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[希望のトポス]サザン『P&H』(サブカル)が“DIS”る安部「軍事国家主義」に 潜む病巣は、決定的な『正当歴史認識と生の具体性(未生)への眼差し』の欠落 (2/2) <注記0>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20150107 2−1 (仮説)奈良時代以前の日本(平城京までの“百済風日本”)は『日本 (平安京以降の“国風文化伝統の日本”)』ではなかった! (そもそも重層的な『東アジア文化受容の歴史』こそが『寛容で世界に誇るべき 日本伝統文化』の水源であったのだが・・・) 古墳時代〜飛鳥時代〜奈良時代〜平安時代初期までの内外文化・交流関係史を概 観すると、〜仁徳天皇期(5世紀初頭?)には、すでに半島・中国文化が盛んに 渡来しており、難波宮(元飛鳥or倭京?)の時代から仁徳天皇陵(百舌鳥古墳群) を中心とする阪南・難波〜堺〜斑鳩〜飛鳥あたりに点在する非常に多くの未検証 の遺跡等の調査・研究が進めば、この時代こそ「半島系文化の胎盤に倭人文化の タネが着床し始めた時期」であることが明らかになるのでは?と期待されている。 倭五王期(5世紀半ば〜後半ころ?)は、引き続き半島、大陸との交流はかなり 活発であったし、日本神道ないしは諸神社の源流となる様々な神事(中国系、半 島系)、および儒教・道教系など様々な土着文化と諸宗教が、多様なルートで日 本列島へ流入していたが、いわば日本と言う国家意識は存在せず、倭語、加耶語、 扶余語、百済語、新羅語、高句麗語など諸語系統の部族集団が西日本〜半島一帯 に群住?していた時代であったと考えられ、特に倭語、加耶語、扶余語、百済語 は殆ど通訳なしでの意思疎通が可能であるほど近い言語であったことが推測され る。 そして、特に半島南部〜九州・西日本辺りに群住した諸語系統の人々は伝統ある 各部族集団としてのアイデンティティー意識は持っていたものの、確固たるナシ ョナリズムとしての国家意識は希薄で、せいぜいのところそれは「部族国家的意 識」であったと考えられる。しかし、おそらくそれは飛鳥時代の中期に起きたク ーデター政治劇、「乙巳の変(百済派による新羅派の粛清?/645)」の後に行 われた「大化改新」の頃に変貌し始める。 ところで、歴史学・考古学・文化人類学などの分野では、そもそも重層的な「東 アジア文化受容の歴史」こそが「寛容で世界に誇るべき日本伝統文化」の水源で あったという理解が深まりつつあり、続々と此の辺りの実証研究が日・中・韓で 進んでいる。特に興味深いのは日本の宮内庁、伊勢神宮系の神官・考古学者・歴 史研究者らの研究が進んでいることだ。例えば、宮内庁・文科省or伊勢神宮など に所属する研究機関・研究者らが括目すべき新発見や研究成果を発表しており、 それらが「日本伝統文化」の水源を新たな光で照らしつつある(参照、下記サン プル事例◆)。 f:id:toxandoria:20150107154354j:image:w300 ◆2015年3月10日〜5月6日 国際企画展示『文字がつなぐ古代の日本列島と朝鮮半島』国立歴史民俗博物館20141015〜20141214(千葉県/佐倉市)/漢字は中国か ら直輸入されたと考えがちだが、まず中国と競り合った朝鮮半島において漢字を 取り入れる工夫がなされ、さらにそれが日本列島に伝わったことが最近の研究で わかってきた。[展示代表] 小倉 慈司氏プロフィール:専門=古代神祇制度、宮 内庁書陵部編修課主任研究官を経て、現在、国立歴史民俗博物館研究部准教授。http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/141015/index.html ◆三上喜孝(国立歴史民俗博物館准教授)著『日本古代の文字と地方社会』(吉 川弘文館)20130801刊 ・・・主に畿内では、政治的儀礼と結びついた文字(漢字)の使用が5世紀にあ らわれ、やがて7世紀になると記録技術(金石文、木簡、紙など)の獲得によ り、統治技術の手段として文字が使用されるようになり、7世紀後半から8世紀 前半にかけて、文字文化の体系化が急速に進んだ(言い換えれば、天皇制の原型 の確立と文字(漢字)の関わりが非常に密であるということ!)。 ・・・・このような動向が顕著となるのとほぼ同じ頃に、畿内や九州などに限ら ず、日本列島各地の社会内部でも、文字(漢字)の使用がはっきり確認できるこ とが明らかとなっている。 ◆伊勢神宮・斎宮歴史博物館、学芸普及課長・榎村 寛之氏の論文『伊勢神宮の 建築と儀礼‐棟持柱建物は神社建築か?‐』(出典:上田正昭編『古代の日本と 渡来の文化』‐学生社‐) ・・・<伊勢神宮創建(日本幼生後期)の意義>が『伊勢神道の精神性/創設時 の歴史と根本理念(天皇の超神聖王権の主柱)』にあることは既に明らかとされ ている。つまり、伊勢神宮は、日本国の幼生後期(7世紀中葉〜後半頃の天武・ 持統期)において<伊勢神宮が天皇の超神聖王権の主柱>の役割を担う目的で創 建された訳だ。(委細はコチラ ⇒ http://urx2.nu/fNSI http://urx2.nu/fNSL ) ・・・そのような意味での「創建・日本国」のオリジナリティである<伊勢神宮 の建物(および神道儀式)の起源>について、更に榎村寛之氏が観察・研究を 深めた結果、判明したのは、伊勢神宮(の建築様式、儀式など)のアーキタイプ が外来・渡来系の文化の中にあり、特に関連「儀式」に関しては、その起源が明 らかに古代中華帝国の律令制にあるということだ。 ・・・棟持柱高床建築(神明造)には中国の南方的要素の渡来が窺われ、天皇の 命により神社・山陵などに幣帛(神道の祭祀において神に奉献するもののうち、 神饌以外のものの総称)を奉献する儀式「奉幣(ほうべい、ほうへい)」も、中 華帝国の律令儀式・心法(老荘の精神修養法)などから援用され、その後、日本 的に、かつ高度にソフィスティケイトされたものと考えられる。 ・・・また、斎宮儀式等における唐風女性の装束を始めとして、日本の宮廷等に おける儀式が唐風儀式の援用であることも周知のとおりだ。無論、それは模倣の ままということではなく、遣唐使による実際の見聞、あるいは渡来系貴族層など がもたらした文物や風俗文化・儀礼作法・芸能などの継承・模倣・習得・応用を 通じて、例えば「伎楽」主流の時代(飛鳥時代〜奈良時代)⇒「雅楽」主流の時 代(平安時代以降)の変遷の如く日本宮廷の貴族層が次第にそれらを純日本風に 演出ないしはアレンジするようになり、日本文化全体を、より高度化・洗練化す る形で「国風文化」的な方向へ進んできたと考えられる。 ・・・ 中華帝国「冊封体制」の近傍に立地する独立国としての新たな<アイデンティテ ィー精神の芽生えの象徴>である<伊勢神宮の精神性>を表現する儀式モデルが 中華帝国の律令にあることを知ると、それは沽券(こけん/原義は不動産の売り 渡し証券、転じて人やモノの値打ちのこと)に関わると思う向きもおられると思 うが、およそ世界文明の伝播・発展プロセスを概観するとき、全くの独創(オリ ジナリティ)的文化様式が、ある日、此の地球上の何処かで、まるで<ボーフラ の水槽伝説>の如く突如湧き出すなどということはあり得ないことだ。 須らく、人間の文明は其の意味で果てしない模倣の繰り返しである。だからこ そ、宿命的に付き纏う模倣から、如何にして土地固有の自然環境や地域的・民族 文化的環境と調和させて当該地に最適のオリジナリティを創造できるかが問題と なる。日本が世界に誇る「国風文化」(その芽生えは凡そ9世紀初頭・嵯峨期こ ろ〜)もそのような流れの中で誕生したはずだ。 更に、それが、日本語の高度化(漢字かな混じり文という書き言葉の完成)と相 俟って、表情豊かな四季折々の自然と調和するオリジナル日本文化として再結晶 しつつ、誇り高い日本人のための他に代え難い美的感性を育み、かつ繊細で魅力 的な「日本の景観にこそ相応しい雪月花や、あるいは“わびさび”などの個性」 を涵養してきたという事実は、我われが義務教育過程の日本史の中で学んだとお りである。 然るに、日本の全国会議員の40%を占める、神道政治連盟国会議員懇談会(安部 晋三会長)に連なる勢力(神社本庁(主流派)・靖国神社・日本会議ら、平田篤 胤派神道“顕幽論”シンパ)とつるむ主要記者クラブのメディア・プロパガンダ に洗脳されたためか、未だに<戦前型「靖国式国家神道なる怨霊カルト(英霊) 崇拝政治」(明治維新期以降にムリクリ再創作された虚構史/八紘一宇、万世一 系皇国史観、天皇現人神論(天皇の密教的政治利用)、皇紀二千六百年・・・、 これらは全て“記紀(古事記・日本書紀)の創作神話”を原理主義的に解釈した 平田派神道(靖国顕幽論)に毒された“戦前の国家神道”にルーツがある!)へ の回帰>こそが、正統な日本文化と日本の誇りを取り戻すことだと思っている人 々が意外に多いことに驚かされる。 言い換えれば、更に元を辿れば、それは戦前どころか「古代律令期(飛鳥中葉〜 奈良〜平安初期)の怨念・怨霊政治なるアイデンティティー・ジレンマの時代/ 感情の政治学(“感情のコントロール”を最重視する政治)が不在の時代」への 回帰(先祖帰り)こそが「世界で一番美しい産土(うぶすな)でできた国、日 本」を取り戻すための「正しい保守主義」のあり方(そして、そのリアルな実践 がアベノミクスの流儀)だ、と信じ込まされ騙されている(洗脳されている)こ とに等しい。 しかも、そのアベノミクス政治の流儀が最重視する“世界一美しい産土でできた 国、日本”なるビジョン」が、実は平田派神道学(靖国顕幽論)の“世界一美し い産土による国造り神話”の屁理屈を根拠として創作されたということには驚か され、呆れかえるばかりだ(出典:吉田真樹著『平田篤胤−霊魂のゆくえ』講談社)。 今や、“余りにも善良すぎる多数派層の日本国民”は、自らの真実の自画像(世 界に誇るべき国風文化の中から芽生えてきた日本正統保守の在り処である肝心の 歴史)を直視できぬまま、自らの最後の拠り所である日本の未来についても、安 倍晋三ら“靖国顕幽論”シンパの思うがままに操られ、誤った方向へ進む決定を メディア絡みで強制されつつある。まさに、これこそ「安部“複合カルト寄生 体”政権」という怪物の恐るべき正体の現れだ。 (“平安京遷都を断行した桓武天皇の真意”を推理する/それは、古代的“百済 風日本”というアイデンティー・ジレンマ(『感情の政治学』が不在ゆえに生じ た)から脱出したいという強い意思であった) ■日本政府(安部政権/アベ一派)が海外から危険視され、警戒されている真の 原因、およびその正体はコレ ⇒ 【偽装極右(カルトの正体を隠蔽しつつ正統 保守を騙る超然権力による暴政志向派、安部一派)の正体とは?それは、いわば 古代的な感情・怨念・怨霊カルト政治、深刻なアイデンティティー・ジレンマ政 治(“国民=労働&戦争ロボット視”政策と基本権削除を謀りつつ正統保守を騙 るという、まさに犯罪的でワヤクチャなアイデンティティー・ジレンマの国民へ の押付け!)への逆流!! “靖国顕幽論カルト&偏狭世界観”由来の“怒りの感情”が抑制できず、遂に、強権&暴走権力の行使を宣言する安部晋三式<サイコ パス政治>の始まり!】安倍首相会見要旨 「戦後以来の大改革、抵抗あっても 邁進」http://urx2.nu/fQHr ・・・Cf.【フランス政府が日本を「危険国」に指定 人種差別デモが原因か?/ フランス政府が日本を「危険国」指定にしていたことが分かった。在仏日本人の ツイッターで明らかに!背景には人種差別的デモの拡大への警戒意識があると分 析。「もしフランス国内で同様のデモがあれば全員逮捕」か?また、「フランス 版CNN」のFrance24も排外主義的デモの拡大と安倍政権の関係性を注目している】20141226matome.naver http://urx2.nu/fQHp・・・ ・・・ 桓武天皇が平安京への遷都を断行した理由として先ず普通に思い浮かぶのは、 <度重なる藤原氏や皇族らをめぐる権力闘争が激化し、遂には大戦乱となった 「藤原弘嗣の乱(740)」を契機に聖武天皇と光明皇后が仏教による鎮護国家思 想に傾いたが、今度は、聖武の娘である考謙上皇の病を治したとされる道鏡ら僧 侶と寺院(仏教勢力)が政治権力化して酷く堕落したため、その混迷から脱出す るため、奈良仏教界の支配下に入った平城京から離れる意図を桓武が決断し た。>ということだ。 しかし、煩瑣になるので委細は省くが、ここで注目すべきは下記の「最も核心と 見なすべき、凡そ7〜9世紀の日本史の流れ」には、事実上、当時の天皇家と藤 原氏の“精神的宗主国” (?)であった百済と、その敵対国である新羅の影響 力が色濃く影を落としている。例えば、「藤原弘嗣の乱(740)」で朝敵となっ て追い詰められた藤原弘嗣(百済系)が、本来は敵対するはずの半島勢力の新羅 へ秘密裡の脱出を謀り失敗したことが知られている。 「大化改新(百済系である中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿(新羅系)を殺し た“乙巳の変/645“後の政治改革)」〜「白村江の戦い(663)」〜「壬申の乱(672)」(以上、飛鳥時代)〜「平城京遷都(710)」(以降、奈良時代)〜 「藤原弘嗣の乱(橘家による藤原式家への逆襲/740)」〜「“光明=藤原仲麻 呂体制”確立(746)」〜「橘諸兄・隠退(橘奈良麻呂の乱、失敗/756)」〜 「平安京遷都(桓武天皇/794)」(以降、平安時代)・・・「平安京造営中止 (平城天皇/806〜)」・・・「平城上皇、平城旧京へ移る(809)」・・・「薬 子の変(810)」 <注記>薬子の変(平城上皇(太上天皇)の変) ・・・平城上皇と嵯峨天皇との対立で嵯峨天皇側が迅速に兵(坂上田村麻呂ら) を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着。平城上皇の愛妾の尚侍・藤 原薬子(式家/中納言藤原縄主の妻だが、数々の不倫を重ねた魔性の女?w)や、 その兄である参議・藤原仲成らが処罰・処刑された。 つまり、これこそが(2−1でも触れたことだが・・・)、おそらく飛鳥時代の 中葉に起きたクーデター政治劇、「乙巳の変(百済派による新羅派の粛清?/645)」の後に行われた「大化改新」以降の<これを契機に幼生期日本の比較的 寛容な国家意識が急速に変貌し始め、同時に政敵殺戮の繰り返しで恐ろしく残酷 な惨劇が展開する怨霊・怨念型政治が本格化>したことの背景である。 因みに、若狭湾ルートで渡来した前渡り(古い渡来人)の新羅系をルーツとする 蘇我氏は、元々、現在の京都を含む山城国の開拓で根を張っていた渡来系氏族で あるようだ。 一方、藤原氏のルーツである中臣鎌足は百済系渡来人であり、天智の父・舒明天 皇が百済宮(現在の奈良県北葛城郡広陵町百済にあった)を皇居としていたこと、母・皇極(斉明)天皇も百済系の茅淳王(ちぬのみこ)であると思しきこと、百 済・聖明王が仏教・仏像・教典を舒明天皇の祖父・欽明天皇へ本格的に伝えた (538/対高句麗戦・応援要請の代償?)などの経緯から天智天皇(中大兄皇 子)も百済系天皇と理解することが妥当と思われる。 また、「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇)側を支援したのが新羅系の勢 力であったことが推測される。それは、舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子と して生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくするれっきとした 弟にあたる大海人皇子であるが、大海人皇子の名は、凡(大)海(おおあま)氏 の女性が皇子の乳母であったことから付けられ、凡(大)海氏が大海人皇子の養 育にあたったとされており、しかもその凡(大)海氏は前渡り新羅系の氏族であ るからだ。 このため、奈良時代の天皇は、天皇自身は百済系であるものの、「壬申の乱」以 降には覇権を握った新羅系の影響下に天皇家が置かれることとなったため、繋ぎ 役という特殊な事情で即位した元明(女帝)・光仁(白壁王/62歳で即位した、 桓武の父)の二名以外は、全て(七名)が天武系(新羅系の影響下にある天皇) という、きわめて特異な構図が観察されることになる。加えて、このように複雑 な支配構造の中で、先に述べたとおり、この時代の朝廷内「権力闘争」は異常な ほどの凄惨さを伴っていた。 以上を概観して理解できるのは、矢張り、奈良時代までの日本(平城京までの “百済風日本”)は『日本(平安京以降の“国風文化伝統の日本”)』ではなか った!ということだ。もっと言えば、凡そ堺〜難波〜河内〜奈良にわたる地域は 古来から加耶・百済・新羅・高句麗ら前渡り(数世代に及ぶ古い渡来人)と今来 (いまき)と呼ばれる新しい渡来人たちの居住地であり、特に飛鳥時代以降は天 皇家・藤原氏と繋がりが深い百済人(系)が主流となっていた。 なお、別系統(若狭湾ルート)で半島の先進文化を携えた新羅系渡来人が北陸道 〜滋賀(淡海)〜山城(京都)あたりに入り定住し、荒地の開拓に従事してお り、その最も大きな勢力が秦氏、蘇我氏などであったと考えられる。つまり、桓 武天皇の平安京への遷都以前に山城などの地域は、平安京以降の“国風文化伝統 の日本”が成立する以前に既に別ルート渡来人が開拓した先進地であったと見る べきだろう。 特に、北陸道(若狭・越前・越中・越後)の中でも、コシと呼ばれた越後は、 これら新羅系勢力の中枢であった可能性が高く、古来、百済系を主流とする倭王 権側から特別視されてきた気配がある。現皇室の初代とされる継体天皇(6世紀 初頭)のルーツがこの“北陸道”系(新羅系)であることから、新羅系⇒百済系 の血統の流れに矛盾が生ずるが、日本書紀(百済本記/現存しない歴史書・百済 三書の一つ)の記述にある“継体死後の「倭の大内乱 」(新羅系Vs百済系両派 による?)”の委細は未解明で謎のままとなっている。 特に、秦氏の平安京遷都への貢献は大きく、嵯峨野・太秦辺りを開拓した秦河勝 の大きな功績は瞠目すべきであり、雑駁に言えば、京都の基盤は新羅系・秦氏ら が準備したことになる(このため、京都には“秦氏or新羅(新羅(蘇我氏)系の 聖徳太子は百済・新羅和解の象徴か?)”縁の寺社が多い/Ex.松尾大社・法輪 寺・広隆寺・伏見稲荷など、因みに八坂神社は高句麗系?)。更に、桓武天皇の 御所用に秦河勝(6世紀後半〜7世紀半ばに大和朝廷で活動した人物)が私邸を提 供しており、また、その功績の中から後の国風文化の豊かな土壌(雅楽を世襲す る楽家・東儀家、あるいは能楽の観阿弥・世阿弥のルーツは秦氏)が生まれてい る(参照、添付画像(左)は秦 河勝(ウイキより)/これらについて更に詳しくは、下記◆を参照乞う)。 ◆2012-02-12toxandoriaの日記/ヒョットコについての論考/日本史の深層に潜 む俘囚差別(白河以北一山百文)の秘密(原発一極経済型「自滅志向国家・日 本」の深層・・・)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20120212 ◆2013-01-17 toxandoriaの日記/アベノミクス&国策原発の玄宮で蜷局(とぐろ)を巻く「神道政治連盟」なる自民党御用達「極右ウロボロス神」の現象学的考察、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130117 ・・・ それはともかくとして、このような訳で桓武天皇の母親(高野新笠(たかののに いがさ/桓武天皇の生母で百済から大和朝廷へと送られた人質であった武寧王の 10世孫とされ、出身一族は6代前に帰化し和氏の姓を下賜された。)、韓流の愛 人?wコト百済永継(くだらのようぎょう/藤原内麻呂の妻であったが色香漂う 女官となり桓武の御手付きを得た)の存在に加え、桓武朝廷内には更に7人の百 済系愛人がいた、と言う具合で、桓武の周囲は殆どが百済人、百済系、百済語 (倭語に近かった?)だらけということになる。 しかし、これは何も不思議なことではない。それは、まさに桓武のころまでの平 城京(奈良)そのものが“百済風(系)日本”であり、現代の我々が認識する平 安京以降(より厳密に言えば平安中期以降)の“国風文化伝統の日本”ではなか ったからである。そして、それは、結局、百済人の世界と百済文化にドップリ浸 かった桓武であるからこそ、かえって『脱“百済風(系)日本”(アイデンティ ー・ジレンマ)意識』を強める(当時の常識であった倭国が百済の分国であると いう現実を否定したいという意識が強まる)ことになったと思われるからだ。 2−2 (仮説)「桓武の脱“新羅風日本”の意思を継ぐ嵯峨天皇の慧眼」こそ が真性独立国家・日本(正統保守の心髄/オリジナル国風文化)創造の端緒であ った! (平安京遷都は桓武の思惑どおりスムーズに運んだわけではなかった) しかし、平安京遷都は桓武の思惑どおりスムーズに運んだわけではなかった。そ れは、桓武自身が、心情的には百済人であるという意識と共に、天皇として六国 史の第一にあたる『日本書紀』史観に忠実であるべきだとする一種の「文化国家 的アイデンティティー意識の高まり、つまり百済系のままか?or倭国文化の創造か?」という相矛盾する価値観の挟撃で苦しんでいたこともあり、その桓武のジ レンマが安殿親王(平城天皇、後に平城上皇/桓武の第1皇子)と神野親王(嵯 峨天皇/桓武の第二皇子)の二人の上に、関係者の悉くが得体の知れぬ怨念に取 り憑かれ「感情のコントロール」を失ったが故の、過酷で残酷な「骨肉の暗闘」 というドス黒い不吉な影を落とすことになったからだ。 皇太子時代より、自らの妃(天皇時代は皇后)の母である妖艶な藤原薬子を寵愛 して醜聞を招き、父(桓武)から薬子の追放を命じられていた平城天皇は、上の ような背景から、桓武の病死後に自らが天皇に即位するや父・桓武天皇の政策の 見直しに着手した。そして、事実上の百済の分国である平城京(百済風(系)奈 良文化)への回帰政策に取り組み始め、やがてそれが・・・「平安京造営中止 (平城天皇/806〜)」・・・「平城上皇、平城旧京へ移る(809)」・・・「薬 子の変(810)」という悲劇の方向へ繋がったと見ることができる。しかし、そ れだけではなく、おそらく父・桓武天皇の“心情は百済人である”という意識・ 無意識の深刻なアイデンティティー・ジレンマが、平城天皇の心に特に大きな深 い傷を負わせていた可能性が高い。 ともかくも、「薬子の変(810)、」を口実にされ、結果的に、平城天皇は上皇 となり平城京に押し込められることとなり、政権を奪い取った嵯峨天皇が、桓武 の「半島の影響から離脱するための対外的軍事力強化ではなく、独創的文化国家 を確立する方向を目指す強い意欲」の部分を受け継いで、本格的な「文化独立国 家・日本」の基盤づくりに乗り出すことになった。これが、その後の本格的な 『国風文化の時代(竹取物語、伊勢物語、古今和歌集、土佐日記、枕草子、源氏 物語、平等院阿弥陀堂、新仏教・大和絵の成立、鎌倉・室町文化(観阿弥・世阿 弥の風姿花伝(能楽)、茶道、華道etc)成立への土壌創造など)/10世紀初頭〜』以降の国風文化確立へのプロセスを進む契機(漢文訓読の成立、カナ・ひら がなの発明など)となった。 f:id:toxandoria:20150107150353p:image:w470 その後、嵯峨天皇(後に上皇)の大家父長的支配のもとで30年近く政治は安定し、 皇位継承に関する紛争は起こらなかった。が、その間に藤原北家の藤原良房(人 臣として初めて摂政の座に就いた人物で、北家全盛の礎を築いた)が嵯峨上皇と 皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めており、摂関政治 の全盛と本格的に「国風文化の開花(文化国家的意識の確立)」を予感させる時 代へ入った(以上の関連で、“薬子の変”を中心モチーフとしつつ桓武・平城・ 嵯峨の時代の空気を巧みに描写した永井路子『王朝序曲』―角川書店―は必読書!)。 (嵯峨期にほぼ確立し、爾後、約1千年以上におよび日本の教育・文化のベース となった『漢文訓読』は、“未生(みしょう)文化国家意識の嚆矢”(国民一人 ひとりの生の具体性への眼差しの賜物)となった画期的な出来事である) ・・・イギリスの社会学者ニコラス・ローズ(元々は生物学が専門)が説くよう に「ゲノムの実像が『生物学的多層性と様々な社会的交流可能性』を否定しては いない」(委細、後述)という意味で、社会科学と生命科学の二つの知が統合さ れる可能性すら視野に入りつつある現代だからこそ、日本は直情的にアナクロな 軍国主義ナショナリズム国家を目指すべきではなく、自らの国の古代史にその意 味での先験事例が確認される『未生(みしょう)文化主義国家』としての、言い 換えれば『真の教育効果とは何かを熟考するとともに社会的交流可能性の水準を 高めつつ国民一人ひとりの生命と生活の底上げを期して正統保守的で漸進的な高 度文化国家を目指す方向へ傾斜すること』が全ての基本であることは、このよう な「日本」草創期の歴史を顧みても分かることだ!政治・経済の発展と成長は、 このような意味での生物学的多層性と社会的交流可能性の、つまり国家の持続的 な文化的水準の高まりを土壌としてこそ必然的に生成すると考えるべきなのだ!・・・ <注記3>未生(みしょう)とは? ・・・仏語での未生は自我のない絶対無差別の境地を意味するが、具体的には永 遠に生命の連鎖を繋ぐもの、例えば絶えず成長の可能性を秘める植物のタネから 芽生えへのプロセスを考えると分かり易い。このことを我われの日常生活に影響 する観点から突き詰めれば、トマ・ピケティが「21世紀の資本論」で指摘した 「分配論と信用」の問題にも重なる。更に、言い換えればそれは「元本保証され た多様性の創出=持続的な生の具体性への眼差し」(発生生物学者・古澤満氏、 後述)とも共鳴する。 ・・・人間以外の生物に“感情”があるかどうかは知る由もないが、また、仮に あるとしても、それを感情と呼ぶべきかも不分明ではあるが、人間社会でも、生 物一般でも、突き詰めれば“永遠に生命の連鎖をつなぐあり方(つまり、論理を 越えた内外のメタ環境的次元で作用する何か、しかもそれは、恰も安部政治の如 くカルト風に舞い上がるべきものではない何かである!)”が、生理的で合理的 な生命生成力のカギとなっているのではないか?という点がアカデミズムの領域 を越えて注目されつつある。 ・・・しかも、そのことを、特に政治学・生命科学の分野で強く意識すべきでは ないか?という新たな着想が芽生えている。例えば、政治学の分野では、目下注 目を浴びている『感情の政治学』(講談社選書メチエ)の著者・吉田 徹氏(北 海道大学準教授/公共政策学)は「ノミナリズム(唯名論)としての“信用”と 繰り返される行動としての“信頼”」の決定的な差異を理解すべきだということ を指摘している。因みに、“この道しかない、アベノミクス!”を叫びつつ突っ 走るバカリの安倍晋三一派は、このような点を全く理解していない!w ・・・イギリスの社会学者ニコラス・ローズが、為政者たちの(まるで安部自民 党政権の如き!)“生の具体性(つまり、“未生の作用”ということ←補足、toxandoria)への眼差し”の決定的欠落は、ゲノムの実像が「生物学的多層性と 様々な社会的交流可能性」を否定してはいないという生命科学的なリアリズムへ の致命的な無理解がもたらすことだと主張していること(出典:ニコラス・ロー ズ著、桧垣立哉監訳『生そのものの政治学/二十一世紀の生物医学、権力、主体 性』―法政大学出版局―)、あるいは発生生物学者・古澤 満氏が説く、生命個 体の発生生物学的な意味での環境適応メカニズムである「不均衡進化論」の仮説 (古澤 満著『不均衡進化論(Disparity Evolution)』―筑摩書房―)を連想させ て、非常に興味深いものがある。 ・・・なお、古澤満氏は『不均衡進化』仮説(多細胞生物における幹細胞(複数 系統の細胞に分化できる能力(多分化能)と、細胞分裂を経ても多分化能を維持 できる能力(自己複製能)を併せ持つ細胞の特異な、つまり絶えず繰り返される “未生”を永遠に?持続させ得る働き)のことを「元本保証された多様性の創出 」とも称していることに注目すべきだ(塩基シークエンス(配列)が100%同一 の意ではなく相対的に変異が少ないという意味!外形(ノミナリズム)的に 100%同一保証に拘るのがアベノミクスなるカルト?だが、それは必ずウソばか り!の結果になるので、次々と永遠にウソを吐くことになるw しかも、仮にシ ークエンスが100%同一であることが可能だとしても、元本の現価価値がメタ環 境価値の変容に連れて変わらざるを得ないのは当然のこと!)。つまり、それこ そが安部晋三一派が被れた、名ばかり保守の「偽装極右」とは全く異なる「正統 保守」なるものの心髄ではないのか? (今も続く中国伝統の中華思想に対抗し得るアンチテーゼの発見こそが急務) ・・・安部政権が拘る『アナクロ軍事国家主義』への有効なアンチテーゼは『高 度文化国家意識』の高揚ということ・・・そして、そのヒントは、特に古代から 現代へおよぶ悠久の文化交流史(当然、江戸期の庶民層における明朝中国を舞台 にした作品である国姓爺合戦ブーム、あるいは南総里見八犬伝ブーム(これは宝 井馬琴の漢学教養と中国白話小説(中国の大衆文学)への造詣が生み出した傑 作!)などサブカルチャーも含む)の中にあった・・・ <参考>日本型「華夷秩序」(日本版“中華思想”)の誕生は清王朝の誕生から 始まった ・・・それ以前の各政治権力体制(鎌倉・室町幕府など)と同じく徳川幕府は、 成立当初、先進文明国(漢民族国家)である中国に対し一定の尊敬の念を持って いたが、1636年の清王朝(満州族の征服王朝)の誕生が、その思想に外形的変化 を迫った。つまり、満州族王朝の成立で中国漢文明は衰退したと見なされ、相対 的に「神道」こそ日本固有の宗教・思想である」という優越意識が、日本こそ 「中華」だという意識へ変化した訳だ。これが日本型「華夷秩序」であり、それ 以降は新たな政治観念(尊皇攘夷(ルーツは中国語!w)、極右皇国史観など) が形成されるようになった。 ・・・ ところで、そもそも神祇とは倭人古来の神々のことだが、「神道」の文献上の初 出は『日本書紀』用明天皇元年条(586)であり、神社(社殿)の建立は七世紀 中頃から始まったと考えられている。しかし、倭人の神に対するアニミズム信仰 は遥かな縄文の昔から存在しており、そこへ渡来(中国・朝鮮半島)系の道教・ 北辰(北斗七星)・土俗信仰などの要素(鳥居のルーツ等)が融合して神社の原 型が成立したと考えられるが、北辰信仰の痕跡は明日香村のキトラ古墳(天文図) などに見られる。 そして、この日本の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成 (習合)された宗教現象が神仏習合であり、その最も早い具体例は「宇佐神宮 (大分県宇佐市)が朝鮮半島の土俗的仏教の影響下で6世紀末に神宮寺(神仏習 合思想に基づき神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂)を建立した」ことと される。 また、神仏習合に先立つ本地垂迹説は「日本の神々の本地(正体)がインドの仏 たちである」とする考え方だが、後に、神道側が反発してインドの仏たちの正体 こそが日本の神だとする反本地垂迹説wを主張したため、やむなく「神仏一体説 (神仏習合)」になったという経緯があるようだ。そして、ここから派生したの が「梵和同一説」である。 このように、「梵和同一説」とは荒唐無稽というべきかも知れぬが?w、ともかくも古代インドの言語や仏たちの権威を借りて、倭国(日本)のコトバや神々の存在を正統化し、日本(凡そ奈良時代〜平安初期ころの倭国)の地位を高めようと意図したこと、つまり一種の「中華思想に対抗する文化ナショナリズム的な意識の芽生え」でもあったと考えられる。 f:id:toxandoria:20150107151302j:image:w250 そして、このような古代インド(仏教)の権威を借りて中華思想に対抗しようと する、いわば高度文化ナショナリズム意識の高まりから成立したのが我々に馴染 み深い「漢文訓読」の方法(漢文(中国語)を日本語で読む工夫)である。因み に、朝鮮半島でも、李斯朝鮮王朝の王・世宗が庶民教育の必要性から表音文字ハ ングル(訓民正読)を制定した時(1446)より前の時代には、語順符と漢字の略 体(日本のカナに相当)などを使った訓読(朝鮮では釈読という)が行われてお り、同時に、日本の万葉仮名と同じく漢字の表音的利用も行われていた(出典: 金 文京著『漢文と東アジア』―岩波新書―)。 なお、日本のカタカナの起源は9世紀初めの奈良の学僧らの間で漢文を和読する ために訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略して付記したことに始ま ると考えられている。また、日本の「漢文訓読」と朝鮮半島の「釈読」との間に は何らかの関係性が窺われるが、その詳細は未発見・未検証となっている。 余談になるが、15世紀中葉に庶民教育の必要性から世宗(せいそう、セジョン/ 李氏朝鮮の第4代国王)が表音文字ハングル(訓民正読)を制定して以降の朝鮮 半島では、両班・官僚・学者・豪商らを中心とする上流階層が漢字文化をほぼ独 占することとなり、半島内で一種の文化格差状態が生まれた。つまり、朝鮮半島 は、世宗の意に反して本質的な意味での「漢字文化(釈読(訓読)の漢字文 化)」を15世紀に捨てたことになる。そして、このことが、残念ながら世宗の そもそもの意図(未生のための胎盤(国語文化)を育て、国力を向上させようと したこと)を裏切る形で爾後の朝鮮社会にある種の後進性(近・現代的意味で の)の残滓(影)を残す主な原因になったと考えられる。 他方、13世紀に半島へ伝わった朱子学は、朝鮮王朝の国家統治理念として重用 され、それまでの高麗の国教であった仏教を排し(政治力を持った仏教を弾圧→ 縮小し/この辺りの状況は、百済の強い影響下で政治権力と化した奈良仏教から 脱出した桓武の平安遷都のそれと似ている!が、日本では奈良仏教弾圧ではなく、 より一層神仏習合の度合いが深まる方向へ進んだが・・・)、朱子学(12世紀中 国(宋)の朱子(朱熹)が始祖/理念的により純化した儒学の一流派)を唯一の 学問(官学)としたため、半島の朱子学は非常に高度化して近・現代の朝鮮文化 の主柱となってきた。 このように統治技術の基盤として高度に洗練された半島の朱子学は李退渓(又は 李滉とも/16世紀中期の儒学者)⇒ 林羅山、山崎闇斎or吉田松陰らのルート で、特に江戸期の日本へ大きな影響を与え、それは江戸幕府の御用学問(官学) の中枢となった。また、日本極右の一つの源流となった尊皇攘夷論の元祖(水戸 藩・水戸光圀の大日本史など)へも影響を与えており、果ては、意外にも最も日 本的でピュアな精神の現れとされる武士道(山鹿素行らによる国風文化と朝鮮朱 子学の高度な臨界的融合の努力?)へも大きな影響を及ぼしてきたことは真に興 味深い文化と歴史の共振・共鳴現象である。 以上のような経緯を概観して理解できることがある。それは、非常に雑駁な見方 となるかも知れぬが、現在の朝鮮半島の人々は、自らが失ってしまった(政治・ 歴史的経緯で捨て去ってしまった)遥かな過去の世界の遺産として大いに誇るべ き古い歴史と高度な文化の残照(特に、凡そ李氏朝鮮が開始する14世紀以前 の、具体的に言えば高麗・百済・新羅・高句麗およびそれ以前の歴史と文化のリ アルな痕跡)を日本列島のおよそ関西〜九州に及ぶ辺り(特に奈良・河内・難波 ・京都・滋賀・若狭etc)に発見できるのではないか?ということだ。 また、これと似たような“感情(感慨?)”は、古代交流史へ目を向ければ中国 の人々も持てるはずだ。他方、その十分な評価はこれからであるとしても、近世 の日本が朝鮮・中国から日本の近代化に役立つ大きな知的刺激を受けてきたこと も間違いがない(そのような事実については、多くの日本国民が未だ中々認め難 いのかも知れぬが・・・)。 ところで、今の日本では、アベノミクス(日本ブラック化戦略?苦w)と併行し てこのような古代以来の日本文化の非常に優れた思想的伝統(正統保守の心髄) を無視した(その意味で歴史を徹底的に無視した)実に愚かな「名ばかり教育改 革(実は文化基盤破壊政策)=戦前回帰(教育勅語志向)型の教育改革=高度化 ならぬ“日本文化低次元化”戦略?/↓*1」が、名ばかり<教育(道徳)改 革>の大義名分の下で行われつつある。しかも、それが如何に誤った選択(邪悪 な、あるいは愚かな歴史・文化理解に基づく)であるかは、例えば下記のような 動向(事例)(↓*2)が傍証している。まことに残念であると同時に、これこ そ根本的な大問題であり、かつ決定的な「日本安全保障」の危機である。 *1【万世一系皇国史観復活の意思(下村文科相)と太平洋戦争肯定論(西部 氏)が滲み出ているので、コレは“反面教師的”意味で良い内容だった?w】 プライムニュース『道徳教育と国家の尊厳 戦後価値観と歴史認識』2014年12月 19日 下村博文 文部科学大臣 評論家 西部邁 番組HP http://www.bsfuji.tv/primenews/ http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann-tanosiiburogu/archives/51956975.html *2 .安倍首相が嫌韓反中、「在特会」を持ち上げるヘイト出版社の本を大量 購入していた。予算枠ベースで、約50%が「在特会」系の過激ヘイト本!2015.01.05.LITERA(本と雑誌の知を再発見)、 http://lite-ra.com/2015/01/post-764.html (エピローグ)“生の具体性(未生)への眼差し”を欠く、そして信用と信頼の 区別が理解できないw「安部“カルト寄生体”政権」がファシズムへ流し目を送 るワヤクチャ? ■一見、添付画像(http://urx2.nu/fKdB より転載/グラフ中のCPIは 消費者 物価指数)では、両者が相関するかに見えるが、ゼロ金利制約下でマネタリーベ ースとマネーストック(マネーサプライ/信用創造の指標となる流通マネーの規 模)が連動しないこと、両者の相関性が非常に低く殆ど有意性のないことが知ら れている。 ⇔ 日銀の資金供給量(マネタリーベース) 275兆円超に/日銀は、デフ レ脱却に向けて来年度を中心とした時期に2%の物価上昇の目標を実現するため に、ことし10月に追加の金融緩和を決定し、今後も年間80兆円のペースでマ ネタリーベースを増やすことにしています。12141231NHKニュース、http://urx2.nu/fQHl <補足/只野親父、所見> ・・・ハッキリしているのは、1991〜1993のバブル崩壊後に一貫して「銀行融資 額(信用創造のバロメーター)」が縮小し続けており、日本経済が全く異次元の 経済・財政的な宿痾を抱えていることが推測される。矢張り、それより問題なの は、<20141214総選挙で国民から白紙委任状を取り付けた/実態は、約50%が棄 権した25%政権!w>と勘違いした安部晋三首相が、アベノミクスなる<超格差 拡大型>の異様な暴走政策が止まらなくなり、<日銀・黒田バズーカのマネー大 量印刷輪転機を急速回転>させて、<更に、一層激しく日本の国家財政と経済・ 市民社会を破壊しつつある/Cf.↓*>ことだ! ・・・法人擬制説で割り切り、法人税減税を主張する慶應義塾大学 経済学部教 授・土居 丈朗氏の立場(http://urx2.nu/fURz )には与しないが(法人実在説 の立場もあるので100%法人擬制説と、この“ねずみ講財政”化論は土居氏自身 の立場の自己矛盾を曝している!)、<今や日本財政は“ねずみ講財政”化だ! 論>には共鳴した。因みに、ドイツ憲法には「基本権(実在論的な意味での) は、基本権の本質に従う意味で、その内国法人に適用可能な限りにおいて、内国 の法人にも妥当する」との規定(*)がある。 ⇒ *Art. 19 Abs. 3/Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland http://urx2.nu/fQHg ■ファシズム政治の見逃すべきでない重要な特徴・・・ファシズム(結束主義、 排外主義、全体主義/伊 fascismo 英 fascism)とは、イタリアのベニート・ム ッソリーニが率いる国家ファシスト党が提唱した、ナチス・ドイツ、あるいは太 平洋戦争時の日本軍国主義らにも重なる特異な思想・政治運動のこと。因みに、 ここで、通例は見逃されがちな側面を見ておくと、それは<政治意識や識字率・ 教育などに関わる民度やメディア環境などが或る程度高度で、かつ社会生活レベ ルでの人々の結び付きや連帯意識が良好であるからファシズムは発生しない>と いうことにはならないという、恐るべき現実があることだ。無論、低劣な民度や 政治意識的な意味での文盲率の低さが、その大拡散の土壌を提供することは論を 待たない。言い換えれば、独善化・強欲化しつつ濃密化した「社会生活レベルで の人々の結び付きや“内向き”の連帯意識、仲間意識、事大主義(親方日の丸) 意識」がファシズムの火種を提供するということだ。その典型事例はファシズム の発祥地であった北イタリアの社会(例えば、バラマキ政策など現実的な社会関 係資本のあり方)に観察されるが、“原子村などの既得権益に深く毒された現代 日本の大労組・連合や、アベ様の広報機関化した現代日本の記者クラブメディア などの異様なあり方は、このような意味でファシズムの火種を提供しつつあると 見るべきだろう”。( ← “〜〜〜”の部分は只野親父の補足/出典:吉田 徹 ・著『感情の政治学』―講談社選書メチエ―) Cf. ⇒ http://urx2.nu/fQHf f:id:toxandoria:20150108133950j:image:w600 ■【アベノミクスの失敗が鮮明に!】・・・2014年のGDPはマイナス成長 になる見通しです。リーマン・ショック後の09年度以来5年ぶり。円安倒産は345件、対前年比で2.7倍に。それでもこの道しかない?金子勝 @masaru_kaneko via Twit2015.01.08只のオッサン(脱原発への急転向者)さん がリツイート http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/584520.html http://mainichi.jp/select/news/20150108k0000m020030000c.html |