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雲は遠くて <1> 1章 駅 (その1) 夜をとおして激しく降る雨が、形のあるものをことごとく打ち続けた。 明けがた、強い風が吹きあれて、黒い闇はひびわれて、 光の世界がたちまちひらけた。 東の空の下、山々の新緑(しんりょく)が、明るくゆれた。 風が、野や谷や山の中を吹きわたった。 盆地のせいか、上空はよく不意の変化をした。 雨上がりの朝だった。 2012年、季節は梅雨(つゆ)に入っていた。 道沿(みちぞ)いの家の庭に咲く紫陽花(あじさい)は、 どこかショパンの幻想即興(そっきょう)曲を想(おも)わせた。 色とりどりに咲いている。 「韮崎(にらさき)は、空気が新鮮だよね。空気がうまいよ。 つい、深呼吸したくなる。山とかに、緑が多いせいかね」 駅へ向かう線路沿いの道を、ゆっくりと歩きながら、 純(じゅん)は信也(しんや)に、そういった。 「純は、きのうから、同じことをいっているね。 でも、やっぱり、東京とは、空気が違うよね。 それだけ、ここは、田舎(いなか)ってことじゃないの。 人もクルマも全然(ぜんぜん)少ないんだし」 ふたりは声を出してわらった。 ふたりは今年の3月に同じ東京の大学を卒業したばかりの、 平成元年、1989年生まれの、今年で23歳だった。 信也は卒業後、この土地、韮崎市にある実家に帰って、 クルマで10分ほどの距離にある会社に就職した。 ふたりは大学で、4人組のロックバンドをやっていた。 ビートルズとかをコピーしていた。 オリジナルの歌も作っていた。 まあまあ順調に楽しんいたのだけど、 卒業と同時に仲間はバラバラになって、活動はできなくなってしまった。 新宿行(ゆ)き、特急スーパーあずさ6号の 到着時刻の9時1分までは、まだ30分以上あった。 「おれは、ぼちぼちと、バンドのメンバーを探(さが)すよ。 信(しん)も、またバンドやるんだろ」 「まあね、ほかに楽しみも見あたらないし。 だけど、気の合う仲間を見つけるのも大変そうだよね」 純は、同じ背丈(175センチ)くらいの信也の横顔を、 ちらっと見ながら、信也と仲のいい美樹(みき)を思い浮かべる。 美樹には、どことなく、あの椎名林檎(しいなりんご)に似たところがあって、 椎名林檎が大好きな信也のほうが、美樹に恋している感じがあった。 信也と美樹は、電車で約2時間の距離の、東京と山梨という、 やっぱり、せつない遠距離の交際になってしまった。 美樹も、辛(つら)い気持ちを、信也の親友であり、バンド仲間の、 純に打ち明けてたりしていた。 信也は、そのつらい気持ちをあまり表(おもて)に出さなかった。 信也は、東京で就職することも考えたのであったが、 長男なので、両親の住む韮崎にもどることに決めたのだった。 大学でやっていたバンドも、メンバーがばらばらとなって、 解散となってしまった。 信也は、ヴォーカルやギターをやり、作詞も作曲も、ぼちぼちとやっていた。 純は、ドラムやベースをやっていった。 純の父親は、東京の下北沢で、洋菓子やパンの製造販売や、 喫茶店などを経営していた。 いくつもの銀行との信用も厚(あつ)く、事業家として成功していた。 父親は、森川誠(まこと)という。今年で58歳だった。 去年の今頃(いまごろ)の6月に、純の5つ年上の兄の良(りょう)が、 ジャズやロックのライブハウスを始めていた。 純はその経営を手伝っている。 音楽や芸術の好きな父親の資金的な援助があって、 実現しているライブハウスであった。 ≪つづく≫ |