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[希望のトポス]愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現 象学』から見える『感情の政治学』の可能性(その三) <注記>お手数ですが、当記事の画像は下のURLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 2 『感情の政治学』(共−パトス)で持続的に拓くリベラル共和の新たな可能性 ・・・『アーレント最後の言葉』の現代的意義/リベラル共和主義の持続的「生起」の条件を模索したハンナ・アーレント・・・ (アーレントがメモに遺した二つのフレーズの謎解きに挑戦する小森謙一郎『アーレント最後の言葉』の警鐘、それが意味する こととは?) f:id:toxandoria:20171109112036j:image:w230 ・・・小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する、“感情の政治学”の現代的意義・・・ (プロローグ)でもふれたが、恰も「真理探究」一筋の自然科学者の如き略奪者(アブダクション)的で魔術(錬金術)師的な ハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人に師事したH.アーレントは、その二人の両義的 な哲学の下で大いに悩み抜いた。なお、彼女の博士論文である『始まりの本/アウグスティヌスの愛の概念』(原著・出版、 1929)は、ヤスパースの指導と、ハイデガーの影響のもとに書かれた(http://urx3.nu/GQ3H)。 H.アーレントは、著書『精神生活』(原著・出版、1978/(unfinished at her death, Ed. Mary McCarthy, 2 vols. / New York: Harcourt Brace Jovanovich)で小カトーの功績と意義の象徴とも言える『アーレント最後の言葉』の中のフレーズ “敗れた大義”(ゲーテ《ファウスト》より)を引用しつつ、《人間の条件》について結論を述べている。因みに、小カトー の意義とは、小カトーが<十分に議論し考え抜かれた多数派の民意を常に最重視するリベラル共和主義を諦めずに維持し生起 し続けることの重要性>を我われに教えている、ということを意味する。 そのアーレントの《人間の条件》とは、(1)労働(エトノス環境と身体に直結する活動)、(2)制作(芸術にその典型が 見られる、より自由な人間的側面)、(3)行為(人間固有の言語・ロゴス活動)の三つであり、これらの中で(3)が最も 重要である。しかし、これらは単純に序列化されるべきではない。 肝心なのは、<人間の“感情”(生活の糧を得る基盤でもある)と密接に繋がる(1)をベースとしつつ、(2)も常に大切 にして(この“より自由”な空間の中で人間としての意思が培われる)、(3)の言語活動で表現し、コミュニケーションす る、・・・そして再び(1)→(2)→(3)の回路へもどる・・・>という形で、身体と精神の関係を良循環の持続の流れ の中に置くべきだ、ということになる。 f:id:toxandoria:20171109112557p:image:w230:right この《人間の条件》の良循環が失われ最も重要な「自分で十分に考えること(3)」ができなくなると、アーレントが『エル サレムのアイヒマン』で書いた<悪の陳腐さ(悪の凡庸さ)に染まる(甘んじるばかりの)人間>が、ひいては、そのような 国民ばかりとなった全体主義国家(ファシズム体制)が創られることになる(関連、後述)。 このような意味で、H.アーレントの「人類社会と個々の“生”にとって普遍的に役立つ思想」は、その余りにも過酷な “確執”に巻き込まれた彼女自身の内奥(コギタートゥム)」の“地獄”から生まれたと考えられる。だからこそ、<小森謙 一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する“感情の政治学”再発見の現代的意義>には特別の重みが感じられることになる訳 だ。 つまり、アーレントが遺した『最後の言葉』の重要な意義は、この二人の巨人(一時期はナチスに入党していた魔術(錬金 術)師的なハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人)の狭間で悩み抜いたからこそ、 アーレントは、今や再び大きなレゾンデートルの危機に襲われつつある人間社会への警句と理解すべき重要な二つのフレーズ を我々に遺すことができたと考えられる。 そして、その意義は下のように纏めることができる。 f:id:toxandoria:20171109112739p:image:w550:right《個々人の自己意識(b小文字の“生”)の中核(前意識が代表する無 媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)/ダン・ザハヴィ)とエトノス(a大文字の“生”)の両領域(全生命・生存圏) を繋ぐ「感情の海の深層」に潜む「魔術的・悪魔的な闇」(ハイデガーのゾルゲが象徴する)の誘惑は永遠に続くものである。 が、だからこそ我々は決して諦めてはならず、エンドレスの<生起>を決意する持続的な<『啓蒙思想』再生への意思>こそ が、絶えざる<リベラル共和主義>復興の決め手になる、ということだ。同時に、それこそが「b」のレゾンデートルであり、 かつエトノス環境(a)のなかで「ヒトおよび生命全般(b)」が“薄氷の希望を保持しつつ”生き抜くことが可能となるので ある。》 <注>「小文字の“生”」、「大文字の“生”」 ・・・M.アンリ「受肉の存在論(共‐パトス)」についての論考で松島哲久氏(倫理学/大阪薬大名誉教授)が取りあげた概 念。「小文字の“生”」はヒトを含む個々の生命体、「大文字の“生”」は地球上の生命圏全体を指す「絶対的“生”」の意 味。これは、おそらく(プロローグ)で取りあげた「エトノス」の概念に重なると思われる。(M.アンリ『受肉の存在論 (共‐パトス)』の出典→『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://urx2.nu/GPeh) ・・・ ・・・上の意義を、より深く理解するためのヒントは<ハイデガーのゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)とヤスパースの倫理 ・哲学の狭間で生じたH・アーレントの心理的軋轢>のなかにある!・・・ 小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によれば、ハンナ・アーレントが遺して逝ったとされる最後のフレーズは、下の二つ (1)(2)である。この後に続けて、小森謙一郎はこう書いている(同書プロローグより、部分転載)。・・・『従って、 問いはこうなる。最後の言葉には、果たしてどのような記憶が賭けられているのか? 闇が覆った後になお残るものがあると すれば、それは何か?』 f:id:toxandoria:20171109115014p:image:w300:right(1)勝てる大義は神々の心に叶った。(ここでは、結果的に国民のポ ピュリズムがシーザーの専制(終身独裁官就任)を承認したことを意味する/ローマ帝政初期の詩人ルカヌスの《内乱》より /関連する右端の画像はウイキ)、http://urx2.nu/GPjd f:id:toxandoria:20171109115348p:image:w300:right(2)敗れた大義はカトー(シーザーの生涯の政敵となった人物/共和 政ローマ期の元老院派の政治家。哲学者でもあり高潔で実直、清廉潔白な人物として知られているが、最後は敗れて自害した /小カトーとも表記)の心に叶った。己の道から魔法(魔術)を遠ざけて、呪文のことばをすっかり忘れることができるなら、 自然よ、ただ単なる男としてお前の前に立つのなら、ひとりの人間として存在する甲斐もあるだろうに。(ゲーテ《ファウス ト》より)』(関連する右の画像はウイキ) そして、『アーレント最後の言葉』の著者は<敗れた「大義のエンドレスの生起」にこそ希望がある!諦めてはならない!> の主張で同書の扉を閉じる。解釈の分かれる論点などが満載なので、様々な読み方があるだろうが、以下では、<未だにリア ル政治(および政治学)は「感情を胎盤とする生の実存の理解」に追いついていない!>という観点から、関連すると思しき 雑考を書いておきたい。 ・・・ (恋多き女でもあったH.アーレントだが・・・) f:id:toxandoria:20171109115841j:image:w280:left映画『ハンナ・アーレント』でも描写されているがハイデガーとアーレン トは不倫関係であった。その辺りの事情を纏めたドイツ文学者・中野京子氏のブログ記事『アーレントとハイデガー/哲学者た ちの恋、http://urx.blue/GGoR』があるので、関連する部分を下に転載させて頂く(画像はhttp://urx.red/GT7bより)。 ・・・<ハンナ・アーレントがマールブルク大学哲学教授だった35歳のマルティン・ハイデガーに出会ったのは、18歳のと き。たちまち恋に陥り、不倫の関係へ。やがてヒトラーが政権を握り、ユダヤ人だったアーレントはアメリカへ亡命。一方ハ イデガーは親ナチだったから学長へとのぼりつめ、自分の師フッサールやヤスパースを追放する。戦後、アメリカで華々しく 活躍するアーレントによって、ハイデガーの立場はいわば「救われる」。 ・・・ふたりの恋は大きく3期に分けられる。第1期は、官能的な恋の2、3年。戦争をはさんで、その後の中年期(これが ドロドロ)、最後はふたりが死ぬまでの1、2年だ。アーレントが亡くなるのは1975年、その5ヵ月後にハイデガーは他界す る。不思議な関係だ。真実なのだろうか。つまりこれほどの卑劣漢を、これほど長く愛し続けたアーレントの思いの深さとは 何なのか。しかも彼女はどうしようもなくハイデガーに惹かれながら、夫のブリュッヒャーなしでは生きられないほど支えら れてもいる。 ・・・ここで、引用終わり・・・ ところで、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によると、ドイツ出身(ドイツ・ユダヤ人)のシオニストでパレスチナでの イスラエル建国に貢献した人物の一人、クルト・ブルーメンフェルト(アーレントをシオニズムへ導いた人物 http://urx2.nu/GPjU)ともプラトニックな友愛のエロス、つまり一種の恋愛関係であったことが覗われる。 同書によれば、そもそもドイツ・ユダヤ人系の知識人には「ドイツ・ロマン派」の源流とされる巨人ゲーテの思想の影響を受 けた人物が多い。ゲーテの思想を一括りにするのは困難だが、敢えて政治学的な側面で大きく腑分けすると、それは「勝てる 大義」(リアルな“小文字の生”の歴史から遊離した超ロマン主義の観念でポピュリズムを有効に操作しようとする強権主義) と「敗れた大義」(人間の“小文字の生”と自由・平等の理念を重視する共和主義)の両義性を帯びており、その意味では 悪魔(魔術)的とされるハイデガーもロマン主義のジャンルと思われる。 このため、やがてアーレントとブルーメンフェルトの間には非常に悩ましい軋轢が生ずることとなり、究極的に、アーレント はブルーメンフェルトらの指導で建国されたイスラエルをナチス・ドイツと同質の「悪の陳腐(凡庸)さ」の亡者たちが仕え る国家であり、堕落したポピュリズム・シオニスト国家だと見なすに至ったと考えられる。 また、ハンナ・アーレントが1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』でアドルフ・アイヒマンの裁判記録、『エルサレムのアイ ヒマン─悪の陳腐さについての報告』を連載形で執筆することになった動機も、この辺りにあるのではないか?と思われる。 要は、イスラエルのポピュリズム・シオニスト(政府関係者)らは「ユダヤ人の近・現代代史、特にドイツ人化したユダヤ人 の歴史」を正しく学ぼうとせず、伝説的なユダヤ民族の伝統化した妄想(お伽噺)に囚われたままでいると、アレントがイス ラエル建国に携わったドイツ・ユダヤ人のシオニスト指導者を厳しく批判したことになる。 |