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タイトル:政治的ネクロフィリア安倍内閣のオフィーリア・コンプレックス(2/6)  2016/05/02


■政治的ネクロフィリア安倍内閣のオフィーリア・コンプレックス/バシュラ
ール・エトノス、「水のイマージュ」による批判(2/6)

<注>お手数ですが当記事の画像は下記URLでご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160501 

1 バシュラールの(a)形式的想像力と(b)物質環境的想像力

(ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春の寓意)』についての新たな解釈)

ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春の寓意)』
Sandro Botticelli(1445- 1510)「Primavera」c. 1482 Tempera on panel 
202 cm × 314 cm Uffizi Gallery, Florence

ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』(Related images)
Sandro Botticelli(1445 – 1510)「The Birth of Venusc」1485 Tempera 
on Canvas, 172.5 x 278.5cm Galleria degli Uffizi, Florence

ギリシャ・ローマ古典の意味を見直すことで人間の復興と新たなヒューマニズ
ムの可能性を期待し、それを大いに賛美するルネサンス芸術の代表者とされて
いるボッティチェリであるが、一方で彼の絵にはメディチ家周辺の後期ゴシッ
ク(中世末期)的な美意識が深く投影されている。そのため、この<春>とい
う愛の季節を讃える初々しい感性にあふれているはずの『プリマヴェーラ(春
の寓意)』でも、その絵の全体にはなぜか“やや暗め”の霊気のようなものが
漂っている。無論、それもボッティチェリの美学を引き立てる魅力の一部では
あるが。

その人物像を取り巻く繊細な風景描写のなかに、おそらくボッティチェリは、
その後期ゴシック(中世)的な霊気のようなものを殆ど無意識に塗りこめてい
るはずだ。だから、彼が描く自然の風景には変化に富み生きいした自然の風景
が必ずしも反映されてはおらず、むしろそこには綴れ織り(京都の西陣織/一
説で、その起源は古代エジプトのコプト織にあり、中国・朝鮮半島経由で古代
の日本・京都へ伝来したとされる)のような感触のやや暗みを帯びた自然物が
描かれいる。やがて次第にボッティチェリはそれらの形象を更に装飾的なもの
へと変遷させて行った(形式的イマージュの発展)。

一方で、これは逆説的なもの言いとなるが、ボッティチェリの絵から、その霊
気を帯びた暗さと、恰も綴れ織りの如く過剰に装飾化した自然描写にもかかわ
らず、その「絵」全体の印象ではボッティチェリ的な空気とでもしか言いよう
がない不思議な瑞々しさ(その正体は様々な花や樹木らの植物群と黒い土のな
か、およびやや暗めの霊気(空気)のなかに漂う“水”の成分の印象/厳密に
は、そのボッティチェリの絵を見たことによる共感が励起し鑑賞者の心に宿る
エトノス感)を鑑賞者は感じさせられるはずだ(新たな物質的イマージュの発
見)。

そのことは『プリマヴェーラ(春の寓意)』から約10年後の作品となる、直接
的に海の「水」をモチーフとして描いた『ヴィーナスの誕生』では、より分か
り易く現れる。瑞々しく美しい裸体に恥じらいを宿すヴィーナスは、青みがか
った緑の海原に散る花々、風になびくエロチックな長い髪、あるいは色濃く茂
る神秘の樹木、それらの全てが、恰も「水」の成分の仲立ち(物質環境的想像
力)によって、ルネサンスの美意識を背景としつつギリシャ・ローマ古典古代
と後期ゴシック(中世末期)の二つの美意識が、新たな息吹と新たなエトノス
感に目覚めたルネサンス期の人間の心のなかで和解したかの如きである。

・・・

(安倍内閣( #日本会議 )の偽エトノス(の取り戻し政策)に惑わされる現
代日本“混迷”の克服に有効な“バシュラールの(a)形式的想像力と(b)
物質環境的想像力”)

ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard/1884 – 1962/フランスの科学
哲学者、詩的想像力の研究にも業績)の著書『水と夢/物質的想像力詩論』
(及川 馥(かおる)訳、法政大学出版局)によれば、我われ人間の想像力は
大いに異なった二つの軸に沿って展開する。その一つは観念的な形象イマージ
ュであり、それは絵画的で多様な変化、偶然の出来事の連鎖や組み合わせなど
から新しい楽しみや発見の「形」を取り出す傾向があり、この想像力はいつで
も一つの美しい春を描き出し、様々な花を生み出す、とされる。それゆえバシ
ュラールはこれを形式的想像力と名付けた。

もう一つの想像にかかわる能力群は、リアルな存在(物質)の根底を掘り進み、
その根底のなかで絶えず原始的・始原的なものと永遠なるものを同時に見出そ
うとしている。つまり、こちらの能力群(想像力)は歴史(Ethnos&History)
と季節(Season)を支配している。それは我われの外である自然のなかで、あ
るいは我われ内部の自然のなかでも、絶えず様々な未生の萌芽を発見し、ある
いは作り出し続けている。それゆえバシュラールはこれには物質的想像力の名
を与えており、そのなかでも特に「水」に関わる物質環境的想像力を重要と考
えた。

視点を変えれば、この二つの想像力は恰も「論理・推理による観念的・抽象的
構想力」と「自然環境の因果(律)に関わる観察眼と皮膚感覚による感性的な
発見」に対応すると考えられる。無論、殆ど刹那的に生きているかに見える一
般の動物ならぬ我われ人間の場合は、その精神のなかの全く異次元のフィール
ドでこれら両者が個別に機能しているとは考え難く、この二つの想像力は絶え
ず相互の影響や浸透によって多少のぶれを見せつつも、歴史や記憶の蓄積と生
きいきした感性的イマージュの再生産を繰り返しながら、それらが精神にもた
らす交感・交流、あるいは共鳴のプロセスで絶えず「中立的」な判断力や豊か
な感覚的イメージが生み出されていると考えられる。

言い換えれば、我われの内面で行われるその「中立的」な未了の精神活動こそ
が、我われ人間に対して絶えず<健全でアグレッシブな思考と新たな生命力と
活力>を与え続け、健全な前進へのパワーを供給してくれることになる。さら
に少しだけ付け加えれば、その「中立的」な精神活動は決して日和見的なもの
ではありえず、いわばエトノス環境と人間社会の間の<未了の相克>を持続さ
せるための批判的意思がそのための必須条件となっている。又、あくまでも相
対的な比較であるが、どちらかといえば皮膚感覚に近い(b)物質環境的想像
力の方が、(a)形式的想像力よりもエトノスとの関わりが深いと考えられる。

しかも、これら二つの想像力、つまり「形式的想像力」と「物質環境的想像
力」には、それぞれ「善と悪」(あるいは生と死)の相反する要素が常に潜む
のが当然なのだという自覚(我われ自身もその二つの成分、「善と悪」(ある
いは生と死)から出来ていると理解する謙虚さ)を先ず持つことが肝要である。
それは、より広く捉えてみればたとえ「形式的想像力」と「物質環境的想像
力」といえども、その内側で我われ自身が無意識の内に誕生していた生来のエ
トノス環境の賜物であり、人間の力だけでは絶対にその「善と悪」(あるいは
生と死)は支配できない現象であるからだ。

ともかくも、この<それぞれに「善と悪」(あるいは生と死)の要素を潜ませ
た(a)形式的想像力と(b)物質環境的想像力の二つの想像力が、絶えず相
互の影響や浸透、又は共鳴によって多少のぶれを見せつつも、我われは一回性
の歴史や記憶の蓄積と生きいきした新たなイマージュの再生産を繰り返しなが
ら、それらが精神との間で交わす交感と交流のなかでこそ、「中立的」で豊饒
なイメージや新たな判断力を絶えず生み出すことができる>というバシュラー
ルの豊かな想像力についての考え方を理解することが重要である。

この点を援用すると先に取り上げた「ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春の
寓意)』に関わる新たな解釈としての水の想像力」も、あるいプロローグで取
り上げた「モネの絵画における水の想像力(つまり、新たなエトノス感を想像
する水の能力)の発見」も、十分腑に落ちることになるはずだ。

(啓蒙思想と立憲主義の基礎を提供したコンディヤックの『彫像の思考実験』)

●【<人間の命>のリアル(意味)とは何か?から教育すべき<規律問題の基
本>を敢えて無視する安倍政権は自由民主党の名を返上せよ!】これは戦前型
の超然権力志向の自民党憲法草案「前文」(20160406朝日)と同轍!「判断・
推理・評価等に関わる人間精神は五感に基礎を置くべきとする民主主義の根本
(啓蒙思想の基礎を固めたコンディヤックの思想)」の否定!➡ ヘイトスピー
チ抑止法案/自公、今国会に提出へ/但しこれは理念法に止め自公政権が個々
の差別対象(“差別”指定)を絞る406朝日20160406只のオッサンRThttps://twitter.com/hanachancause/status/717458297826050048 

・・・Cf. 【偽エトノス(国家神道&靖国)を前提とするのが自公の名ばかり
ヘイトスピーチ対策法】(しかし与野党が修正協議で合意)問題の核心は「人
種差別禁止法」を作ること(419国連広報センター)がスジ!故に、この誤魔化
しのヘイトスピーチ対策法には具体的な「違法」の明記がない!➡ヘイトスピ
ーチ対策法案成立へ20160428朝日

・・・

バシュラール(上掲書)によれば、啓蒙思想の出発点を創った一人であるコン
ディヤック(Étienne Bonnot de Condillac/1714 – 1780/フランスの哲学者、
聖職者、先行する英ジョン・ロックに影響を受けた認識論の研究で経験論的認
識論を発展させ、事実上、啓蒙思想・立憲民主主義イデオローグの基礎を構築
した)は、有名な「彫像(無感動の大理石像)の思考実験」で、つまり、嗅覚、
聴覚、味覚、視覚、触覚の五感を順次付加しながら石像内部の感覚変化を辿る
手法の思考実験で、一般社会で共有されていると考えられる人間の精神能力の
一切が、つまり注意、判断、反省、推理、記憶、創造、連想などの一切が、詰
まるところ個々の人間の個性的な感覚の調和的な変形であるという結論に辿り
ついた。

つまり、我われ人間の内部では個々のエトノス基盤(厳密に見れば、我われ一
人ひとりは個々のエトノス、つまり生来からの個人的な歴史環境を背負ってい
るから)の上で常に「歴史記憶・体験記憶の蓄積」と「生きたイマージュの再
生産活動」の相互影響や浸透の繰り返しが多少の個性の変形を伴いつつ活発に
行われていることになる。

それらの諸活動が精神にもたらす交感・交流・共振のプロセスでこそ、絶えず
「中立的」な観念とイメージ、新しい的確な判断力などが生み出されているこ
とになる。無論、個々の<人間Vs人間>の間でも、これとほぼ同レベルの交感
・交流・共振活動が発生する。従って、社会における共通認識や、新たな論理
判断の了解と共有も同様に個々の個性的感覚の調和的な変形として共感的プロ
セスを経ながら徐々に形成されることになる。

このようなコンディヤックを源流とするバシュラールの「水」のイマージュ
(新たなエトノス感)の発見は、近・現代的な視覚(啓蒙思想)の完成に繋が
ったといえる。また、バシュラールの「水」のイマージュは、人間が「ヘイト
スピーチ」で深く傷つくのは当然であり、かつお互いさまのことだという人間
の尊厳に関わる根本から教育すべき『規律問題の核心』を敢えて無視し一方的
に公を押し付けようとする、安倍政権の如き“アベコベ倒錯民主政治”に対す
る有効な批判軸となり得ると考えられる。

それは、一般の動物と違い“自ら考える”人間であるからこそ、いわば限りな
く伝播する水の波紋の提喩(シネクドキ/synecdoche/委細、後述)を、言い
換えればバシュラールの「水」のイマージュの提喩を理解できる感性を持つ人
間だからこそ、生態圏にも重なるエトノス環境との未了の相克たる現実のプロ
セスで絶えず新しい中立的「判断力」の発見が可能だということだ。従って、
このような意味での豊かなイマージュと中立的「判断力」を身につけさせるの
が民主主義教育の要であるということになる。

ともかくも、バシュラールが発見した「水」のイマージュが、(a)形式的想
像力と(b)物質環境的想像力を仲介して人間の感性を絶えず豊かな方向へ成
長させ(コンディヤックはこの感性が論理・推理・想像・感情など人間のあら
ゆる内面活動を統合する重要な作用を受け持つと見た)、人間の可能性を一層
拡げるのは間違いがないと考えられる。また、その<「水」のイマージュによ
る人間精神の統合>が、文字どおり強かな<エトノス環境との未了の相克と未
生への伝達=人間が生きる意味>を保守する正統保守主義の中立的なフレーム
保全の役割を担っているのは確かだといえる。

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