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90章 美樹や信也、陽斗のライブへ行く 8月7日、金曜日。天気は快晴で、気温は35度をこえた。 午後7時から、松下陽斗(はると)たち、松下カルテットのライヴが、 下北沢のライブ・レストラン・ビートで始まる。 松下カルテットは、陽斗のピアノに、ギターとベースとドラムという、 4人編成のジャズバンドである。 去年の春、結成したときには、ドラムのない3人編成のトリオである。 陽斗や他のメンバーも、さっぱりした気性の好男子であることもあって、 優雅さや熱気に満ちて、ときにはスリリングな演奏は、若い女性に人気が高かった。 開演まで、まだ1時間はあったが、ライブ・レストラン・ビートの、 1階、2階のフロア、280席は、すでに満席に近かい。 「それにしても、美樹ちゃん、はる(陽)くんたちは、女の子に人気があるよね」 川口信也が、テーブルの向かいに座(すわ)る、清原美樹にそういった。 「はるくんは、ジャズは格好(かっこう)よくやらないとダメだって、口癖のように、 いつも考えているから、そんなところが、女の子たちに受(う)けているのよ、きっと。 ぁっははは」 「そうかぁ。音楽ももちろん大切なんだけど、ビジュアル的な快感も、 大切にしているんだろうね、松下カルテットのみんな。あっはは」 信也はそういって、わらった。 「しん(信)ちゃんの、『きっとそれは快感 (Surely it is a pleasure)』で言っていること、 おれも共感するよ。 人は快感を求めて、快感を生きがいにして、やっていくことがベストだと思うよ。あっはは」 新井竜太郎が、信也にそういって、わらった。 「わたしも、快感、大好き!」 竜太郎の彼女の、野中奈緒美が、隣(となり)で、そういった。 「この世の中で、何が信じられるのかっていえば、快感くらいしかないような、 そんな気がして、あの歌は作ったんですよ、実は。あっはは。 人や何かの思想とかを信じても、結果的には、裏切られてしまうって、 よくあるじゃないのかって、思ったりして。あっはっは」 信也はそういった。 「わたしも、音楽なら、信じられるわ!音楽のない人生は考えられないわ、 音楽って、不思議なものよね、しんちゃん!」 大沢詩織が、隣の信也をちょっと見つめて、そういって微笑む。 「そうよ、詩織ちゃん、音楽は、わたしたちを裏切らないわ!元気の素(もと)よ! わたしたちも、グレイス・ガールズを、楽しみましょう! 『きっとそれは快感』は、しんちゃんらしい歌詞と曲の、ダンス・ミュージックで、 わたしも大好き!ねっ、真央ちゃんも好きよね!」 そういって、美樹は、微笑む。 「うん、わたしも、大好き!気持ちを明るくしてくれるし!」 美樹の隣の真央もそういった。 「あっはは。美樹ちゃん、真央ちゃん、ありがとう!」 信也は、テーブルの向かいの美樹と真央に、そういって、わらった。 ・・・あれから、もう、2年が過ぎるのか・・・。 おれの目の前で、可愛(かわい)く微笑(ほほえ)む美樹ちゃんだけど。 おれは、美樹ちゃんに、失恋したという苦(にが)い経緯があるわけだけだ。 でもさあ、男女の仲の不思議さというのかな、 男には、おれのように、心の中に、マドンナというのか、 女神のような、運命的な女性が、いつまでもいるってことが、あるものなんだろうか? たぶん、おれは、美樹ちゃんがいたから、おれは山梨から東京に出てきたって、言えるわけで・・・。 美樹ちゃんがいなかったら、おれの生き方は、まったく違う生き方だったと言えるわけで。 やっぱり、考えてみると、美樹ちゃんは、おれにとって、特別な女性なんだよなぁ。 いまでも、きっと、いつまでも・・・。 お互いに、いつまでも、仲よく、いい音楽活動をやって行きたいよね・・・ 信也は、冷たい生ビールを飲みながら、そんなことを、ふと思っていた。 1階から2階まで、高さ8メートルの吹き抜けの会場は、一瞬、静まった。 32歳になる、店長の佐野幸夫が、ライトアップされた、ステージに立った。 「みなさま、こんばんは。ライブ・レストラン・ビートに、お越しいただきまして、 誠に、ありがとうございます。 今夜のライヴは、本格的で、洗練されたジャズで、わたしたちを楽しませてくれる、 松下カルテットのみなさんです!」 佐野幸夫がそういうと、広いフロアは、拍手と歓声に包まれる。 佐野幸夫の彼女の、27歳の真野美果も、ステージ直近の、 信也たちと同じテーブルの席にいて、幸夫の司会を、やさしい眼差しで見つめている。 ≪つづく≫ --- 90章 おわり --- |