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[机上の妄想]点描ポーランドの風景・クラクフ編(3)、2010.7(ポーランド から衆愚政治に踊る日本への手紙) <注記0>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806 【参考画像】クラクフの位置図ほか <注記>これら画像についての説明および当シリーズ記事の「クラクフ編(1)、(2)」については下記を参照のこと。 点描ポーランドの風景・クラクフ編(1)、2010.7(ポーランドから衆愚政治 に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100731 点描ポーランドの風景・クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚政治 に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803 【プロローグ画像】1971 Death in Venice – Trailer ・・・ポーランド南部の都市クラクフはポーランドで最長のヴィスワ川の上流 に位置する人口約76万人の古都で、その都市の性格は日本での東京に対する京 都のイメージでとらえると分かり易い。 ・・・18世紀末のオーストリア(ハプスブルク)、ドイツ(プロイセン)、ロ シア3国によるポーランド分割によってクラクフはオーストリア領とされる。し かし、クラクフはドイツ(プロイセン)やロシアに併合された他の地域と異な っていた。 ・・・クラクフは旧ポーランド内で唯一ポーランド語の使用が許されたため、 ここはポーランドの伝統とハプスブルク王朝の二つの文化が融合し独特の魅力 ある芸術文化都市(ウイーン、プラハと並び中欧を代表する文化都市)となっ た。 ・・・第二次世界大戦の戦火も奇跡的に免れたため100に近い教会を始めとす る美しい中世の建造物が今でも数多く残っており、町全体が博物館のようなク ラクフは歴史地区として1978年に世界文化遺産に登録されている。 ・・・ところで、クラクフの旧市街辺りを歩くと、この街はどこかオーストリ アのウイーンに似ているぞと思わせるような空気が感じられるが、それはクラ クフがオーストリア・ハプスブルクの文化的な寛容政策の恩恵を受けたからと いうだけではないらしい。 ・・・皇帝カール1世が1918年に退位して650年も中欧に君臨したハプスブルク 家の帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)はもろくも崩壊したが、実は その頃まで帝国を縦断してクラクフ~ウイーン~ヴェニス間を急行列車が通って いたという事情があるらしいことが分かった(出典:下記★)。 ★池内 紀著『錬金術師通り/五つの都市を巡る短編集』(文芸春秋) ・・・そのため、イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティが映画化した、あの 余りにも有名なトーマス・マン『ヴェニスに死す(1912)』という名作が生ま れたことも理解できた。 ・・・しかも、驚くべきことに、この本のなかに池内 紀氏(ドイツ文学者)が クラクフを訪れたときに作品の象徴的主人公であるポーランド人の美少年タジ ュー(タディオ)のモデルとされた人物にに邂逅したという話が出てくる。 ・・・無論、それは、あの映画のような瑞々しい美少年(映画ではスェーデン 人のビョルン・ヨーハン・アンドレセンが演じた)ではなく、もはや老醜をま とった“美少年”であったということらしいが。 ・・・ともかく、この逸話からしても、たしかにポーランドが“ヨーロッパの 心臓”であることの意味が腑に落ちるような気がする。 3 ポーランド史に学ぶ「民主主義の非効率(民主主義の赤字)回避のための 小さな政府(自由原理主義)」なる浅知恵への批判的問題意識 (日本に偏在するキョロキョロの対極にあるポーランド伝統の「シュラフタ民 主主義」の意識) 思想家・内田樹は、著書『日本辺境論』(新潮新書)のなかで、丸山眞男の次 のコトバを引用している。・・・<日本人はたえず外を向いてキョロキョロし て新しいものを外なる世界に求めながら、そういうキョロキョロしている自分 自身は一向に何も変わらない> これは、欧米からの外来イデオロギーにめっぽう弱く、キョロキョロ、キョロ キョロなる振る舞いが、まるでバロック音楽の通奏低音のように明治期から今 に至るまで繰り返されている日本社会に特有な閉鎖的傾向を指摘したものだ。 まるで幕末の攘夷論の如き極右思想が現代日本を跋扈する背景も、この辺りの 事情にあるようだ。 つまり、それは“キョロキョロ、キョロキョロ”なる国民的常同性(対外的に 同じ反応を繰り返すアスペルガ―症候群の特徴を示す専門用語)に囚われ続け る日本人の特性(=偏在する文化的劣等感またはソノ裏返し)を鋭く抉ったも のだといえよう。 そして、このような意味での日本人に偏在する、つまりユビキタス化した文化 的劣等感の対極にあるのがポーランド伝統の「シュラフタ民主主義意識の伝統」 だと考えられる。シュラフタは所謂「騎士(士族)階層」(彼らの中で領地・ 財力で傑出した立場がポーランド貴族)であるが、彼らには領地の大小、あるい はその有無の別を問わず対等(国王が召集するセイム議会における対等な1票 の権利を持つ者)に扱われるという伝統があった。 現代民主主義と異なり、下層民は別としてもシュラフタ・貴族層の間では全く 平等な意識が定着し、この状態には、1918年のポーランド共和国独立まで約 300年以上も続いた実績があり、これが「シュラフタ民主主義」と呼ばれる、 他国に先駆けたポーランド独特の政治的伝統であった。しかも、この伝統は、 1918年にシュラフタ身分制が廃止された後も精神文化としてポーランド社会の なかに残り続けている。 その独特の意識(1票の対等な権利で平等社会実現の先導者たらんとする良い 意味でのシュラフタ的なエリート意識)は現代ポーランドでも通奏低音を響か せており、例えば1991年に共産党独裁政権に終止符を打たせたレフ・ワレサ (ヴァウェンサ)の「独立自主管理労働組合・連帯」も、このシュラフタ伝統の なせる技であったとする見方が可能だ。 一方、これは前にも書いたことだが歴史的に見ればポーランドの領土は固定的 でなく伸縮する自在な空間であったと言うことができる。無論、ポーランド国 家が意志的に伸縮させた要因はむしろ少なく、特に近世における領土の変遷・ 消滅・復帰はポーランドの地政学的な意味での列強諸国との攻防の帰結であっ たといえるだろう。 (「ポーランド民主主義」を支える多言語国家としての歴史経験と現在) このシュラフタ民主制は一種の貴族優位主義という条件付きの民主主義であっ たものの、その徹底した<平等意識と王権に対する厳しい授権規範の要求がフ ランス革命前に既に確立していたというポーランドの先進性>は、当時の列強 諸国の覇権主義に比べ遥かにハイレベルな政治意識であった。つまり、シュラ フタ民主制によれば、王権による徴税も戦争も行政経費負担もセイム議会の承 認がなければ一切実行できなかったのだ。 このため、18世紀に行われた第一〜第三次ポーランド分割は、ポーランドの進 歩的なシュラフタ民主主義(思想)が危険視され、結果的に、それが自国へ飛 び火することを恐れたドイツ(プロイセン)、オーストリア(ハプスブルク)、 ロシアの三国が総掛りで侵略的に介入することになったという見方もできるの だ。 ところで、15〜17世紀のポーランド・リトアニア連合王国〜連合共和国時代の ポーランドの領土について見ると、その最大時期では現在のウクライナ・ベラ ルーシ・リトアニアを含みバルト海から黒海にまで及ぶヨーロッパ一の大国で あっ た。 やがて、そのポーランド・リトアニア国家の広大な領土は1795年の第三次ポー ランド分割で消滅するが、今度は独立を果たしたポーランド第二共和国(1918 〜1939)がナチス・ドイツの侵攻で崩壊・縮小(残った東部地域もソビエト軍 の侵攻で1941年までに消滅)している。 第二次世界大戦後になると、テヘラン・ポツダム両会談でポーランドの領土は 第一次・第二次大戦間期より縮小され西方(ドイツ寄りのシロンスク/ポーラン ド語系が約7割、ドイツ語系が3割の地域)へやや移動し東部のウクライナ・ベ ラルーシ西部をソ連に割譲し現在に至っている。 また、一説によれば16世紀のポーランド・リトアニア共和国でのポーランド語 使用率は40%程度に止まり、ポーランド西部ではドイツ語が、北東部のリトア ニア辺りではリトアニア語・ラトヴィア語、古プロイセン語・エストニア語な どが話され、数多いユダヤ人はイディッシュ語使っていた。 また、ポーランド国王の宮廷ではドイツ語・フランス語・イタリア語などが使 われ、この宮廷に仕えるシュラフタの子弟らは各国語習得の為に西欧へ留学す るのが常であり、都市の大商人やユダヤ人、あるいは貿易に携わったアルメニ ア人などは複数の言語を日常的に使っていた。つまり、ポーランド・リトアニ ア国家時代のポーランドは紛れもなく多言語(マルチリンガル)国家であった。 他方、これも前に書いたことだが、18世紀後半に支配身分であったシュラフタ 層の中で「ポーランド国民」の自覚と意志(一種のナショナリズムの意志)が 芽生え、早くも第一次ポーランド分割(1772)の直後に「国民教育委員会」が 創設され、<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われた。 これが現代の民主国家ポーランド誕生の基盤的意味での布石となるのだが、こ のことには、ポーランド国家づくりの主柱(国民主権、地方分権、弱者救済) を支える必須条件として教育を最重視するよう勧めた仏の啓蒙思想家J.J.ルソ ーの貢献も大きいと考えられてい る(参照、下記◆)。 ◆[机上の妄想] 点描ポーランドの風景、2010.7、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100724 このような流れを俯瞰すれば、18〜19世紀ウイーン(ハプスブルク)支配下に おいて、旧ポーランド領内で唯一ポーランド語の使用が許されていた「古都ク ラクフの歴史的役割が極めて重要であったことが理解できる筈だ。 のみならず、それは過去の歴史レベル(過去形の出来事)であるに止まらず、 今もクラクフのヤギエウオ大学、あるいは首都のワルシャワ大学などを中心に、 EU加盟を果たしたヴィシェグラード・グループ(ポーランド、チェコ、ハンガ リー、スロバキア)の盟主たるポーランドの新しい開かれた歴史を刻みつつあ るようだ(ヴィシェグラード・グループおよび古都ヴィシェグラードの現代的 意義については下記★を参照乞う)。 ★ヴィシェグラード・グループとは、http://hiki.trpg.net/BlueRose/?VisegradGroup ★ハンガリーの古都・ヴィシェグラードについて(民主化の象徴的トポス、ド ナウ・ベントに共鳴する伸びやかなララ・ファビアンの歌声、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090429) ★ヴィシェグラード、http://www.szagami.com/cities/al-visegrad.htm そして、ポーランド民主共和国(独立自主管理労働組合「連帯」を中心とする 円卓会議(参照⇒http://www.worldlingo.com/ma/enwiki/ja/Polish_Round_Table_Agreement) を経た自由選挙による「共産党独裁政権」崩壊後の言語事情は、ポーランド語 しか話せぬ人の割合が50%程度であったが、2004年のEU加盟辺りから英語・ド イツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語などを学ぶマルチリンガルへの風 潮が進み、ポーランド人は、現代グローバリズムの世界で、その<多言語国家 としての歴史経験>を再び活かしつつある。 (シュラフタ民主主義の歴史的優位性の伝統と現代ポーランドの先進的な批判 的問題意識) これは大雑把な比喩的表現であるが、東欧で共産党の一党独裁が崩壊するまで に要した時間を国別に観察すると「ポーランド10年、ハンガリー10カ月、東ド イツ10週間、チェコスロヴァキア10日、ルーマニア10時間」という説があり、 ポーランドの民主化・自由主義経済化への体制転換が最も時間を要したことは 事実である。 たしかに、身分制社会という条件下でのシュラフタ民主主義の徹底平等権の主 張と権力に対する完璧なまでの授権規範性の要求はポーランドの近代民主主義 国家への道程を却って困難化した側面がある。しかし、それにもかかわらず、 その政治思想としての先見性(コンセンサス重視という一見では非合理な伝統) はEU加盟(2004)後の現代ポーランドの発展迄のプロセスを見事に条件づけたと いえそうだ。 長い歴史的スパンで 見ると、ポーランドは経済発展よりも政治思想の方が優 越していたといえる。つまり、ポーランドは、コンセンサスを重視するあまり 他の東欧諸国に比べると本 格的な民主主義が確立するまで非常に長い時間を 要した。が、その長い時間をかけた分だけ経済の発展と持続を確かなものにす ることができることを証明したと いえるのだ。以下に、その姿を具体的に少 し検証しておく。 ケインズ主義を批判しつつ、新自由主義の立場から市場原理主義と民営化を擁 護するアメリカのJ・M・ブキャナン(1919‐ /公共選択論を提唱、米国の財 政学者)は、ポーランドのシュラフタ民主主義の如き“厳格すぎる合意形成主 義の政治優位の伝統”は民主主義のコストがかかり過ぎる(民主主義の赤字が 拡大する)ので「政治力>政府財政力」の状況出現は望ましくないとして「小 さな政府」がベストと主張した(出典、http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2004/18.KIMURA.pdf)。 然るに、今のポーランドではJ・M・ブキャナンの主張に反する事態が起こりつ つある。例えば、共産主義から自由主義経済へ体制転換する1990年以前に民間 企業がポーランドのGDPに占める割合は僅か7%で残りの93%は国有企業であっ たが、それから約20年を経て、今漸くその民間比率が70%程度に達したところ だ(情報源、http://www.jetro.go.jp/jfile/report/05000492/05000492_002_BUP_0.pdf)。 無論、これは東欧諸国のなかで最も遅い達成率であり、その間コンセンサス重 視型のポーランドの政治状況は、外部から見る限り一進一退で停滞し続けてい るように見えた。にもかかわらず、2009年は経済成長率が1.2%となり、欧州 連合(EU)の中で唯一成長を達成した国となり、同国の1人当たりGDP(国内総 生産)が2009年にEU平均の50%から56%に拡大したが、これは過去最高の伸び である。 経済協力開発機構(OECD)の発表でも、経済成長率は大方の予想をはるかに上 回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、2009年の欧州連合(EU) 加盟 国でプラス成長率を達成した唯一の国となった。OECD加盟国でポーランドの他 にプラス成長を達成したのは韓国 (0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国 のみで、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を見せた。 また、ポーランド国立銀行(中央銀行)が世界金融危機の前の世界金融バブル の時代の非常に早い時期(2001年頃)に既に深刻なバブル崩壊(世界的金融パ ニック)の到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を 導入していたことも認識されている。また、物価下落から生じる購買力拡大を 調整した1人当たりGDPでは、ポーランドは現在、欧州で6番目に大きな経済規 模を誇る国となっているのだ。そのうえ、ポーランド経済の明るい要素として、 もう一つ挙げておくべきは国民の間で起業精神が旺盛であること、およびベン チャー企業に対する国の支援体制が非常に充実していることだ。 その他に、ポーランドの農業は共産党政権下でも大規模化・国有化・集団化さ れなかった点も一種の先見の明があったといえるようだ。このため、今でもポ ーランドでは約90%が個人農家で、国土面積のうち農地が占める割合は42.1%と なっている。これをどう生かすかはこれからの戦略次第だが、若年人口層が厚 いことも強みとなるであろう。これらの基盤として、シュラフタ民主主義の伝 統から生まれた高度な教育水準を誇る強みもある。 ともかくも、日本人のキョロキョロ癖に取り憑いた単なる外来種の理念モドキ (=浅知恵)、所謂「小さな政府論=新自由主義」なるものが如何にバカげた浅 知恵に過ぎぬということがポーランドの歴史・政治・経済を概観すると見えて くるように思われる。しかも、日本ではかなりのインテリ層の人々までもが、 この「新自由主義=浅知恵」を高等な理想主義だと思い込んでいるらしいから 始末が悪い。 当然ながら、ポーランドの歴史・文化・社会・経済・財政等についての実情把 握と今後の発展可能性についての分析・評価が、たったこれしきのデータでで きるなどと傲慢な考えを主張するつもりは毛頭ない。 しかし、少なくとも「小さな政府、新自由主義、民営化」の財政理論(公共経 済学)的な観点からの擁護者たる“新自由主義公共経済(財政)学の泰斗・ジェ ームズ・M・ブキャナン先生”によって「民主主義の赤字」をもたらす完璧な コンセンサス主義のシュラフタ民主主義の伝統故に落第点を付けられたポーラ ンドが、今やギリシア発のソブリンリスクとも無縁の形で、OECD29カ国中で唯 一の健全な国の姿を見せつつあるという現実は見逃すべきでないであろう。 (身に染みたキョロキョロ故に民主主義の赤字(非効率)回避のための小さな 政府必要論なる浅知恵に嵌り続ける日本の悲劇) そもそも、自由主義にせよ民営化にせよ、俯瞰すれば、出来得る限り多くの人 々に幸せを配分するための相対的位置づけが与えられるべき個々の手段に過ぎ ない筈なのだ。その手段を神の手の如く崇めたてまつる市場原理主義の立場は 矢張りカルト化した強欲な原理主義宗教と見なす他はないだろう。 因みに、「OECD、Multilingual Summaries/Govrnment at a Glance 2009 ・・・OECDが2年に一度発行する報告書で、加盟各国政府の業績となる30以上 の要素に関する指標が含まれる、http://www.oecd.org/dataoecd/62/60/44620934.pdf」のなかから『一般政府 雇用の対総労働力比』(公共サービスを提供するのが政府職員か、あるいは民 間部門かを示す数字、2005年)について主なものを拾ってみると、以下のとお りである(各数字は概数)。 日本5%、ドイツ11%、オランダ13%、ポーランド13%、ギリシア14%、米国14%、 イタリア14%、英国14%、ベルギー17%、フランス22%、スウェーデン28% やはり、ここから一つ言えるのは「市場原理主義と小さな政府」を万能の神の 手として使いつつ歴史と個性的な文化と生身の国民を抱える各国財政を一網打 尽に処理することの乱暴さと愚かさが透けて見えるということだ。例えば、既 に5%の日本がやみくもに更に福祉・医療・保険・教育などの公共サービスを切 り捨てて何がプラスになると言えるのか? むしろ、日本で重要なのは多様な価値観(difference)を尊重する理念を定着 させるとともに非劣等処遇原則的な観点からの<本物の税制改革>と<雇用創 出>の二点こそ最優先すべきではないのか。それに、竹中平蔵らの新自由主義 者は「市場原理と自由競争」をまるで自らの専売特許であるかの如く自慢げに 宣まうことが多いが、言うまでもないことだが、そもそも資本主義は初めから 「市場原理と自由競争」がCPU(中央演算処理装置)であり、要はそれを出来得 る限り多くの人々の幸せのために、どのように使いこなせるかというソフト・ パフォーマンスの違いレベルの話に過ぎないのだ。 このような観点からすると、授権規範(国民主権を前提とする民主憲法的な意 味での最低限度の諸基本ルール)を監視・評価すべきマスコミの役割が放棄 (第4権力の不在、というより機密費授領等でマスゴミ(増塵)まで身を堕しめ 超腐敗した故の責任放棄)されたままで、与野党の野合勢力が、一斉に「小さ な政府」論に凝り固まる財務省へ平身低頭しつつ、菅総理が単純な議員定数削 減(税金の無駄遣いをなくす名目での国会議員の定数削減)を菅総理が主張し たり、あるいは同じく菅総理らが、1票格差が拡大するばかりの選挙制度改革 を放置しつつ比例区削減などのチンケなアイデアを掲げるのは不埒である。そ れほど急ぐなら議員歳費の50%大幅カットを直ぐに実行したらどうか。 なぜなら、例えば歳費削減を謳った単純な議員定数削減は間違いなく多様な少 数意見(difference) の切り捨てになるし、本来なら選挙制度そのものの見 直し論となるべきなのに、1票格差を放置したまま比例区削減を実施すれば現 在の欠陥選挙制度の歪みを更 に助長するだけである。そもそも、このように 日本の民主主義の根幹に関わる問題がブキャナン流の「小さな政府論」に屈服 することで日本民主主義の十分なコ ンセンサスの手段を破壊するのは笑止千 万の愚行であり、国民主権を嘲るようなバカ話である。だから、与野党を問わ ず、もういい加減にキョロキョロするのは止めて、政治家の先生方はポーラン ド国民の爪の垢でも煎じて飲む必要があるのではないか。 【エピローグ画像】La différence − Lara Fabian <注記0>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806 【参考画像】クラクフの位置図ほか <注記>これら画像についての説明および当シリーズ記事の「クラクフ編 (1)、(2)」については下記を参照のこと。 点描ポーランドの風景・クラクフ編(1)、2010.7(ポーランドから衆愚政治 に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100731 点描ポーランドの風景・クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚政治 に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803 【プロローグ画像】1971 Death in Venice – Trailer ・・・ポーランド南部の都市クラクフはポーランドで最長のヴィスワ川の上流 に位置する人口約76万人の古都で、その都市の性格は日本での東京に対する京 都のイメージでとらえると分かり易い。 ・・・18世紀末のオーストリア(ハプスブルク)、ドイツ(プロイセン)、ロ シア3国によるポーランド分割によってクラクフはオーストリア領とされる。し かし、クラクフはドイツ(プロイセン)やロシアに併合された他の地域と異な っていた。 ・・・クラクフは旧ポーランド内で唯一ポーランド語の使用が許されたため、 ここはポーランドの伝統とハプスブルク王朝の二つの文化が融合し独特の魅力 ある芸術文化都市(ウイーン、プラハと並び中欧を代表する文化都市)となっ た。 ・・・第二次世界大戦の戦火も奇跡的に免れたため100に近い教会を始めとす る美しい中世の建造物が今でも数多く残っており、町全体が博物館のようなク ラクフは歴史地区として1978年に世界文化遺産に登録されている。 ・・・ところで、クラクフの旧市街辺りを歩くと、この街はどこかオーストリ アのウイーンに似ているぞと思わせるような空気が感じられるが、それはクラ クフがオーストリア・ハプスブルクの文化的な寛容政策の恩恵を受けたからと いうだけではないらしい。 ・・・皇帝カール1世が1918年に退位して650年も中欧に君臨したハプスブルク 家の帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)はもろくも崩壊したが、実は その頃まで帝国を縦断してクラクフ~ウイーン~ヴェニス間を急行列車が通って いたという事情があるらしいことが分かった(出典:下記★)。 ★池内 紀著『錬金術師通り/五つの都市を巡る短編集』(文芸春秋) ・・・そのため、イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティが映画化した、あの 余りにも有名なトーマス・マン『ヴェニスに死す(1912)』という名作が生ま れたことも理解できた。 ・・・しかも、驚くべきことに、この本のなかに池内 紀氏(ドイツ文学者)が クラクフを訪れたときに作品の象徴的主人公であるポーランド人の美少年タジ ュー(タディオ)のモデルとされた人物にに邂逅したという話が出てくる。 ・・・無論、それは、あの映画のような瑞々しい美少年(映画ではスェーデン 人のビョルン・ヨーハン・アンドレセンが演じた)ではなく、もはや老醜をま とった“美少年”であったということらしいが。 ・・・ともかく、この逸話からしても、たしかにポーランドが“ヨーロッパの 心臓”であることの意味が腑に落ちるような気がする。 3 ポーランド史に学ぶ「民主主義の非効率(民主主義の赤字)回避のための 小さな政府(自由原理主義)」なる浅知恵への批判的問題意識 (日本に偏在するキョロキョロの対極にあるポーランド伝統の「シュラフタ民 主主義」の意識) 思想家・内田樹は、著書『日本辺境論』(新潮新書)のなかで、丸山眞男の次 のコトバを引用している。・・・<日本人はたえず外を向いてキョロキョロし て新しいものを外なる世界に求めながら、そういうキョロキョロしている自分 自身は一向に何も変わらない> これは、欧米からの外来イデオロギーにめっぽう弱く、キョロキョロ、キョロ キョロなる振る舞いが、まるでバロック音楽の通奏低音のように明治期から今 に至るまで繰り返されている日本社会に特有な閉鎖的傾向を指摘したものだ。 まるで幕末の攘夷論の如き極右思想が現代日本を跋扈する背景も、この辺りの 事情にあるようだ。 つまり、それは“キョロキョロ、キョロキョロ”なる国民的常同性(対外的に 同じ反応を繰り返すアスペルガ―症候群の特徴を示す専門用語)に囚われ続け る日本人の特性(=偏在する文化的劣等感またはソノ裏返し)を鋭く抉ったも のだといえよう。 そして、このような意味での日本人に偏在する、つまりユビキタス化した文化 的劣等感の対極にあるのがポーランド伝統の「シュラフタ民主主義意識の伝統」 だと考えられる。シュラフタは所謂「騎士(士族)階層」(彼らの中で領地・ 財力で傑出した立場がポーランド貴族)であるが、彼らには領地の大小、ある いはその有無の別を問わず対等(国王が召集するセイム議会における対等な1 票の権利を持つ者)に扱われるという伝統があった。 現代民主主義と異なり、下層民は別としてもシュラフタ・貴族層の間では全く 平等な意識が定着し、この状態には、1918年のポーランド共和国独立まで約 300年以上も続いた実績があり、これが「シュラフタ民主主義」と呼ばれる、 他国に先駆けたポーランド独特の政治的伝統であった。しかも、この伝統は、 1918年にシュラフタ身分制が廃止された後も精神文化としてポーランド社会の なかに残り続けている。 その独特の意識(1票の対等な権利で平等社会実現の先導者たらんとする良い 意味でのシュラフタ的なエリート意識)は現代ポーランドでも通奏低音を響か せており、例えば1991年に共産党独裁政権に終止符を打たせたレフ・ワレサ (ヴァウェンサ)の「独立自主管理労働組合・連帯」も、このシュラフタ伝統の なせる技であったとする見方が可能だ。 一方、これは前にも書いたことだが歴史的に見ればポーランドの領土は固定的 でなく伸縮する自在な空間であったと言うことができる。無論、ポーランド国 家が意志的に伸縮させた要因はむしろ少なく、特に近世における領土の変遷・ 消滅・復帰はポーランドの地政学的な意味での列強諸国との攻防の帰結であっ たといえるだろう。 (「ポーランド民主主義」を支える多言語国家としての歴史経験と現在) このシュラフタ民主制は一種の貴族優位主義という条件付きの民主主義であっ たものの、その徹底した<平等意識と王権に対する厳しい授権規範の要求がフ ランス革命前に既に確立していたというポーランドの先進性>は、当時の列強 諸国の覇権主義に比べ遥かにハイレベルな政治意識であった。つまり、シュラ フタ民主制によれば、王権による徴税も戦争も行政経費負担もセイム議会の承 認がなければ一切実行できなかったのだ。 このため、18世紀に行われた第一〜第三次ポーランド分割は、ポーランドの進 歩的なシュラフタ民主主義(思想)が危険視され、結果的に、それが自国へ飛 び火することを恐れたドイツ(プロイセン)、オーストリア(ハプスブルク)、 ロシアの三国が総掛りで侵略的に介入することになったという見方もできるの だ。 ところで、15〜17世紀のポーランド・リトアニア連合王国〜連合共和国時代の ポーランドの領土について見ると、その最大時期では現在のウクライナ・ベラ ルーシ・リトアニアを含みバルト海から黒海にまで及ぶヨーロッパ一の大国で あった。 やがて、そのポーランド・リトアニア国家の広大な領土は1795年の第三次ポー ランド分割で消滅するが、今度は独立を果たしたポーランド第二共和国(1918 〜1939)がナチス・ドイツの侵攻で崩壊・縮小(残った東部地域もソビエト軍 の侵攻で1941年までに消滅)している。 第二次世界大戦後になると、テヘラン・ポツダム両会談でポーランドの領土は 第一次・第二次大戦間期より縮小され西方(ドイツ寄りのシロンスク/ポーラン ド語系が約7割、ドイツ語系が3割の地域)へやや移動し東部のウクライナ・ベ ラルーシ西部をソ連に割譲し現在に至っている。 また、一説によれば16世紀のポーランド・リトアニア共和国でのポーランド語 使用率は40%程度に止まり、ポーランド西部ではドイツ語が、北東部のリトア ニア辺りではリトアニア語・ラトヴィア語、古プロイセン語・エストニア語な どが話され、数多いユダヤ人はイディッシュ語使っていた。 また、ポーランド国王の宮廷ではドイツ語・フランス語・イタリア語などが使 われ、この宮廷に仕えるシュラフタの子弟らは各国語習得の為に西欧へ留学す るのが常であり、都市の大商人やユダヤ人、あるいは貿易に携わったアルメニ ア人などは複数の言語を日常的に使っていた。つまり、ポーランド・リトアニ ア国家時代のポーランドは紛れもなく多言語(マルチリンガル)国家であった。 他方、これも前に書いたことだが、18世紀後半に支配身分であったシュラフタ 層の中で「ポーランド国民」の自覚と意志(一種のナショナリズムの意志)が 芽生え、早くも第一次ポーランド分割(1772)の直後に「国民教育委員会」が 創設され、<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われた。 これが現代の民主国家ポーランド誕生の基盤的意味での布石となるのだが、こ のことには、ポーランド国家づくりの主柱(国民主権、地方分権、弱者救済) を支える必須条件として教育を最重視するよう勧めた仏の啓蒙思想家J.J.ルソ ーの貢献も大きいと考えられてい る(参照、下記◆)。 ◆[机上の妄想] 点描ポーランドの風景、2010.7、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100724 このような流れを俯瞰すれば、18〜19世紀ウイーン(ハプスブルク)支配下に おいて、旧ポーランド領内で唯一ポーランド語の使用が許されていた「古都ク ラクフの歴史的役割が極めて重要であったことが理解できる筈だ。 のみならず、それは過去の歴史レベル(過去形の出来事)であるに止まらず、 今もクラクフのヤギエウオ大学、あるいは首都のワルシャワ大学などを中心に 、EU加盟を果たしたヴィシェグラード・グループ(ポーランド、チェコ、ハン ガリー、スロバキア)の盟主たるポーランドの新しい開かれた歴史を刻みつつ あるようだ(ヴィシェグラード・グループおよび古都ヴィシェグラードの現代 的意義については下記★を参照乞う)。 ★ヴィシェグラード・グループとは、http://hiki.trpg.net/BlueRose/?VisegradGroup ★ハンガリーの古都・ヴィシェグラードについて(民主化の象徴的トポス、 ドナウ・ベントに共鳴する伸びやかなララ・ファビアンの歌声、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090429) ★ヴィシェグラード、http://www.szagami.com/cities/al-visegrad.htm そして、ポーランド民主共和国(独立自主管理労働組合「連帯」を中心とする 円卓会議(参照⇒http://www.worldlingo.com/ma/enwiki/ja/Polish_Round_Table_Agreement) を経た自由選挙による「共産党独裁政権」崩壊後の言語事情は、ポーランド語 しか話せぬ人の割合が50%程度であったが、2004年のEU加盟辺りから英語・ド イツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語などを学ぶマルチリンガルへの風 潮が進み、ポーランド人は、現代グローバリズムの世界で、その<多言語国家 としての歴史経験>を再び活かしつつある。 (シュラフタ民主主義の歴史的優位性の伝統と現代ポーランドの先進的な批判 的問題意識) これは大雑把な比喩的表現であるが、東欧で共産党の一党独裁が崩壊するまで に要した時間を国別に観察すると「ポーランド10年、ハンガリー10カ月、東ド イツ10週間、チェコスロヴァキア10日、ルーマニア10時間」という説があり、 ポーランドの民主化・自由主義経済化への体制転換が最も時間を要したことは 事実である。 たしかに、身分制社会という条件下でのシュラフタ民主主義の徹底平等権の主 張と権力に対する完璧なまでの授権規範性の要求はポーランドの近代民主主義 国家への道程を却って困難化した側面がある。しかし、それにもかかわらず、 その政治思想としての先見性(コンセンサス重視という一見では非合理な伝統) はEU加盟(2004)後の現代ポーランドの発展迄のプロセスを見事に条件づけたと いえそうだ。 長い歴史的スパンで 見ると、ポーランドは経済発展よりも政治思想の方が優 越していたといえる。つまり、ポーランドは、コンセンサスを重視するあまり 他の東欧諸国に比べると本 格的な民主主義が確立するまで非常に長い時間を 要した。が、その長い時間をかけた分だけ経済の発展と持続を確かなものにす ることができることを証明したと いえるのだ。以下に、その姿を具体的に少 し検証しておく。 ケインズ主義を批判しつつ、新自由主義の立場から市場原理主義と民営化を擁 護するアメリカのJ・M・ブキャナン(1919‐ /公共選択論を提唱、米国の財 政学者)は、ポーランドのシュラフタ民主主義の如き“厳格すぎる合意形成主 義の政治優位の伝統”は民主主義のコストがかかり過ぎる(民主主義の赤字が 拡大する)ので「政治力>政府財政力」の状況出現は望ましくないとして「小 さな政府」がベストと主張した(出典、http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2004/18.KIMURA.pdf)。 然るに、今のポーランドではJ・M・ブキャナンの主張に反する事態が起こり つつある。例えば、共産主義から自由主義経済へ体制転換する1990年以前に民 間企業がポーランドのGDPに占める割合は僅か7%で残りの93%は国有企業で あったが、それから約20年を経て、今漸くその民間比率が70%程度に達したと ころだ(情報源、http://www.jetro.go.jp/jfile/report/05000492/05000492_002_BUP_0.pdf)。 無論、これは東欧諸国のなかで最も遅い達成率であり、その間コンセンサス重 視型のポーランドの政治状況は、外部から見る限り一進一退で停滞し続けてい るように見えた。にもかかわらず、2009年は経済成長率が1.2%となり、欧州 連合(EU)の中で唯一成長を達成した国となり、同国の1人当たりGDP(国内総 生産)が2009年にEU平均の50%から56%に拡大したが、これは過去最高の伸び である。 経済協力開発機構(OECD)の発表でも、経済成長率は大方の予想をはるかに上 回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、2009年の欧州連合(EU) 加盟 国でプラス成長率を達成した唯一の国となった。OECD加盟国でポーランドの他 にプラス成長を達成したのは韓国 (0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国 のみで、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を見せた。 また、ポーランド国立銀行(中央銀行)が世界金融危機の前の世界金融バブル の時代の非常に早い時期(2001年頃)に既に深刻なバブル崩壊(世界的金融パ ニック)の到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を 導入していたことも認識されている。また、物価下落から生じる購買力拡大を 調整した1人当たりGDPでは、ポーランドは現在、欧州で6番目に大きな経済規 模を誇る国となっているのだ。そのうえ、ポーランド経済の明るい要素として、 もう一つ挙げておくべきは国民の間で起業精神が旺盛であること、およびベン チャー企業に対する国の支援体制が非常に充実していることだ。 その他に、ポーランドの農業は共産党政権下でも大規模化・国有化・集団化さ れなかった点も一種の先見の明があったといえるようだ。このため、今でもポ ーランドでは約90%が個人農家で、国土面積のうち農地が占める割合は42.1%と なっている。これをどう生かすかはこれからの戦略次第だが、若年人口層が厚 いことも強みとなるであろう。これらの基盤として、シュラフタ民主主義の伝 統から生まれた高度な教育水準を誇る強みもある。 ともかくも、日本人のキョロキョロ癖に取り憑いた単なる外来種の理念モドキ (=浅知恵)、所謂「小さな政府論=新自由主義」なるものが如何にバカげた浅 知恵に過ぎぬということがポーランドの歴史・政治・経済を概観すると見えて くるように思われる。しかも、日本ではかなりのインテリ層の人々までもが、 この「新自由主義=浅知恵」を高等な理想主義だと思い込んでいるらしいから 始末が悪い。 当然ながら、ポーランドの歴史・文化・社会・経済・財政等についての実情把 握と今後の発展可能性についての分析・評価が、たったこれしきのデータでで きるなどと傲慢な考えを主張するつもりは毛頭ない。 しかし、少なくとも「小さな政府、新自由主義、民営化」の財政理論(公共経 済学)的な観点からの擁護者たる“新自由主義公共経済(財政)学の泰斗・ジェ ームズ・M・ブキャナン先生”によって「民主主義の赤字」をもたらす完璧な コンセンサス主義のシュラフタ民主主義の伝統故に落第点を付けられたポーラ ンドが、今やギリシア発のソブリンリスクとも無縁の形で、OECD29カ国中で唯 一の健全な国の姿を見せつつあるという現実は見逃すべきでないであろう。 (身に染みたキョロキョロ故に民主主義の赤字(非効率)回避のための小さな 政府必要論なる浅知恵に嵌り続ける日本の悲劇) そもそも、自由主義にせよ民営化にせよ、俯瞰すれば、出来得る限り多くの人 々に幸せを配分するための相対的位置づけが与えられるべき個々の手段に過ぎ ない筈なのだ。その手段を神の手の如く崇めたてまつる市場原理主義の立場は 矢張りカルト化した強欲な原理主義宗教と見なす他はないだろう。 因みに、「OECD、Multilingual Summaries/Govrnment at a Glance 2009 ・・・OECDが2年に一度発行する報告書で、加盟各国政府の業績となる30以上の 要素に関する指標が含まれる、http://www.oecd.org/dataoecd/62/60/44620934.pdf」のなかから『一般政府雇 用の対総労働力比』(公共サービスを提供するのが政府職員か、あるいは民間 部門かを示す数字、2005年)について主なものを拾ってみると、以下のとおり である(各数字は概数)。 日本5%、ドイツ11%、オランダ13%、ポーランド13%、ギリシア14%、米国14%、 イタリア14%、英国14%、ベルギー17%、フランス22%、スウェーデン28% やはり、ここから一つ言えるのは「市場原理主義と小さな政府」を万能の神の 手として使いつつ歴史と個性的な文化と生身の国民を抱える各国財政を一網打 尽に処理することの乱暴さと愚かさが透けて見えるということだ。例えば、既 に5%の日本がやみくもに更に福祉・医療・保険・教育などの公共サービスを切 り捨てて何がプラスになると言えるのか? むしろ、日本で重要なのは多様な価値観(difference)を尊重する理念を定着 させるとともに非劣等処遇原則的な観点からの<本物の税制改革>と<雇用創 出>の二点こそ最優先すべきではないのか。それに、竹中平蔵らの新自由主義 者は「市場原理と自由競争」をまるで自らの専売特許であるかの如く自慢げに 宣まうことが多いが、言うまでもないことだが、そもそも資本主義は初めから 「市場原理と自由競争」がCPU(中央演算処理装置)であり、要はそれを出来得 る限り多くの人々の幸せのために、どのように使いこなせるかというソフト・ パフォーマンスの違いレベルの話に過ぎないのだ。 このような観点からすると、授権規範(国民主権を前提とする民主憲法的な意 味での最低限度の諸基本ルール)を監視・評価すべきマスコミの役割が放棄 (第4権力の不在、というより機密費授領等でマスゴミ(増塵)まで身を堕しめ 超腐敗した故の責任放棄)されたままで、与野党の野合勢力が、一斉に「小さ な政府」論に凝り固まる財務省へ平身低頭しつつ、菅総理が単純な議員定数削 減(税金の無駄遣いをなくす名目での国会議員の定数削減)を菅総理が主張し たり、あるいは同じく菅総理らが、1票格差が拡大するばかりの選挙制度改革 を放置しつつ比例区削減などのチンケなアイデアを掲げるのは不埒である。そ れほど急ぐなら議員歳費の50%大幅カットを直ぐに実行したらどうか。 なぜなら、例えば歳費削減を謳った単純な議員定数削減は間違いなく多様な少 数意見(difference) の切り捨てになるし、本来なら選挙制度そのものの見直 し論となるべきなのに、1票格差を放置したまま比例区削減を実施すれば現在 の欠陥選挙制度の歪みを更 に助長するだけである。そもそも、このように日 本の民主主義の根幹に関わる問題がブキャナン流の「小さな政府論」に屈服す ることで日本民主主義の十分なコ ンセンサスの手段を破壊するのは笑止千万の 愚行であり、国民主権を嘲るようなバカ話である。だから、与野党を問わず、 もういい加減にキョロキョロするのは止めて、政治家の先生方はポーランド国 民の爪の垢でも煎じて飲む必要があるのではないか。 【エピローグ画像】La différence − Lara Fabian |