは「徳治・法治理念、漢字文化」などに関わる知識(社会的意識の共有化/反権力的な感情マグマの
合法的意志への転嫁)を苛斂誅求な取り立てで臨む領主らに対する対抗手段とすることを目論んだ訳だが、彼らの指導を受け
た白岩村の農民たちは一揆の武装蜂起やテロによる中世的な自力救済の限界を乗り超えて、日本独自の民主主義の実現へ一歩
接近していたことにもなると言える。


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なお、慈恩寺(開山以来、約1300年の歴史をもつ古刹/藤原摂関家、奥州藤原氏との関係があり、そもそもは聖武天皇の勅願
で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある法相宗の古刹であった(現在は天台・真言両宗慈恩寺派の総本山/
慈恩寺に関わる委細は下記▼を参照乞う/画像は寒河江市・慈恩寺三重塔(山形県指定文化財))。


▼「慈恩寺」(山形県寒河江市)について、雑感2017/11/03my-evernote

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/cbaaeb79-ee40-41e6-a275-4486b17b315b/cf7a44dd59e3be0aaa6c72df2948c8fa


また、彼らはやがて開明を自負することになる、薩長が中心となって仕立てた明治維新・政府(上からの民主制の押し付け)
を遥かに先立つ形で人治ならぬ「法治の観念」を当時の庶民・農民および領主ら支配層(最終ターゲットは幕府)へ啓蒙する
ことも意図していたと思われる。このため、やがて、この「白岩目安」を手本(モデル/雛形)とする司法(裁判)による
「苛斂誅求な暴政」への対抗の形は新潟、関東、そして全国へと及ぶことになった。


まさに、これは、皇室文化からの学び(美と礼節の絆)をルーツとする「主に富裕な庶民層を中心とする17世紀・日本のプロ
トモダニティ(近代市民意識の先駆け、芽生え)」(既述/1−1★)とは全く逆ベクトルの「下から上へ立ち昇った17世紀・
日本の、もう一つのプロトモダニティ」であった。


いずれにせよ、これら二つの「17世紀の江戸プロトモダニティ」なる両輪の歴史(残念ながら、この様な問題意識は今のとこ
ろ殆どの日本国民が理解していないと思われるが、その核心にあるのが、先ずもって江戸期における日本人の識字率(文字・
文章リテラシー)の驚異的な高さ!であり、そのベース構築で大きく貢献したのが、漢字の伝来いらい遥か千年超の歴史を誇
る渡来系(波状的に“前渡りし今来すること”を繰り返した中国、朝鮮)両文化の賜物でもあった。そして、特に17世紀の
「白岩目安」を巡る動向(歴史的事実)は絶対に無視できない重要なファクターである、と思われる。

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