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■啓蒙主義ルネサンスを説く『民主主義の内なる敵』著者、T.トドロフ『日常 礼賛』の多元的な眼差し/一方、<新国家観>欠落の偏狭『AI万能GDP600兆円 の未来=アベノミクス教』は日本瓦解のプロセス!(1/n) <注記>お手数ですが、添付画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20161107 ・・・画像[オランダの光](映画、ピーターリム・デ・クローン『オランダ の光』よりhttp://urx.blue/zoq3/ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる 敵』については、後述する((2−1)を参照乞う)。 <補記>「瓦解(がかい)」は、“要(かなめ/pivot)の瓦が一枚壊れただ けで、その屋根瓦の全体が崩落し破壊される”が原義であることから、ここで は「ワンポイント(閉鎖系一極)主義、排他主義、独善(傲慢一元)主義」 (多元主義の反対)の脆弱性の意を強調するため使った。 (プロローグ)政治・文化・経済ニューフロンティア、“啓蒙主義ルネサンス” は1%派の饗宴(ダンテ地獄変の世界)ならぬ、一般国民の『日常礼賛』がも たらす ・・・ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』(白水社)の表紙を飾るのはピーテ ル・デ・ホーホ:『母親と少女』1659-60(一枚目)、フェルメール:「窓辺 で手紙を読む女」ca.1659(二枚目)、「牛乳を注ぐ女」ca.1657(三枚目) ・・・ピーテル・デ・ホーホ『箪笥の傍の婦人たちのいる室内』1663(上)、 レンブラント:「織物商組合の幹部たち』1662(下) ・・・当記事の動機となったツヴェタン・トドロフの両著、『日常礼賛』(17 世紀オランダにおける“日常生活”充実への市民のこだわり)、『民主主義の 内なる敵』からの学び/それは、何事につけワンポイント主義で全てが解決す ることはあり得ず、啓蒙主義の精神をハートランドとして絶えざる日常性(生 活)の維持と充実を求める市民層の多元的で強い自律意思(共生志向の主権者 意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望(アナクロニ ズムの対極)があるということ。・・・ ・・・因みに、ワンポイントで全ての現実が動くという異常情念が支配する思 考回路に嵌り出現するのがマッドサイエンティストだが、それはAI学者、生物 化学者(ロードショー公開中の映画『インフェルノ』(ダンテ地獄編)のテー マはコレ!http://ur0.pw/zski)ら自然科学者に限らず、人文系でも日本会議 に連なる学者らは、おそらくそれと同類の思考回路だと見るべきだろう。・・・ ・・・ 「写実主義と寓意的意味という二つの狭い視点だけでしか一般に風俗画とも呼 ばれる17世紀オランダ絵画を見ることはできないのだろうか?」というのが、 ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』の出発点(同書を書く動機、多元的な眼差 し)であった。トドロフはそこに共通する<日常生活のジャンル>のなかに存 在する、豊かさへの節度ある願望が持つ尊厳性に気づいたのだ。 つまり、「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれ格 闘(entangle)する過程の中に画家たちは三つの夫々に還元できない、ある種 の新しい人間的な美意識を伴うリアルな文化・経済価値を創造する作用を発見 した」とトドロフは主張する。もっと言えば、これら三つの要素と中間層市民 の『日常生活(の礼賛、へのこだわり)』という個々の異なるエトノス(世界 観)の緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と多元的な経済価値のフロンティ ア」を発見し続けたのである。 より大きくとらえるならば現代にもつながる人間の営みの普遍性であり尊厳性 でもあると見るべきことで、それは<資本主義経済の持続性(および結果とし ての成長)を請け負い保証するプラットホームが普通一般の市民層の日常生 活>の中にこそあるという発見であった。 言い換えれば、それまで圧倒的な宗教の支配に従属していた人間の本質的なも の、人間の自由意思と正統な宗教意識の適度な調和と距離感を実現する啓蒙思 想(相互の信頼と信用を保全する共同主観性としての政教分離の理想)にこそ 馴染む、多数派市民層を中心とする“日常生活”の意義の発見ということだ。 無論、この当時のオランダの「政教分離」は未完の発展プロセスの途上ではあ ったが。 そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派層の市民(17世 紀オランダの場合は各自治都市の自律意識を持つ市民層)の日常生活を支え得 る、過剰(バブル)にならぬ程々の貨幣流通「速度」(経済学的には、同一の 貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均で、貨幣の『所得速度』とも 呼ばれる/実は、現代でも忘れられてきたがかのケインズがこれを最重視して いた!)の確保の意味(重要性)の発見ということだ。 ここで観察される現象は、この時代が独立戦争(1568〜1648)を機にオランダ の国民国家フレームが完成しつつあったことを考慮すれば、未だし20世紀の福 祉国家の観念までは程遠いとはいえ、財政学者・井手英策氏が著書『経済の時 代の終焉』(http://ur0.work/zq0I)で、安倍政治の“アナクロと新自由主義” 癒着なる逆噴射政策の欠陥を批判しつつ今後の日本の方向性を指摘した「成長 は国民の“日常生活”行動の結果なので、あるべき財政学の観点からすれば先 ず相互扶助・再分配等で市民生活へ安心感を与えるという国家財政の役割を根 本から再考慮すべし」と説く議論の歴史的原点であるとも言える。 かくの如く17世紀オランダの市民生活(イギリス産業革命から100年以上も前の 時代)で何よりも重視された価値は多数派中間層の日常生活(日常礼賛)であ った。また、この時代のネーデルラント共和国(ほぼ現在のオランダに重なる) 辺りの各自治都市住民の『日常生活』ニーズは衣食住の満足だけではなく一定 の経済価値を伴う新たに発見され続ける芸術(美)的価値(特に絵画)等がそ のジャンルに入っていた。 このため、中産層市民の各家庭では少なくとも1〜2枚以上の絵画作品を所有 しており、17世紀のオランダでは既に他国に先駆けて画商の活躍が活発であっ た。が、この意味での『日常生活』の関わりで、オランダ新教徒内部における 神と人間を巡る<自由意思>に関わる論争は現代の<新自由主義>論争(アウ グスティヌスVsペラギウス/ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』の テーマの一つ)にも繋がる問題でもあるが、これについては後述する。 無論、この時代のオランダは先駆的なバブル現象(チューリップ・バブル1634 〜1637頃)も経験しているが、この時の普通一般の市民層の日常生活の持続が、 英国のアダムスミス「国富論」(1776)と中央銀行の誕生(1694/イングラン ド銀行設立)を遥か100年以上も前に遡ることも注目すべきだ。なお、オランダ では17世紀初頭にオランダ東インド会社(史上初の株式会社)、アムステルダ ム銀行(紙幣発行権を持つルーツ中央銀行)、アムステルダム証券取引所など が成立していた。 また、この時代のオランダは<国際法の父とも呼ばれるグロティウスが巻き込 まれたオランダ新教徒内部での苛烈な「自由意思」論争(闘争)>という過酷 な政治・宗教環境ではあったものの、事実上、そのオランダ庶民層の日常を “萌芽期の啓蒙思想と幼少期の資本主義経済”が支えたのは確かである。因み に、先駆的なフランスでさえ政教分離の確立までには大革命(1789)から政教 分離法制定(1905)まで約120年もの時間を要した。 表面的に見れば、このようなことは何の変哲もなく他愛もないエピソードかも しれない。しかし、今や「新自由主義に感染した資本主義の変容と暴走」に否 応なく日本が巻き込まれつつあることを思えば、重要な歴史経験からの学びと して17世紀オランダ市民層の身の丈に合った『日常礼賛』を再発見する意義は 十分にあると思われる。 新自由主義に取り憑かれ過激にグローバル市場主義化したことで、今の我々が 資本主義そのものと、その胎盤である立憲民主主義の近未来に大きな不安を抱 くことを思えば其処には計り知れぬ重要な意味のあることが分かる。なお、17 世紀頃の欧州のオランダ・イギリス等で萌芽した啓蒙思想は第一次世界大戦で ほぼ壊滅し、我々は第二次世界大戦後に復活したそれに支えられてきたのであ る。 特に、今や「宗教・カルト諸派らと癒着するその不可解な正体に加え、自らが 日本会議・神社本庁ら極右の別動隊であること」を前提に「政教一致への回帰」 (追憶のカルト)と「壊憲」(国民主権・削除、象徴天皇制・廃止)の意志を ある意味で堂々と主張し始めた、しかも自らのその強権的・暴政的「特異性」 でマスメディアと一般国民を恫喝するという異常な政治手法を採り始めた安倍 政権の一強支配に粛々と従わされる日本国民が、ツヴェタン・トドロフが指摘 する<啓蒙主義と資本主義の揺籃期=17世紀オランダ『日常礼賛』の時代>を 再発見することは重要だと考えられる。 |