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[机上の妄想]映画『幻影師アイゼンハイム』が“現前”させる現代日本「シミュラクル社会化」の病理 2008.6.25 <注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080625 映画『幻影師アイゼンハイム』 [f:id:toxandoria:20080625182434j:image] ・・・公式HP、http://www.geneishi.jp/より(全国でロードショー中) ●6 月23日に政府の「財政諮問会議」が、“経済財政運営の基本方針(骨太方針08)”の原案を取り纏めたことが報じられています。例えば、6月24日の日本経済新聞は“歳出削減路線は堅持する一方で消費税率引き上げを含む税制改革の実現時期には踏み込まず、道路特定財源の一般化など福田首相の指示をなぞっただけの項目が多い”と書いています。しかも、小泉政権いらいの市場原理主義の旗印を方向転換したとは一言も書いてありません。 ●無論、消費税率引き上げを含む税制改革の議論の前に絶対やるべきことがあり、言うまでもなくそれは歳出から徹底的に無駄を省くためのアクション・プランを設計して、国民の前に堂々と示すことです。関連して、「天下り・官製談合・公務員制度などの改革(特に縦割り行政絡みのムダの排除)・補助金行政からの無駄の排除・防衛費の見直し・政党交付金の見直し・国会議員歳費の見直し」など具にスポットを当てればいくらでも無駄な部分が見えてくるはずです。 ●また、「財政諮問会議」の存在感は薄くなり、その「司令塔」(大本営機能)の役割が低下しつつあり、高齢者・医療・少子化対策などを社会保障費の抑制目標(年平均2,200億円)の埒外に置くという一種の「聖域化」を容認したとも報じられています(情報源:同日付・毎日新聞)。しかしながら、それにもかかわらず、これら「聖域化」した社会保障の財源をどう確保するかという部分は明確に書かれていません。このため、この「骨太方針08」の原案は、つかみ所がなく曖昧模糊として非情に分かりにくいものとなっています。 ● 例えば、「医療崩壊の現状」を解決するためには、市場原理主義に基づく米国型の医療体制の模倣ではなく、国民皆保険制度の原則を明言して先ず国民へ安心感を与えるとともに責任ある日本政府としての独自の視点に立ちつつ、後期高齢者医療制度の小細工ではない根底からの見直し、診療報酬配分の見直し、研修医制度の改革、公的病院と個人病院の連携方法の再構築など、医療・保険制度の全体ににかかわる新たな見直しの方向性を、より幅広く、より具体的に書くべきです。 ●また、同日付の日本経済新聞は某与党関係者の次のような発言を掲載しています。・・・小泉政権なら、与党がいくら反発しても政権は倒れないという安心感があった(つまり、幻影師(ペテン師)小泉の看板で国民を騙すのは容易かったということ?)。福田政権に本気で抵抗すれば、自民党政権が崩壊する不安がある。・・・これほど一般国民(特に有権者層)を小バカにした話があるでしょうか?これでは、現実に「選挙が戦えない支持率最低の福田政権」の余命を引き延ばすため、いわば自公連立政権の「延命装置」として、姑息にも、わざと意図的に分かりにくい“ 経済財政運営の基本方針(骨太方針08)”の原案を作ったのではないかと疑われても仕方がありません。 ●さらに視点を転じれば、“現代の日本社会が、国民主権を守るための誠意がこもった理念の説明や本物の行政サービスの提供などよりも、偽装的・仮装的・人工的な代替物で満足する人々が増えているので、言い換えるならば、ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard/1929-2007)が指摘したとおりの「真実や本物が滅亡した社会」へ向かうという意味でのシミュラクル社会化(仮装社会化/Simulacres et simulation、1981)しつつあることを見抜く御用学者らの入れ知恵で、現政権のために、このように姑息な「延命装置」が施されたのではないかとさえ思われてきます。 ●そして、このような一種の政治権力の暴走化が軽く見過ごされてしまう背後では、つまりあらゆる階層(政治家や高級官僚らも含む)の日本国民を巻き込んだ「リアリズム認識についてのバランス崩壊現象」が起きつつあるのではないかと思われます。 ・・・・・ ●が、この続き(「リアリズム認識についてのバランス崩壊現象」の具体的内容)は以下に転載する[2008-06-18付toxandoriaの日記/「市場原理に犯され続ける」日本政府の愚鈍と「アイルランドの“ノー”に目覚めるEUの知恵、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080618]に対するコメント&レスをご参照ください。 ● この「リアリズム認識についてのバランス崩壊現象」ということは、現在、全国でロードショー中の映画『幻影師アイゼンハイム』の観賞でヒントを得たものです。この映画は19世紀末のウィーンで、つまりハプスブルク帝国末期のウイーンを舞台に暴政化した政治権力、ミステリーの謎解き、主人公らのラブストーリーの三要素が複旋律(ポリフォニー)を奏でる秀作です。 ●なお、ネタバレになると、この映画の本当の面白さが半減するおそれがあるため、敢えて詳細なストーリーの説明は省きます。機会があれば、是非とも『幻影師アイゼンハイム』の観賞へ出向かれることをお勧めします。 ・・・・・以下、[2008-06-18付toxandoriaの日記/「市場原理に犯され続ける」日本政府の愚鈍と「アイルランドの“ノー”に目覚めるEUの知恵、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080618]に対するコメント&レスの再録・・・・・ ロキ 2008/06/18 18:33 こんにちは。「人類猫化計画」のロキです。 私もこのアイルランドの「ノー」に注目しましたがどうしても岩手・宮城大地震のニュースの方に心が傾いてしまいました。 EU内での造反と平行して、米英の一国覇権に対抗する動きも静かに拡大しているようですね。 この非米の動きについて、私も以下のように書きました。 「エカテリンブルグにロシア・ドイツ・インド・中国・ブラジルの外相が集結」 http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20080521.html toxandoria 2008/06/18 21:08 ロキ さま、コメントありがとうございます。 「岩手・宮城大地震」については、震源地から約60km位(南へ)の場所に住んでおりますので他人事ではありません(震度5)でしたが、幸いにも被害がなかったのでアイルランドの「ノー」に直ぐに目が行ってしまったしだいです。 EUの盟主的な役割を担いながらも、ドイツとフランスの立場・ホンネ・役割は微妙に違うと思っています。特に、リスボン条約の集約についてはドイツ・メルケル首相の貢献度が大きかったので、本当のところドイツは大きなショックを受けているはずです。 また、米国とEUの関係も一筋縄では見えない駆け引き、覇権争いなどがあるようですし、EU内における独仏の枢軸と英国(&アイルランド)の絡みも、法制や歴史的な背景の違いもあることから、なかなか複雑な点があります。 いずれにしても、欧州には“紙一重のところ”で民主主義の根本たる人権を死守する(強く、大声に負けずに異議を申し立てる)というシブトさのようなものがあ ると思います。他方、我が国(国民性?)の大欠陥は、このような意味での“紙一重”のシブトさが存在せず、あるのはオール・オア・ナッシングだけです。だ から、直ぐに翼賛体制に飲み込まれるか、あるいは敵か味方か、右か左か、仲間か村八分かという「直情径行型」の話になってしまいます。 本物の民主主義(人権)は、常にライブ(現在進行形)のものであり、そのプロセスでの“紙一重”のせめぎ合いがあってこそ実現できるモノだと思います。欧州の伝統(EU)にはこれがあるから、まさに“紙一重”のところで米国一極主義に飲みこまれる危機を回避できるようです イオン (124.100.145.61) 『今晩は。イオンです。 あっという間に一週間が経ち、今、点滴、または薬物投与のエラーについてのETV特集に耳傾けながら、既に旧聞になった(申し訳ありません…)「続編」を書いています。これも権威とされる「聖域」を無くし、その情報公開、パブリック化をなるべく進めるという問題に関わるようです。これもToxandria様がここ二年程力説しておられる情報のアーカイヴ化に関係してくるのでは、と愚考しています。 ワイダ監督の特集ですが、映画検閲の党役人たちの議事録が紹介されており、とても興味深い事実が出て来たようです。名作「灰とダイヤモンド」についてなのですが、実はこの映画の原作では、暗殺される地区の党書記が主人公で、これがまず台本検閲では有利に働いたとの由です。また映画の最後にゴミ捨て場で若い暗殺者の主人公(マーツェクという名だったと思います)が死ぬ場面は、見る者の目に、権力闘争の空しさと惨めさ、それに巻き込まれた主人公の悲劇性を焼き付けさせますが、実はワイダ監督はそれ故にこそ、検閲官たちがこの映画を許可するだろうと考えていたといいます。 果たして検閲官たちは議事録によると、「党の敵は惨めな死を遂げる、この映画は大変気に入った」「暗殺者の惨めな死は党の敵は民衆の支持を受けられないことを示している、良い映画だ」と異口同音に映画を褒めて、許可したそうです。ここで私は、同じ題材を見せても立場が違えば、受け取り方は全く異なる、という単純な真実にあらためて気付かされ、殆ど衝撃を受けた程です。 あらためて指摘すべきはワイダ監督の正攻法の勝負に応えた党役人の感想の滑稽さです。全く民衆の視点から外れており、頓珍漢と言っていい程です。(ハーバーマスの著書のタイトルではないですが)関心のあり方が認識のあり方を決定するように思います。己れの好みの、己れに都合の良い見方のみに慣れ親しみ、それを他者に押し付ける権力者はリアリティーを正しく解釈出来なくなり、結局事実を示されても何も見えなくなります。恐らく右であれ、左であれ、強大な力を誇った為政者がその座から滑り落ちることがありますが、その原因の一つは情報が入って来なかった、あるいは入って来ても解釈が全く出来なかったというところにあるのでしょうか。 さて今夜のETV特集では、医療ミスの防止には、病院に「整理・整頓・しつけ」、「安全・効率・品質」をセットで管理する産業界の方法を導入すべしという考えが紹介されていました。しかし産業界でも不祥事が後を絶たないのを見ると、やはり組織の下部が上部を批判出来る、また情報を公開できる(内部告発も)文化とシステムの構築が無ければ、何れは機能不全になる可能性があるとも考えました。最後に「安全と経済は完全に両立する、安全を守るのは充分にペイする」と記者が行っていました。社会不安の大きな原因を作り上げながら、過酷な派遣雇用環境に安住してしまった一部の企業人にも聞いて欲しい言葉です。 ところでアルバン・ベルクの音楽に開眼されたとのこと、何よりです。後期ロマン派から現代音楽への移行期の音楽には、何か黄昏れ時か、夜明け時の淡く透明な光のきらめきを聴く思いです。確かに神秘主義者たちの切り詰められた言葉と思想の密かな輝きに通ずるところがあるかもしれません。また書かれたものに触発されアンゲルス・シレージウスの詩を最近、再読しています。 最後になりましたがいつも愚見を取り上げて下さり有り難うございます。また勉強させて頂きます。長文乱文にて失礼しました。』 イオン (124.100.145.61) 『上の第一段落「これも権威とされる「聖域」を無くし…」は「この医療ミスの問題も権威とされる「聖域」を無くし…」とあらためます。 「過酷な派遣雇用環境に安住してしまった」、これを「過酷な派遣雇用環境にあぐらをかいてしまった」とあらためます。お騒がせしました。』 toxandoria 2008/06/25 13:04 イオンさま、情報ありがとうございます。 我が国のアーカイヴの問題については、政府の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の中間報告全文が6月21日に明らかになり、あの「経済財政諮問会議」(市場原理主義の巣窟と化している 大本営司令部)が発する「骨太の方針08」にも盛り込む方針であることが報じられており、その動向を注目しています。→ http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080621-OYT1T00415.htm それによると、政治的な意思形成過程におけるやりとりに関する文書も最大限作成・保存するとして、政府の政策決定の透明性を確保するため途中経過も文書化して保存する方針を掲げ具体的な方策の検討を求めている、としている点は評価できるように思われます。 しかし、一方で何らかの形でアーカイヴに対する国の関与を強めることが検討されており要注意だと思います。 フランス革命後に創設された「フランス国立中央文書館」の理念(下記●)を参考とすべき(その啓蒙主義的な理念は世界中の文書館法の中で現在も生きている) と思われるにもかかわらず、我が国では単に国の関与をより強める方向へ傾けようとする政治的意図の窺えることが懸念されます(参照、 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306)。無論、我が国の過半以上の一般国民とジャーナリズムが、このこ とについて問題意識を持てなければが、最早、どうしようもないと言うことになりますが・・・。 ●役所が作成した公的な文書に限らず、民間資料も保存・管理の対象とする(民間側からの積極的な寄贈・寄託を受け入れる) ●フランスの一般国民は、このように定義された「公文書」の保存・管理を国家(政府)に要求する権利を持つ ・・・逆に言えば、フランス国民は「公文書」の保存・管理に積極的に協力する責務がある。 それに、政府の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の座長が尾崎護・元大蔵事務次官であることも気がかりな点です。なぜなら、財務省(旧大蔵省) が、重要文書(おそらく自らにとって都合が悪い)を本庁舎の中庭で燃やし処分していた(おそらく恣意的に)という“名高い話”が残っているからです。そう いえば、渦中の“居酒屋タクシー問題”も、この財務省が震源地であり、それもできればもみ消したかったはずです。 いささか観点が異なりま すが、7月14日付けの人事発令で法務省が八木宏幸・東京地検特捜部長を福井地検検事正に移動させること(後任は佐久間達哉・東京地検総務部長)が“小さ くヒッソリ”と報じられています(2008年6月24日・日本経済新聞/他紙の関連報道は未だ目にしていません)。おそらく、これで“防衛疑獄事件の政界ルート捜査”は幕引き(無事に一巻の終わり?を迎える)になると思われます。やはり、この類の権力的な“幕引き”や“もみ消し”に一般市民が対抗できると すれば、それは正しい意味でのアーカイヴの整備ということになります。 一方、アメリカのウエブ・メディアでは下記▼のような「ブッシュ政権についての検証」が行われています(この情報はluxemburgさんのブログ、http://luxemburg.blog112.fc2.com /blog-entry-76.htmlから入手)。例えば、日本のメディア界で、ブッシュ政権のピークにほぼ同期する「小泉劇場」について、ここまで真剣な検証報道が行われたことはないようです。その殆どはは断片的にテレビのニュース映像で見たことがあるものばかりですが、このように編集して見せられると小泉劇場時代の日本政府の“錯誤ぶり”が透けて見えるようで恐ろしくなるはずです。 ▼How did the U.S. government lead its people to war? A Mechanism for War. http://www.leadingtowar.com/ http://www.leadingtowar.com/mechanism_war.php ご紹介のあった“ワイダ監督の正攻法の勝負”は、やはりワイダ監督という天才的なレアリストの存在と、それに反応する(できる)時代の空気のようなものが あってこそではなかったかとも思われます。現代の日本人が、同種の映像を見てどのように理解するか(できるか)という点、あるいは医療ミスや偽装問題につ いても通底する過剰な自己中心意識の問題など色々と考えさせられます。偉大な芸術家と洗練された受け手の問題は永遠のテーマのようです。 ある元企業人の“病院に「整理・整頓・しつけ」、「安全・効率・品質」をセットで管理する産業界の方法を導入すべしと”という考え方も、見方しだいでしょうが、国民皆保険を放棄して戦前型の劣等処遇原則へ戻そうとする理念部分の誤謬がある限り、短絡的な意味でアメリカ型の「医療の効率化」へ走る恐れがあるような気がします。それは、経済的な観点から非効率な治療や病人・高齢者らを切り捨てるという方向です。従って、日本の政治・行政が反省し実行すべきは、ノウハウ的な小細工へ取り組むことではなく、先ず理念的部分を固め直すことではないかと思います。 たまたま、暴政とミステリーと愛が交差する(ハプスブルク帝国末期の19世紀末ウイーンが舞台)映画『幻影師アイゼンハイム』(米・チェコ合作)を観る機会がありました(公式HP → http://www.geneishi.jp/)。見方によっては地味な映画なので殆ど話題になっていない作品のようですが、人間社会のリアリズムの本 質とアーカイヴに関わる政治権力の問題を抉った優れた作品です。 それに、19世紀末ウイーンのノスタルジックな風景(セピアがかった映像 美/実際には、それはチェコでロケが行われたようです)を楽しみ、幻影師アイゼンハイムの芸術的レベルまで洗練されたマジックからベルクの音楽とジレジウ スのポエジーを連想し(偶然にも、その舞台は作曲家ベルクが生きた時代と重なります)、サスペンス風のストーリー展開で謎解きを楽しむという観賞もできます。 考えてみれば、人間は二つの内面的機序のメカニズムをバランスさせて「現実認識」を行いつつ生命を維持してきたと思われます。それは、「アフォーダンス型認識 → 感覚器官を介して外界から直接的に情報を与えられることで認識できるリアリティ」と「デカルト型(脳内表象操作型、記号操作型、デジタル型)認識 → ヴァーチャルリアリティへ進化する方向」の二つです。 いずれも、単独では個体の軌跡(行動および認識内容の表現) を客観的に自覚できないと思われるので、個体の軌跡の在るがままに任せれば(つまり、それが自由原理主義へ傾くということになるかも知れません・・・)、 共存・調和的な意味での人間社会の維持は困難となります(この考え方は、先端的な人工知能の研究分野へブレーク・スルーの視点を与えた新しい着眼です)。 従って、アーカイヴ的な機能を工夫・充実させることには、個々の人間が社会の中で「one of them」として棲みつつ日常生活を送る社会空間のリアリズムを常に冷静かつ客観的に共有・認識するために必要となるのが、アーカイヴ、ジャーナリズム、教育(歴史など)の役割だということになるはずです。 つまり、民主的な国家における政府・行政の仕事の根本には、このような意味でリアリズム(総合的・根本的な現実認識の在り方)について“リアリズムの過剰な揺らぎ”の発生を抑制するという役割があるはずです。 このような観点からすると、多発し続ける連続通り魔などの「異常事件」、「大物政治家絡みの疑獄事件」、「高級公務員の天下り意識(神がかるまで肥大化・異常化したという意味での特権的な降臨意識)=固定観念化した特権・エリート意識」、あるいは「世襲・寄生政治家らの利権・特権階級意識」などには共通点が隠れていると考えられます。 それは、これらの事件の当事者たちが「デカルト型(脳内表象操作型、記号操作型、デジタル型)認識 → ヴァーチャルリアリティへ進化する方向」のリアリズム世界の方へ過剰に“のめり込み過ぎている”のではないか、ということです。 なお、「幻影師アイゼンハイム」の原作(短編)は下記の本◆の中に入っています。以上、長くなりましたが、参考までご案内させていただきます。 ◆スティーヴン・ミルハウザー、柴田元幸・訳『バーナム博物館』(福武書店) ・・・ スティーヴン・ミルハウザーは現代アメリカの異色な作風の作家で、その共通テーマは「過剰な想像力を抱え込むことの甘美な呪い」(訳者・柴田氏による)と いうことです。なお、この映画『幻影師アイゼンハイム』は原作どおりのストーリーではなく、原作をヒントに新しい脚本が書かれたようです。 |