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[民主主義の危機]“一院制”論議を持ち出し自らの「失政」を偽装する「小泉的なるもの」の不誠実 2008.5.25 <注記0> お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080524 <注記1> 表題中の「失政」は「ネオリベラリズム改革(=小泉劇場)による日本の市民厚生の破壊」を意味する。その具体的内容は「小泉劇場が犯した七つの大罪」であるが、この詳細は下記記事◆を参照乞う。 ◆2008-05-18付toxandoriaの日記/支持率・超低下で「権力と犯罪の境界」が霞みマフィア化する連立与党、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080518 また、「小泉的なるもの」とは、“好色で卑猥な小泉劇場のご落胤”たる<ラベル(表題)的な意味でネオリベラリズム(=ネオリベ、新自由主義思想)を偽装的に利用する狡猾で自己矛盾的な国家主義(ナショナリズム)の態度>を指す。 【画像】 ラファエロ『アテネの学堂』1509-1510 フレスコ画 ヴァチカン宮殿署名の間 f:id:toxandoria:20080524230927j:image Raffaello Santi(1483-1520)「The School of Athens」fresco 5.77m × 8.14m Vatican Stanza della Segnatura 、Rome これは「真・善・美」のなかの「真」を描いた絵とされており、中心人物の左はプラトン、右はアリストテレスです。従って、プラトンに代表される思弁的・観念的な哲学が左半分の画面、右半分はアリストテレスに代表される実践的な哲学の画面として構成されています。 解像度の関係から、この画像では判然としませんが、画中の群像のなかにはムーア人、アラブ人など異民族の姿と衣装も描かれています。多様な群像が入り混じる混沌の坩堝であるモチーフ(素材)が、細心の遠近法の構成によって理想のバランスを創っています。 この絵の背景には、イタリア・ルネサンス精神の源流とされるマルシリア・フィチーノの“哲学の統一”が潜むとされていますが、これは異文明間の、あるいは異思想間の対話による「正義論」の完成を示唆すると読むことができます。 また、理想のアカデミズム(あるいは政治)は「正義」を体現すべきものであり、それは思弁と実践のバランスであると理解することもできそうです。 ・・・・・以下、本論・・・・・ (“一院制”でネオリベ失政の隠蔽を画策するまで国家主義化した政権与党、それを黙認するマスコミ) 5月24日のNHKニュース(http://www3.nhk.or.jp/news/k10014800121000.html#)が報ずるところによると、自民党の小泉元総理大臣は5月23日夜に山梨県富士吉田市で堀内元総務会長らと会談し“福田政権を一致結束して支えつつ来年の衆議院議員の任期ギリギリまで解散・総選挙は避けるべきだ”という(まことに民意無視で姑息なズル賢い!)考えを示しつつ、現在の「二院制は廃止して一院制」とし、議員の定数も大幅に削減すべ きだという考えを示しました。議員定数の削減はさることながら、“一院制”論はご都合主義以外の何ものでもありません。 一方、毎日新聞(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080514-00000101-mai-pol)は、“この発言に先立ち、去る5月16日に小泉元首相らを顧問とする「ねじれ国会」による政治の停滞解消のための『一院制議連』(呼びかけ人=衛藤征士郎衆院議員)を結成した”と報じており、その顧問には小泉元首相の他に、森喜朗元首相、安倍前首相ら“名うての、錚々たる(?)メンバー”が名を連ねています。そこで、想起すべきは、明らかに彼らの身辺には『ネオリベラリズムを偽装看板とした超国家主義者の矛盾した発想の臭い』が立ち込めているということです。例えば、<小泉元首相らの異常な発想>の具体化とも言える「後期高齢者医療制度」には“高齢者の医療費と政治家・高級官僚らの無駄遣いを同一視する”という根本的な錯誤があります。老若を問わず、無駄遣いのつもりで病気になる人間など、いる筈がないではありませんか! それは、2006年夏の「小泉首相・8/15靖国参拝」以降、日本の政権与党の多くの政治家たちが、ひたすらポスト小泉の「過半以上の大衆が支持する勝ち馬」に乗ることだけを考えつつ、明らかに、戦前の“純血民族主義型”愛国心を求める錯誤と同じ道(=国家主義的な政治の完成)をゾロゾロとひたすら歩んできたからです。そして、その異様な空気は紛れもなく戦前の危機的なプロセス(=国家主義と軍国主義の融合がリアルになり始めた1930年代)に重なっています。しかも、その「小泉劇場」が、ほぼ意図的に格差社会をつくりながら、「訳の分からぬ鬱屈した不満を持つ弱者等の多くの国民の心を派手なパフォーマンスで煽りつつ惹きつけるやり口」(=ファシズム的手法)を好んで用いたことは周知のとおりです。 「ねじれ国会」なる現象は彼ら政権与党の多くの政治家たち自身の「失政」(大失敗)が国民一般によって厳しく批判された結果(=自らの失政の現われ、帰結)であり、国会の機能が不全だから「ねじれ国会」となっている訳ではありません。この点に関してはメディア一般の普段の報じ方にも大いに理不尽な点があると思われます。非難・批判されるべきは「小泉劇場を担いだ無責任な政権与党の国会議員」らであり、その非難の矛先を「ねじれ国会」の方へ向けるのは、そのような結果をもたらした“良識ある過半以上の国民”を詰(なじ)ることと同義であり、甚だしい論理矛盾です。つまり、メディア一般の民主主義についての健全なバランス感覚が疑われ、彼らが<マスゴミ>と揶揄されざるを得ない理由はこの辺りにもあるのです。 (不誠実で不正義なネオリベ的暴政、そして自己矛盾的国家主義の醜態) ともかくも、このように俯瞰すると、今の『史上最低の支持率で無能極まりない福田政権』の下で“混迷の坩堝の如く見える政治状況”でさえもが、日本会議(参照、http://www.nipponkaigi.org/)など極右勢力の一定の思惑で企図された路線の上で十分計算されたものに見えてきます。例えば、愛国心のコトバが教科書に盛り込まれることになったり、不気味な勢力の圧力で映画『靖国』が自主・上映中止となったり、NHKの国際放送に対するNHK・古森経営委員長による“国益反映”要請の発言が飛び出たりという有様で、表現・言論の自由にかかわる“世相と社会の空気”が妙に血生臭い方向へ煽られつつあるのも気がかりです。しかも、あれほど殆どヘロヘロ(深刻なモラル・ハザードで実戦配備不能!)の自衛隊を恒久的に海外派遣するための検討が超党派で進められつつある一方で(参照/毎日jp/自衛隊海外派遣:恒久法を今国会提出 福田首相、整備に意欲、http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080326ddm001010035000c.html)、防衛疑獄の巨悪追求の歩みは遅々とするばかりのようです(参照、下記★)。 ★防衛汚職:参院外交防衛委 宮崎被告・証人喚問(先生方は金でどうにでもなるらしい?)、http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080523ddm005040056000c.html もともと「一院制」には、それが“国会での両院によるチェック・アンド・バランスが効かず議会が暴走する可能性があり、しかも政権が一党独裁化する”危険性についての議論があります。翻れば、「小泉劇場」が掲げたネオリベラリズムが世界経済の表舞台へ躍り出た契機は、1970年代前半で第二次世界大戦後における資本主義の黄金時代が終わり、欧米先進諸国が生産性と収益性の危機に直面したという流れの中にあります。そして、イギリス(サッチャー政権下)にせよ、アメリカ(レーガン政権下)にせよ、あくまでもそれはポスト・フォーディズム(脱大量生産方式)時代における資本主義の根本的なパラダイム転換の一つの道筋と見なされた訳であり、それが国家の根本たる「民主主義」(つまり、議会制度)の機能不全をブレーク・スルーする手段と見なされたのではありません。 それが、今や、わが国ではネオリベラリズム政策の失敗による目前の政治状況の混迷が我が国の「民主主義の不全=二院制国会の機能不全」と同一視されつつあるという“異常な議論”(当然、その先には改憲論議がある!)の方向へ意識的にスキップさせられています。まさに、このような“マスゴミ”も動員した作為的世論操作こそが明らかに自己矛盾した異常事態であり、やはり、それは日本会議などの極右勢力による一定の思惑で企まれた既定路線の上で緻密に計算されたものと見なすべきでしょう。 「後期高齢者医療制度」と「道路特定財源問題」に象徴されるアンチ人権的、アンチ市民厚生的な福田政治の混迷は、ごく普通に、ごく冷静に見るならば、それは「ネオリベラリズム政策(=自己矛盾的で倒錯的な小泉劇場のご落胤)の失敗」と見なすべきことであり、だから「一院制ダ!」という短絡的議論にはならないはずです。まったく、善良な国民を小ばかにした話です。そもそも、我が国には「議会制度改革」や「憲法改正」よりも、もっと真っ先に取り組むべき重要課題、つまり「特別会計」と呼ばれる不明朗な「漆黒の闇」の改革(=アカウンタビリティと国会中心財政主義の問題)ということがあるはずです。「小泉・安部・森」らの清和会一派(←日本会議ら極右勢力の放射光の照射を浴びる)に連なる与党議員たちの背中には、この緊急の課題から国民の目を逸らそうとする背後霊(国家主義的で邪悪な放射光の照射源の存在)が透けて見えます。 (ドイツに見習うべき、アカウンタビリティと国会中心財政主義の原点) ところで、民主主義国家の国民に対する最大の責務を一つだけに絞るとするならば、それはアカウンタビリティ(Accountability/説明責任)ということです。そして、国家財政に関するアカウンタビリティを保証するのが「国会中心財政主義」(総計予算主義/すべての予算を一般会計に計上して一般会計に一覧性の性質を保持させること)の概念です。周知のとおり、日本国憲法と同じように連合国軍の占領下で起草された「ドイツ憲法」(通称、ボン憲法/正称、ドイツ連邦共和国憲法)には「日本国憲法」と根本的に異なる性質があります。それは、初めから“ドイツ憲法の授権規範性”ということがドイツの政治権力者たち自身によって明確に意識され、かつ国民一般に対してもこの点が十分に周知徹底されてきたということです。 また、この「ドイツ憲法」には、授権規範性の一つの現われとして「私法への逃避」(Flucht in das Privatrecht/いわゆる“安易な民営化”を制限する)という根本的な考え方が備わっています。なぜなら、国家が行うべき重要な行政活動を気軽に私法形態で行うことになると、憲法が規定するドイツの国家としての根本的なあり方が変質してしまう恐れがあるからです。このような事情から、ドイツ憲法は国家財政が「国会中心財政主義」(総計予算主義)に徹することを明確に規定しており、「特別会計」の設置も原則として認めていません。このため、ドイツ国有鉄道と郵政事業は特別に必要性が高い「特別会計」(国営事業)として、憲法が規定する<「国会中心財政主義」(総計予算主義)の法律効果が及ぶ範囲での特別法措置>に基づいて設置されてきました。なぜなら、これ以上に「特別会計」の枠が増えると「一般会計の一覧性の性質」が機能しなくなり、憲法違反の疑義が生じてくるからです。 また、このドイツ国有鉄道と郵政事業が民営化された時(1980年代、日本の旧三公社(日本国有鉄道、日本電電公社、日本専売公社)が民営化された頃とほぼ同じ時期)には、「ドイツ憲法」が改正された上で民営化条項が挿入されています。つまり、ドイツでは、国有鉄道や郵政事業のような非常に大規模な国営事業が安易に「私法への逃避」(民営化)へ向かうことを認めるのは憲法違反になると考えられていたのです。そして、このように相矛盾する方向(国営事業化(特別会計化)と民営化)で一種の綱引き現象が生じたにもかかわらず、「ドイツ憲法」に対する国民の信頼は揺るがなかったのです。なぜなら、ドイツ国民は、政府が「憲法の授権規範性」下にあるからこそアカウンタビリティの義務を果たすことができると理解していたからです。 (結び/新たな希望への眼差し) 今、このような現代日本の混迷極まりない状況下でこそ大切なのは、国民一般が、“積み木崩し”の主人公らの如き絶望感に苛(さいな)まれて「小泉・安部・森」らが謀(はか)る邪悪極まりない<山師の玄関(まやかしの看板、見せかけのラベル)的な意味でネオリベラリズムを偽装する自己矛盾的国家主義>の罠にマンマと堕ちることではなく、例えば「レギュラシオン学派」(参照、下記記事▲)のように「着実な資本主義改革」についての「希望の論理」を見据えることです。また、この視点は(それをここでは詳論できませんが・・・)、地球環境問題、宇宙開発基本法などの問題とも絡めて、より幅広く考えるべきだと思われます。 <注記2> 当然ながら、これは“異端派の経済学”だとするレギュラシオン(有限な前提条件や事例の検証から得られるものは暫定的な真理に過ぎないことを意識するという意味で極めて科学合理的な倫理観を重視しつつ未来の他者への責任をも想定した、フランス発祥のラディカルな資本主義経済学)そのものへの新古典派からの批判も存在するが、当記事でレギュラシオンの正当性を議論するつもりは毛頭ない(ことをお断りしておく)。 ▲レギュラシオン理論、http://note.masm.jp/%A5%EC%A5%AE%A5%E5%A5%E9%A5%B7%A5%AA%A5%F3%CD%FD%CF%C0/ ▲レギュラシオン学派、http://note.masm.jp/%A5%EC%A5%AE%A5%E5%A5%E9%A5%B7%A5%AA%A5%F3%B3%D8%C7%C9/ ともかくも、現在の日本の最大の悲劇は、メディア、政治家、アカデミズム、そして国民の多くが「新自由主義改革日本版」のための ヒーローのつもり で、実像はヒール(Heel/プロレス興行の客寄せに必要な、アクが強く、かつペテン師的な存在感がある悪玉のこと)であった小泉前首相を“マンマと掴まされてしまった”ことです。その意味で、根本的には連立与党(自民党+公明党)の責任が極めて重大です。 最後に、当記事の纏めの代わりに(その一部は他の記事で既に書いたものですが)、佐野 誠著『開発のレギュラシオン/負の奇跡・クリオージョ資本主義』(新評論/この著書は「知のアナキズム」に依拠しつつ常に開かれた立場で「開発の政治経済学」を脱構築するというスタンスで貫かれている)の中から、“権威がつくり出す常識”(=政治・官僚・アカデミズムの知的不誠実)に極めて弱い、一般の日本国民への警告とも見なすべき部分を下に引用・転載しておきます。当然のことながら、結論を言ってしまえば、不誠実で不埒な政治家(国会議員ら)は、たとえそれが首相経験者であろうが落選させれば(彼らが選ばれなけれ)ばいいだけの話です。 <注記3>クリオージョ(Criollo) クリオージョはスペイン語で“現地風の、中南米生まれの”という意味。反ケインジアンの旗頭的存在であるミルトン・フリードマン名づけるところの「チリの奇跡」など、南米経済の優等生たるラベルを貼られたチリ、アルゼンチンなど南米諸国の権威主義的・錯誤的・刹那的であったネオリベラリズム的開発資本主義の大失敗を意味する。なお、「小泉劇場」(竹中平蔵・元金融担当大臣)の“聖域なき構造改革”もミルトン・フリードマンの影響を受けている。 『・・・ 市場が失敗するからといって市場自体を放擲するのが誤りであるように、民主主義が失敗するからといって“権威主義”を容認してしまうのも安易ではないか。 民主体制の枠内で多元的な利害関心のコンフリクトの経済合理的な妥結を媒介し、その制度化を保証し、さらにこの制約の下でアカウンタビリティを保ちつつ効率的に活動するような、社会奉仕的な国家・官僚制度こそ望ましいのではないか。・・・』(『第三部、何をなすべきか』より) 『・・・とすれば、本当に重要なのは制度それ自体でも、ましてや政策それ自体でもない。そうではなく、制度や政策のあり方をさらに規定する社会的・政治的な合意形成過程こそが本源的な意味を持つのである。これはより生臭く言い換えればヘゲモニー闘争にほかならない。この意味で経済開発は常に政治開発・社会開発と表裏一体なのであり、それゆえにこそ「開発の政治経済学」の問題設定が不可欠となってくるのである。・・・』(『同上』より) |