メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:市場原理型「司法改革」の呪縛で検察審査会の欠陥・・・(1/2)  2010/10/13


[情報の評価]市場原理型「司法改革」の呪縛で検察審査会の欠陥(分り易さ
を演ずる情報の非対称性の罠)に国民主権を売却した司法の病理(2/2)  


<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLで
ご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101009


3 検察審査会など日本司法虚構化の淵源は「市場原理型司法改革・戦前型
実効権力・無責任メディア」の野合

検察審査会の不透明で妖しげな密室審議(1人の補佐員弁護士とメンバーの
平均年齢以外は審議内容等も一切非公開のブラックボックス化した検察審査
会の制度そのものに違憲の疑義がある/人格不詳者が告訴・告発できるのか
?)のみならず、日本の司法全体が、かくの如く虚構モンスター化したこと
の意味を理解するキーワードは「憲法の授権規範性についての啓蒙」と「情
報の非対称性化へ抗いつつ対称性を回復し得るメディアの役割の復活」とい
うことだ。

因みに、もし人格不詳者が告訴・告発できるとするならば合法的暗殺すら可
能となるので、これはもはや巧妙なリンチ・システム(合法化を偽装した私
刑制度)だと言ってよかろう。国家の主権者たる一般国民は、仮に検察審査
会の審査員メンバーの如くその人格不詳者たちを国家が保証するのだと幾ら
主張されても、そのような<国家権力の暴走可能性>までを国家の主権者た
る我々は容認していない。

つまり、それは近世までの王権神授国家ならいざ知らず日本が現代の民主主
義国家であることを標榜する限りにおいては、国家権力と雖も日本国憲法の
授権規範性を尊重すべきだという原則がある筈だし、仮に、この日本国憲法
の歯止めがなくなれば、それでは日本が民主主義国家だとは最早いえなくな
るからだ。それでは、日本が北朝鮮や中国の如き余りにも理不尽な共産党独
裁政権下にあるのと同義になってしまう。それとも、今の日本には共産党独
裁政権に匹敵する実効権力が存在するか、あるいは国家を超越した神様が君
臨しておられるとでもいうのだろうか?

だからこそ、今回の「検察審査会・小沢強制起訴議決」の問題は、我々が小
沢さんを好きか嫌いかとは無関係なことなのだ。つまり、これは我われ日本
国民一般の人権・生命・名誉に関わる問題なのだ。しかしながら、今の日本
人の多くから、このような感覚が殆ど失われつつある中で、主要メディアが
市民感覚なる言葉でルサンチマン感情だけを煽りたてる風潮にはファシズム
の臭いが漂い始めたようで不気味なものを感じる。

そして、今さら“啓蒙”などは古いという向きが増えているようだが、“啓
蒙”を無視しつつ日々に劣化メディア(ジャーナリズム精神を捨て去った新
聞・TV・俗悪週刊誌など)に身を晒すばかりでは類型パターン・イメージに
毒された“衆愚社会=国民総意劣化社会”に走るだけになる可能性が高いと
いう歴史的現実を、特に近現代におけるドイツ・日本等のファシズム化の失
敗、あるいはポーランドなど中・東欧における暴力的外国権力との血みどろ
の葛藤の歴史から多くを学ぶべきだ。それとも、いまや大方の日本人は北朝
鮮型のファシズム国家を理想とし始めたのだろうか?

ともかくも、この二つのキーワード、「憲法の授権規範性についての啓蒙」
と「情報の非対称性化へ抗いつつ対称性を回復し得るメディアの役割の復
活」は、健全な民主主義社会を実現し、修正し、あるべき方向性を維持する
ために必須のバランサー(balancer/平衡改善・維持装置)でもある。なお、
「憲法の授権規範性」についての国民総意での理解が非常に重要であること
は、既に下の記事◆で書いたので、そちらを参照頂きたい。ドイツにおける
“継続は力なり”による自前の社会づくりの重要な意義が概観できる筈だ。

◆ドイツ・日本司法の比較論考、「日本司法の失われた50年」の成果こそが
(検察庁、大阪地検)特捜部崩壊の原因、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101002

つまり、そこでは戦後60年の司法改革への日独両国の歩む方向が余りにも対
照的(日本=持続した非民主化への退行、独=持続的な民主化への進化)で
あったことが理解できる筈だ。ドイツにはドイツ連邦共和国の憲法である
「ドイツ連邦共和国基本法」に関わる審査事案を分担する「連邦憲法裁判
所」があり、年間で約5千件(平均)の違憲審査の実績がある。片や我が日
本では、ごく一部の例外を除き違憲審査権を持つはずの最高裁が、基本的に
は違憲審査を忌避する消極姿勢を貫いてきたのである。

このような司法の根幹に対する国民総意の甘さと主要メディア及び日本エリ
ート層の無責任(役割放棄)が延いては「検察による証拠改竄・捏造」、
「検察&裁判所の裏ガネ問題隠蔽」の如き民主国家にあるまじき非常に低劣
でお粗末な司法自身の犯罪をまで齎したといえるのだ。特に、検察における
取調現場の暴走は前田検事の事件で漸く氷山の一角が出たに過ぎないと覚悟
すべきも知れない。

例えば、それは障害者団体向け郵便料金割引制度の悪用事件で郵便法違反罪
などに問われた広告会社「新生企業」社長らの公判で、大阪地裁の横田信之
裁判長が<10月7日に行われた元役員・阿部徹被告が自白した供述調書のう
ち大阪地検特捜部(当時)の検事が作成した12通すべてについて「脅迫的
な取調べによるもので任意性なし」として、再び証拠採用しなかった>こと
が報じられたからだ(参照⇒
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2010100700864)。

漸く、この段に至り何やら裁判官の良識が目立ち始めたように見えるが、裁
判官と検事には人事交流がある上に、公判までの流れが「調書主義裁判」の
原則(検察官等が取調べで作成する被告・証人らの供述調書を証拠として最
重視する裁判)で行われていることを忘れてはならない。

ところが、その調書を作成・量産する現場では、検事による証拠改竄あるい
は“椅子を蹴飛ばして、このクソ野郎必ず15年刑務所へ入れてやる!”の、
まるで暴力団まがいの脅迫行為が横行していたという訳だ。そして、裁判所
における公判が「調書主義裁判」の原則に従って行われるということは、一
見、裁判所の立場が検察より上に見えるかも知れぬが、公判に欠くべからざ
る調書を“作成して下さる”検察の方が実質的には上位であったというのが
実態なのだ。

そして、政治家が被疑者となる<政治家案件>では、そのような傾向が特に
強くなることが考えられる。このため、大阪地裁の一連の検察調書不採用は
裁判所側による、「検察・司法の癒着」を急遽否定するための緊急アリバイ
作りのパフォーマンスにすら見えても不思議ではない。

なぜなら、政治家に絡む贈収賄等の案件、つまり<政治家案件>については
「検察・警察・国税・公取」らの官庁間で絶えず情報交換が行われているの
が実情であるが、この段階で裁判所が情報交換に関わることは先ず基本的に
はあり得ない。次に、無数ともいえる<政治家案件>の中から、それこそ
<氷山の一角として逮捕・起訴の血祭りにあげるに値するだけの大物か、あ
るいは十分に筋が良い案件だけに絞り込む作業に入る>ということになる。
そして、この様な案件の絞り込みプロセスは捜査効率上から或る程度は仕方
がないことともいえよう。

しかし、この絞り込みの過程を逆に眺めれば「国会vs行政・検察の闇取引」
の可能性が放置されてきたということだ。しかも、検察に関わる闇はそれだ
けではなく、検察OB(つまりヤメ検弁護士と捜査担当検事の癒着までが明る
み出たことがある(参照⇒下記▼)。これに検察関係者と記者クラブメディ
アあるいは暴力団との美味しい癒着関係(関係者重宝メディアの検察下部機
関化)が加われば、「人脈・血脈癒着の世襲型漆黒の闇による日本国民支配
体制」は盤石という訳だ(参照⇒下記▲)。

▼hanachancause 2010.10.05 15:08(ツイッター情報)
RT@hosakanobuto「検事が組長と取引」の記事はさいたま地検検事が麻薬事件
で逮捕の暴力団組長から「自分が拳銃を差出す、拘置中長男から出た事にし
てほしい」と頼まれ自分の拳銃として警察に出せと言い含めた。この検事も
大阪地検特捜部調書捏造に加わった (07年9月18日・東京新聞)

▲hanachancause 2010.10.06 10:54(ツイッター情報)
続、【QT天声人語】もう一つ朝日新聞で腑に落ちぬのが検察信用を失墜させ
たスクープ記事(前田主任検事・逮捕)が9/21だったことだ。実は「もっと
早く(今春頃?)から掴んでいたが掲載する日を意図的に遅らせた(=タイ
ミングを見計らった)」との見方がある。これに朝日はどう答えるのか?

因みに、かつて東京新聞「本音のコラム」(2010.3.3・朝刊)で精神科医・斎
藤学氏の論評が、このような意味で殆ど“利己的な犯罪行為”に等しいと言
える まで悪質化した“情報の非対称性の罠”を仕掛ける主要マスメディアの
背景に潜む“虚構のモンスター”(人脈・血脈癒着の世襲型漆黒の闇による
日本国民支配体制)の存在を鋭く抉っている文章があるので、以下に転載 し
ておく(情報源:
http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-325.htmlより)。

・・・・・小沢氏の問題提起」(斎藤学):小沢一郎について語る際には「私も
この人物を好きではないが」という枕ことばを付けなければならないようだ。
 が、それは原稿で食べている人たちに課せられた規定らしいので私は気にし
ない。この人が図らずも(当人は語らない)提起している二つの問題((1)米
国との距離の再検討、(2)戦後天皇制の再検討)は、旧帝国憲法の残滓に注目
するという点で回避不能なことだと思う。既に公刊されているように戦後日
本は岸信介氏のようなCIAのエージェント(金で雇われたスパイ)によって
作られた「米国に貢献する社会」である(『CIA秘録』上巻、百七十一〜百
八十 四ページ)。この暫定的体制が、もくろんだ当人たちさえ驚くような長
期間の効果を示したのは、日本人の「おかみ(天皇・官僚)信仰」が並々なら
ぬものだったからだろう。戦後体制作りの埒外にいた田中角栄が市民的嗅覚
からこの偏りの修正を試みると、米国は直ちに反応し、その意を受けた検察
によってつぶされた。今回の小沢氏の一件も、この流れの中で生じた。彼は
生き残らなければならない。今週の『週刊朝日』にある 「知の巨人・立花隆
氏に問う」という記事に共感する。血の臭いに吸い寄せられる鮫のように検察
の刃で傷ついた者たちを一方的に批判してきた体制擁護の人は何故、「知の
巨人」に祭り上げられたのだろう。・・・・・

問題は、その大物政治家等の絞り込みの段階では特捜部の現場や地検レベル
でゴーサイン(検察審査会強制起訴の議決直前でも同じことが想定される、
何しろソレはブラックボックスの延長だから、可視化は不可能なのだから
!)が決まるのではなく、必ず「検察庁上層部⇒法務大臣・・・官房長官
(総理大臣)」レベルの頂上会談(権力構造ループの危うい接触=認証官た
る検察高級官僚の権力行使の場面)が何らかの形で行われる筈だということ
だ。そして、この流れの最高位に位置する検察上層部には“天皇との距離の
近さを競う”のが唯一の存在理由となる、日本型・偏差値秀才の到達点たる
認証官(戦前と寸分違わぬ天皇直属の官僚)たちが占めている。

今この権力構造ループの危うい接点で何らかの操作的ショ―トが起こったの
ではないかと疑われていることに関して、「東京第五検察審査会における小
沢強制起訴の議決」の日が9月14日、つまり民主党代表選挙の当日で、その
発表が10月6日までなぜか大幅に遅れたのは何故か?という疑問である。そ
れは、当初、国会議員票は小沢陣営が優勢だったが投票日(14日)直前にな
り民社協会を始め国会議員が雪崩打って菅陣営に寝返ったからだ。だから、
9月14日の直前に操作的ショ―トが起こったとしても不思議はないことにな
る。

それに加えて下級裁判所が多数を占める裁判所(これも最高裁判事と高裁長
官は認証官だが・・・)は、現場情報量の豊富さ、天皇との相対的な距離の
近さ、現場で公判用一次資料たる調書を独占的に作成し捜査現場と証拠類の
取捨選択を預かる権限などの総体(総量)で権力の強さを斟酌すれば、外見
上はともかく、裁判所よりも検察の実質権力が遥かに強く大きいことは想像
に難くない。そして、そこに実現してきたのが「裁判所の検察下請機関化=
検察の検挙有罪率99.85%」という、おぞましいばかりの<冤罪量産可能性>
の現実だ。日本国民の多くは、この恐るべき現実に何も感じていないのだろ
うか?

つまり、この「検挙有罪率99.85%」という世界的に見ても驚くべき高さの
実績パーセンテージの中にこそ、冤罪の可能性が数多く紛れ込む余地が十分
あったことになり、このような角度から司法全体を俯瞰すれば、我が国で起
こっている司法を巡る現実は「三権分立」どころか、「認証官を頂点とする
司法・行政の癒着」と「国会vs行政・検察(司法)の利権対立と闇取引の
バーター」という二大闇取引関係のおぞましい構図である。何故か、此処に
はナチス・ドイツがポーランドに設置した絶滅収容所アウシュビッツの恐ろ
しいイメージすらが重なってくるではないか?

4 虚構モンスター化した日本司法・軌道修正の基本は「取調の可視化・推
定無罪」についての国民啓蒙(人間への気遣いを喪失した司法の回復が目的)

今や「小沢とカネの問題」の捜査プロセス上の一つの到達点である「東京第
五検察審査会の小沢強制起訴議決」から見えてきたのは、もはや小沢さんが
好きだ嫌いだの次元を超えて、それが遍く我々一般日本人の人権侵害に直結
する問題だということである。

言い換えれば、それは我々が、日本の司法制度が西欧中世の魔女裁判のよう
に文盲層の多数派(現代で言えば無関心層の多数派)の意思を思うように操
作・誘導するための実効権力の道具たる「虚構モンスター」と化したことを
意味するのだ。そして、その「虚構モンスター」と化した司法制度を補佐す
るのがイメージ戦力と印象操作を得意とする日本のマスメディアだというこ
とになる。

そして、ここのところ報道の歪み(メディア・スクラム型報道への過剰傾斜
と談合的、横並び的な情報取捨選択の姿勢)が酷くなる一方だが、そこには、
もはや実効支配権力の下部機関の立場に甘んずるメディア犯罪の匂いすらが
漂っているのだ。

下の記事◆によれば、戦後60年超に及ぶ日本司法の歴史は、外形はともかく
も<事実上の退行史>であったと見なしても良い訳なのだが、特にこの退行
度が亢進し始めたのは、新自由主義思想的な観点からの「司法改革」への取
り組みが加速した第一次小泉内閣以降のことである。

◆ドイツ・日本司法の比較論考、「日本司法の失われた50年」の成果こそが
(検察庁、大阪地検)特捜部崩壊の原因、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101002

ところで、下で部分的に引用・転載(1)するのは【2001年10月14日付、対
日規制改革要望書/(概要)法制度および法律サービスのインフラ改革】の一
部分である(参照→
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0025.html)。

(1)−1『 日本の経済回復と経済構造の再編を促進するには、日本が、
国際ビジネスと国際投資に資する、また規制改革や構造改革を支援する法的
環境を整備することが極めて重要である。日本の法制度は、商取引を促進し
紛争を迅速に解決し、日本における国際的法律サービスの需要に応えられる
ものでなければならない。 こうした課題に対処するため、日本は、法制度が
容易に利用でき、また迅速かつ効率的に機能するよう、抜本的な改革を行う
必要がある。

(1)−2 米国政府は、日本がすでに多くの重要な法制度の改革に着手し
ていることを認識している。司法制度改革審議会は、「司法制度改革審議会
意見書‐21 世紀の日本を支える司法制度」と題する意見書の中で、司法制度
の改善に向けて多くの重要な提言を行っている。日本政府にとって重要なこ
とは、効果的な法律案を迅速に準備し成立させることで、こうした提言内容
を実行するための断固たる措置を取ることである。米国政府は、日本政府が、
この目的のために「司法制度改革本部」を設置し、司法制度の見直しを規制
改革の優先課題の1つとして取り上げることで、そうしたプロセスを開始し
たことを認識する。 』

次に、同じく下で部分的に引用・転載(2)するのは【2001年10月14日付、
米国の規制改革及び競争政策に関する日本国政府の要望事項(冒頭)】の一
部分である。これは、日本からアメリカへの要望という形になっており、外
形的には日米相互の要望が対等でパラレルな補完関係にあるように見える。
しかし、各項目を具に読めば分かることだが、明らかに宗主国・アメリカか
ら属国・日本への国家改造計画の押し付けに偏っていることが分かる。

(2)『 小泉総理とブッシュ大統領は、2001年6月30日のキャンプデービッ
ドにおける日米首脳会談において、両国及び世界の持続可能な成長を促進す
ることを目的として、「成長に関する日米経済パートナーシップ」の設立を
発表し、その中で、「規制改革及び競争政策イニシアティブ」(「改革イニ
シアティブ」)の立ち上げに合意した。この改革イニシアティブは、97年
以降4年間にわたり行われてきた「規制緩和及び競争政策に関する強化され
たイニシアティブ」(「強化されたイニシアティブ」)の成功裡の終了を受
け、重要な改革が行われつつある主要な分野及び分野横断的な問題に引き続
き焦点をあてることを狙いとして新たに設置されたものである。』


その後、(1)の中の「司法制度改革本部」は、当時の小泉首相がリーダー
シップを発揮した「経済財政諮問会議」などの影響を受けることとなる。つ
まり、“諸外国と比べて、当時の日本の裁判は余りにも時間がかかりすぎ、
こんな手法はビジネス界では殆んど通用しないので、財界にとって利用しや
すい司法が必要だ”という経済同友会らの財界首脳、あるいは米国型市場原
理主義を信奉する「経済財政諮問会議」メンバーの経済学者(竹中平蔵、本
間正明、八代尚宏)らから影響を受けることになった。

一方、法曹の仕事の基本は言うまでもなく「論理」を駆使することだが、そ
もそも「法曹の論理」は一般の「行政またはビジネスの論理」とは異なるも
のである。つまり、法的思考が規範的・個別的・回顧的・固着的な論理であ
るのに対し、一般の行政またはビジネスにおける思考は、ある一定の目標・
目的を達成するために最も効率的な手段とプロセスを探求するというシミュ
レーション的論理を駆使する訳だ。そして、シミュレーション型思考の特徴
はといえば、結果又は目的への到達に役立たぬデータ(事実を支える断片と
してのドキュメント・証拠)を取捨選択するという価値観が最優先されるこ
とだ。このような、いわばマキャべリスティックとも言えるプロセス思考が
真理の同定を目的とする法曹の思考(論理)と根本的に乖離することは論を
待たないのではないかと思われる。

ところが、「司法制度改革審議会」(第二次小泉内閣下における司法制度改
革推進計画(平成14年3月19日付・閣議決定)に基づく)/同審議会の詳細は
下記▲を参照乞う)が内閣に設置された時から、法曹界においても、目的
(又は結果/例えば国民への適切な<司法サービス>の提供など)へ効率的に
辿りつくためにはビジネス型の論理が必要だという考え方(=アメリカのロ
ー・スクールをモデルとする規制緩和型司法改革論)が濃厚な空気となった。
そして、そのことが日本の法曹界へ様々な悪影響を与えてしまったのではな
いかと思われる。しかも、この関連の動きの中には、非常に巧妙な形での
<行政権(政治権力)の司法への介入ルート構築の問題>が潜伏して来る可
能性もあったと思われる。

▲司法制度改革審議会(平成13年7月26日をもって2年の設置期限が
満了)、
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/index.html

翻れば、以上のようなここ10年来の前提条件(米国からの外圧)下でこそ、
新自由主義思想(市場原理主義)的な観点からの「司法改革」への取り組み、
つまり米国からの「年次・対日改革要望書」に基づき「もともとはA型に近い
日本の刑事裁判」(A型については下の<注記>を参照)を市場原理主義と
「小さな政府」の時代に相応しい「詭弁型・決議論型・成果主義型(C型/下
の<注記>を参照)の刑事裁判」へ急ぎ改変することが求められ、その方向
へ強化されてきたといえる。そして、その実現の道具として司法効率化の観
点から、検察→裁判へ至る一定のシナリオ下で実施される「調書主義の原則
の効率化」が“より一層強化されてきた”と見なすことが可能である。

<注記>世界における法体系の流れ=“ローマ法継授”の二つの流れ(A、B)
プラス・ワン(C/英米のコモンローの流れ)

A型=大陸法の流れ

・・・正義・信義・信用の重視(狭義のローマ市民法の伝統) → 12世紀
ルネサンス(6世紀・ユスティニアヌスのローマ法大全から再発見/ボローニ
ア大学) → 市民自治都市法(ユス・コムーネ)との融合(北イタリア経
由) → オランダ典雅学派 → ドイツ法・フランス法 →啓蒙思想(理
念型民主主義の熟成) →近代市民社会の発達を支援(=理念型憲法の授権規
範的意義を重視)

B型=卑俗法の流れ(ビザンツ=バルカン型)

・・・網羅的現実の中から、とにかく一つの結果を効率的に選択する技術と
しての法、言い換えれば決議論的性格(カイズイスティッシュ/Caisuistish)
の重視 → 卑俗法(Vulgarrecht/詭弁の道具)化したローマ法(6世紀・ユ
スティニアヌスのローマ法大全) → ビザンツからバルカン諸国へ伝播

C型プラス・ワン=英米法におけるコモンロー・衡平法の流れ ≒ 現代の米
国でB型の流れへ接近(コモンロー伝統のリバタリアニズム化、強欲で成果主
義的な “契約の束化&超訴訟”社会の出現)

無論、刑事裁判の効率化から直接的な経済効果が生まれる訳ではないが、司
法全体を新自由主義型の発想で効率化することが延いては日本の司法全体を
米国型訴訟社会へ変質させ得ると考えれば、米国型ビジネ社会と日本をリン
クさせるための条件整備の一環と位置付けられたと考えても不思議ではない。
それは、確かに、検察キャリアにおいて、このようなシナリオ型の論理思考
に基づく調書作成技術を徹底的に仕込まれたヤメ検が弁護士に転身すれば、
そのビジネス型の司法技術が新たな職場でも大いに生かされることになるか
らだ。

ところで、今回の「東京第五検察審査会の小沢強制起訴議決」が非常にお粗
末極まりない内容であることが明らかになり(未だに主要メディアは、その
事実を報じようとしていないが・・・)、しかも同審査会法(改正法)の内
容と審査会の秘密主義(ブラックボックス)的な運営方法等について多くの
欠陥が指摘され始めている。そして、特に危惧されるのは、既に書いたこと
であるが、この欠陥を抱えたままの検察審査会は、例えば政敵を社会的に葬
るためのリンチ・システム(究極の人権棄損装置、私刑システム)として機
能する恐れすらあることが明らかとなっている。

検察審査会を下級審と見なすか上級審とみなすかは難しいところであるが、
フランス共和国憲法上において「人権(国民主権)保護への配慮」から非常
にきめ細かく複雑な制度となっているフランスの裁判制度、特に重罪院で見
られる予審制度を導入したうえで検察審査会を完全公開にするというような
改善・改革方法も考えられるのではないか。

いずれにせよ、重大な種々の欠陥が明らかとなった以上は、この検察審査会
制度そのものの早急の見直しが必要である。その意味でも、前例がなく法制
の不備もあるので、強制起訴を議決された小沢氏側が「検審の議決は違法」
だとして訴訟手続きを検討し始めたことは当然と考えるべきであろう。もし、
これが許されぬなら、今のままの検察審査会たるリンチシステムの牙は全て
の日本国民へ向けられることとなり、それは明らかに違憲と見なすべきこと
になるからだ。

更に敷衍すれば、第一次小泉政権以降のこの10年来の新自由主義思想(市場
原理主義)的な観点で取り組みが行われてきた「司法改革」の成果は、実際
に機能してみると、それらが悉く惨憺たる結果となっていることが分り、何
といっても、その悲惨な結果の筆頭が過剰となってしまった法科大学院(ロ
ースクール)であることは多言を必要としないだろう(あと数年経たなけれ
ば評価不能との論もあるが、それはどうだろうか?)。

外形的に順調かに見える裁判員制度にしても公判前整理に関わる問題点など
を抱えたままであり、司法修習生の質的低下、過剰法曹人口(過剰弁護士問
題)、規制緩和と司法による事後統制主義のバランス崩壊傾向、燻ぶり続け
る共謀罪問題、そして実は違憲の疑義があり欠陥だらけだった検察審査会、
お飾り的な適格検察審査会、不祥事のデパート化した検察庁改革、検察裏金
問題、裁判所裏金問題、検察・ヤメ検癒着問題、検察高級OBの天下りetc
・・・これらに加え司法関係者の不祥事などを暴き始めると切りがなくなる
ことに改めて驚かされる。

いずれにしても、ここ10年来の日本司法への“外圧”又は“その外圧支援
のための内圧”として大きな影響を与えてきたのは、先ずは、やはりアメリ
カ政府からの要望たる「対日規制改革要望書」であり、米型グローバル市場
経済・金融環境であり、その新自由主義的・市場原理主義的な改革要望を学
問的にフォローするアメリカンスクールの日本財界人と日本アカデミズムの
メンバーたちであり、同じ流れに乗る高級官僚たちであり、朝日新聞の船橋
洋一主筆(CIAエージェント)に代表されるアメリカ・シンパの主要マスメデ
ィア(新聞・TV等)である。

視点を変えれば、いうまでもなく司法は三権分立の要であるが、先に挙げた
「世界における三つの“ローマ法継授”の流れ」を概観すれば理解できるよ
うに司法は地域的、地政学的な領域とほぼ重なるという意味で、例えば生活
慣習などの文化現象とも深く浸透し合っている。従って、いかにグローバル
市場原理主義が蔓延る時代になったとしても、世界中の司法が全く同じ米国
型デファクトスタンダードの基板上に統一されるようなことはあり得ないと
思われる。

例えば、欧州での地域統合を目指すEU(欧州連合)ではEU地域内でのEU全体
と各地域の法的整合性を図るために、EU指令(方向性としてある目的を達成
することを先ず求めつつも、その方法までは定めない法の形態で、加盟国内
で適切な法令が採択されることに関しては加盟国に一定の方法的な裁量権を
与えている)を絶えず出し続けている。この指令の発想は、先ずEU全体の立
場をオープンにして見せてから各国(地域)の個性的方法で目的達成のルー
ルを作るという意味でユニークなものであり単なる下位ルールづくりとは別
物だ。

それは謂わばEU全体の可視化(オープン化)を前提にして各国の個性を活か
しつつ全体目的を達成させるという意味で、一方的にブラックボックスの中
央に回収するフィード・バックと全く逆のフィード・フォワード的発想であ
る。注目すべきは、EUがこのEU指令によってEU全体とEU各国の個性化を実現
して、米国型グローバルスタンダードにEU加盟国が飲み込まれるのを防いで
いるということだ。

課題山積の日本の次なる司法改革でも重要なのは、全体の混乱を収拾するた
めのコア(核心となる基本型)を先ず押さえ、その基本となる<良き文化風
土のコア>を司法全体へ及ぼすといような発想の転嫁が必要なのではないか
?無論、それにはEU指令のような発想で非常に困難な「権限=権限問題」を
クリアする方法もあるだろう。米国型グローバルスタンダードに酷く侵され
虚構モンスター化した日本司法の軌道修正を急ぐには、このように革新的な
視点が肝要ではないかと思われる。もはや、この段に至っては、規制緩和と
司法による事後統制主義のバランス崩壊傾向にブレーキを掛けるためと称し
て、今以上の弥縫策で屋上屋を重ねるのでは効果が期待できないだろう。む
しろ、それは更なる司法のモンスター化を招くことになるだろう。

従って、今こそ、全ての基本として、先ず「取調べの可視化」を実現し、そ
のうえで「調書主義の原則」への国民からの信用を回復すべきである。当然
ながら、これに準ずるオープン化(可視化)の原則は検察審査会(法)にも
取り入れるべきだ。これらが実現できれば、検察、公判、裁判への信頼回復
も、延いては司法全体への信頼回復も自ずと視野に入ることになるだろう。
そのうえで、中長期的には「最高裁判所の違憲審査」のあり方をも根底(改
憲論議に関わる部分)から再検討すべきである。

もし、このような意味での最も基本となる部分についての「再司法改革」が
実行されなければ、一般国民がこのことに相変わらず無頓着であり続ければ、
アノおぞましい限りの<小泉純一郎による市場原理型改革劇場>が偽装的に
仕込んだ“情報の非対称性の妖しい罠”に嵌った日本司法、日本国民、日本
民主主義はいずれ共倒れの運命を辿り、日本国民の基本的人権は蹂躙される
ばかりとなるであろう。そして、日本国民と日本のメディアが「推定無罪(Presumed Innocent)」の意味を欧米先進諸国並みに正しく理解できる日
も永遠にやって来ることはないであろう。

【エピローグ動画】Lara Fabian − Je suis Malade

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。