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[民主主義の危機]“大金融危機”のさなか“連日のバー通い”をする麻生・マンガ首相へ捧げる記事 2008.10.23 <注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081023 【画像1】松島の風景(2008.10、友人撮影) [f:id:toxandoria:20081023131911j:image](外洋に浮かぶ島々) [f:id:toxandoria:20081023131912j:image](円通院のバラ) 【画像2】LARA FABIAN (Perdere L'amore) [http://www.youtube.com/watch?v=PAYmRpOWUJ8:movie] いま、この薄氷を踏むような“グローバル金融パニック”のときに麻生首相の“連日のバー通い”の是非を問う報道(下記●)が波紋を広げています。つくづく日本は“庶民の福祉・厚生・医療および金融・経済・労働環境が充実した平和で良い国だったんだな〜”と思わせる、まさに「麻生マンガ内閣」の面目躍如たる光景ですが、この報道の背景に日本社会に漂う“一種独特の冷たさ”を感じるのは考えすぎというものでしょうか? ●首相『ホテルのバーは安い』 高級店通い 指摘に“逆上”、http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2008102302000127.html ●首相「ホテルのバーは安い」 連夜の会合批判に反論、http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20081023AT3S2201522102008.html ●国民感覚とズレ?首相連夜の会合 記者の質問に「怒」、http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081022/plc0810222151011-n1.htm “ 一種独特の冷たさ”の言い方が分かりにくいなら、それは“小泉構造改革の失敗”と現在の“大金融パニック”には共通の病原菌(=ポンジー(ネズミ講)金融ビジネス)が巣食っていることを直視できない、と言うよりも『政治家も、経営者も、行政も、学者も、メディアも、大方の国民も、敢えて皆で直視(根本問題を敢えて反省)しようとしない日本社会の異様な空気』と言い換えておきます。 このような有様では(小泉、安部、福田、麻生ら世襲・寄生議員が跋扈する、しかも現在のように“素朴マルチに染まった目クソ(民主党)が先端ポンジーに染まった鼻クソ(自民党)を笑う”ような政治文化の下で)、たとえ今度の総選挙で民主党が勝利したとしても、これからの日本は何も変わることはできないでしょう。 ところで、このような点について深く考えさせてくれる論考記事『資本主義の危機(Capitalism in Crisis)』(Spiegel Online 2008.10.8 by Dirk Kurbjuweit、http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20081022AT3S2201522102008.html)があります。読むうちに引きずり込まれたので、その概要を下に紹介しておきます。なお、当訳文は逐語訳ではなく“直感訳”であり、“誤訳”のヤマであることをお断りしておきます。 一部の専門家(特に市場原理重視派の御用学者ら)のなかには、今回のノーベル経済学賞を受けたクルーグマン(Paul Robin Krugman/1953 - )を“変節漢だ、転向自在の御用学者だ!”と揶揄する向き(リベラル派の論客として、担当するニューヨーク・タイムズ紙のコラムなどでブッシュ政権批判を繰り返してきたことを指すらしい)があるようです。 そもそも計量経済学による分析は投入要素や投入条件(数字)が少し変われば、つまりデータ演繹の手法が少し変われば「不平等と格差拡大はトータルの経済成長にプラスになる」という「新自由主義思想のトリクルダウン幻想」を支持するような奇怪な結果が導き出されたりする訳です。周知のとおり、この考え方こそが「金融市場・投資原理主義」を後押しして、今回の「大金融パニック」の一因となったことも間違いがなさそうです。 従って、<ノーベル経済学賞の受賞史>も政治思想や時代背景の影響を受けることは避けられず、例えばハイエク(1974)とフリードマン(1976)の受賞は市場原理主義(市場重視派)の始まりを画した出来事となったことも、良く知られ事実です。 しかし、今の我われは、かつてフランク・ナイト(Frank Hyneman Knight/1885−1972/ミルトン・フリードマンの師にあたるシカゴ学派(市場重視派)の創始者)が次のように語り、特に一つの経済思想へ急傾斜する危険性を警告した事実を想起すべきです。 ・・・『一つの分野を論じるにあたって、その分野を重視しすぎないように警告するのは異例のことだ。しかし経済学の場合には、その分野の重要性を説明し、強調するのと同じくらいに、そう警告しておく必要がある。』(出典:下記★) ★チャールズ・R・モリス著、山岡洋一訳『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか/信用バブルという怪物』(日本経済新聞社) ともかくも、このシュピーゲルの記事『資本主義の危機(Capitalism in Crisis)』は、冷静かつ客観的に「大金融パニック」とドイツの「構造改革」(アジェンダ2010/日本の小泉構造改革に相当/参照、下記◆)の共通原因(過剰な金融市場原理への暴走)を探り、しかもドイツ国民への温かい眼差しを忘れず、未来への可能性をすら示唆する優れたジャーナリズムの論考となっています。さすがに、論理学・自然(哲学)・精神(哲学)を壮大な視野で統一的に捉えたヘーゲルの国、ドイツのジャーナリズムだと感心させられます。 ◆海外レポート「ドイツにおける構造問題と構造改革に向けた動き」(日本銀行)、http://www.boj.or.jp/type/pub/nichiginq/out054.htm なお、当内容と併せて下記▲を参照してください。当ブログ記事の一連の問題意識の範囲をご理解頂けるはずです。 ▲2008-10-14付toxandoriaの日記/民主党も“ウオール街ポンジー・ビジネス教”の狂信徒か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081014 ▲008-10-08付toxandoriaの日記/日本の民主主義を退行させた“小泉劇場&民放TV(マスゴミ)”の妖しい関係の罪の重さ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081008 ▲2008-10-01付toxandoriaの日記/“麻生マンガ内閣”がひた隠す日本特有の“世襲議員内閣制”に潜む衆愚国家・日本の深い闇、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081001 ▲2008-09-20 付toxandoriaの日記/米国型「市場原理主義」の「狂信徒集団」たる経団連&自民党の“錯誤 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080920 ・・・・・・・・・・ ■資本主義の危機(Capitalism in Crisis) Spiegel Online 2008.10.8 by Dirk Kurbjuweit ここ暫し、「市場(市場原理型資本主義)への信頼」と「市場への政府干渉の排除」が重要だと標榜されてきたが・・・、短期で金が稼げる方法に気づいた無責任な銀行(投資)経営者らは、その方向へドッとのめり込んでしまった。そして、今や、彼らの失敗が我われの身に降りかかることとなり、一般市民の利益は「民主的資本主義への信頼(信用)」とともに雲散霧消した。 10月2日(木曜日)の午前9時、ドイツ政府の要人らが東へ向かう機中(米国のエアホースワンに相当する独空軍機エアバスA310/一時間半前にベルリンのテーゲル空港を離陸)にあり、その目的地はロシアのセント・ペテルスブルクであった。乗務員は、いつもの量が多めの朝食(オムレツ、肉、冷野菜、チーズ、蜂蜜)をサービス中であった。 その飛行機には、世界の中でのドイツの地位を決定する立場の人々が多数乗っており、それは、ドイツ首相と六人の国務大臣、シーメンス・ドイツ鉄道などメジャーなドイツ企業のトップたち、そして多くのジャーナリストらであった。その機内に銀行家たちはいなかったが、彼ら銀行家の存在は、そこで行われた討議と参加者たちの心の中で大きな位置を占めていた。 朝食が終わると、アンゲラ・メルケル首相はオフレコ会見のためジャーナリストたちを飛行機の前の方へ招き寄せた。総勢で25人のジャーナリストは狭い室内で押し合いへし合いとなり、その何人かは床に座る羽目となった。会見を始めるため、音声記録を止めてとメルケル首相が言った。 彼女は先ずロシア問題について語り、次いで、「米国発の金融危機」について語り始めた。会見室の中にトイレがあるため、その規則的な水音が聞こえてきたが、ジャーナリストたちは真剣な面持ちで質問に集中し、メルケル首相はそれに丁寧に、しかし短く答えた。一言ひとことが国家的な重大事を意味していた。 政治家のポーカー、ジャーナリストのブラックジャック 同時に、経済相ミヒャエル・グロスはドイツ企業の首脳たちと会見していたが、ここでも一同は非常に真剣で、その会見の場は重々しい空気に包まれていた。が、 “ドイツは良い方向へ向かいつつあり、非常に困難な問題解決の目処はついた”という確信を彼が持っているという印象を、その場を目撃した人々に対し十分に与え得るようなエアバス内の雰囲気であった。 しかし、これとまったく違った場面を描くことも可能だ。例えば、飛行機の座席を取り除いて代わりにギャンブル台を据えつけ、政治家たちの前ではポーカーができるよう準備し、企業経営者らの真ん中にはルーレットを置き、その後ろのジャーナリストたちへはブラックジャックのトランプを用意する。そこで、彼らはみな上着を脱ぎネクタイを緩める。何人かの額には玉の汗が噴き出し、室内には緊張が走る。そして、彼らは飛行機が墜落するまでゲームに没頭することになる。 この図解はとんでもない見当違いか? それとも、これは真実の“巣穴”か? 一つハッキリしていることがある。それは、一握りの人々が熱中したギャンブルのドンチャン騒ぎのおかげて、今や、全世界が大破滅の崖っぷちへ追い詰められ激しくA310がグラついていることだ。このギャンブラーたちは不良債権へ賭けた掛金を失ってしまい、多くの銀行が倒産しかかっており、金融派生証券類を抱え込んだ多数の企業が流動性不足で倒産の危機に瀕している。そして、投資家たちは彼らの蓄えを失い、不景気が着実に接近中である。 然しながら、今回は危機的停滞と悪化状態というよりも、経済の安定・均衡における“より切迫した何ものかの空気”が世界中に漂っている。その根本問題は、世界が「賭けそのものの危機」(=その詐欺的な本性の暴露)に晒されているということだ。しょせん市場経済は度が過ぎたギャンブルへの誘惑であったというのだろうか? 一体全体、市場経済をシッカリ組み込んだ民主主義の原理は何だったというのか? それは、西洋が自信を持って世界に普及させようとしてきたコンセプトではなかったか? つまり、この「民主主義の根本理念」までもが危機に瀕しているという訳だ。 突然、あらゆる恐ろしい出来事が起こりそうに見えてきた。どの銀行がメルトダウンするのかは誰も分からない。その結果が実体経済へどのような災忌をもたらすのかは誰も分からない。ウオールストリートのギャンブラーたちがどれほど巨大な危機を密かに創ったのかは誰も分からない。何が原因でそんな恐ろしいことが起こったのかについても、詳しくは誰も分からない。喩えれば、それはアフリカの湖で小さなボートに乗っているようなものだ。訪問者たちはその湖面の下に巨大なワニが潜むことは知っている。しかし、そのワニの数がどれだけかは誰も分からないし、それどころか、その恐ろしいワニがどれ程の大きさであるかも誰も知らないのだ。 銀行のための福祉・救済 今、世界中の人々が市場のすべての信用を見捨てることがないように、市場のパニックが爆発しないようにするための果敢な努力が行われている。もちろん、それが成功するかどうかは、この世界的な出来事の出演者と観察者ら(企業経営者、政治家、ジャーナリストなど)が真剣にそれに取り組むかどうか、あるいは、しょせん彼らも只のギャンブラーであったのかどうかに懸かっている。 ここ暫くは、今まで我われが理解してきたとおりに、この世界を認識することは困難だ。アメリカの数多くの金融・財務制度が、この金融パニックからアメリカを救うための努力を続けてきたし、今や、アメリカ政府は自国の全ての金融セクターを苦境から救出するための行動に取み中である。アイスランドは、その国家そのものが破産の危機に直面している。ドイツでは、スタインブリュック財務相がHypo Real Estate(ミュンヘンに本部を置くドイツ第二位の金融機関)の破綻救済に350億ユーロを投入する仕事に急いで取り組まねばならなくなり、ヨセフ・アッカーマン(ドイツ・バンクCEO/かつて、彼はドイツで最も野心的な資本主義のチャンピオンの一人)は、ドイツ政府に対し最高度の銀行救済措置を実行するよう求めている。 “何時の日か、アッカーマンが「政府の助けを求めるドイツの失業者と低賃金労働者ら貧困な人たち」の仲間入りをする”などということを考えた人は、今まで誰もいなかったはずだ。これら貧しい人々は、政府が彼らを経済的苦境から救い出してくれることをとても長い間にわたり待ち望んできた。しかしながら、個人の「自由と能力」を重んずる人々によってアッカーマンが理解される一方で、これら貧しい人々は彼らがだらしがないからそうなったのだと言われてきた。しかし、今度は、我われ一般国民(納税者)がアッカーマン(の会社)を経済的苦境から救い出すことが期待されているのだ。 2003年から2005年頃をふりかえると、今のこの状況が“狂気じみたものであること”が理解できる。当時は、社会民主党(中道左派)のゲルハルト・シュレーダー首相が、彼の「アジェンダ2010」に沿って包括的な構造改革計画を推し進めていた。長期の失業手当は廃止されることとなり、失業した人々は、「Hartz4」として知られる新社会福祉政策によって彼らの失業手当が間もなく縮小されることを理解していた。 その当時の「経済」についての議論は、政府の干渉を制限しようとする新保守主義的な資本主義者らによって牛耳られており、当時はネオリベ(新自由主義思想)を信ずる人々(=“個人と自由市場”の強さを信ずる人たち)の絶頂期であった。政府という言葉は、事実上、ハラスメント・窒息・非効率・自由不足などと同義であり、規制緩和(デ・レギュレーション)という言葉は、現代の夢を叶える「魔法の公式」であった。 “我われを信じてくれ”と、政治家と経営トップたちは言ってきたはずだ これが、政治家と経営者とジャーナリストらが演奏する「アジェンダ2010」のテーマ・ミュージックだった。それは、個人主義の栄光を最高に称えつつ歌え上げ、政府の役割を呪詛する、きわめて単純明快で勧善懲悪的な考え方のお祭り騒ぎのようなものだった。 しかし、「アジェンダ2010」は、有効性が限られた処方箋だった。それはもっと先へ進むはずであったのだが、改革はそれ以上先へは進まなくなった。実際には、その構造改革は、未来への希望を託したドイツの新たな医療改革の準備のため「構造改革による政治の方向」を抑制しなければならなくなった。 「アジェンダ2010」は、政治家たちと産業界の利益のための<密約>のようなものだったのだ。失業者と労働者たちは、そのことを知らぬ立場に追いやられてきた。その<密約>の処方はこうであった・・・。『我われには痛みが伴い、ある程度の安全装置は解除されるかもしれない。しかし、近い将来に我われは何らかの見返りを受け取ることになるだろう。つまり、これら何がしかの既得利益の放棄は、これからの経済を浮上させ、その成長を促し、我われのための仕事を創造することになるだろう。』“だから、我われを信じて欲しい、この「構造改革の処方」を信じて欲しい”と、政治家と経営トップたちは言ってきた。 初めのうち、この新たな「構造改革の処方」は成功するかに見えた。過去数年にわたり、ドイツの経済は再びより強い力を取り戻し、失業者数は520万人(2005年2月)から300万人(2008年9月)へ減少した。この成功は「アジェンダ2010」と「低賃金を改善したいという労働者の意志」のおかげだと言えよう。 湖面の下に潜んでいた巨大なワニ しかしながら、「アジェンダ2010」の実行段階になると、その公正さの確保についての疑問が次第に頭をもたげ始めた。実質賃金が低下する一方で、「投資への配当と企業利益」が急上昇し始めた。同時に、「貧富の格差が拡大」して「中間層の没落傾向」が出始めた。 多くの人々は、「経営内容の割には巨額の収入を約束された多くの経営者たちの存在」という不公正に怒りの声を上げるようになった。周知のとおり、ドイツ・ポスト(Deutsche Post/1990年代に赤字だったドイツ・ポストを最高経営責任者クラウス・ツムヴィンケルが黒字逆転をした株式会社/1995年に民営化)のクラウス・ツムヴィンケルは、ドイツの税金を逃れる(脱税する)ためリヒテンシュタインのファンドに金を預けていたかどで刑事告発され失脚した。 <注記>クラウス・ツムヴィンケルは、小泉政権下の2005年1月に来日し官邸で基調講演をしており、「日本の郵政民営化」を声高に主張し、煽った人物。 ドイツの新聞紙上で『アメリカン』という言葉は“貪欲さ”を手短に表す代名詞となってしまった。多くの経営者たちは年に1千万ドル(約10億円)以上の『アメリカンの報酬』を要求した。彼らは自らの会社に対して『アメリカンの稼ぎ』を計画させ、アッカーマンは前年比25%の利益増を目標とさせるようになった。ドイツの貯蓄家たちは、自らの投資行動について『アメリカン・アプローチ(貯蓄から投資へ)』を推奨された。預金口座と国債は時代遅れとなり、ハイリターンが約束されるギャンブル性が高い株式(金融デリバティブ)関連への投資が大流行となった。 ドイツのビジネス慣行は「新保守主義と不寛容さ」の類に顔をしかめ始めた。つまり、魅力的な投資は、青天井への期待とリスクを取りつつ市場で果敢にプレイする意欲を人々へ要求するようになったのだ。“アメリカ人たちのようになろう!”・・・これが、ドイツの銀行とドイツのトップ企業の経営者らの基本原則となった。彼らは、大西洋の反対側(=アメリカ)で行われていることをマネしつつ上機嫌でプレイした。何のことはない、彼らは、“アメリカ人たち”と同じ様に“格付けが低い家主を原資として高い配当を約束”する「素晴らしいデリバティブ証券」類を買い漁っていたことになる。 巨大なバブルの創造 ドイツの銀行家たちはギャンブラーになってしまった。彼らは、ずっと以前からアメリカで始められていた「投資ゲーム」へ参加することになった。彼らは、実体経済と微塵だも関係がない証券類を買い漁り、「自らの世界」の中での繁栄を謳歌した。それは「数字で創られたヴァーチャル」(仮想の世界)だ。すなわち、そこでは巨大なバブルが際限なく創造され、成長していたのだ。 そのゲームのプレイヤーたちは「実在世界」との接点を見失った。自らを養うだけの実際の収入(=実体経済からの収入)がないにもかかわらず、多くのアメリカ人たちが家を持ちたいと願った。そのような彼らが住宅ローンを容易く受けられるようになったとき、そこに現れたのが『詐欺的ビジネス』(マルチ的なポンジー・ビジネス)だった。その詐欺的仕掛けの理解は難しくなかったのだが、これらのリスクから大きな利益を得ることができないことをギャンブラーたちへ警告することに、我われは失敗した。 その一つの訳は「貪欲」ということであった。もう一つの理由は、重大で深刻な結末を敢えて無視しつつ新たな可能性を切り開こうとする「欲求」の存在である。 最近のことだが、ベルリンのラジオ局で、ある訪問者が“29歳の成り上がりのアメリカの銀行家”について語っていた。その話は直ちにある人物像を思い描かせた。つまり、それは完璧でピシッとした髪型と立派な身なりの男で、しかも、彼は“豊かな知性に溢れており、世界を変革する野望に燃えた人物”のイメージである。しかし、その時、既に多くの、あらゆる種類の金融派生商品の実質的価値は毀損し、ひどく失われていたのだ。これらの金融派生商品は大分前から工夫されてきたものであり、定義上、それらは現実世界との結びつきを持つとされていた。 ともかくも、そこでは絶えず現実の先を行く“少しでも新しい何ものか”が存在しなければならなかった。しかし、これら野心的な新しいタイプの銀行家たちにとって、彼らの心に次々と浮かんでくる“少しでも新しい何ものか”を金融商品にでっち上げることは知性豊かな彼らにとって難しいことではなかった。やがて、我われは、“本当は誰も欲しがりはしないはずの、殆んど誰もその仕組みが理解できないような、今までとは全く異質な種類の奇怪な金融商品を所有することになった。やがて、その今までとは異なった種類の金融商品は、ただそれが“そこにある”という理由だけで、そして“もちろん、それは豊かな将来の富を必ず約束する”という前宣伝で市場を漂い始めた。これが、勇敢で立派な「新世界創造の物語」である。 しかしながら、ここではグローバリゼーションのプロセスがもたらす二つのレベルの恐怖のシナリオが垣間見えていた。一つは実体経済のレベルのことで、それは、より大量の貿易活動がより広範囲で活発化することであり、それは「仕事、繁栄(金銭上の成功)、世界の資源を使う権利」を巡る、より厳しい競争が伴うことになった。個人にとって、これは十分に恐ろしいことに思われるかも知れないが、それはグローバリゼーションの宿命で避けられない訳であり、これは、ある程度の理屈が通ることである。 グローバリゼーションの「秘密の支配者」たち もう一つのレベルはまったく異様なもので、まさにそれは『大ワニが潜む湖』だ。湖面が静かなので、我われは、そこに何も見えない。しかし、その陰気な湖面の下には計り知れないほどのハプニングが隠れている。“成り上がりの銀行家”らは、こっそりと彼らのための“蜘蛛の糸”(ウエブ)を紡いできた。彼らは世界中の国々へリンクを張り巡らすため金融派生商品のセールス活動を、静かに、何の規制も受けず、電子技術(IT技術)を使って行った。彼らこそ、グローバリゼーションの「秘密の支配者」たちだったのだ。彼らは、もう一つの「秘密の世界」を創ったのだ。 我われは、今回の金融パニックが起こるまで、この「新しく創造された秘密の世界」の存在に気づいていなかった。しかし、今や、それは余りにも遅すぎた。なぜなら、世界中の物事が相互に緊密に連結し合っている、IT型のローバリズム時代だからこそ、このカタストロフは世界の均衡状態を直ちに壊し始めたのだ。 少なくとも何人かの“成り上がりの銀行家”たちは、今回の激しい“災忌”によって失脚してしまった。数個のダンボール箱を両脇に抱えて高層ビルのオフォスから歩いて出てくるテレビ映像で彼らの姿が印象づけられた。しかし、迅速な対応で生き残った銀行家らが大勢いる。彼らは柔軟な対応が必要であることを学んだのだ。そして、彼らは、“昨日の真実は今日の真実でない”ことも学んだ。掌を返すように、彼らは自らの保護・救済を政府へ求めており、自らに対する政府の援助を要求している。しかも、彼らは今回の“災忌”についての責任を問われる不安を感じていない様子だ。 ドイツ政府は銀行の全てを救済するための計画に直ちに着手すべきではないという理由で、多くの銀行経営者たちが国民からの非難を浴びている。彼ら銀行家たちは、今まで決して慎み深い存在ではなかった。というのに、なぜ今すぐに彼らの救済に着手しなければならないのか? 無論、国民は計り知れないほど巨大な金融クラッシュの危険が身に及んでいることは承知している。だから、いつ折れるか分からない細木(彼らが自分自身で漸く認識できた危うい立場)の上で不愉快な堂々巡りのダンスを踊っているようなものだ。無論、彼らは、アイルランド地盤の銀行Depfa Bank(Hypo Real Estate Holding AGがアイルランドで買収し免税のメリットのため同地で子会社化した)をドイツ国民の税金で救済しなければならないことは理解している。 今や、政府の介入に対する最大級の懐疑論者たちが政府の支援(救済)を受けることになるのだが、もしドイツの巨大な投資会社の一つが破綻した場合にどのようなことが起こるかは誰も分からない。だから、これは賢明な決断ということになるのだろう。しかしながら、これらの“怪物たち”(銀行家ら)には一切の謙虚さも、節度も、釈明もないのに、なぜ彼らを支援・救済する(不良債権を買う)ことになるのか? 過去5年にわたり慎ましい収入で生活し、自らの失業の恐れから逃れられなかった人たちは、このことをどのように思うだろうか? 彼は「アジェンダ2010」の“痛みの部分”に耐えて生活してきた訳であり、彼らにそれを避けるだけの選択の余地はなかったのだ。エネルギー価格が急上昇するなかでの低賃金、「Hartz4」で追い詰められた厳しい福祉環境の下での生活、これらの厳しい現実こそが彼らの全てだった。 密約(国民に見えない不正取引)の終わり しかしながら、今や、その「ヴァーチャル世界」(ギャンブラーと化した銀行家らが利益を貪った世界)が「現実世界」(実体経済)へ流れ込み始めている。すなわち、巨大なワニが陸へ這い上がり始めているのだ。リセッション(景気後退)が次第に姿を現しつつある。“成り上がりの銀行家”たちは、そこで彼の仕事を終えたのかも知れない。“かなり美味しい勝負はもう終わったゾ”という暗黙の了解を“賭場のヤクザのディーラー”が求めたような状態であり、それは「アジェンダ2010」(2003年の密約/財界(金融界・大企業経営者)、政治、御用ジャーナリズムらの蜜約)の終わりの宣言かも知れない。 この結末はどうなるのだろうか? この男たち(成り上がりの銀行家ら)は、決して「グローバリゼーションの親友」(グローバリゼーションを本当に活用できる人々)にはなれないだろう。彼にとって、グローバリゼーションとは“全くの神秘がもたらした千載一遇のチャンス”であり、ダーク・フォース(Dark Force/魔力のようなもの)であったということだ。彼らは、今や、「正しいグローバリゼーションの形成」(Shaping Glogalization)を支援しようなどとは露ほども思っていないはずだ。 それどころか、彼らは新しい“密約”に同意するかも知れない。どうして彼らはそんなことをするのだろうか? 彼らは、その賭場のシステムのなかでは彼ら自身の信用を失ってしまったはずなのだが、必然的に新しい“密約”が再び生まれる可能性があるのだ。なぜなら、今度のリセッションは国家予算を再び大混乱のなかへ注ぎ込むことになるので、社会的サービスを供給するためのコストが急増すると考えられるからだ。もし、そこでニュー・ディール政策(経済復興と社会政策のための新たな政策)への取り組みが行われるならば、彼らは再び街へ繰り出し、デモンストレーション(投資勧誘への)を始めるかも知れない。 「アジェンダ2010」を徹底的に実行することは、かなり困難だった。しかも、現在の金融危機はドイツの構造改革を不可能なものとしつつある。もはや、“全ての人々の利益のため我われは今の痛みに耐える努力を続けなければならない”という政治家の言葉”を真に受ける人は殆んどいないだろう。今や、もし“自由市場原理主義こそが、我われに未来の最善の結果をもたらす!”とブチ挙げる政治家がいたら、多くの国民は大声で笑い始めるかも知れない。 この金融パニックの大混乱をもたらしたギャンブラー(銀行家)たちと、自らの幸福を実現できると思って非現実的な世界をでっち上げた人々(金融工学の技術者など)は同じ人種ではない。ギャンブラーは、現代において最も優勢な、どこにでもいそうなタイプの人物像の一つである。彼らは、オンライン・ゲームで擬装してほらを吹いたり、偽名でラブレターを書いたりするインターネット・フリーク(インターネット狂)という人種なのだ。喩えれば、彼らは、ドーピングの違反性についての知識がありながら、スポーツのパフォーマンス効果を高めるドラッグを敢えて使うアスリートのような存在だ。 しかも、政治家たちも本質的にギャンブラーである。彼らは、権力を伴うギャンブルに大きな喜びを感じる人たちなのだ。このことは特に悩ましい問題だ。なぜなら、金融ギャンブラーらがもたらした“大混乱(金融パニック)を収めるべき政治家たちもギャンブラーだ”という構図になっているからだ。 「政治のギャンブル・ゲーム」は次のように進行する。・・・『先週の木曜日のセント・ペテルスブルク、独露代表団のワーキング・ランチから戻ったドイツの外務大臣フランク=ヴァルター・シュタインマイヤーは不愉快な面持ちだった。“ドイツ大使館の儀礼には、その決まった方法があるのだから、どうするかは私に聞かないでくれ。” 彼はロシア大統領メドヴェージェフとドイツ首相メルケルと一緒のテーブルに就くことが許されなかったため不機嫌であった。』 現実世界への着陸 シュタインマイヤーは侮辱されたと感じたのだが、実際には、大使館(ドイツ政府・保守派の指示を受けた)が恐らく一計を謀ったのだろう。しかし、今、この金融パニックの時だというのに、彼らは他の大きな問題を抱えることにならないのだろうか? 政治家たちは自らの世界を構築する技術に非常に長けている。それは、“現実の世界で実現が困難なことがここでは前進する”と彼ら自身が感じる“居心地が良いヴァーチャル世界”であり、そこで彼らは権力を発揮・行使する。もちろん、権力闘争は一次元上の政治に従属する。しかし、現在の社会民主党とメルケル支持の保守派の政治家たちが作った大連立政府では、時折、連立仲間で優勢な方の政党が“政治は抜け目のない権力闘争以外の何物でもない”ことを実証し、周囲へ印象づけることがある。 もし、メルケル首相と外務大臣(そのシュタインマイヤーは来秋の総選挙で社会民主党の首相候補とされる人物でもある)が“隠し切れぬほど自らの立場に有利となる場面での小さなゲーム”に政治家としての勝負を賭けるとするなら、それは国民一般にとっては不幸なことだと言えよう。むしろ、彼らはリセッション(景気後退)へ落ち込みつつある現実の世界をどのようにして守るかについての議論、あるいはドイツ労働市場の新たな回復政策についての公正な討議を率先実行すべきだ。来秋の総選挙のための選挙キャンペーンの場面は、2009年の夏には必ずやって来るのだから。 マスメディアの世界にも、非常に多くのギャンブラーたちがいるが、彼らは必ずしも「公正や適正」ということについて関心がある訳ではない。 破滅への縁をさまよう間に、我われは次のことを思い出さなければならない。つまり、政治家・銀行家・経営者・メディア関係者らにとって大切なのは、彼らが、自らのビジネスの発展と成功を祈るよりも、もっと果敢に挑戦すべき社会的目標があるという自覚を持つことだということである。つまり、それは我われには「民主主義」と「自由市場経済」を安全に保守すべき責務があるということでもある。 国家・ビジネス・金融の三つの世界を適切な「制御と自由」によって均衡・バランスさせることは、この目的(「民主主義」と「自由市場経済」を安全に保守すべきだという)に到達するための重要なステップである。しかし、このことを可能ならしめるのは、特に目新しく面白い言葉などではなく、いささか古びた「真剣さ(seriousness)」という言葉である。 だから、我われはギャンブルのテーブルから離れて、再び、エアバスA310のギャンブラーではなく「人間が座る座席」に戻ろうではないか。そして、我われが住む「現実世界」への着陸に備えてシートベルトをしっかりと締めようではないか。 |