|
72章 信也の妹、利奈の卒業式 3月1日の日曜日。早朝から、ぱらぱらと冷たい雨が降っている。 山梨県、韮崎市にある、県立韮咲(にらさき)高校では、講堂を兼(か)ねた体育館の中で、 第56回卒業式が行われている。 みんなが注目する壇上には、色とりどりの美しい花が、咲き誇るように飾られてある。 東京の早瀬田大学の健康栄養学部・管理栄養学科に進学が決まっている、 川口利奈の心の中は、複雑であった。 そのわけには、中学校の同級生で、同じ韮咲(にらさき)高校生の、 二人(ふたり)の仲のいい同性の友だちが、東京の国公立の大学を受験していて、 その結果がまだ出ていなくて、その二人は、不安をかかえたまま、 卒業式を迎えていることもあった。その二人の入試の結果は、3月6日には、はっきりする。 また、そのほかにも、利奈のクラスの、いつもユーモラスなことをいって、 みんなを笑(わら)わしくれる明るい性格の男子の学級委員長も、 進学が決まっていなかったり、そのほかにも、 同じクラスの利奈の友だちとかが、希望校に合格できなかったり、 受験を落ちまくってしまっている友だちもいたりしている。 世間では、『受験の合格発表は、悲喜交交(ひきこもごも)、 悲しみと喜びが入り交(ま)じっているものだ。』というが、 その言葉通りの現実が繰りひろがっていることが、利奈の心に暗い影をつくっていた。 ・・・なんで、この世の中って、こうやって、大学の受験にも、競争があるのかしら? 世の中って、楽しいことよりも、辛(つら)いことのほうが多いんだもの、 ついつい、わたしだって、哀(かな)しくなる!・・・ そんなことを思う、利奈であった。 セレモニー(式典)は、開式の辞、国歌斉唱、卒業証書授与、賞状授与、 校長式辞、来賓祝辞、在校生代表送辞と続いて、 卒業生代表答辞と続いた。 卒業生代表の女子学生は、ふるえる心や、あふれそうな涙に、 言葉を詰(つ)まらせながら、楽しかったこの3年間の高校生活を、 これからの人生の糧にしてゆくことを誓(ちか)いますと、 この韮咲高校で学べたことを誇りに思いますと、 先生やみんなに、感謝の言葉を述べた。 その卒業生代表答辞のあいだは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『管弦楽組曲第3番』、 BWV1068の第2楽章『アリア』、いわゆる、G線上のアリアが流れていた。 ・・・G線上のアリアって、こんなときに、ぴったりだわ。バッハの中でも、 この曲が、1番、わたし好きだわ、美しいんだもの。 ・・・わたしも、東京へ行ったら、音楽やろうかしら? お兄ちゃんみたいに。だって、音楽って、元気をくれるんだもん・・・ G線上のアリアが流れる中の、女子学生の澄んだ声の、答辞の言葉を、 利奈は、ひとつひとつ忘れないように、真剣に聞こうと努(つと)めた。 その答辞の言葉に、利奈の胸が、感動に震えた。 利奈の澄んだ瞳には、ありのままの、自然な、熱い涙が光(ひか)った。 ≪つづく≫ |