徹が『駆け落ち』と言う言葉を初めて耳にしたのは小学生の頃であった。
「それにしても勇気のあることをしたもんだ」大人達がそんな話しをして
いるのを聞きかじったのだが、不安と同時に崇高な行動のように感じたの
だった。『大人になったら俺も駆け落ちをしよう』そう徹は密かに思った。
高校生の頃だった。隣のクラスの女子生徒と親しく顔を合わせる機会が
あった。彼女は徹の開けっぴろげなキャラクターに惹かれ、休み時間など
はよく仲間を連れて話をしに来た。やがて徹の心の中に淡い恋心が芽生え
始めた。だが彼女は相変わらず漫画の話や先生の陰口を言い、仲間の失敗
談で笑い転げるばかり。徹の心は次第に彼女にひかれていった。この気持
ちが駆け落ちに通ずるものなのかも知れない、と徹は思った。ある時だっ
た。
「ボクと駆け落ちしようか」
そう徹は言ってみた。彼女はぽかんと口を開けやがてグランド中を転げ回
るほど笑いころげ、それっきり彼女は徹の前には現れなくなった。
「俺、変なことを言ったのだろうか」クラスの仲間に聞くと、
「駆け落ち?なんだよそれ。彼女じゃなくたって笑うぜ。お前冗談がへた
だなあ」仲間にも馬鹿にされた。
それを期に駆け落ちの意味を知ったのが、それでも心の中には、新天地
への入り口のような感覚は消えなかった。
大学を卒業し商社に勤め、生来の明るさが同僚にも慕われ、仲間の紹介
で結婚したのは徹が三十歳の時だった。家庭生活はごく平凡で長男も産ま
れ、同期の仲間から少し遅れて中間管理職にも就いた。一人息子も無事に
成長し、いつの間にか親元を離れていった。
数年後に定年退職を迎える歳になっていた徹は、ある日散歩の途中でふ
と『駆け落ち』の言葉を思い返した。子供の頃に抱いた不安感と不思議な
魅力を持つ駆け落ちは、歳をとる内に、次の段階に踏み入るきっかけだと
思っていた昔がふと可笑しく思えた。そんなことを考えながら歩いている
と一匹の子犬がついてきた。角を曲がると子犬も曲がり、走ればやはり走
ってくるのだ。
「お前捨てられたのか」
抱き上げると嬉しそうに尾を振りクウと鳴く。徹は子犬を連れて帰ること
にした。
「だめですよ犬なんか。私は子供の頃噛まれたことがあるから犬は嫌いな
のよ。捨てて来てください」
妻は金切り声をあげた。
「今晩一晩くらいいいじゃないか」
徹の説得でその夜は軒下に置いた段ボールに入れた。
翌朝妻は朝早くから学生時代からの仲間連中と一泊の旅行に出かけた。
徹は子犬を家の中に入れ、休暇を取って子犬と過ごした。子犬に名を付け
風呂に入れ、近所の動物病院で予防注射をしてもらい役所から鑑札を貰っ
た。子犬と戯れる一日はあっという間に過ぎた。
妻が一泊の旅行からかってみると夫は家には居らず、そこには一枚の書
き置きがあった。
『カルと駆け落ちをします。探さないでください。徹』
これまで不倫の噂一つ無かった夫が記した『駆け落ち』の文字に妻は呆然
とした。
「駆け落ちの相手は外国人パブかなんかで知り合った女かも知れない。でも、
預金通帳などはそのままらしいから、じき帰って来ると思うけどね」
心配して立ち寄った息子になだめられたが、妻は、
「私が犬を飼っちゃいけないって言ったから、犬の好きな女の所に行った
のよきっと。犬くらい飼わせてやればよかった」
妻はしきりに自分を責めた。
まさか会社まで辞めてはいないだろうと思った息子は、徹の会社に電話
をして徹を呼び出した。遠回しに話を切り出す息子の話に徹の返事は要を
得ないものだった。やがて、
「え?カルって犬の名前なの?フィリピン人女性じゃないの」
息子は呆れて何も言えなかった。息子から事情を聞いた妻は手紙を書き徹
に届けた。手紙にはただ一言、
「一緒にカルを飼いましょ。もう駆け落ちなんかする歳じゃないんだから」
と記されていた。それを見た徹は、
「やはり駆け落ちっていうのは、新しい世界への入り口だったんだ」
そう呟いて微笑んだ。