メルマガ:憂国通信
タイトル:憂国通信  2008/08/12


東条英機の手記発見 戦争責任を転嫁 


東条英機元首相の終戦直前の手記見つかったと日経が報じた。

≪太平洋戦争開戦時の首相、東条英機陸軍大将が終戦直前の1945年8月10日から14日の間に書き残した手記が国立公文書館に所蔵されていることが分かった。≫

要するに、存在は判っていたけれど、公表していなかったようである。逆に考えると、今頃になってどうして公表することにしたのか?
何やら思惑を勘ぐらざるを得ない。

手記では終戦に反発し、ポツダム宣言受諾に至る背景として「国政指導者及び国民の無気魂」を挙げるなど責任を転嫁、軍人の論理に固執する考えが見られた。 
東条元首相の手記はA級戦犯被告として巣鴨拘置所で書かれたものがあったが、終戦間際の手記の存在が明らかになったのは初めて。 ≫

東条氏がこの程度の発想の人物であることは既に知れている。ヒットラーやムッソリーニよりも小物である印象は免れない。

≪手記は政府が8月9日にポツダム宣言の受諾を決め、翌10日に首相官邸で開かれた首相経験者などで構成する重臣会議の質疑内容から始まっている。手記には「屈辱和平、屈辱降伏」「新爆弾に脅えソ連の参戦に腰を抜かし」などと、当時の鈴木貫太郎首相ら政府指導者を批判する言葉がつづられている。(中略)≫

株で失敗した中小企業のオヤジといったところである。悪い時期に総理になったものだ。今現在なら彼が総理大臣でも違和感はないかもしれない。

≪東条元首相は「メモ魔」といわれたほどきちょうめんな性格で、東京裁判の法廷でも常にメモを取っていた。そのメモなどをもとにして裁判では長大な口述書が提出されている。また後年、A級戦犯として巣鴨拘置所で書かれた「獄中記」の存在も明らかになっている。 (中略)
今回明らかになった終戦直前の手記にも同様の主張が述べられているが、終戦を前にした生々しい感情はこれまでの文書には記されていなかった。手記が書かれた時期は沖縄戦に敗北後原爆投下、ソ連の参戦が続く絶望的な状況だった。陸軍上層部も表面的には本土決戦を呼号 していたが、「一度大勝利を挙げてからの講和」という認識だった。 

しかし、手記には「(日本は)持てる力を十二分に発揮していない」と、なお戦争継続が可能と信じている記述がある。裁判対策として「論旨明快」に書かれたものではなく、本音がもろに出ているだけに、戦争を指導した人物の視野の狭さと認識の甘さがよく分かる文書と言える。≫

記事のまとめ部分は全く同感である。これを強調し、東条氏を貶めるのが目的でこの手記を公表したであろう事は想像に難くない。日経はそのお先棒を担いだのである。
日経は産経同様右寄りな新聞である。商業右翼の中でも東条氏に対する評価は割れている。今回の記事を見るまでもなく東条擁護派はずっと少数派だった。利に敏い商業右翼の連中ことだから「敗将を崇めても得なことはない」と割り切っているのだろう。参議院選で東条氏の孫が立候補したが商業右翼どもはものの見事にスルーしていた。
                 
東条氏が軍人としても政治家としても有能ではなかったことは歴史が証明している。彼の責任に関しては、先にも述べたように「ヒットラーやムッソリーニよりも小物である」ゆえに彼らほどは重くなかったと考えられる。
統率権の比重が相対的に軽かったのである。戦争突入時の状況は、東条の個人的判断ではなく軍部の集団合議によってなされたと見るべきだろう。
「明確な意志もなくずるずる行っちゃった」と言うべきだろうか。横断歩道みんなで渡れば怖くない(Byビートたけし)の精神である。

敗戦濃厚になると支配者どもは責任逃れの小田原評定に入り、そのため、終戦が長びき、戦争犠牲者が2倍以上に増えたのも事実である。


 記事が面白いと思ったら下のURLをクリックしてくだされ!! 
<(_ _)>
↓人気blogRanking 
http://blog.with2.net/link.php?312621

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。