忘れ去られた時のために
しきりに腕時計を見ている人に今何時何分ですかと尋ねたら、相手がすぐには答えられなかった。日常生活で、こんな場面に遭遇することがよくある。その原因は2つあるだろう。一つは、彼が腕時計を見る目的が具体的な時間を知るためではなく、ある時刻になったかどうかを見ていた場合。もう一つは、腕時計を見るのが内心の焦りや不安による無意識の行動である場合だ。そのことについてある哲学者が、ひとことで見事に言い当てている。「腕時計の動きの本質的意味は、時を忘れ去ることにある」
4年前にスイス・バーゼルの見本市で、吉岡徳仁がデザインした「TO」が大きな話題となった。その機械式ムーブメント版が昨年登場し、再び注目を集めている。ちょっと見たところは普通のシルバーウォッチのようだが、通る人のほとんどが何度も振り返って見ることによって、この時計が「ただ者」ではないことがよくわかる。現代人にとっての、腕時計や時間に対する言葉にはならない感覚を、これほどよく象徴している時計はないだろう。
「TO」の最大の特徴は、その不思議な3つの金属製の円盤だ。普通は数字でいっぱいのはずの時計盤が、何と鏡のようにつるりとしている!高貴なサファイアクリスタルガラスの内側に、精緻に加工された長針と短針が配置され、光に照らし出されるたびに、鋭く鮮やかな光芒を放つ。ステンレスの時計盤は硬くて丈夫で、時針と分針の動きを支えるとともに、金属が本来持っているクールで美しい緊張感を演出している。造型による強烈な存在感と洗練された大人の美意識が、モダニズム以前にはなかった芸術的インパクトを感じさせる。
最も外側のリングに刻まれた12本の浅い溝は均等な放射状になっており、時間を暗示する機能を備えているようだが、ここもまたデザインの潮流への反抗を示している。一般に、長い分針が外側、短い時針が内側であるのが普通の感覚だが、「TO」はこの固定観念を完全にくつがえし、腕時計を単純な「時間の付属品」という概念から解放し、時間を「TO」の所有者の忘れがたい記憶へと昇華するのだ。
スイスのあるフリーデザイナーが、時計のデザインの将来についてこのように語った。アナログやデジタルによる時間表示といったものは、機械式ムーブメントで実現される。本来の姿に立ち返って、腕時計の素朴で華美でない姿が示されるだろう……。「いずれにしても、すばらしいデザインの最終目的は、時間をより容易に読み取れるようにすることではないのだ。」――「TO」の誕生は、意図したものではないかもしれないが、この予言を完璧に実現している。(姚遠執筆)
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