|
■愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へSer.1/大前提とすべき危機の哲学、フッサー ル『現象学的還元』(2/3) 2−2フッサール現象学の誕生/「感情の政治学」が必然であることの予兆 【「同じと思われる光景」でも各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見る/が、一方でその最大公約の表象が客観性 (間主観性)である 】 ・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』の ような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤 である。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章 (文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主 観性」の共有化は可能だ。・・・ Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD このこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見ており、その最大公約の表象が客観性 である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚 (または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として同じものを見てはいないと いうことだ。 また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あ るいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性で あることを意味する。 そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあ った19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性 の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。 だからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため 「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりす る恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf. ⇒ 公文書管理の重要性/ この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。 我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平 行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易い現出(ものごとの現われ)に 関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのような状況の中で生きて おり、そうでなければ生きられない生き物でもあり、ここが厄介なのだ。 但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ 的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル (真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚 映像も一部分のリアルに過ぎない。 従って、どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは 言語などによるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュ ニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させる政 策>を一環して採っている)。 その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつ つ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在 (同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。 また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験す る”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突 破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止す る省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の 意識作用である。 【そもそも現象学とは何か?/形相的還元 、超越論的還元 、現象学的還元】 ところで、エドムント・フッサール(1859−1938)の「現象学」は、19世紀末の揺籃期〜20世紀初頭の幼生期を経て、さらに第二 次世界大戦後〜現代に至る長きにおよび、20世紀の思想全体に大きなインパクトを与え続けてきた。 現代社会そのものは、益々、グローバル市場原理主義(新自由主義)の奔流に押し流されつつあり、しかもAI・ロボティクス・バ イオテクノロジー等の先端科学技術の進展が急加速しており、「これからも身体と全生命の揺り籠の役目を果たし続けると思われ てきた自然環境・地域風土・地域文化等についても、我われは、一人ひとりがそもそもの意味と役割を根こそぎ問い直さなければ ならないという、まことに厳しくも苛烈な「再帰的近代化」時代の真っただ中に入ったといえる。 深刻化するばかりの経済格差の拡大を本源とするテロリズム、あるいはマイファースト極右らの残虐な暴力性の噴出が後を絶たな くなっており、近代合理性と倫理・哲学がどのようにこれらと折り合うべきかが喫緊の課題となっている。 それは恰もフッサールが『イデーン/1913』(委細、後述)の出版で「現象学」研究を本格化させ始めた19世紀末〜20世紀初頭の 全世界的にファシズムを予感させたあの「危機の時代」を彷彿させるものがある。が、このような時だからこそ、我われはフッサ ール現象学の根本と方法論を正しく理解することが必須になったともいえるだろう。 フッサール現象学で重視すべきベーシックな論点は『現象学的還元』と『無前提性』の問題である。そこで、そもそも「現象学と は何か?」について先ず触れておきたい。これは肝心「かなめ」の点であるので、下記の文献資料(◆↓)からその説明に該当す る文章を部分転載しておく。 ◆榊原哲也・著『フッサール現象学の生成/方法の成立と展開』‐東京大学出版会‐ ・・・ここから転載はじまり・・・現象学(Phanomenologie)とは、文字通りには「現象」(Phanomen)についての「学問」 (Logos)ということであるが、フッサールの場合、それは、意識に現れてくる現象に定位(注目)し、それをありのままに見つめ、 この現象の背後、あるいは手前で働いている「意識の志向性」(意識≒“志向性の作用”と見てもよい)をロゴス(学問)的に解 明する営みを意味する。・・・ここで、一旦、転載中止/下記の補足へ・・・ <補足>「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論 ・・・西川アサキ(哲学者、批評家/情報哲学)は、最大の関心事がAIロボット内で生まれる可能性がある「わたし」(つまり意 識)の問題としているが、現時点でその「わたし」は(a)自己組織化させる、(b)研究者(orプログラマー)が外部からプログラム する、の二つの方向からのアプローチが進んでいる。最新のAIを駆使した「意識」が発生する瞬間のシミュレーションでは、最小 単位の構造となるプログラム・モジュール(そこに至る前段プロセスでは、脳内ニューロン・ネットワークでもそうであるが、実 に夥しい数の“デッドロック・ペア”( 堂々巡りに囚われた最小単位の論理回路))が出現する。そして、意識発生の瞬間(一定 の志向性が決まる瞬間)には「デッドロックで対峙する二組の最小単位モジュール(デッドロック・ペア)が双方の能力(夫々が 相手方の中に自らの欠損(不足する点)の補完を期待しつつ求める能力)に有意となる未来への信用(確率論的な信用)」が基本 となり相互作用することが分かってきた(これは後述する『“現象学”的な意味での記述論理(抒情論理(toxandoria造語!)) の問題に繋がると推測される!』)。http://urx3.nu/FoEr ・・・ ・・・ここから、再び転載に戻る・・・ここで「意識」とは(哲学史上の説明をひとまず置けば)目覚めていて、ごく普通に何か を意識していることだと理解しておいてよいし、「意識に現れてくる現象」とは、目覚めている際に何かに目を向けたり、何か物 音を聞いたり、物事を考えたりしている場合の、それら意識されている物事の、意識に現れているが儘のありさまを指している。 意識に現れてくる現象とは最終的には私の周囲に拡がるこの「世界」そのものであるが、その際によく注意してこの現象を見つめ てみると、例えば知覚しつつ意識されている現象としてのこの「花瓶」は、「花瓶」として意識されてはいるが実際に意識に与え られているのはその花瓶の一側縁(現出)に過ぎない(添付は参考画像/ヤン・ブリューゲル『木製花瓶に生けた花』 Jan Bruegel the Elder(1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男/“花のブリューゲル”と呼ばれた) 「Flowers in a Wooden Vessel」 ca.1606-07 Kunsthistorisches Museum、Wien http://qq3q.biz/Fpcz)。 また、私に意識されているこの「世界」は、ごく一部分しか私に与えられていないのに、私は、この「世界」が私に現れている周 囲を超えて拡がっていることをも何処かで意識している。実際に意識に与えられているもの(与件/=現出(補足、toxandoria)) と、何かとして捉えられているその意味(現れている周囲を超えて拡がっている世界/補足、同)との間には、実はこのように常 にに差異が存在しており、それにもかかわらずこの差異は、普段は殆ど自覚されず跳び越えられているのである。 この差異を架橋して「与件(現出)」を何か「として」捉える働きをしているのは、フッサールによれば意識以外の何ものでもな い。この与件に向かってそれを何とかして或る意味において捉える(統握する)働きを彼は意識の「志向性」(Intentionalitat/ 関連↑既述、<補足>【「意識が生まれる瞬間」についての重要な西川アサキの推論】 )と呼ぶ。 しかも、この志向性はまったく恣意的に働くのではなく、その働きのうちには何らかの規則的・普遍的構造(ロゴス/ここでは学 問的・論理的な理性)が認められる。こうして、フッサールは、意識現象の手前で意識現象を成り立たせるために常にすでに働い ている意識の志向性のロゴスを解明することによって、 周囲に拡がる <世界という現象>と<それが現れてくる場としての意識 ないし自己>との関係を明らかにしようとした。 つまり、意識の志向性の解明としての「現象学」によって、周囲の「世界全体/世界という現象」に問いを向け、自己とその世界 との関わり全体についての哲学―「現象学的哲学」―を目指そうとしたのである。 現象学の方法、すなわち「現象学的方法」とは、まさに、そうした営みへ引き戻すことであり、これこそが「超越論的還元」(但 し、これは第二義の超越論的還元で、既述のとおり、第一義のそれはマッハ的光景への引き戻し/補足、toxandoria)である。そ れは、このプロセスの遂行にあたって、まずもって意識に現れてくる諸現象を純粋にありのままに見つめ、そこに潜む普遍的構造 を記述するために形成された方法である。・・・ここで転載おわり・・・ <補足>射影(夫々の現出)的な内心への囚われ、そこでの堂々巡りこそが「動物一般のそれ」にも似たカルトの心象風景である ・・・より広い周辺の「世界全体」への視座は一種の“習慣(P. ブルデューhttp://qq3q.biz/FpcE)”である。ヒトの文明・文化 ・伝統などもその意味で“習慣”の一種だ。但し、その“習慣”は絶えず更により広い世界と繋がろうとする客観的合理性(委細、 後述)との交信・交流で絶えず補正することで健全性が保たれる。そこでこそ初めて出現するのが、絶えず揺らぎながらも「真理 を志向する意識に対する信用で繋がり続ける間主観性の空間」である。 ・・・このように、ヒトは何らかのコミュニケーションを介さなければ、現象学でいう直接的な「出現」で体験する純粋経験(又 は、それに近い一定の狭い範囲の内心世界)の意識から、その外(より広い周囲の意識世界、絶えず真理へ導く地平) へ出る(突 き抜ける)ことは絶対できない。他方、普段に我々は自分自身が十分に馴染んだ、一定の狭い範囲の意識世界でしか安心して生き られないのも現実だ。 ・・・そこでヒト(人間の文化や伝統・習慣の世界)にとって重要となるのが言語・映像・イメージ・象徴ら様々な記号を介した 多様なコミュニケーションである。但し、対話が重要なのは当然だが、必ずしもそれだけではなく、受け身でない主意(意志)的 な読書やリアル書店の探訪、あるいはSNS等の活用、旅行体験、芸術鑑賞など多様な広義の文化・交流活動をもその補完手段(豊か な感情の海を醸成する場の確保、±のプネウマ(エトノス的な気息、精気、情念が発酵するトポス))と見る柔軟な文化的生活に 馴染むのも重要と思われる。 ・・・これは、イヌ・ネコ・サルなどの動物一般、または様々なカルト一派らが夫々の確信的な内心(狭い囚われへの誘惑/例え ば安倍政権の背後霊(追憶のカルト)とされる日本会議、あるいはオーム真理教、統一協会らカルト)の世界の外(記号を介すコ ミュニケ―ションで新たな“習慣の世界(より広いフリンジ、周辺 、地平)”)へ漕ぎ出すことが容易ではないこと、を想像すれ ば直ぐ理解できることだ。 ・・・ なお、厳密に言えばフッサールは 「現象学の方法」を(1)形相的還元、(2)超越論的還元の二つに大きく区分しており、そ の要点を纏めると次のようになる。 (1)形相的還元・・・人間心理へ「射影」(多くの人々が同じと見る光景)との関りで大きな影響を与える「イデア(理念的な 真理)と一定の時間の流れ(真理としての歴史観)についての、エポケー(判断中止)によるイメージ空間的な現象学的還元 (2)超越論的還元(既述の第二義的還元/当然、その前提が第一義的還元)・・・一種の信頼性(専門的ロゴス(諸学問)が既 に共有している記号(言語など)による共有観念、パラダイム)で繋がる間主観性のロゴス表象空間に関わる、エポケー(判断中 止)による現象学的還元 ← コレは後述する「無前提性の原理」へ繋がる。 (3)「(1)+(2)」が、超越論的現象学的還元となる ⇒ それは、これら二つの現象学的還元を実行することで、我われは『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』の図像 http://urx3.nu/FaY4 の外へ、つまり<各人が夫々に見ている内面表象の世界>の外へ、漸 く、突破できるということだ。この厳密な現象学的還元によって展望し得る、より広い共有世界(E.フッサールの用語で言えば間 主観性、相互主観性または共同主観性)こそが、我われ個々人のアイデンティティーが共和(協和)するための外洋(大海原)で あるという自覚を我々はもつことができる。それがフッサール『超越論的現象学的還元』の意味の核心である。 【無前提性の原理とは何か?】 まず、同じく[ ↑◆榊原哲也著『フッサール現象学の生成−方法の成立と展開』‐東京大学出版会‐ ]から関連する部分を転載 する。 ・・・ ・・・ここから転載はじまり・・・純粋記述(意識に現れているありさまを 、ありのままに捉えて記述する現象学の手法)として の現象学は、さらに「実に様々な理論的諸学の準備に役立ち」、「純粋論理学の土台」ともなる。というのも、純粋論理学を含む 「論理学者」に関して言えば、彼は、「根本的な抽象」によって「自らのイデア的対象やイデア的連関の本質を明証的に把握」し ようとするが、この「抽象」が「何らかの諸体験に基づく抽象」である以上、それら諸体験の「純粋記述」こそが、そうした「根 本的抽象」の「基盤」をもなすと考えられるからである。 こうして記述的心理学たる「純粋現象学」は、経験的心理学のみならず、純粋論理学も含め、「さまざまな『学』(ロゴス)がそ の内に根を有する中立的研究の領域」として位置づけられるのである。 さらにもう一つの要諦がある。フッサールによれば、記述的心理学たる現象学は、「認識論的研究」が要求する「無前提性の原 理」をも満たすとされる。「認識論」とは、彼によれば、「説明」を事とする諸理論に対して、「認識的思考作用(ここでの “認識”は感覚が介在する理解も含めた説明が連鎖する意識、と考えると分かり易い/補足、toxandoria)のイデア的本質ないし は意味についての一般的解明」を行うことによって、諸理論における認識一般を「解明」する「諸理論の理論」を目指すものであ る。 それゆえ、現象学は、権利上「あらゆる経験的諸理論に先立ち」、いかなる理論的前提もその内に含んでいてはならず(=無前提 性)、体験の実的成素だけをそのままに正確に受け取る「十全的に充実化する直観」に立ち返ることを通じて「純粋な認識諸形式 と諸法則を明晰判明にする」ものでなければならない。 つまり、まさに記述的心理学たる現象学こそは、すでに述べたように、「理論の単なる前段階」たる「純粋記述」として、―経験 的発生的心理学のように心理的体験の実的成素を超えて心理物理的な理論化を行うことではなく―「与えられている思考体験や 認識体験」の「実的成素」だけを純粋に記述することによって、志向作用や認識作用の本質的特徴を」明らかにしていく営みであ るからである。 それゆえ、フッサールは「無前提性の原理」が、「現象学的に見て完全には実現され得ない、〔つまり、「体験の現象学的成素の うちに現実的に見出されない」〕ような一切の「原理的」仮定を排除すること」に他ならず、「あらゆる認識論的研究は、純粋に 現象学的な根拠に基づいて遂行されなければならない」とも語っている。 記述的心理学たる現象学の純粋記述は、―理論としての経験的発生的心理学とは異なり―あらゆる理論的仮定を排除した、体験の 実的成素(意識が殆ど介在しない、言葉と経験との只の繋がり/補足、toxandoria)の純粋記述として、無前提的なものであり、 それゆえどのような認識論的(ロゴス的)研究も、この現象学の純粋記述に基づいてなされなければならないのである。 ・・・ ここで転載おわり・・・ ・・・ 以上を言い換えるなら、フッサールが、諸学問の理論がその基盤を喪失しつつあるかに見えた19世紀末〜20世紀初頭の世界的リ スク(戦争の危機と経済格差拡大、および学問の空疎化)の拡大トレンドに抗いつつ「無前提性の原理」を条件とする『現象学 (超越論的現象学的還元)』 によって、「諸学問・諸科学の限界の突破を試みた」ということである。 しかも、グローバル市場原理の奔流(個人主義的な主観的合理性の暴走)に押し流されて殆ど<自己目的>化したかにさえ見え るAI・バイオテクノロジー等の先端技術研究が急加速することで、今や生命の培地であった筈の自然環境と人間文化(多元文化) そのものの意味が根底から問い直されつつある現代の状況が、フッサールの時代に酷似していることに驚かされる。 また、「現象学」は、人類にとり悪夢の如きこの時代を大転換させ得る新たな希望の光にも見えてくるはずだ。それは、このフッ サール『現象学』が、エトノス観念http://qq3q.biz/FpPQを前提とする新たな人類文化の時代、コンシリエンス(consilience/ 人文社会・科学両知の融和的統合の時代)http://qq3q.biz/FpPZ 、http://qq3q.biz/FpPQ>の先取りとも思われるからだ。因み に、人類文化のエッセンスは、「形相(意味に包まれたイデア(エイドス))の意識(志向)化(客観的合理性)→共有(間主観 性)化の継承」という点にあると考えられる。 例えば、近年の科学史研究では、コペルニクス的転回で近代精神の幕開けを飾った「近代天文学」創始期の師である「古代末期〜 中世期のイスラム天文学(アラビア科学)」が政治・交易経済・農牧畜業など、当時の庶民層の日常的生活文化を支えた「占星術 の世界観」の中で育まれたことが解明されている(http://ur0.work/Fuex)。それは、まさにコンシリエンス(客観的合理性)の 世界であったことになる。 <補足>ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について ・・・M.ホルクハイマー(18951973/ドイツの哲学者・社会学者、フランクフルト学派の代表、アドルノとの共著『啓蒙の弁 証法』で名高い)は、古代ギリシャから凡そ16世紀頃まで広く認識されていた客観的合理性(中世哲学が代表する観念/世界秩序 に関わる冷静、謙虚、かつ統合的で直観的な原理)と主観的合理性(傲慢化し易い還元的・道具的理性)の区別が、近世以降は混 同されるようになったと、警鐘を鳴らしている。 ・・・<政治・経済の科学(主観的合理性)化の典型>ともいえる新自由主義(過剰化した市場原理主義、作為的アンシュタルト の一種)が、この「主観的合理性」の代表と考えられるが、今や、AI研究がその最先端に到達しつつあるため、流石にAI研究に携 わる専門家自身の中から、<AIが体現しつつある主観的合理性の暴走に関わる大きな危機意識>が出始めている(参照/ 添付画像↑『AI自動制御兵器“Go and Forget!は究極の非人道!』)。 ・・・いずれにせよ、このような意味での「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズ ム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえるであろう。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合 理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の 必然性が感じられる。 2−3 フッサール現象学「射影のリアリズム」の再認識/「“意識(感情の政治学)”が浮かぶ海」の発見 2−3−1“フッサール「射影の直観経過」が意味するのは「“意識”が浮かぶ海の発見」ということ ・・・それは客観性(間主観性)の担保である記録(プラトン的イデア、つまり真理を包む形相の保全)の破壊と“もてあそび” が瞬時にしてファシズムへの暗転を呼ぶ、ということ・・・http://ur0.link/FyO6 ・・・トランプ、安倍晋三らに決定的に欠ける「現象学的還元」的な意識!/無論、現象学的還元なる重要な視座の発見はフッサ ールの功績であるが、この難解な専門用語による説明を待つまでもなく、実は、この種の意識(例えば、間主観性の共有の拡がり が『人間社会』の成立の前提であるということ)がヒトの文明進化(厳密には深化!)にとって重要なのは、常識人なら既に十分 理解してきた筈だ。しかし、新自由主義アンシュタルト(その特異な“主観的合理主義なる感情”の暴走を良しとする空気)が社 会常識の絶妙な均衡を破り、悪しき方向へ反転させた。・・・ <補足>「間主観性」前史と「ネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)」の関わり (1)[西欧中世「決疑論」から近代啓蒙主義(“間主観性”観念の歴史的な形成プロセス)への流れ] ・・・西欧中世カトリック教会の「決疑論」(カトリック告解の指針、思考方法が中世スコラ哲学を経て精緻化し、それは近代 (16〜17世紀)になると個人の道徳判断の指針・説明へと発達した)と、近代啓蒙主義における「間主観性」観念の発達&共有化 (政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代司法・裁判制度、又は近代以降のジャーナリズム成立などに繋がる)について の理解が重要! http://ur0.biz/FmDF (2)[間主観性とネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)の共鳴] ・・・(1)の視点の敷衍・拡張が「基礎情報学」で言うネオ・フィードバックシステム(マシン内部のフィードバック処理回路 を越えた人間社会、人間の歴史、自然・生命環境全体、すなわち内外の全エトノス環境と相互交流する意味での新しいフィードバ ックシステム)の概念!Cf. ⇒ 基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究、論考発表サイト:西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師・大井奈美http://ur2.link/Fqtt ・・・ 「間主観性」なる言葉はフッサールが初めて使用したとされるが、それには見過ごせない前史がある。各人が持つ狭隘な意識(あ る一定の志向性、つまり感情を持つ個々の内心)とは別に、それを超えて「紛れなく客観的な時間と空間が存在しており、人々の 間にはそれと同等の意味合いを持つ意識空間が広範に共有されつつ拡がっている」という観念を、特に近世以降の近代・現代人が (それを明確にするにはホルクハイマーの二つの理性(合理性)に関わる逆説的な理解も必要となるが/委細、後述)持つように なったことには、この「決疑論」の深化過程での「主観的合理性/委細、後述」(≒自由意思)の発見が貢献したといえる。 エピローグで少し詳しく書くつもりだが、その意味でも、「リベラル共和主義国(国民主権国家)」と「ファシズム国家」の差異 は紙一重であり、恰もそれは既述の<量子コンピューターの原理でもある「量子力学のダイナミズム」、あるいは「ラカン鏡像の 逆説」(鏡像→自我形成、のプロセスの失敗で、“無限後退”なるアイデンティティ・パラドクスの罠に嵌る)>の微妙な均衡の 作用と酷似している。 そして、この紙一重の差異(せめぎ合いの場)を制しつつ辛うじて「リベラル国民主権社会」を実現させるカギを握るのが意識の 海に浮かぶ「感情の政治学」の問題であると思われる。つまり、ヒトの意識(ノエシス)は「感情の海に浮かぶ小島の如きもの」 ではないか?ということだ。一般に、超越論的現象学的還元で純粋経験なる原印象「空間」を発見したフッサールは感情の問題を 無視していると「誤解」されてきた。 しかし、近年、AI・脳研究の進化とM.アンリの現象学(情感・情念と記憶の関連性を探求http://ur0.link/FzNM)についての理解 の深化(委細、当記事Ser.2で詳述の予定)で、フッサールが「イデーン1」(後述)で論じたノエマ(意識の対象的側面)が、 実は情感(情念、感情)の海に浮かぶ、何らかの協和的回路に取り込まれつつ非常に厳しく最小限度に選択された意味の塊であ り、それが志向性(ベクトル)を帯びた意識をもたらすのでは?と理解されるようになってきた。これは、まさに<AI・脳研究と 現象学の共鳴による感情の海>の発見である。 言いかえれば、いまAI・脳研究のフィールドでは「意識(現象学で言う志向性ベクトル)の発生と感情の深い繋がり」が、新たな 先端サイエンス知として理解されつつあるのだ。それは、根本的にAIと異なる「“環境・文章フレーム”の積極的読解力」(自ら の生命維持条件である内外環境への高度な感受性を持続させ得る能力、いわば意志と感情が混然一体化した生命意識とでも言うべ き情念の大海原)こそが、AIならぬ人間の「節度ある自由意思」のバックボーンだと考えられるということである(Cf.⇒http://ur0.work/FulY)。 2−3−2 射影(見かけのイメージ)に大きく影響される無辜の多数派国民層を主体とする此の程度の支持率Up(改造後の安倍 内閣)は想定内と見るべき! ところで、我が国では20170803に内閣改造が行われたが、安倍政権の<お友達らが好む「異常なカルト物語りの世界」へ日本国民 を強引に連れ込み、そこで激しく日本国民を凌辱しようとする悪辣な意図、そしてそのための悪質な隠蔽工作は些かも変わってい ない。それどころか、以前にも増して、その「総国民“連れ込み作戦”」に関わる彼らお仲間の意志を貫徹するための薄汚い戦術 は、より悪辣化し、より卑怯化しつつある(参照/添付画像)。 Cf. ⇒ 『<永遠のゼロ(バカ?ハゲーッ?)式、ヤラセ視聴者の会>の一面広告(御用広報紙/読売・産経)!← この広報費用 の出所は官邸機密費?』http://ur2.link/FqxY しかし、安倍政権の<見かけだけで善良な国民を徹底的に騙しぬこうとする、一見、小利口で策略的に見える「日本会議」流? の“カルト式洗脳戦術”なる軽薄な演出の化けの皮はすぐにハゲ落ちることになるだろう。それは、フッサールが著書『イデー ン』(参照/下記◆)で指摘した「射影のリアリズム(直観経過)」に関わる<知覚・意識/ヒトとしての思慮分別をもって外界 の事物や身体内部の状態を統合的に理解する働き>に関わる理解が彼らの著しく狭窄化した視野からスッポリ抜け落ちているから だ。 ◆イデーンI‐1純粋現象学への全般的序論(Erstes Buch, Allegemeine Einfuhrung in die reine Phanomenologie 1913)エト ムント・フッサール 訳:渡辺二郎(みすず書房)1979 http://ur2.link/Fqyn ・・・前半、省略・・・しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにせよ、当の方法論自体について、まず世 の人々は良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に綿密 に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき) さて、フッサールが著書『イデーン』で使った「射影」は「現出」(瞬時的・微分的な感覚・体験の流れ/本質直観とも同意)と 同義である。そして、「様々な現出(諸現出)」は「現出者」(真の実在、真理/ここでは、そこに実在する長方形の机)に向か って突破する(意識的に突き進む)ことになる。なお、フッサールは現出を記号とも呼ぶ。例えば、そこにある長方形の机がある 視点(見る人の意識、ノエシス)から平行四辺形に見える場合、その平行四辺形がコレ(射影、本質直観)に相当する。 が、ここで留意すべきは<この時、諸現出である平行四辺形の形は異なる視点の数だけ現出1、現出2、現出3・・・、現出nと いう具合で、そこにある視点の数に対応して無数に存在することだ(同一の視点が場所を移動するケースでも、現出1、現出2、 現出3・・・、現出nは時間の流れに沿った現出(射影、本質直観)の変化になる)。 そして、フッサールはこの無数の現出が一つの基体(ここでは意識の核の意味)に収斂し全体的意味が凝縮した塊(おそらく、複 数のデッドロック・ペア/Cf. 2−2『「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論/西川アサキ』)をノエマ(意識の対象的側 面:これが、人間の意識の主軸たる“感情と表裏一体の自由意思”の源泉では?と思われる/補足、toxandoria http://urx.mobi/FA0F, )と呼んでいる。 <補足>ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―の「盲点RAS」の発生 と、フッサール「ノエマ」の関連性 ・・・同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD )な統合合理性」の実現(目的に応ず るベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る視覚)のため、敢えて「RAS」を発生させ個々の生体の「生命の安全 も確保」している。つまり、人間の意識の核であるノエマも同じことで、おそらくその意識化と共に99%以上の情報(夥しい数の 射影)は常に捨てられている。だからこそ、生命の安全と文化深化のためにも間主観性(最大公約or最小公倍的射影)を同定・保 持する記録・ドキュメント、およびコミュニケーションの役割が重要になる。 ・・・ Cf. ⇒ 安倍内閣は隠蔽&“記録・記憶抹殺”オンパレード!その異常さはカルト「幻想政治」劇場のおつもり? http://ur2.link/FqOP |