メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[情報の非対称性]金目放射性「カルト寄生体X」、・・・(6/6)  2014/11/10


■[情報の非対称性]金目放射性「カルト寄生体X」、安倍政権のメディア・プ
 ロパ国民洗脳『社会的集団オルガズム』で陶酔する国民はその除染のため正当
 歴史観と正統保守意識の共有が急務(希望のトポス編)(6/6)

 <注記1>お手数ですが、当記事の画像は下記URLより入ってご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20141105

5 (希望のトポス2)重層的な「東アジア文化受容の歴史」こそが「寛容で
世界に誇るべき日本伝統文化」の水源

・・・・・・ここの画像(栂尾・高山寺(20141103)、京都御所(20141104)、
御所車(20141104))は、miyumiyu@reimondokobatiさま からご提供頂いた
・・・

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5−1 古墳〜飛鳥〜奈良〜平安時代の内外文化・交流関係史(概要/(付)
一部推測?部分)

〜仁徳天皇期(5世紀初頭?)・・・すでに半島・中国文化が盛んに渡来して
いた、同時にオリジナル日本文化の創造&葛藤期(難波宮(元飛鳥or倭京?)
における)、仁徳天皇陵(百舌鳥古墳群)を中心とする阪南〜堺市〜斑鳩〜飛
鳥あたりに未検証の遺跡等が非常に多く存在する

倭五王期(5世紀)・・・引き続き半島、大陸との交流はかなり活発であった
し、日本神道ないしは諸神社の源流となる様々な神事(中国系、半島系)、お
よび儒教・道教系など様々な土着文化と諸宗教が、多様なルートで日本列島へ
流入していたが、いわば国家意識は存在せず、倭語、扶余語、百済語、新羅語、
高句麗語など諸語系統の部族集団が西日本〜半島一帯に群住?

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継体天皇(6世紀初頭)〜推古天皇(7世紀初頭/聖徳太子)〜孝徳天皇期
(7世紀前半/難波宮、飛鳥の副都制・前期?)

・・・半島文化ルネサンス(というより半島南〜西日本辺りは殆ど一体化?)、
天皇家・蘇我氏・物部氏らと半島の血統関係は奥が深い?/舞楽(蘭陵王な
ど)、雅楽、鳥居、神事形式らの殆ども大陸〜半島経由で伝来したものと考え
られる(例えば、東儀家のルーツとされる秦氏などが貢献?

舒明天皇(7世紀初頭)〜斉明天皇(7世紀半ば)〜天智天皇(663白村江の
戦い〜672壬申の乱)(難波宮、飛鳥、近江等の副都制・後期?)

・・・同じく、半島(百済)文化ルネサンス(というより殆ど半島との一体
化)期だが、特に斉明天皇の時代は百済との結びつきが強く(前渡り渡来人の
ピーク期?)、この時期に百済と同じく巨石文化(酒船石、石舞台など巨石古
墳ほか)が築かれた(明日香村辺り)

平城京遷都(元明天皇、710)・・・およそこの頃には、遥かな昔に来倭して
いた前渡(まえわたり)と呼ばれる半島ないしは中国系の人々、今来(いまき)
と呼ばれる渡来人、そして倭人(倭人の構成比、約6〜7割/渡来系中心の貴
族層ではこの数字が逆転?)が九州〜近畿辺りに混住していた

〜平安京遷都(桓武天皇、794)・・・桓武“韓流”の時代?(その血統故、
桓武天皇の個人的趣味or韓流“愛姫”メジャー”宮廷文化?)

・・・以降、「日本オリジナル文化」確立・発展の時代へ・・・

嵯峨天皇(809〜823)〜宇多天皇(887〜897)・・・日本オリジナル文化の
創造期

醍醐天皇(897〜930)〜・・・古代〜中世〜近世〜現代につながる国風(日
本)文化の確立〜

5−2 日本古代文化の黎明/波状到来する東アジア文化の中で生まれた幼生
期“日本”の目覚め

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・・・これら二枚の画像は『大阪高低差学会のブログ』 http://osakakoteisa.blog.fc2.com/ より転載。

ところで、上掲の『大阪高低差学会のブログ』から引用した二枚の画像(それ
ぞれ低地を青塗りしたもので、一枚目は大阪湾を中心とする地域を、二枚目は
奈良から京都南部辺りを俯瞰している)は、縄文海侵(進)、平安海侵(進)
など遥かな太古から古代にわたり海水面の上昇が幾度となく繰り返された時代
の様々な可能性を連想させて非常に興味深い。

無論、それは特に想定される数回の大きな海侵(進)の時代にだけ渡来人が押
し寄せたという意味ではなく、それらの狭間の時にも海水面の上昇と後退が幾
度となく繰り返されてきたことが想像されるからであり、加えて、これらの画
像について『大阪高低差学会のブログ』さんが<以下>のように分析している
からだ。

<地形図に歴史ある神社をプロットしてみた。すると低地と高台の境目にすべ
てが当てはまる。岬や崖の上は古来より聖地とされてきたというが、あるべき
場所に重要な神社が置かれていることを改めて実感する。また、上町台地の南
には世界的歴史遺産である百舌鳥(もず)古墳群があり、その東側に古市古墳
群がある。百舌鳥古墳群は海からよく見える場所にあり、古市古墳群は大和川
を遡り大和へ向かう途中にある。両古墳群は渡来人が多く訪れた地域でありア
ースダイバー的にもとても興味深い地域だ。>

因みに、二枚目の奈良から京都南部辺りの俯瞰図(画像)を見ると、四天王寺
と難波宮跡など(元飛鳥宮(倭京?)、近つ飛鳥宮、飛鳥宮、斑鳩宮、大津宮、
平城京などとの間で遷都の往還的繰り返しはあるものの凡そ大化の改新から律
令国家形成期の舞台となったところ)が半島状地形の上に南北の関係で並び、
さらに生駒山を挟む真東の奈良盆地内の対称地点に平城京があり、その南には
法隆寺が位置し、平安時代前期(9世紀半頃)に宇佐神宮(九州・豊前国/神
職が血統的に天皇家と繋がる?)から勧請された石清水八幡宮が淀川から宇治
川へ変わる辺りの岬状の場所(川岸の近く)に立地するなどがわかり興味が尽
きない。まるで、古墳時代末期〜飛鳥時代〜奈良・平安初期の歴史をリアルに
俯瞰しているかのような錯覚に襲われる。やはり、この辺りは東アジア文化の
吹き溜まりであった可能性が高い。

更に連想されるのが凡そ飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本
古代文化のプロローグ」の時代、つまり「日本書紀」、「古事記」が描写する
日本の神話・説話の世界と重なる時代だ。そこで、大きく此の「日本古代文化
のプロローグ」期から「日本国の輪郭が成立して天皇の呼称が開始する天武・
持統期(7世紀後半)」の時代辺りまでを「広義の日本の古代化(日本国の幼
生期)」と見立てることが可能である。すると、この時代に見逃せないのが渡
来人の夥しいばかりの数の多さと、彼らが此の日本国の幼生期(黎明期)の基
盤造りに果たした役割の大きさ、その意味で渡来人は日本人の一部だというこ
とだ。


歴史学者・上田正昭氏(京大名誉教授/参考文献、下記◆)によれば、およそ
奈良時代末〜平安時代初期辺りを境(基準)として、それより遥か以前に渡来
した人々は「前渡(まえわたり)」、その頃に来たばかりの1・2世位の渡来
人は「今来(いまき)」と呼ばれ、貴族あるいは官僚・学者・僧侶・特殊技術
者などとして朝廷に仕えた「前渡」が自国の話し言語を忘れた(殆ど倭人化し
た)ため「今来」が通訳に取り組む場面も見られたようだ(一方、この頃の日
本語の書き言葉は漢字で書かれた、つまり中国語表記なので指導層の純倭人と
渡来人の間での意思疎通はかなり可能であったと考えられる)。 ◆上田正昭
編『古代の日本と渡来の文化』−学生社−

より深く「広義の日本の古代化(日本国の幼生期)」が意味するところを概観
するため、もう一人の注目すべき歴史学者・深谷克己氏(早大名誉教授)の著
書『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連するくだりを下
に引用する。

・・・社会が政治的支配・被支配ではなく長老・祈祷者などの経験知と託宣に
導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力者
か少数上位者の意思で左するか右するかを指図する「政治社会」へ変化するこ
とが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの「古典古代」
を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の更に周辺に位置して、かつ
王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡来系、倭人系の諸
豪族から成る数多の集団)が一段上へと争闘を繰り返し鬩ぎあう地域であった
ため、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を要した古代化となった。・・・・・・そのような意味での「古代化」は数世紀にわたる長い過程で
あって、初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された
時代から奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に東
アジア法文明圏(中国冊封圏)において承認される「国号」として「日本」、
「日本国」が称され始めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、
部族社会が各地に跋扈しており、それらに対抗しつつ幼生期の日本国は国際関
係において優越した地位を得たということである。・・・

・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留
まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を
継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を
超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも
或る意味で高度化し洗練された体質)に近い域にまでそれが進んだ。最初に吸
収したものから更に二次的に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身
辺化して派及が気付かれなくなっているものさえあるが、それらが日本の政治
文化の「基層」の構成要素となったと言ってもいいくらいである。・・・

5−3 古代日本における渡来文化の多様な痕跡―事例サンプル

飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本古代化へのプロローグ」
期に関わる渡来人と、渡来系関連文化の痕跡を少し探ってみると、その数は夥
しいものとなり驚かされる。ただ、些かでも気を緩めるや否やトンデモ論、陰
謀論あるいは他愛ない与太話の類の術中に嵌るリスクもあるので、これらの点
に留意しつつ幾つかの事例を以下に採録しておく。

大夫・難升米(たいふ・なんしょうまい)(歴史学者、上田正昭氏)
・・・3世紀、邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫(中国で使われた役職
名)であり、文字(漢字)を理解し、それを使うことができたとされる渡来系
の人物。

史部(ふひとべ)(歴史学者、上田正昭氏)
・・・記録・文書をつかさどって朝廷に仕えた部民(べのたみ)だが、4世紀
頃に渡来したという王仁(わに)の子孫・西史部(かわちのふひとべ)と阿知使主
(あちのおみ)の子孫・東史部(やまとのふひとべ)の二大勢力があったとされる。
金石文(金属や石などに記された文字資料)の記録者が史部であったと考えら
れる。

古代の交流史、日韓で共有/百済の昆支王、ソウルで展示へ)(2011.11.16産経MSN)http://urx.nu/3nrG 
・・・5世紀の雄略天皇の時代に倭国(古代日本)に派遣された百済(古代韓
国)の王族、昆支王(こんきおう)に関する展示スペースが、日本側の働きか
けで、韓国・ソウル市に2012年・春開館する市立漢城百済博物館に設置された。
・・・昆支王は百済の21代・蓋鹵王(こうろうおう)の弟。日本書紀には、
雄略5(461)年、蓋鹵王の命により倭国に派遣され、その際、兄の后(き
さき)を妻として同行したが、出産したため、生まれたこの継子を帰国させ、
後に25代武寧王になったと記されている。
・・・倭に渡った昆支の行跡に関しては河内の「近つ飛鳥」(大和=飛鳥、難
波=元飛鳥/アスカ=百済語で安らかな地の意?)で百済系の移住民を糾合し
根拠地にしたという見解がある。『新撰姓氏錄』の河内近つ飛鳥戸造(あすか
べのみやつこ)の先祖と河内近つ飛鳥戸造神社の祭神が昆支である点と、倭で
多くの子女が生まれたという点から推測すると、昆支を先祖とする後裔(末裔)
氏族が、今の河内・飛鳥郡一帯を中心に繁栄していたらしい。これは百済人が
倭に渡って造った横口式石槨が主流をなす河内平野古墳群の分布からも立証可(http://urx.nu/3nrR )。因みに、高句麗・百済・扶余・倭らの民族は同じ
ツングース系。
・・・なお、桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は武寧王を
遠祖とする渡来人「和」氏の出身という記述が『続日本紀』にある。新笠は皇
后になることはできなかったが桓武天皇の生母として皇太夫人と称され、更に
皇太后とも称された。

渡来系氏族の中で国号を氏姓とした氏族で最も著名なのが百済王氏(くだらの
こにきしし)(歴史学者、坂本義種氏ほか)
・・・百済最後の王・義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝
に百済王の氏姓を賜与された。氏として百済がつく氏族は百済朝臣、百済公、
百済連、百済宿禰などがあるが、王という特殊な姓は、かつて百済を象徴する
宗主(王侯)的な存在であったことが窺われる。
・・・百済最後の国王義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋王と禅広王(善光
王)を人質として倭国に献上した。が、660年百済は唐の進攻であっけなく滅ん
だ。百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王(阿倍比羅夫が半島へ送
り届け王位に就かせたとされる)も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、
やがて唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血
統を伝えることとなった。
・・・奈良時代末期には百済王(くだらのこにきし/禅光王の子孫)氏の後裔
の俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、同じく武鏡は出羽守と
なるなど百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく/その陸奥守在任時に陸
奥国小田郡から黄金が発見された)いらい東北地方の経営と征夷事業に関わり、
平安時代中期まで百済王氏は中級貴族として存続。
・・・平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の「和」
氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇
・嵯峨天皇らの後宮の宮人としたため、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を
得た。また、桓武天皇の時の宮中には百済人などの女官が数多く採用されてい
たとの説もあり、百済語など外来語が飛び交っていたらしい。
・・・また、平安京遷都(794)で桓武天皇(生母が百済の武寧王の子孫(高野
新笠)であると続日本紀に記されているとの今上天皇のご発言もある)へスポ
ンサー的な意味で大きな影響を与えた秦氏(百済系/秦河勝の私邸が御所とし
て桓武へ提供された?)以前の渡来系部族として、物部氏(百済系?)と蘇我
氏(新羅系?)の大きな存在も無視できない。
・・・因みに、近年の考古学調査で物部氏の仏教系氏寺とされる遺跡が発見さ
れたため(http://urx.nu/3bT2  http://urx.nu/3bT3 )、教科書的定説で
ある<廃仏・物部VS親仏・蘇我>の対立に疑問が投げかけられ、それは崇仏論
争ならぬ政治権力抗争であった可能性が高い。
・・・百済王系の本拠地は難波であったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・
大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王氏の祀廟と百済寺(現存す
る、滋賀の百済寺(高句麗僧の恵慈が百済・龍雲寺をモデルに建てたとされる)
とは別)を建立した。百済寺は中世に焼失したが百済王神社は今も大阪府枚方
市に残る(http://urx.nu/3pQQ )。
・・・飛鳥・奈良〜平安初期の時代についての統計学的推計手法を使った直近
の研究によると、関東・東北辺りに住んでいた俘囚と呼ばれる人々が原日本人
(縄文系子孫)で、一方、西日本〜畿内・中部辺りに住む日本人(弥生系庶民
層)は、その6〜7割が半島又は中国由来の渡来系の人々ないしは、その混血
であり、その当時の日本全国の人口規模は約700〜800万人と考えられる(典拠
:日本歴史学会編、井上満郎著『人物叢書/秦河勝』―吉川弘文館―)。
・・・また、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安時代初期の815
年(弘仁6年/799年(延暦18)12月の嵯峨天皇による本系帳提出命令に端を発す
る)に編纂された古代氏族名鑑)の記録によれば、当時の貴族・豪族層は約3
割が渡来系とされるが、それは自己申告方式だったため、この3割の数字には
疑わしい。実際には、畿内・中部辺りの貴族・豪族は庶民層以上に渡来系が占
めており、前渡と今来を合わせれば7〜8割程度までが渡来系という実態では
なかったかと思われる。

先進的な製鉄技術を日本に伝えたアメノヒボコ (歴史学者、上田正昭氏)
・・・アメノヒボコは4〜5世紀の狭間ころに渡来し、播磨を経て但馬に定着
したとされる新羅の王子で、記紀と播磨風土記に登場するが、製鉄、水田開墾
などの技術者集団の渡来の可能性がある(アメノヒボコはそのリーダー?)。
・・・事跡としては、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ/大阪市東成区)、揖
保郡太田里条(兵庫県揖保郡太子町太田)、出石神社(いずしじんじゃ/兵庫
県豊岡市)、糸井神社(奈良県磯城郡川西町)、アメノヒボコの後裔の可能性
がある三宅連(みやけのむらじ)、糸井造(いといのみやつこ)、但馬守(た
じまのかみ)など。

王辰爾(おうしんじ) (歴史学者、上田正昭氏)
・・・6世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍して、船氏(船史/ふねし)らの祖
となった渡来系(百済)の人物。大阪府曳野市古市にある野中寺(やちゅうじ)
は船氏の氏寺。日本書紀では、船の賦(みつぎ/積荷)を数え記録する仕事に
功があったので「船長」に任じられ、「船氏」の氏姓を与えられた人物として
登場する。また、「津史(つのふひと)」の氏姓を与えられた牛(うし)とい
う人物は王辰爾の弟とされる。

隋書倭国伝にある秦王国(はたorしんおうこく)、つまり豊前国(ぶぜんのく
に/現在の福岡県・東部から大分県・北部辺り)に入っていた仏教(538年の
仏教公伝以前の仏教伝来)、および其の薩摩・隼人との関係 (古代史研究家、
大和岩雄氏/歴史学者、中村明蔵氏)
・・・豊前地方には欽明期の創建になる仏閣が大変多く、中には538年以前の
ものもある。その後、百済系の秦氏(はたし)は、山背国葛野郡(現在の京都
市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在
の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着したが、薩摩・大隅地方との関わり
(移住?)も窺われる。大隅正八幡宮(鹿児島神社)(霧島市隼人町)、韓国
宇豆峰神社(霧島市上井)、韓国岳(霧島山最高峰)などの痕跡がある。
・・・霧島市隼人町の地名が残るとおり、百済系の秦氏と薩摩・隼人の繋がり
が窺われる。厳密には其の居住地の違いにより阿多隼人(薩摩隼人)、大隅隼
人、日向隼人などの区別がある。彼らは畿内とその周辺部にも居住しており、
その一部は律令制下で衛門府被官(官吏)の隼人司(はやとのつかさ)に属し、
天皇と朝廷の守護役を勤めていたともされる。

「神武天皇東遷神話」の新しい研究/森浩一『日本神話の考古学』(朝日新聞
社) (泉森皎氏、考古学者・元奈良県立橿原考古学研究所 / 研究員)
・・・これは、虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべきとする意欲的な著
書である。それによれば、神武天皇東遷神話については、九州地方(南九州お
よび豊国(北九州北東部))に遺されている考古学的資料・遺跡関係等と奈良
県宇陀地方の古墳群との関連を視野に入れつつ下記の諸問題についての研究推
進が期待される。

*何らかの政治的まとまりや軍事力を持った南九州の豪族集団の移動があった
と考えられる(豊国から薩摩・大隅地方へ移住した秦氏系の分派?)
*出発地点は日向(宮崎県)で、船団を組んでの移動であった
*途中には多くの寄港地と水崎案内人(ウズ彦=根源津彦/倭国造(やまとの
くにのみやつこ)?)がいた
*宇佐(豊国地方の秦氏系?)の建造物と思われる足一騰宮(あしひとつあが
りのみや/一本柱建築)の記述(記紀による)などからは中国の南方的要素の
渡来が窺われる
*同じく、記述(記紀による)の関連記述では宗像神社(北九州)のある玄界
灘沿岸らしい特殊性が窺われる

5−4 幼生期“日本”の完成―「伊勢神宮創建(天武・持統期)」には“中
国律令制と儒教”の深化(日本化)プロセスの意味がある

(幼生期“日本”の完成:天皇家の精神基盤、祖型「伊勢神道」成立について)

推古天皇(厳密には推古大王/位593 - 628)の600〜618年の18年間に5回以上
派遣された遣隋使(小野妹子の派遣は607年)が、倭国へもたらした文化的衝
撃は非常に大きなものであった。そこで国威発揚を目的とするグランドデザイ
ンの必要性を意識して先ず着手されたのが「日本書紀」(720/養老4年)に
記述がある「天皇記」、「国記」など国史(両者とも現存せず)の編纂である。

そして、その過程で「日神祭祀」(太陽神、つまり天照大神(あまてらすおお
みかみ)を崇め望拝する宗教儀礼)を伴う王権神話(ミソロジー)が創作され
た。現存する日本書紀の中の推古紀に具体的な「日神祭祀」(天照大神)の指
摘と記述はないが、同じく用明紀が引用する別の推古祀の記述からは、その
「日神祭祀」存在の可能性が窺われる(出典:深谷克己著『東アジア法文明圏
の中の日本史』(岩波書店))。

しかも、日本書紀の編者・舎人親王らが、その事実に一定の脚色を加えつつ、
より古い時代の崇神紀・垂仁紀へ、その記述内容を意識的に移行して、その上
に重ね書きした可能性が高い。つまり、8世紀初頭に成立した「日本書紀」と
「古事記」(出来た順序は逆になるが、古事記は日本書紀の副次派生的テキ
スト)は、幼生期・日本の深層記憶を文字・文脈でヴァーチャル化したものと
考えられる(出典:同上)。

(7世紀後半の天武・持統朝は“中華帝国式先進律令制&儒教の日本化”の
完成期/日本伝統文化の重要な意義は、既に大元で失われた“中国〜半島系
古代文化”の祖系タイムカプセルであること)

伊勢神宮・創期のプロセスで見逃せないのは、すでに推古朝(593-628)にお
いて「日神祭祀」(天照大神の祭祀)が行われていた可能性があること、斉明
朝の百済滅亡(660)(“白村江の戦い(663)”/既述とおり、この時に倭は百
済からの亡命者を多数受け入れた)の前後における「伊勢とは異質な出雲の外
部性(百済・大陸系ら渡来文化の影響)を伴う祭祀世界の吸収」、持統朝にお
ける「社殿造営と行幸(692年?)」、という三代の天皇の治世下における
「三つの出来事」である(出典:同上)。

更に重要なのは、出雲に伊勢と異質な二つの外部性があることだ。一つは伊勢
の太陽神(日出)を補完する意味で伊勢とは異質な日没の神々を、つまり大己
貴神(おほなむち=大国主命)を中心として祀る杵築神社(現、出雲大社)の
神々。もう一つは、半島・大陸系文化が流入して来る窓口としての外部性で、
例えば古代に東出雲(現在の松江辺り)で勢力を誇った蘇我氏は新羅系と推測
される(聖徳太子の没後に実権を握った蘇我馬子らのルーツ?)。

この7世紀後半(近江令(668/天智朝))の頃に律令制が定められ神祇官・太
政官・徴税制などが制定されてから、各地域に分散伝来していた仏教の寺院建
築(中国・百済等系の先進文明の象徴)に倣う意味もあり、天地神祇(伝統の
民族的・鬼道信仰的風習/この時代には未だ神道(シントウ)の呼称はなく、
神祇が一般的であったがジンドウと呼ばれていた可能性も高い/参照 ⇒http://urx.nu/3bT4 )を祀る神社(元来は氏族単位で存在)が、神仏習合的
観念の下で本格造営が行われるようになり、天皇家の伊勢神宮がその中心に位
置づけられた。

そこで問題は、そもそもの<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』の神話論理
(ミソロジー)は一体どの様な内容であったか?>ということだ。それは、こ
の<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』という神話論理(ミソロジー)への根
本的誤解>こそが、明治維新期以降における<国民玉砕型の狂信的な偽イデオ
ロギー/平田派国学系“顕幽論”に支配された偽保守主義=八紘一宇&現人神
「皇国史観」のベースとなった『紀元二千六百年』型歴史観>をもたらしてい
ると考えられるからだ(伊勢神宮のミソロジー、伝統自然アニミズム神道の内
容(詳細)は下記◆を参照乞う)。

◆アベノミクスへの応援で国民の文化マインドコントロールを謀る神道政治連
盟国会議員懇談会(安倍晋三・会長)のトンデモ「原発必要論=ウラニウム・
放射能アニミズム論」(祖型伊勢神道比較/正統保守試論)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130207 

ともかくも、最重要のポイントは<伊勢神宮創建時(“中華帝国の先進的律令
制&儒教”の日本化プロセス)の精神基盤の中枢と見るべき『超越神聖王権』
の神話論理(ミソロジー=伝統自然アニミズム神道)そのものが、悪意に因る
不完全なものであった>のではないということだ。

むしろ、問題とすべきは、この『超越神聖王権』の本質部分に関わる<曲解
(時によっては意図的・恣意的誤解釈?)とミスリード>こそが、明治維新期
以降の『皇国史観⇒“太平洋戦争”突入』の非劇や現代日本における「カルト
寄生体X」安倍政権による『国策原発』ムリくり推進という“安倍政権の変質
者的で猟奇的な政治”をもたらしている、ということだ。

つまり、安倍政権が、『平田国学派の影響を受けた靖国顕幽論カルト方式で回
収される伊勢神宮の曲解(天皇現人神式国体論)を大前提として、再び、日本
国民へ“神憑かる自爆玉砕テロ型の愛国精神”を強制する』という意味で、
<殆どイラク国か狂人同然の変質者的な国策イデオロギ―集団?と化した、そ
の寄生体X政権の恐るべき正体>を、我われはメディア・プロパガンダに惑わ
されず冷静に直視すべきなのだ。

そして、肝要なのは、<日本の伝統文化の基層>が、これまで概観してきたと
おり「既に大元では失われてしまった“中国〜半島系文化”の祖形(バックボ
ーン)保守型のタイムカプセル(その射程は古代〜近世まで拡げるべき!)で
あること」こそが、我われ現代の日本人が世界に誇る「日本の正統保守」の瞠
目すべき価値であるということだ。因みに、中国〜半島側の人々が、日本史の
中に彼ら自身の「祖系タイムカプセル」を発見し、日本文化を高く評価してき
たことについて(委細はスペースのこともあり省略)は、その気にさえなれば、
例えば下◆のような具合で夥しい事例が見られる。

◆斉明天皇(前渡り技術系渡来人のピーク期?)の時に高句麗or百済式の巨石
文化(酒船石、石舞台、蘇我稲目の墓(巨大ピラミッド)?などが築かれた
(明日香村辺り、高麗美術館(京都)・奈良文化財研究所(飛鳥資料館)ほか
で関連展示が見られる)、http://urx.nu/dydg

◆興福寺における維摩経の存在/法相宗寺院は興福寺と薬師寺の二つのみ。法
相宗(維摩経ほか)は遣唐使の僧・玄硃らにより奈良時代に伝えられたが、仏
教史的には中国の法相宗は宋〜元の時代に途絶えた。http://urx.nu/dydh

◆山井崑崙(? - 1728/儒学者・考証学者)の『七経孟子攷文補遺』は乾隆
帝(清第6代皇帝)の勅命で編纂された漢籍叢書『四庫全書』に収録され中国
(乾隆)考証学の基礎を築いた。http://urx.nu/dydL

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