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■客観「知」を心底で憎む追憶のカルト、その靖国『顕幽論』是非の意識が日 本の命運を分ける/希望は量子論・AI・脳科学らの最先端で必然の流れ「自然 ・人文科学」融合(コンシリエンス)が生まれつつあること!(6/6) <注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 (エピローグ1)希望の光は量子論・AI・脳科学ら先端研究での自然・人文科 学融合の必然性!/トマス・カスリスの神道に対する率直な思い、からの連想 ・・・それは、「神道精神の眼差しを『内』(本居宣長“ロマン主義”の曲解 ⇒靖国顕幽論(平田篤胤)なる、「1801年〜幕末〜明治維新〜太平洋戦争」期 に作られた国家主義スピリチュアリティー(異常イデオロギー)への没入)か ら『外』(世界平和の象徴化の方向)へベクトル転換することが今こそ肝要だ、 ということ!・・・ トマス・カスリス『神道』(ちくま学芸文庫)の『はじめに』の冒頭は、次の ように書き出している。 ・・・神道を説明するのはとりわけ難しい。たいていの日本人にとってもそう だろう。神道の基本的な価値観やふるまいの形は日本文化に浸透し、伝統(日 本人の日常生活←補記、toxandoria)の一部となっているので、神道を意識的 に参加する「宗教」 (religion)とみなす日本人はめったにいない。・・・ そして、この『はじめに』以降の章立て(当書の構成)は、以下のようになっ ている。 第一章 鳥居をくぐる 第二章 日常のなかの関連性 第三章 古代神道(先史時代〜794年(平城京遷都))−草分けとなった人々 第四章 奈良から宣長へ(794〜1801年(宣長の死))−道を示した人々 第五章 すべての道は東京に通ず(1801〜2002年) 第六章 故郷への道 第一章と第二章では、初詣、七五三、縁結び、受験合格、入学、交通安全祈願 など通過儀礼の入り口として神社を訪れるという行為が、殆ど無意識に近い形 で日本で行われていることの意味、つまり今でも一般日本人の日常生活に浸透 している「神道の日常感覚的なスピリチュアリティー(何かを感じる生活)と は何か?」を考えている。 第二章と第三章では、その「神道の日常感覚的なスピリチュアリティー」のル ーツが、古代神道(先史時代〜794年(平城京遷都))の時代から1801年(本居 宣長の死)、という約1000年にも及ぶ、非常に長い歴史時間の中で日本人の心 身に浸透してきたものであることを理解する。 第五章では[1801年、以降の約200年をエポック期と見立てた上で、その約2/3 を経た時に、漸く太平洋戦争の終戦で「伝統神道が異常化した時代」が終わり、 一般の日本人は往年の『神道の日常感覚的なスピリチュアリティー(1)』を 取り戻したが、2002年「小泉首相の靖国参拝」で、再び、この「異常(靖国崇 拝/国家神道)⇒正常国家観(象徴天皇制)」のベクトルが逆流し始めたとい う、日本現代史の問題点]を分析する。無論、それが今の安倍政権(日本会議、 神社本庁ら)のアナクロ暴走へ直結していることは言うまでもない。そして、 問題は本論[3−2]でも取り上げた「靖国神社/顕幽論」である。 カスリスも、「顕幽論」という言葉こそ使っていないが、本居宣長のロマンチ シズムへ過剰没入する思想(もののあはれ)の曲解に付け込んだ平田篤胤派の 国学系神道が、幕末〜維新期の諸思想および政治権力と融合しつつ異常化の度 合いを深め、神道は超然宗教であるとのお墨付きを文部省(当時)が遂に与え ることとなり、天皇を現人神へ祭り上げる国体論に完全支配される国家神道 (軍神・英霊を頂く靖国神社(顕幽論))に隷属する異常国家・日本が誕生し たという訳だ。 実は、冷静な客観的「知」(学校教育とアカデミズム)を司るべき「文部省 (現在は文科省)」自身が、普遍的人間観・生命観に関わる冷静さを見失うと いう出来事は戦前だけのことではなく、今や人工知能(AI)やシンギュラリテ ィのコトバが常識化しつつある現在の日本(AI立国を自負する安倍政権下 の!)でも、そのような嫌な空気が流れ始めている(参照、下記の関連情報)。 (関連情報) ◆【カルト狂気、戦前型「顕幽論」の正体を露わに見せ始めた安倍内閣】安倍 政権が「強権下100%現状肯定=批判的«人文知»に対する排撃政策」を教育・ 学界(幼児・初等〜大学・研究)・図書館に強制する動因は、日本会議 ・神 社本庁の奥に潜む<顕幽論/靖国霊璽に憑依した神霊(エクトプラズム/神格 英霊のリアル化)の代理人たる安倍首相を天皇より上位の現人神と見なし崇め る追憶のカルト>の狂気(病的興奮)! ・・・日本会議の仕掛!国直轄の国家・国制教員免許化と国公私立の対全教員 「共通理念の立法化」検討は、戦前の<超宗教とされた(1889勅令第12号)国 家神道の根本教科化、翌1890の教育勅語・発布、なる軍国主義精神での国民洗 脳・教化の歴史>を髣髴させ寒気を覚える!何がアベ真珠湾訪問か!20161207 @只のオッサンRT@朝日・報道編成局http://urx3.nu/AH5m ◆『ウソと狂想(追憶のカルト、靖国・顕幽論)こそがリアル(日本の現実)を 変える』?/ゴマカシで目標達成@masaru_kaneko/鉛筆ナメ(対新基準微工作 で?)て31.6兆円オン(かさ上げ)しGDPが一挙に532.2兆円ヘ底上げ!+AIシ ンギュラリティ狂信でGDP600兆円は指呼の内だ!by安倍晋三・総理大臣 evernote更新日 2016/12/08 http://urx3.nu/AH5l ・・・ このような空気を察知したのか否かは不明だが、(1−2)で取り上げた西川 アサキ(情報基礎論、AI研究&哲学者)が「日本社会(おそらくアカデミズム も含む?←補足、toxandoria)は、AI・量子物理学・核理論等と人文・社会科 学系“双方の先端知の融和的な協力が必須のフィールドで人間の意識に関わる 問題の熟考を試みる真の科学的態度(冷静な研究スタンス)”に対する一種の 憎しみの感情(いわば、客観“知”への憎しみ)に囚われているのではない か?」と述べていることが気がかりである。 また、[1−3 人文・自然科学融合の地平(2)脳科学研究フィールド]で 取り上げた脳科学者・金井良太が『脳に刻まれたモラルの起源/人はなぜ善を 求めるのか』(岩波書店)を書いた目的が、以下のようなことにあると述べて いるが、これも、今や再び戦前や戦中期に似た異様な「客観知への憎しみ」の 空気が漂い始めた日本社会(その発信源は日本会議、神社本庁、原子村、日本 政府、同調ヒラメ・マスメディアら)への一種の警告の言葉として読むことが できそうだ。 ・・・モラル、いわゆる道徳とか倫理というと、人間に固有の客観的な理性に 基づく判断だと考えられ、主観的で情動的な判断と区別される。しかし、最近 の脳科学や進化心理学の研究によれば、モラルは、人類が進化的に獲得したも のであり、むしろ生得的な認知能力に由来するという。脳自身が望ましいと思 う社会は何かを明らかにしたい。・・・ (エピローグ2)“AI利用が本格化するこれからの時代には「人文・自然科学 知の融合」が必然となることを傍証する最も重要なポイントを以下に纏めて、 再録しておく ・・・これら重要な事例(1)〜(7)を改めて俯瞰すると<日本会議、神社本庁 らの策動の下で、本格的なAI時代に必須とされる「客観知/コンシリエンス」 (人文・自然科学知の融合の必然性)を心底から憎む『追憶のカルト(安倍政 権)』の異常さ(既述のとおり、安倍政権は「批判的<人文・社会科学知>に 対する排撃」政策を教育・学界(幼児・初等〜大学・研究)・図書館に強制し 始めている!)が如何に愚かな行為であるかが改めてクッキリ浮上する。 ・・・<注>(8)は、米国の昆虫・社会生物学者E.O.ウイルソンによる「コン シリエンス」の定義。(補足、http://qq1q.biz/AHDS より) (1) AIに関わる思考実験上のことだが、「意識が生まれる瞬間」の直前に現れ るシュミレーション・モジュールの最重要なファクターが「未来への信用」で あることが分かってきた。(西川アサキ/情報基礎論、AI) (2) その「未来への信用」を保証するのは確率論的な計算可能性だが(西川ア サキ)、米トランプ流の行き当たりバッタリの「恫喝政治」や安倍政権が好む 「アベノミクスの失敗を絶対に認めず弥縫策(AI万能ツール視、原発ゴリ推進 、軍需&カジノ経済化など)を出しまくるバクチ経済」は計算が不可能な“ま さか(不確実性)”の世界へ国民を陥れることに等しく(浜矩子、http://urx3.nu/AHiu)、ダ―ウイン進化論を包摂する上位概念となる可能性 が高いとして注目を浴びる「永続性の原理/“人文科学の知見に無知”という 根源的愚かさ故に究極的永続性を無視する種は絶滅する!」(仮説/長谷川英 祐、・北大大学院農学研究院・准教授http://urx3.nu/AHqt )から見ても決 定的な誤謬となる可能性が大きい。 (3) 同じ不確実性でも、例えばEU統合のような“『権限⇔権限』関係を包括す る入れ子モナドロジー的な囲い込み環境”に因る内在リスクを前提する不確実 性の場合のAIシュミレーションでは、意外にも共可能性(共存と常識を支持す る多数派集団(社会))が現れ、それを前提しない場合では逆にデッドロック (対応・処理不能の堂々巡り)状態が観察される。(西川アサキ) (4) 人間社会における、「リアル支配力」と実存重視の「知性主義」は基本的 に無関係であることを再認識すべき!(西川アサキ)逆に言えば、権力者には バカでもなれるということ!この観点から主要メディアは猛省せよ! (toxandoria/w)Cf. 『国境政策のパラドクス』『排外主義を問い直す』編 著の森千香子さんが『排除と抵抗の郊外/フランス〈移民〉集住地域の形成と 変容』で第16回大佛次郎論壇賞を受賞。 (5) 情報基礎論の西川アサキが<人間社会についてのAIシュミレーションで、 仮に全ての個人を完全開放系(司法の威信が激劣化した社会環境)へ置く(投 げ入れる)と仮説したところ、その社会が一気に不安定化して「行政独裁⇔ア ナーキー(無政府状態)」の間を激しく彷徨するという恐るべきループの罠に 嵌る社会現象>を観察したと報告。(西垣 通/情報基礎論、AI) (6) 人間の脳の構造に「本能的な感覚としての倫理観を司る部位」(おそらく 進化論的プロセスで蓄積!)があることなど極めて重要な事実が確かめられつ つある。そして、このことが科学的・客観的に確認されれば(そうなる可能性 は非常に高い!)、ジェレミ・ベンサムの功利主義に基づいて「最大多数の最 大幸福を求める経済合理性」の問題が、単純なものではないこと(→その終着 点が自由原理主義で本当に良いのか?)が説明可となりそうだ。(金井良太/ 脳神経科学、AI意識研究) (7) カスリスによれば、日本人の特徴であるインテマシーを代表する神道スピ リチュアリティーは「自己の外へ出るのではなく世界観をホログラフィカルに 内部へ没入させよ!」と強く要求する傾向があり、それが客観「知」の分析に 因る契約(エンテグリティ)ならぬ「感情の最も暗い部分」への無限の沈潜と なリ、遂には古来日本の大和魂などの如く「現人神天皇(国体)のための自死 (散華)」が「自己犠牲⇒完全な自己保存体観念/異常性(倒錯美意識?)」 へホログラフィカルに反転する傾向が観察される。(トマス・カスリス) f:id:toxandoria:20170104055052p:image:w200:left(8) 「人間の意識の主軸 は感情と表裏一体の自由意思だが、それは絶えず“原因の空間(因果/究極的 には人間の力が及ばぬリアル現象の連鎖である現実の流れ)”と“理由の空間 (神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”を区別して観察できるこ と。この両者は対立するものではなく、両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、 もつれた(entangleした)状態であることが人間の意識の正体(それが、生き る意味!)と見るべき。前者(原因の空間)は「連続性の視点で究極的説明が 理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)があるのか?」、 後者(理由の空間)は「機能的視点で至近的説明ができる能力/その機能をど のように使うのか?」である。そして、その先に見据えるべきが両能力を更に 生かせる“より高度で多元的な意識”の誕生、つまり新たな<人文・科学知の 融和的統合(コンシリエンス)>による啓蒙主義ルネサンスである。(E.O.ウ イルソン著書『ヒトはどこまで進化するのか』) 《 完 》 (追記) 年初早々から、縁起でもなく、「追憶のカルト」の正体の凝視とい う<余りにも暗い日本の現状と未来>についての記事となったが、やはりその 先への希望は、ここで取り上げた、非常に有能な若手研究者らによる新時代の 客観知「コンシリエンス」(consilience)を構築する努力、特に「量子論・ AI・脳科学ら先端分野の自然・人文科学との融合」へ意欲的に取り組む研究と ベンチャー活動にある。その辺りで希望の光を感じさせる良質の「論考」をネ ット上で発見したので、参考まで以下に転載しておく。 ■ネオ(二次)・サイバネティクスについて/基礎情報学/ネオ・サイバネテ ィクスの研究、論考発表サイト 西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師(2016-)大井奈美(早大第一文学部卒、東大学際情報学博士課程修、博士 (学際情報学)[出典:http://qq1q.biz/AHEd より転載] サイバネティクスは、自然科学の基本的な対象である物質やそのエネルギーよ りも、私たち生命体がなんらかの対象をいかに観察するのかを、考察の対象と してきました。すなわち、物質よりも情報の領域に注目したのです。コンピュ ータというあたらしい情報処理技術の登場に刺激をうけて、私たちの認知(情 報処理あるいは観察)のしくみにたいする関心が高まったことが背景にありま した。 サイバネティクスは、環境と生命体との循環的な因果関係を重視します。循環 的な因果関係は、たとえばエアコンに搭載されたサーモスタットのフィードバ ック機構を思いうかべるとわかりやすいでしょう。設定温度と室温との循環的 な影響関係にそくして作動する機構ですね。 循環的な因果関係というサイバネティクスの着想を徹底させたのが、「ネオ・ サイバネティクス」です。どのように徹底させたかというと、私たちの認知の しくみについて考える際に、ある時間的な一点における認知ではなく、私たち が生まれてから今にいたる認知の歴史全体を考慮に入れ、その歴史全体に循環 的な因果関係という構想を導入したのです。 あらためてエアコンの例で考えてみましょう。冷房設定のとき、サーモスタッ トによって、室温がエアコンの設定温度を上回ればエアコンは作動し、下回れ ばエアコンは一時停止するでしょう。設定温度はエアコンが室温を「観察」す るための「認知」の枠組といえますね。ここで設定温度は、外部の人間が機械 的に設定する基準にすぎません。 しかし、私たち生命体に目を向けると、私たちが認知するときの枠組は、外部 から機械的に決められるものではありません。今まで生きてきた時間のなかで 経験をつうじて作られてきたものです。私たちの価値判断の基準と言い換えて もよいでしょう。ネオ・サイバネティクスが扱うのは、このような認知(観察) の枠組であり、ある時間的な一点における認知(観察)行為ではなく、それを 可能にする認知(観察)の枠組そのものを問題にするのです。 このような考え方は、ハインツ・フォン・フェルスターという物理学者の記憶 研究からはじまったので、フェルスターはネオ・サイバネティクスの始祖とさ れています。私たちは、今の状況に対処するときに、意識するにせよしないに せよ、過去の経験をある程度参照しますね。似たような状況を昔いかに評価し、 どのような行動によって対処したのかを思い出すとき、私たちは単に記憶をた どっているだけではなく、そのときの価値判断の基準をふたたび学習している のです。 いわば、体験の記憶をひきだすとき、私たちは体験をもう一度とり入れていて、 ここにフィードバックの循環があります。フィードバックループによって、一 人ひとりに固有の価値基準ができていくわけです。 このように記憶能力と学習能力は不可分に結びついていますが、記憶や学習だ けではなく知覚能力や推論能力なども含めた全体的で統合的なプロセスとして、 認知を理解する必要があります。私たちの認知は、一つひとつの機能のたんな る寄せ集めをこえて、全体として実現するはたらきなのです。要素の寄せ集め 以上のはたらきを全体として実現するものを「システム」と呼びます。私たち の身体も、器官のたんなる寄せ集めではないので、システムの代表例ですね。 したがってシステム理論は、ネオ・サイバネティクスにとってたいへん役立つ 考え方だといえるのです。 なお、フィードバックのループを「再帰性」と言い換えることができます。私 たちの再帰的な認知プロセスは、循環的に閉じています。その意味で私たちは、 認知的(情報的)には、外部から内部へ情報をとりいれたり逆に与えたりする 開かれたシステムではなく、内部と外部の区別が問題にならない、閉じたシス テムなのですね。これを「情報的閉鎖系」と呼んでいます。しかし閉じている ことは、私たちの認知プロセスがいつもぐるぐると同じ場所をめぐって現状維 持に甘んじているだけということを意味しません。むしろ、状況に応じて、あ たらしい情報をらせん的に創発させていく可能性がひらけており、ゆたかな創 発を実現させ望ましい方向に導くことが、ネオ・サイバネティクスの重要な課 題の一つとなっています。 この課題を果たすための理論的な基礎づけとして、神経生理学者のウンベルト ・マトゥラーナが弟子のフランシスコ・ヴァレラとともに提唱した考え方を、 オートポイエーシス理論といいます。オートポイエーシスとは「自己創出」を 意味する造語です。細胞分裂を思うとわかりやすいですが、私たちは身体的に は、今と同じ状態を保つために自分の体を作りつづけています。身体的なオー トポイエーシスですね。老いや病はあるにせよ、成長してしまえば、基本的に は現状維持を続けているわけです。この現状維持は、私たちが自分自身である ために欠かせません。 しかしそのうえで、単なる現状維持にとどまらず、コミュニケーションをつう じてあたらしい自己を創りだし、ときに自己変革さえもうけいれていくことが、 千変万化する環境のなかで生きるために必要不可欠ではないでしょうか。それ を可能にするのが観察(認知)という営為なのだと、マトゥラーナは考えまし た。意味的・情報的なオートポイエーシスが起きているのですね。 なお、ここでいう観察は、知覚とは区別されます。すでに述べたように、観察 (または認知)は全体として把握されるべきものであって、知覚はその一部の 機能にすぎないのです。たとえば色の認知について考えるとき、ネオ・サイバ ネティクスが重視するのは、「どうしてその色が私に見えているのか」という 知覚の問題ではありません。むしろ、「その色が見えていると私が語るとき、 私のなかでは何が起きているのか」という観察の問題なのです(括弧内は、マ トゥラーナによる表現をもとにしています)。ある色は、誰にとっても同じよ うに見える客観的な現実ではなく、むしろ、一人ひとりが過去の体験に即して つくりあげる主観的な現実なのです。この事実を、マトゥラーナは、ハトの色 覚をめぐる研究データからあきらかにしました。 このように、各自の経験にもとづく歴史を背負って生きることと観察とが一体 のものであると示した点で、マトゥラーナはネオ・サイバネティクスのもう一 人の父とみなされています。私たち生命体の本質が「観察者」(意識のある← 補足、toxandoria)として理解されたわけです。ネオ・サイバネティクスに深 く関係する生命記号論は、こうした観察者としての生命体について深く考察す る研究領域なのです。 現実が観察者の外部にあって、観察者はその現実を表現(表象)するのだとい う表象主義の考え方ではなく、現実は観察者の内部でつくられる(構成される ・自己創出される)のだという考え方を、構成主義といいます。常識的には、 私たちは外部から情報をインプットし、そしてまたあたらしい情報をアウトプ ットするという直線的で機械的な情報処理のモデルによって、認知やコミュニ ケーションを理解しています。この考え方は、情報処理パラダイムと呼ばれて います。 しかし構成主義の立場からは、私たちはそれぞれが認知的に閉じた世界のなか に生きているのであり、情報は決して伝達されるものではなく、閉じた世界の なかで作られるものなのです。この立場は常識的な認知理解である情報処理パ ラダイムとは根本的に異なる(つまりラディカルな)ので、とくにラディカル 構成主義と呼ばれています(ラディカル構成主義という呼称のより正確な由来 は、ジャン・ピアジェの構成主義理論をラディカルに解釈したことですが、く わしくは別ページの説明を参照してください)。 私たちは、内的なフィードバックループによって、過去に構成した情報(現 実)を想起しつつ新しい情報(現実)を構成しているのであり、現実の構成を つうじて、結果的に私たち自身をもつくりあげています。なぜなら、くりかえ し参照される認知の枠組は、私たちのアイデンティティ(同一性)をなすもの だからです。さらにいうならば、私たちの現実とは、私たちのものの見方の実 現なのです。 しかし、私たちは、まったく自分勝手に現実をつくりあげているわけではあり ません。自分ひとりだけが世界に実在するという独我論に、ネオ・サイバネテ ィクスは与しません。このことを、山高帽をかぶったビジネスマンのユーモラ スなイラストが示しています(ゴードン・パスクによるものです)。 ・・・以下、省略・・・ |