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98章 新人マンガ家の青木心菜(ここな) 11月26日の土曜日の正午。最高気温は16度ほど。曇り空。 昼の12時。JR渋谷駅、こんもりした緑が生い茂る、忠犬ハチ公の像の広場に、 川口信也たち5人が集まっている。 信也の彼女の大沢詩織と、信也の飲み友達で、エタナールの副社長の新井竜太郎、 竜太郎の今(いま)の彼女の野中奈緒美、そして、青木心菜(ここな)の5人。 1992年3月1日生まれ、23歳の心菜(ここな)は、慈善事業・ユニオン・ロックで、 マンガやイラストを学んで、インターネットで公開している作品が人気上昇中の、 新人女性マンガだった。 慈善事業・ユニオン・ロックは、1014年9月ころに、外食産業最大手、エターナルと、 同じく外食産業のモリカワが、共同出資で立ち上げた慈善事業であった。 ユニオン・ロックでは、音楽でもマンガでも、芸術的なこと全般において、 関心の高い子どもたちや、夢を追う若者たちを対象にして、 主に、インターネットを活用しながら、全国的な規模で、 音楽や芸能やアートやマンガなどを自由に学べる『場』の提供や、 その経済的な援助から、その道のプロの育成までと、長期的展望の幅広い事業を展開している。 青木心菜(ここな)は、そんなユニオン・ロックで、大切にされている新人マンガ家だった。 集まった5人は、人で込(こ)み合うハチ公広場から、 歩いて3分の、みんなでよく利用する、個室居酒屋『けむり』に向かった。 『けむり』は、12時の開店と同時にほぼ満席。 5人は、和室風でモダンな落ちつける個室に入った。 「わたし、マンガ描(か)くのが、忙(いそが)しくって、最近、腱鞘炎(けんしょうえん)なんですよ! 痛みとかは全然ないんですけど、2週間前には指が思うように動かなくって、あせっちゃいました! ぅっふふ」 「えっ、それって、大変なことじゃないですか!?腱鞘炎って、指先が、しびれたりするんですよね。 それで、ペンを持って、マンガが描けなくなったら、大ピンチですよね! 大丈夫なんですか、心菜(ここな)ちゃん!」 マンガ家の青木心菜(ここな)の腱鞘炎の話に、信也は、びっくりして、そう言った。 「わたしも、腱鞘炎って、なったことないわ。早く治るといいね!心菜(ここな)ちゃん!」 竜太郎の彼女の野中奈緒美が、心配そうな表情をして、そう言った。 「腱鞘炎って、パソコンのキーボード打っていてもなるっていいますよね。 病気や故障って、突然になるから、怖いわよね。 わたしたちもだけど、心菜ちゃんも、体(からだ)を第一に大切にしてね!」 「心配してくれて、ありがとうございます。みなさん! いまも、若干(じゃっかん)、しびれとかあるんですけど。軽症ですんだみたいなんです。 まるで、長く正座したときの、足のしびれとかに似ているんです、このしびれは。 でも、だんだん良くなってますから、安心しています。 マンガ描きながらも、合間に、ストレッチしたり、休憩入れたりしてます。 ペンを強めに握らないようにしたら、繊細なペンタッチになって、 そんなマンガが、けっこう好評なんで、嬉(うれ)しかったりしているんです。ぅっふふ」 「あっはは。それは良かった。心菜(ここな)ちゃんのマンガは、芸術的な繊細さが評判ですからね。 それにしても、おれも、心菜ちゃんから、腱鞘炎の話を聞いたときは、びっくりしましたよ。 マンガって、手間(てま)がかかる重労働なんですよね。描きかたにもよるんでしょうけど。 だから、それで、おれは、心菜ちゃんに、アシスタント(助手)をつけてあげるよって、 言っているんですけどね。でも、心菜ちゃん、今はまだ、ひとりでがんばりますって、 言っているんですよ」 グラスのプレミアムモルツを飲みながら、竜太郎は信也にそう言った。 「そうなんだ。まあ、心菜ちゃん、まずは健康が第一なんだから、無理は絶対しないようにしてね。 おれたちだって、酒が好きな、おれと、竜ちゃんだけど、必ず、休肝日っていって、 体(からだ)をいたわる酒を飲まない日を、1週間に、3日は作っているんだから。 ねえ、竜ちゃん!」 「あっはは。そうだよね。これは、男同士の約束だもんな。 おれたちって、いつも、ご気楽に酒飲んでるように見られるけど、 気持ちは、なんて言ったらいいのか、あの幕末の志士なんですよ。 あっはは、なあ、しんちゃん」 「あっはは。まあ、竜ちゃん、乾杯しましょう!みんなも、乾杯しましょう!あっはは」 そう言いながら、信也は、竜太郎や信也の隣にいる大沢詩織や、 竜太郎の隣の野中奈緒美や、青木心菜(ここな)と、次々に、乾杯をする。 「ほんとに、しんちゃんと、竜さんって、仲がいいんですもん。ぅっふふ でも、幕末の志士なんていう言葉が出ると、そんな感じがしないでもないわ! しんちゃんが、坂本竜馬って感じもするし、 竜さんは、高杉晋作っていう感じもしてくるわ!ぅっふふ」 大沢詩織は、そう言いながら、信也と竜太郎に愛らしく微笑(ほほえ)む。 「詩織ちゃん、ありがとう!おれが高杉晋作かあ!いいなあ!あっはは。 おれも、しんちゃんも、志は、幕末の志士に負けないような感じで、 世の中を良くしていきたいって気持ちで、仕事とか芸術とかやっているんですよ、 実は。酔っているから、こんな恥ずかしくなるような理想を言えるんですけどね! おれが、ユニオン・ロックを去年立ち上げたのは、 前々から思っていたんですけど、インターネットとかデジタル化の普及は、 生活を便利にしたり、世界の誰とでも交信を可能にしたりと、グローバル化を加速させたけど、 人の心は、それに反して、寂(さび)しいというか、感受性とか衰退している気がしているんですよ。 そこで、芸術的なことを、世の中に広めて、人の心に、豊かにしたりして、 みんなが元気で明るく暮らせる世の中にできたらいいなあと思ったんですよ。あっはは」 「竜さん、その考え方には、おれは、やっぱり共感しますよ。 本来、人間は、みんな、誰もが、芸術家や詩人であるべきなんですよ。 たぶん、大昔は、人は、そんなふうに、感性が豊かで、心もおおらかだったんですよ。 世の中って、実は、美しいものや詩的なもので、あふれているわけですよ。 それが、現代人は、お金や、物欲ばかりに、夢中で、心を貧しくしているんです。きっと。 お金や、物の、魅力や誘惑も、確かにありますから、わかるんですけどね。あっはは」 信也が、そう言って、子供のように笑った。 5人は、和気あいあいと、好(この)みの飲み物と、炭火で焼き上げた焼き鳥や、 新鮮な魚や貝の料理を味わった。 ≪つづく≫ --- 98章 おわり --- |