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■[希望のトポス]記憶喪失の海に沈む安倍内閣、その底に潜む偽遺伝子は文 化進化論(遺伝的適応)上の追憶のカルト!新鮮な生命が持続的に吹き込むエ トノス対話の環境づくりが急務 <注記>お手数ですが当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160822 2 安倍内閣、日本会議、神社本庁ら「記憶の未来」への恐怖は、文化進化 (遺伝的適応)論上の記憶障害(喪失) 2−1「記憶の未来」の喪失を怖れるあまり、戦前・戦中期「国家神道」の復 活を謀る権力が国民の生命・主権・財産の簒奪へ暴走するのは必然 「記憶の未来」は、フェルナン・デュモン(Fernand Dumon/1927−1997/カナ ダ・ケベック州ラヴァル大学などで活躍した社会学者)の著書「記憶の未来/ 伝統の解体と再生」(伊達聖伸・訳、2016.6刊―白水社―)からの借用である。 それは今や日本のみならず世界各国に拡がりつつあるナショナル・アイデンテ ィティーの問題が歴史記憶の問題と切り離せないということを先駆的に捉えて いる(画像は、白水社 on Twitterより)。 同書の訳者解説(伊達聖伸氏)によれば、デュモンが注意を向けるのは“以下” のことである。少し長くなるが、重要な点なので転載しておく。 “人間は歴史的な存在であって、歴史は二重化の機能を果たすものだ。いわば 手の加えられていない生の歴史は偶然とも見える出来事の連続だが、記憶とし ての歴史は人生に意味を与える指標となり得る。歴史がこのような二重化の機 能をつねに備えているものであるならば、今日でも以前と同じように、歴史を 解放して政治参加に結びつけていくことは可能であるはずだ。この新しい伝統 は、学校とデモクラシーによって養われる批判精神に支えられていなければな らない。デュモンにとって、これからの記憶は、かつての伝統とは異なり、批 判的な精神を備えた主体が絶えず息を吹き込んでやる必要のあるものであって、 それを通して記憶の未来に期待をかけることができる。” しかし、現実の世界ではエセ・イデオロギーである新自由主義に深く染まり 「格差拡大メカニズムと化した資本主義と政治権力の野合・複合体が支配する 絶対的巨大機構」に巻き込まれてしまった人々が殆どそこでの主導権を握るこ とができなくなっている。 従って、これら“匿名のアトムとしての状況に埋め込まれた多くの人々”は、 もはや自分の参加は必要とされていないと心の奥底で感じているため、今更、 その巨大な機構メカニズムのために自分の意識と国家の歴史記憶(ナショナ ル・アイデンティティーとしての記憶)とを主体的に統合する努力の有意性を 見失っており、その傾向は特に日本で強まりつつあると考えられる。 このような視点から、特に「靖国、国家神道、日本会議」などと関連させるこ とで、日本の安倍政権がこれら戦前型イデオロギー(実は、イデオロギーもど き、偽エトノス!)への回帰を謀る背景を探りつつ、それを厳しく批判しよう とする海外メディアらの眼差しと警戒心が強まりつつあるようだ。そして、世 界の眼は、その安倍政権の<逆噴射/戦前型・国家神道体制への回帰願望=反 立憲主義、反平和主義、国民主権否定>の原因が、そこに巣食った「日本会議 のイデオローグ=戦前・戦中期の異常な生長の家“過激派”イデオローグ」が 持つ、「記憶の未来」が消滅することへの恐怖心であることを百も承知してい ると思われる。 そこで問題となるのが「日本文化のルーツとも言える天皇家の歴史と、事実上、 多数派国民層の通過儀礼と融合している伝統(神社)神道」の共鳴ということ だ。先に見たとおり、たしかにアトム化した多数派層国民は、今更、その“新 自由主義に蝕まれた巨大な格差拡大機構”のために自分の意識と国家の歴史記 憶とを主体的に統合しようなどとは思っていないかもしれぬ。 だから、万事につけ無関心なのだろう。が、一方では通過儀礼と融合している 伝統(神社)神道を介し日本文化に触れていることが日常(現実)でもあるの で、実は、彼らの多くの心の内にも、近未来における「日本文化に関わる記憶 喪失」への恐怖心が宿っていると思われる。そして、それこそが日本会議、神 社本庁、安倍政権らの付け目ともなっている訳だ。 しかし、その国民層の素朴かつリアルな日本文化への思いと日本会議らの国家 神道(追憶のカルトなる異常観念)の間には水と油以上の違いがある。だから、 その溝を権力側が強権的に埋めようとすれば、再び、戦前・戦中期の悲劇が全 国民を巻き込む強制愛国の国難という形で再現される恐れがある。そこで出番 となるのが、偽遺伝子(追憶のカルト/偽エトノス=国家神道)の天敵となる エトノス(委細、後述)である。 2−2 米バーニー・サンダース現象の深層にある、米国「公正資本主義」の 伝統 そもそもTPPは暴走市場原理主義の最終的な草刈り場(遠隔市場における利権 争奪戦場)の位置づけ。欲ボケ頭を冷却し経済市場の役目につき再考し、草刈 り場の原義(共助・共有・相互扶助の場)へ、ベクトル転換する好機!サンダ ース支持の若者層らの重み!只のオッサン@hanachancausert RT 日経@nikkei TPP暗雲さらに クリントン氏反対明言 20160815日経 https://twitter.com/hanachancause/status/764911776789954560 国家権力の最終手段が暴力(軍事・警察・司法)であるのは時代を問わぬリア ル!https://goo.gl/kjKRHK が、戦意剥出&人権無視の安倍改造内閣と比べ 米・民主クリントン政権(予)にサンダースの「人権と命の保守」なる人類普 遍の価値が取込まれた(↓★)意義は大きい! https://twitter.com/hanachancause/status/757850110743031808 ★【動画】「愛は憎しみに勝つ」バーニー・サンダース 2016年 (日本語字幕) [http://www.youtube.com/watch?v=cyvzlHRE-V0:movie] [http://www.youtube.com/watch?v=CZFjR1CerVk:movie] (国家と資本主義の本質が暴力であるという事実を理解することが先決であ る!) ]菅野稔人「暴力と富と資本主義」(角川書店)によれば、マックス・ウェー バーは「職業としての政治」(岩波文庫)のなかで、国家を“合法的な物理的 暴力行使の独占を実効的に要求する組織”と定義している。これは、“国家は あらゆる合法的な物理的暴力行使を独占する”ということであり、別に言えば “暴力抑止力に国家以上のものはない”ことを意味している。無論、そのジャ ンルには日本国憲法のような平和主義の原理も入るが、正当防衛権までを放棄 することは意味していない。 そもそも、ホッブスのリバイアサンを引き合いに出すまでもなく、人間社会を 含む自然界には望むと望まざるとにかかわらず暴力が存在する。ただ、現代世 界では、国際協調の原則下で国家権力の暴力行使が国際法的に承認される形と なっている。が、「テロ、および核兵器の所有と攻撃」はエトノス環境(凡ゆ る生態系と人類の文化基盤)を根こそぎ破壊するという意味で、このフレーム そのものを脅かしつつある。 他方、現代「立憲主義」国家の土壌と位置付けるべき社会契約論(近代啓蒙思 想)は、結果的に戦争技術の高度発達を促すことに結びついた、「主にナポレ オン戦争期のロスチャイルドによる金融資本主義技術の発明および近代科学技 術の発達」と二人三脚で誕生したという厳然たる歴史的な事実(これは陰謀史 観ならず、リアリズム因果論!)がある。 また、「20世紀初頭〜後半に跨り世界史上のマイナー・エポックとなった独伊 国家社会主義ファシズム、日本軍国主義ファシズム、ソ連邦スターリニズム、 米ソ冷戦構造」および「20世紀後半〜現在に至るまで世界経済を席巻してきた 新自由主義(金融市場原理主義、市場原理主義)」は、突き詰めれば「資本主 義をより一層合理化するための構造調整の歴史」であった(共産主義も市場機 能に限れば資本主義の合わせ鏡!/参照:市場社会主義ランゲ・モデル、http://urx.nu/4YCE /オスカル・ランゲの画像はウイキより) 非常に大雑把であるが、このような「啓蒙思想の萌芽期〜現代に至る、民主主 義の深化に伴う資本主義の合理化のためのプロセスと国家権力の絡みの歴史」 を概観して分かるのは、結局、何時の時代であっても国家権力には、経済・財 政・教育・福祉政策など凡ゆる場面で最強の暴力を行使するという力の論理が 付き纏うということである(この論述が意味するのは暴力の是非論ならず暴力 リアリズム論!)。 従って、だからこそ「その意味での国家暴力の本性が理解できない人物は政治 家になる資質がない!」ということになる。逆説的に言えば、それは「政治権 力者には、暴力行使への誘惑を自ずから制御し、絶えず国家と国民へより多く 奉仕する」という公正な義務感こそが強く求められる。そして、マックス・ウ ェーバーは、このことについて「政治権力者に求められるのは『心情(信条or 信仰)倫理』ではなく『責任倫理』だ」と述べている(関連参照:責任倫理と 心情倫理(信条倫理、http://goo.gl/by9kpF )。 (しかしながら、資本主義のリーダーたる米国には公正資本主義を志向してき た歴史がある/20世紀初頭の米国における“新自由主義=制度経済学派”の台 頭/それは「公正資本主義」が目標であった) 19世紀末〜20世紀初頭(第一次世界大戦へ参戦する頃まで)のアメリカでは、 「政治の革新」と「経済への政府干渉」の必要を説く運動が興り、この時代は 「革新主義(Progressive)の時代」と呼ばれる。そして、この時代の経済思 想の特徴は「新自由主義/ニュー・リベラリズム」(New Liberalism/1980年 代以降に定着したネオ・リベラリズムと直接的な関係はない)という言葉で代 表されている。 このニュー・リベラリズムの考え方は、アダム・スミス流の古典的な「人間の 平等と契約の自由を原理・原則的に重視する」こととは異なっており、その独 創性は「社会全体が発展するための活力源として個人的な自由を一層拡大する ためにこそ、政府(国家)は一定の介入を積極的に行うべき」だと主張した点 にある。ただ、その後の研究でアダム・スミスの自由主義と雖も、それは決し てネオリべラリズム的な意味での自由原理主義ではないことが理解されている。 また、19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期は、レオン・ワルラス ( 1834- 1910/スイス、新古典派の祖)が活躍した時代にほぼ重なっている。 そして、その時代のアメリカは「プラグマティズム」と絡みつつ「制度経済学 派」が台頭した時でもあり、その中心的存在はソースティン・ヴェブレン、 ジョン・ロジャーズ・コモンズらであった。 <補足>制度経済学派または制度派経済学(Institutional School) ・・・アダム・スミス、デヴィッド・リカード、マルサス、ジョン・スチュ アート・ミルなど英国の経済学者に代表される労働価値説を基礎とする古典派 経済学を批判し、社会的な行動様式や集団的活動形態などの切り口から市場経 済のあり方などを理解する経済学研究の一手法。ドイツ歴史学派の影響を受け つつ、ダ―ウイニズム(進化論)とプラグマティズム(Pragmatism/具体的な 事象に即した有効性・有益性を重視する学派でアメリカを代表する哲学)の知 見も取り込んでいる。 ・・・「制度経済学派」の創始者と呼ばれるヴェブレン(1857- 1929)の特徴 は、「私的所有」よりも「社会資本」の充実を重視する立場であり、一部の階 層が“金ぴか生活”をするための“単なる金儲けの手段”としての営利企業は “一国の産業体制そのものを管理し消費者に消費財を公正に分配する任務” (国民に一定の生活水準を保証する“社会的十分性”を担う役割)には適して いないと考えた。 ・・・一方、ジョン・ロジャーズ・コモンズ(1862- 1945)も「制度経済学派」 の代表者の一人とされるが、彼の社会改良主義的な経済思想の特徴は“アメリ カ伝統の自由主義的フレームを重視しつつ、強力な労働組合運動・独占的巨大 企業・公益企業などに関する諸改革の実行について、その時代の州と連邦レベ ルの立法・行政(Law Makers)へ大きな影響を与えた”という点にある。 ・・・そして、ロジャーズの到達点は「集団民主主義」(集団内での“個別的 衡平性”の実現)で社会改良を促進する「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)ということ(=非マルクス主義的な経済発展段階説)であった。 ・・・いわば、これら19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期に一世を風 靡した“現代アメリカ経済思想の源流”とも看做すべき「制度経済学派」に属 する経済学者に共通するのは、「社会に公正をもたらす資本主義」を実現しつ つ、アメリカ建国いらいの伝統である“個人の自由原理に基づく個人の行動領 域を最大限に解放し、それをより一層拡大する”ということであった。 (北欧型福祉原理と米国型市場原理/ “リアリズム法学” という同根から生 まれた二つの異質な社会福祉の現状) 「リアリズム法学」は20世紀初頭にアメリカと北欧(スカンジナビア)で、ほ ぼ同時期に興った法社会学の一派である。それまでの学説では、“判決とは法 規(判例、制定法)を大前提とし、事実(具体的事実関係)を小前提とする三段論 法の結論に当たるもので、公判とは裁判官によって結論が変わることのない形 式的・機械的・非個人的なプロセスだ。従って、それは事前予測が可能な確実な 論理的手続きだという理解”であった。 ところが、このようなドグマに対して心理学・社会学など各種社会科学の成果 を駆使して鋭いメスを加えたのが20世紀初頭にアメリカとスカンジナビアで興 った「リアリズム法学」である。そのため、現代の裁判では“複数の先例から 一個の先例を選択し、制定法についても可能な複数の解釈から一個の解釈を採 用することができ、特定の裁判官の活動に政治的責任を問うことも可能であり、 事実認定のプロセスが裁判官の主観的作用であるということなどが、当然視さ れるようになり、今ではそれが法曹界での常識となっている。 しかしながら、やがてスカンジナビア型の「リアリズム法学」はアメリカ型 の「それ」と異なる方向へ進化(深化)することになる。つまり、前者が 遍的人権」への理解を深めたのに対し、そもそも欧州から離脱し新大陸でゼロ から建国したという歴史経験から、アメリカの地政学的知見は“徹底的な自由 原理に基づき、個人の行動を最大限に解放し、それを限りなく拡大することを 最終目的とする”という極めて「特異な人権意識」の方向へ発展した。 このため、同じ「リアリズム法学」の影響を受けたと見るべき「制度経済学 派」の根本がスカンジナビア(欧州型の社会民主主義的な方向)と米国(新自 由主義的な方向)では大きく異なる価値観を創造することになった。これこそ が、北欧(スカンジナビア)と米国の各々が20世紀の現代史を通して「制度経 済学派」を異なる方向へ進化させてきた理由(根拠)である。 従って、今や民主党クリントン大統領候補に対し、大きな軌道修正を求めるリ アル・パワーとなりつつある「サンダース現象」は、このような米国経済史の 流れと全く無縁であるとは言えない、と考えられる。特に、その流れを強く支 持するのが高学歴の若者層らであることは、世界にとっても希望の光であると いえるだろう。 |