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タイトル:日光・月光が暗示する、自公型の「政治的事故」を回避する知恵  2008/06/14


日光・月光が暗示する、自公型の「政治的事故」を回避する知恵
2008.6.14


<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080613

La Boheme- Charles Aznavour

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【画像】日光、月光菩薩像(平城遷都1300年記念「国宝 薬師寺展」/5/31観賞、於・東京国立博物館)

日光菩薩像

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月光菩薩像

f:id:toxandoria:20080613220952j:image・・・日光、月光の両画像はhttp://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B06&processId=00&event_id=5129&event_idx=1&dispdate=2008/04/30より

薬師寺金堂薬師三尊像の姿(8世紀初頭・奈良時代)

f:id:toxandoria:20080613220953j:image・・・この画像は、http://www.kippo.or.jp/culture/archives/nara/index.htmlより

薬師如来は、日本で古くから病の治癒に験(げん/効果)がある仏として尊ばれた仏です。最も初期の薬師信仰の例としは推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺命によって607年(推古15)に造像したと伝えられる法隆寺金堂の薬師像です。

しかし、薬師信仰が流行るのは7世紀末以後のことで、680年(天武9)に天武天皇が皇后の病の治癒のため、この薬師寺の建立を発願したとされており、720年(養老4)に藤原不比等が病むと諸寺で「薬師経」を読んだとされ、745年(天平17)には聖武天皇が病に倒れたとき薬師悔過(けか/仏の前での罪の懺悔)を行ったなどの記録も残されています。

この薬師如来は日光菩薩と月光菩薩を脇侍として従えています。日光は日天とも呼ばれますが、月光より男性的な感じで、一千もの光明を発することで広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされています。また、月光は、月の光を象徴する菩薩で、日光菩薩とともに薬師如来の教えを守護する役割を果たしていますが、より女性的な感じがするようです。

今回の展示は、平城遷都1300年を記念して行われたもので、日本仏教彫刻の最高傑作の一つとして知られる薬師寺金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)が寺外ではじめて揃って公開されました。光背をはずした日光菩薩、月光菩薩をほぼ両仏像と同じ目の高さで360度から拝観できる展示でしたが、脇の造形から、または後ろ姿からの方が月光の女性らしさが分かるような気がしました。

・・・・・以下、本論・・・・・

特に小泉政権以降の現代日本において、悲惨で極端な格差社会が深化する背景となってきた米国型市場原理主義の源流の一つにアイン・ランドの思想(極端に利己主義的なアイン・ランド哲学)があることは周知のとおりです。しかも、ハイエク→ミルトン・フリードマンの流れに見られるカルト的経済理論、新自由主義思想(現代における新古典派本流のトリクルダウン理論)を別とすれば、少し視野を広げると、さらにもう一つの源流となるものが見えてきます(アイン・ランド哲学、トリクルダウンについては、それぞれ下記の★、▲を参照乞う)。

★2005-03-26付toxandoriaの日記/作家アイン・ランド、米国ユニラテラリズムのもう一つの『源流』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326

▲雑草の言葉/トリクルダウン理論、http://zassou322006.blog74.fc2.com/blog-entry-243.html

それは、啓蒙主義の賜物(理性と経験の“絶えざる闘争”の成果)と見なすことが可能な「人権思想」の誕生ということに関係します。そして、この流れを象徴する歴史上の出来事がアメリカ・ヴァージニア州の「権利章典」(1776/イギリスの植民地だったアメリカのヴァージニアが独立を前にして権利章典を発した/これがジェファソンらの起草によるアメリカ独立宣言へ大きな影響を与えた)とフランスの「人権宣言(人権および公民権の宣言)」(1789)です。しかし、実は、これら二つの「権利章典」は根本的に性質が異なるのです。


なぜなら、アメリカ・ヴァージニア州の「権利章典」が“明確に個人主義的”であることに対し、フランスの「人権宣言(人権および公民権の宣言)」は“国家と立法を重視する”ことになっているからです。つまり、アメリカ合衆国の「人権思想」の根本には建国時から“自由原理主義的な考え方”(=原理的な意味で個人主義的な考え方)が根付いていたことになる訳です。その後、この“国家と立法を重視する”フランスの「人権宣言」はヨーロッパ諸国の民主主義の発展に影響を与え続け、現在もその活動は健在だと見なすことができます。

一方、啓蒙主義思想の影響を強く受けたヨーロッパには、人権を保護するための、もう一つの「立法(法制)を重視する」という特徴的な考え方の伝統があります。そもそも、現代的な意味での権利保護が明確に意識されるようになったのは、18世紀末のイギリスに始まる産業・技術革命の頃からですが、程なくそれはヨーロッパ全体へ拡がります。そして、無論のことですが、この流れを遡ればプラトンの「理想国家論」まで辿りつきます。

それはさておき、やがて、この“産業革命”は至るところで「自立的所有(資本)と従属的労働(人権)」の厳しい対立・抗争を生むことになります。法制の歴史が遥かにギリシア・ローマ古典古代まで遡るヨーロッパも、この時に初めて、資本主義の発展に伴い必然的に発生するこのような「所有と労働」の危機的な問題への法秩序による制度的対処で「社会と政治体制の崩壊」(=ポール・ヴィリリオ風に言えば政治的事故)の回避が可能であることを学んだのです(ポール・ヴィリリオについては下記▼を参照乞う)。

▼2006-03-28付toxandoriaの日記 /「格差拡大の時代」(政治的事故)を予見したポール・ヴィリリオに学ぶ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060328

ここで言う「所有と労働」の危機的な問題とは、産業革命で新たに生み出された資本家たちと工業労働者との間で、つまり彼らの権利の裂け目に生まれた「深刻な社会問題」のことです。周知のとおり、この問題への取り組みで最も目立ったのがマルクス主義ですが、それは20世紀末における「東西冷戦構造の崩壊」によって、ほぼ知的な役割を終えたと見なされ、そこで、まるで腸内の悪玉細菌のように図に乗って急増殖したのが、かつてアレクシス・ド・トクヴィル(C. Alexis H. C. de Tocqueville/1805-1859/貴族出身、フランスの政治思想家)がアメリカへ渡り目撃した「原理的な意味で徹底的に個人主義的な自由・平等主義(アメリカ権利章典型の自由主義)」で、喩えればそれは“逆転写酵素RNA型の悪性腫瘍をもたらすレトロ・ウイルス”のように危険なものと見なすこともできます。

ところで、マルクス主義一色で塗り込められるまで至らなかったヨーロッパでは、この「深刻な社会問題」について別の対処方法が求められ、そのプロセスでは緊張緩和と調整のための弛まぬ試行錯誤が繰り返されてきましたが、その努力のプロセスは凡そ次の三方向に纏めることができます。これらの対処方法の原点にあるのは、資本主義を放置すれば必然的に立場が強い「所有」の方向へ付加価値の分配が傾くという理解です。EU(欧州連合)の諸法制、レギュラシオン学派(有限な前提条件や事例の検証から得られるものは暫定的な真理に過ぎないことを意識するという意味で極めて科学合理的な倫理観を重視しつつ未来の他者への責任をも想定した、フランス発祥のラディカルな資本主義経済学)の考え方なども、この流れに重なり、それがヨーロッパ社会で共通した伝統となっていると見なすことが可能です(レギュラシオンに関連しては下記●を参照乞う)。

●2008-05-24付toxandoriaの日記/“一院制”を持ち出し自らの「失政」を偽装する「小泉的なるもの」の不誠実、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080524

(1)「生産のための所有」を「公共の監視」にさらす方法の工夫・・・公開性の原則を徹底、商法等の整備・充実

(2)「労働者の人権」を保護するための「労働法」の工夫・・・社会保険、集団的保護規定、労働契約規定などの整備・充実

(3)「徴税方式と租税運用」にかかわる創意・改善による所得と財産の再分配の工夫

然るに、小泉政権以降の日本で見られるのは、ここで概観したヨーロッパの伝統のように「人間と社会の関係について、先ず物事の根本を倫理的・歴史的に押さえ、この部分から一般国民との間で信頼関係を築く」という誠実な観念が希薄なことであり、「アメリカ型市場原理主義」をまるで接木でもするかのようにアンチョコに日本社会へくっつけたということに過ぎません。それが“カブキモノ的詐欺師”である小泉元首相の派手ハデに見得を切るパフォーマンスと経済財政諮問会議などに屯(たむろ)する御用学者たちの尤もらしい脚色によってごり押し的に正当化されてしまった訳です。

そして、知的に誠実な人々は少数派として片隅へ追いやられてしまい、大方のメディアも「暴政と国民の間で発生する深刻な社会問題」の緩和に気を配る(暴政を監視し、関連情報を公開する)役目を果たすどころか、「政治権力と自らの距離を調整する」ためのチョウチン記事を書くマスゴミの立場へ身を貶めています。そのため、まるで図に乗ったかのように、労働者の人権等についての日本の指導・エスタブリッシュメント層の責任感はますます希薄化してきました。この意味で、無責任かつ不誠実な輩の筆頭的存在が「自公連立政権」であり、その象徴的な存在があの「小泉劇場」と「安部の美しい国」であったことは言うまでもありません。

例えば、労働者派遣制度の無原則な緩和による「悲惨な労働者の人権無視状態の拡大」、後期高齢者医療問題に象徴される「医療・福祉の根本構造(国民皆保険制度)の崩壊」などは、明らかにこれら日本の無責任政治の犠牲と見なすべきであり、それどころか、この「堕落極まりない自公連立政権による暴政」が、今回の驚くべき通り魔事件などの異常殺戮事件に限らず、一向に収束の傾向を見せない年間3万件を超える自殺者数の定着傾向などへ一定の材料を提供し続ける元凶と見なすことも可能です。そして、このように悲惨な事件が多発する傾向は、ポーリヴィリリオ風に言うならば、明らかに今の日本では「政治的な事故」(=権力亡者と化した政治権力者が創る“人権無視の人災”)が常態化しつつあるということです。

小泉・竹中流(米国流)の市場原理主義は、誰も気がつかぬうちに資本主義が抱える根本的な弱点(=所有と労働の抗争)を支えるべき日本国家の法制の根本(=労働法制の根本に据えるべき公正・人権・厚生・福祉の観念=所有に傾斜しがちな労働の仕組みを保護しつつ支えるべきだという根本理念)までをも破壊したことにこそ、これら悲惨な状況の原因があるのではないかと思われます。これによって、ウエブ化(デジタル化)社会の陥穽が、つまりゲーム脳あるいはセカンド・ライフ的な意味での社会のヴァーチャル化傾向が、「現実(リアル)と仮想現実(ヴァーチャル)の壁」(=特に、この傾向に対する抵抗力が弱い人々や子どもたちの人間性)を溶解させつつあるような気がします。まことに恐るべきことだと思われます。

因みに、民主主義についての日本人一般の理解が浅薄であることも気になるところです。なぜならば、現代的な意味での民主主義のあり方を根本的に誤解している節があるからです。つまり、現代的な意味での民主主義のあり方は、それが何時(いつ)になっても決して静的な着地点(=最終目的地点)ではあり得ず、常態的に動的ダイナミズムを持つべき宿命にあるという現実について理解が欠けているのではないかと思われることです。そのような意味で、民主主義のあり方は絶えず未来に向かって開かれたものであるべきなのです。

この観点からすれば、今回の参議院における福田首相への問責決議を無視する「自公連立政権」に対して“衆議院の優越の憲法の規定に従って政権の正統性は確認されているのだから、福田首相は粛々と仕事をこなせばよい”(2008.6.12・日本経済新聞)という過半のメディアの態度(NHKも同様のニュース解説を述べている)は理解できません。「民主主義のダイナミズム」という観点からすれば、今回の福田首相に対する参院・問責決議は、日本の憲政史上で最も意義ある第一歩と見なすべきです。国民の一般意志は、凡ゆる機会に申し立てられてこそ民主政治なのです。

また、ほぼ時を同じくして最高裁が「NHK番組改編問題」(政治家(安部元官房副長官(当時))の圧力と意図を受けてNHKが番組内容を改変したか否かが論点となった訴訟)で「表現の自由を建前とする形式的判断」でNHKの自立的な編集権を認めるという判決を下したことが報じられています(参照、http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/152616/)。これは、明らかに“高度に政治的な判決”以外の何ものでもありません。というよりも、最高裁は「表現の自由を守るべき裁判所」であることよりも「暴政国家の官僚組織の一部を担う御用組織としての形式判断」を選択したことになります。

この最高裁の姿は、“衆議院の優越の憲法の規定に従って政権の正統性は確認されているのだから、福田首相は粛々と仕事をこなせばよい”とする日経の形式論的なチョウチン記事にピタリと重なります。

これでは、日本の最高裁は、民主主義国家の最高裁というよりも、せいぜいのところ啓蒙君主フリードリヒ大王(Friedrich der Grosse/Friedrich 2/ 1712-1786)が君臨したプロイセン帝国時代ドイツの「君主の裁判所」の域を脱していません。「労働者の人権」のみならず、「表現の自由」も守ることができなくなり、市場原理主義が暴走する今後の日本社会では、ますます「政治的事故」(=権力亡者と化した政治権力者が創る“人権無視の人災”)の多発が懸念されます。

このように悲惨化するばかりの日本の政治・社会の状況を比喩的に表現するならば、それは日本が「新自由主義思想というフレンジー(frenzy/熱狂型)の熱病」に取り憑かれているということです。因みに、フレンジーを象徴するのがアポロン型思考であり、その対極になるのがアルテミス型の、例えば「ヨーロッパのクール(cool/冷静)な誠実さ」を伴う思考です。おそらく、この喩えは「アポロン→日光菩薩」、「アルテミス→月光菩薩」へと連想を広げることが許されるはずです。さらに、この連想を拡大させつつ大まかに整理すると次のようなマトリックスが浮上してきます。つまり、二つの要素の適度なバランスによって地球上の生命と自然環境は保護され持続しますが、どちらかへ遍在すれば、いずれも「破壊と死」へ直結することが理解できると思われます。

アポロン型=スクラップ&ビルド、戦争嗜好、フロンティア開拓型

アルテミス型=治癒・再生・復活型、平和志向、諦念志向型 

日光菩薩 (アポロン的価値観の象徴)

→ 健康 躁 オプテミズム 積極性 破壊と創造 開拓 市場原理 占有・強欲 不死の錯覚(バーチャルリアリティ)

           

月光菩薩(アルテミス的価値観の象徴)

→ 死 病気 障害 鬱 ペシミズム 消極性 相互扶助 再生・復活 慈愛 リアリズム(人間コミュニケーション的な現実) 誕生  

アポロン型への過剰な傾斜

→ 労働権の商品化 労働権管理の民営化 労働権売買の自由競争化 労働契約の破壊 暴政権力の優越 徴税権の暴走 税の再分配機能の劣化 基本権の劣化 強権的ファシズム嗜好への傾斜 

 

いずれにせよ、今の日本が自公連立政権の暴政がもたらした常軌を逸した「熱病的常態」(chronic fever)に嵌っていることはもはや疑う余地がありません。極論すれば、今の日本は太平洋戦争の「ガダルカナル戦況」(参照、下記◆)に酷似しています。従って、ここで我われは「人間の思考と行動を規定する理性は、決して静的ではなく永遠に調和を求め続けるという意味で動的なものであり、それは未来の発展へ向けて開かれたものとして理解すべきである」という民主主義についての啓蒙主義の最も基本的な知見を想起すべきです。

◆ガダルカナル島の戦い(ウイキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

つまり、民主主義とは永遠に我われが歩き続けるべき終着点のない道程であり、それはお仕着せがましく政治家や官僚などから投げ与えられる餌のようなものでもないということです。このような意味で民主主義の根本を甘く見る一般国民が多いため、「福田首相に対する参院・問責決議」ごときは大した問題ではない、「内閣支持率」などは首をすくめて暫く我慢していれば、いずれは回復する(参照、NHK支持率調査についての下記ブログ記事●)という具合に、国民を舐めきったような政治権力者がのさばることになるのです。

●とむ丸のゆめ/昨日の夜に見たNHKの世論調査、http://pokoapokotom.blog79.fc2.com/blog-entry-763.html

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