春男は列車の中吊りに目をやった。幾つもの週刊誌の広告が、地球の温暖化や
ガソリンの値上げを報じていた。日本の食料不足が始まっているのではないのか。
春男は漠然とそんなことを考えた。自分はこんなのんびりと役所勤めをしていて
いいのだろうか。休みの度に出かけるゴルフ場が脳裏に浮かんだ。ゴルフ場が農
地になれば自給自足もできるかもしれない。ぼんやりと車窓に目を投げながらそ
んなことを考えた。ふと『そうだ。これからの時代を乗り切る準備として、自分
で畑を耕そう』春男はそんなことを思い立った。
春男の家の周りには農家が多く、しかも耕し手がなく放置されている耕地がい
くらもあり、家からほど近い所に二アール(約六十坪)ほどの畑を借りた。休日
が楽しくなった。適度に体を動かし、鍬をふるった土の跡が黒々と光るのを見る
とき、征服感にも似た喜びに浸った。
連休と年休を利用し数日かかって七本の畝を作り、にわか百姓になったつもり
の春男は、手当たり次第に苗を買い込んだ。カボチャ、スイカ、キュウリにトマ
ト、サヤエンドウや空豆の苗。それらを畝ごとに並べて植えた。小さな苗がまば
らに ひろがり、淋しい農地に見えた。だが数週間で畑は緑に覆われだした。ひ
と月がたちふた月がたつと苗は予想以上に育ち、雑草と供に大きくなった苗が地
面を覆い隠しだした。スイカとカボチャの大きな葉は地面を這い、ほかの畝を覆
い被せ隣の畑にまで侵略しだした。幸い隣は休耕地で開いていた。サヤエンドウ
やトマトのために支柱を組んでいると、カボチャの花が咲いているのを見つけた。
その脇にキュウリの花も咲いていた。どこがキュウリの畝なのかカボチャの畝な
のか分からなくなっていた。
七月の半ばに梅雨が明け、十日以上も雨の降らない日が続いた。畑には生気が
なくなってきた。春男はポリタンクを五個ほど買い込み、家から水を運んでは畑
にまいた。畑全体に灌水するには四時間を要した。そんな水かけ作業が休みの度
に続き、とうとうトマトの色づくのを見た。やがて籠いっぱいのトマトを収穫す
ると妻は喜んでくれた。だが来る日も来る日も籠いっぱいのトマトはたちまち台
所に氾濫した。ナスを収穫し出すと台所ではトマトは腐り出した。そのうちカボ
チャが大きくなり出し、毎日仕事帰りに一個ずつ収穫するとこれも台所に積み上
げられた。スイカも大きな葉に紛れて少し小振りの実が転がっている。一番大き
なものを選んで持ち帰ると、妻と二人では食べきるのに三日かかった。
夏が過ぎ気がつくと畑には収穫されないまま熟し切った巨大なキュウリやただ
れたトマトが無残に取り残されていた。それでもこの夏は自分の育てた作物を食
べられた喜びで満足だった。
そんなある日これまでかかった費用を計算してみた。畑の借用料と苗の代金。
有機肥料や灌水費用を合わせるとざっと四万円ほどだった。ここには人件費は入
っていない。だが夏の終わりはいつも小遣いが足りなかったが、その年はどうに
か数千円残っていた。畑三昧でゴルフにもパチンコにも行かなかったからだ。
「今年の夏は野菜を買わずに済んだだろう」春男は得意げに妻に言った。
「大根やタマネギ、それにお味噌汁の具は買ったわ」
「それでも俺の野菜でずいぶん助かったろ」
「そうね三千円くらいかしら」妻は涼しい顔で言った。
「なに?たった三千円?」春男は納得がいかなかった。
「食べた量より腐らせた方が多かったわね」妻のさりげない言葉が春男の心を深
く傷つけた。してみると三万七千円腐らせたことになる。だが小遣いが残ったこ
とは刮目して良い結果ではないか。これはやはり日本の食糧不足を解消できる。
密かにそう思った。その時妻が言った。
「畑が終わって飲むビール代が去年の二倍よ。ゴルフやパチンコをやめて畑を返
せば、我が家の食料不足は解消できるってことかしらね」
妻のその独り言のような言葉は、春男の心をこの上なくさむからしめるのであっ
た。