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118章 芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯! 11月5日、土曜日。気温は20度ほど、南東の風が吹く、晴天だった。 午後の4時。川口信也と彼女の大沢詩織、新井竜太郎とその彼女の野中奈緒美の4人は、 JR山手線(やまのてせん)の恵比寿(えびす)西口駅から、歩いて2分の、 老舗の焼鳥店『たつや』の『地下店』に、右手の階段を降(お)りて入った。 『たつや』は、駅前とは思えない昭和的雰囲気の赤ちょうちんの大衆酒場だ。 BS−TBSの『吉田類(るい)の酒場放浪記』では、 「辰年の辰の日に開業した恵比寿で朝の8時から飲めるもつ焼き店」と、紹介された。 店の赤ちょうちんや赤い看板には、『やきとり たつや』と書かれてある。 『とり』は『肚裏(とり)』のことで、『肚』は胃の意味で、『とり』は内蔵を指している。 ボリュームと噛(か)みごたえのある、もつ焼きが人気の、 気取らずに、ふらりと入れる居心地のよい店だ。 信也たちは、予約していたテーブルに落ち着く。飲み物は、みんな、黒ホッピーを注文する。 氷を入れないので、風味のある、濃い味わいを堪能できる、いわゆる三冷ホッピーだ。 『三冷』とは、ホッピーと焼酎を冷蔵庫、ジョッキを冷凍庫で冷やした飲み方だ。 つまみは、もつ焼きや枝豆や煮込み豆腐、ポン酢でサッパリのがつ刺しや、 たこぶつ、イカ刺し、あじのタタキとかを注文した。 川口信也は、1990年2月23日生まれの26歳、身長175センチ。 早瀬田大学、商学部卒業。外食産業の株式会社モリカワの本部の課長。 ロックバンド、クラッシュ・ビートの、ギターリスト、ヴォーカリストでもある。 新井竜太郎は、1982年11月5日生まれ、34歳、身長は178センチ。 外食産業の最大手のエタナールの副社長。 同業他社のモリカワに対するM&Aに失敗して以来、 川口信也とは飲み仲間として親しいつき合いをしている。 大沢詩織は、1994年6月3日生まれ、22歳、身長163センチ。 早瀬田大学、文化構想学部、4年生。父が大沢工務店を経営、次女。 ロックバンド、グレイス・ガールズの、ギターリスト、ヴォーカリスト。 野中奈緒美は、1993年3月3日生まれの23歳、身長165センチ。 野中奈緒美は、新井竜太郎が副社長をつとめるエタナール傘下(さんか)の、 芸能プロダクションのクリエーションに所属。人気のモデル、タレント、女優。 「ボブ・ディランが、ノーベル文学賞に選ばれて、光栄ですって、返事をしたそうだよね、しんちゃん」 竜太郎がそう言った。 「あっはは。しばらく沈黙を守っていたよね。 ボブ・ディランのことだから、権威とかを嫌(きら)って、返事をしなかったのかな? とか、おれ、ふと思ったりしたんですけどね。でも、よかったですよ。光栄ですって言って。 なんでもかんでも、いたずらに、権威や権力に反抗するのも、子どもっぽいですからね。 あっははは」 「わたしも、ディランのノーベル文学賞の授与(じゅよ)の決定は、すごっく嬉(うれ)しい!」 詩織は、微笑(ほほえ)んで、そう言うと、信也と竜太郎と奈緒美と目を合わせる。 「歌とか、芸術って、平和に役立つのよね!ラブ&ピース、 これからの世の中には、1番に大切なものだと思うんだけど、わたし」 奈緒美が、つぶやくような声でそう言った。 「そうだよ、奈緒(なお)ちゃん、そのとおりだよ。最近読んだ本なんだけど、 池上彰(いけがみあきら)の『おとなの教養』って本の中では、 『すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる』とか書いてあってね。 池上さんは、2013年に、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学を視察したんだけど、 世界のトップクラスのこれらの大学では、リベラルアーツ教育が基本なんだってさ。 リベラルアーツって、リベラル(liberal)は自由で、 アーツ(arts)は、技術、学問、芸術を意味するんだよね。 だから、リベラルアーツの意味は『人を自由にする学問』ってことなんだよね。 マサチューセッツ工科大学では、ピアノがずらりと並んで、音楽の勉強をしていたんだってさ。 この大学では、科学技術の最先端を研究しているんだけどね。 池上さんが、なぜか尋(たず)ねると、そこの先生が、こんなことを言ったんだってさ。 『最先端の科学技術をいくら教えても、世の中に出ていくと、 世の中の進歩は速いものだから、だいたい4年で陳腐化(ちんぷか)してしまう。 4年で古くなるものを大学で教えてもしょうがない。社会に出て新しいものが出てきても、 それを吸収し、あるいは自(みずか)ら新しいものを作り出してゆく。 そういうスキル、つまり、技能や力量を、教えてゆくべきでしょう』ってなことを。 それが、教養であって、リベラルアーツであって、音楽もそのひとつであるってことなんだよね。 おれも、よくわかるんだよね。この考え方は。みんなも共感するでしょう!」 ちょっと酔って、上機嫌(じょうきげん)で、竜太郎がそう言うと、 みんなは「うん、うん」と頷(うなず)く。 「あの哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、 『芸術の本質は、生存、つまり人生の肯定や祝福や神聖化にある』ということを言っていますよね。 晩年は、ロシアの作家のドストエフスキーに傾倒して 『ドストエフスキーは何という救いの力を持っていることか!』と言っていますよね。 ドイツの文学者のゲーテとかにも傾倒していたニーチェみたいに、 人生や芸術について、考えつくした思想家は、今でもなかなかいないと、おれは思いますよ。 つきつめて考えれば、人生には何が大切かってことになりますかね? まあ、芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯(かんぱい)でもしましょう。 じゃあ、竜さん、詩織ちゃん、奈緒ちゃん、 芸術や音楽やボブ・ディランに、乾杯!あっははは」 「カンパーイ(乾杯)」と、4人は、元気よく、黒ホッピーのジョッキを合わせた。 ☆参考文献☆ おとなの教養・池上彰・NHK出版新書 ニーチェ全集・第6巻・付録・理想社 ≪つづく≫ --- 118章 おわり --- |