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タイトル:[机上の空論]冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2)  2008/04/29


[机上の空論]冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2)
2008.4.29


<注記1>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428


【画像】ヤン・ブリューゲル『木製花瓶に生けた花』 Jan Bruegel the Elder(1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男)「Flowers in a Wooden Vessel」 ca.1606-07 Oil on Wood panel  98×73cm Kunsthistorisches Museum 、Wien
[f:id:toxandoria:20080429000946j:image]


17 世紀ネーデルラント(オランダ・ベルギー)の静物画に「ヴァニタス絵画」(Vanitas/生のはかなさ)というジャンルがあります。これは、中世以来の良く知られた格言“メメント・モリ”(Memento mori=死を忘れるな)のアレゴリカル(寓意的)な表現です。このジャンルでは、頭蓋骨・時計・灰皿・燃え尽きそうな蝋燭などが描かれ、人間である限り避けることができない死と対比しつつ人間の欲望に繋がる悪徳や金銭・物的財などの蓄積に執着することの虚しさが表現されています。そのほかに、このジャンルのモチーフでは“美しい花が枯れかかったり、虫に食われていたり、あるいはそれらが腐りかけている”ような表現で、さりげなく示唆することがあります。


“花のブリューゲル”とも呼ばれたヤン・ブリューゲルのこの絵は、非常にリアルで繊細な細密描写とともに現実にはあり得ないことですが、四季の花が一斉に描かれているので有名な作品の中の一枚です。また、この絵では“枯れかかった花”と“朽ち果てた花”が一緒に、しかも類稀なほど安定した構図で見事に美しく纏められています。このように精緻な技術を駆使した17世紀ネーデルラント絵画のルーツには、紛れもなくあの「初期フランドル派絵画」(例えば、ゲント・聖バーフ教会の祭壇画『神秘の子羊』でヤン・ファン・アイクが見せた、この上なく卓越した微細で華麗な描写/詳しくは下記記事★を参照乞う)の伝統が息づいています。


★2008-03-27付toxandoriaの日記/2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/プロローグ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080327


ともかくも、この「ヴァニタス画」は、経済的・物的に豊かな日常生活を謳歌した17世紀ネーデルラントの市民たちに対して“生の虚しさ”を視覚的に分かり易く呈示し、彼らがひたすら金銭的・物質的な快楽追及へ向かうことを戒めるとともに、彼らの内面的な倫理観への回帰を促す役割が期待されていた訳です。経済史的に見れば、17世紀ネーデルラントは本格的なグローバリズム時代のプロローグに位置しますが、これに次ぐ第一次グローバリズムは19世紀後半〜第一次大戦勃発(1914)まで、そして同第二次は1970年頃〜現在に至ると見なすことが可能であり、これらに共通する特徴は「労働価値の効用」と「貪欲な消費」への飽くなき崇拝ということです。


そして、このような時代だからこそ、ハンナ・アレントの名著『人間の条件』(米国で1958年に出版、邦訳刊は1973年)を読み返してみると、それは、恰も地球環境そのものまで消費し尽くさんばかりの第二次グローバリズムが急速に進展する中で“ヒトラーの狂想にも紛う生存圏拡大の暴走が加速する時代”への「ヴァニタス絵画」による警告のように見えてきます。


<注記2>


ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)の「活動的生活」(vita activa)の構成要素である「労働、仕事、活動」については、以下の「本論(第二部)」で取り上げます。


・・・・・本論(第二部)・・・・・


(経済財政諮問会議の設置根拠の曖昧さ/実態は御用商人と御用学者の巣窟?)


5年5ヶ月に及ぶ小泉劇場が犯した七つの大罪を類型的に整理すればA「政治倫理的な罪=憲法違反」、B「人間倫理的な罪=偽装・詐称・詐欺的手法の連発、C「人道上の罪=日本国民の生存権(圏)の破壊」ということになり、七つの罪(1)〜(7)は(この詳細は下記記事★を参照乞う)、それぞれが(A〜C)の罪と深く結びついていることが分かります。しかも、それらは相互に連関しつつ“相乗的な悪徳の拡大効果”を発揮しており、それが「小泉・前首相流の妖しい悪の華」を咲かせています。


★2008-04-25付toxandoriaの日記/冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相カムバック』に国民は何を期待するのか?(1)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080425


おそらく、多くの日本国民にとっては、このような「小泉・前首相のヤクザかかぶきもののような妖しい悪の華」こそが堪らぬ魅力であり、そこに小泉・前首相が余人に代え難い存在だと思わせる“悪魔の誘惑”が潜んでいるのかも知れません。もはや、このような過半の日本国民の“情緒不安定のさ中で藁をも掴むとも見える異様な精神環境”の深奥には、近世以降、日本人の国民性の奥深くにしぶとく浸透してきた特異なマゾヒズム趣味のような空気さえ感じられます(この論に関連して、下記記事▲も参照乞う)。


▲日本における「政党と任侠集団」の歴史(2005-04-05付toxandoriaの日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050405


ともかくも、これらの罪の中でA「政治倫理的な罪=憲法違反」に含まれる一つの問題については、『イラク空自活動、名古屋高裁の違憲判断』によって、ほぼ妥当な司法判断が下されたことは耳に新しいところです(この論については、下記記事■を参照乞う)。そこで、ここでは5年5ヶ月に及ぶ小泉劇場から現在の福田政権に至るまで、未だに「現代日本政治の参謀本部」の役割を担い続ける「経済財政諮問会議」の危険な役割の核心部分をクローズアップしてみます。そして、先ず問題視すべきは「経済財政諮問会議の“設置根拠”に奇妙な曖昧さがある」ということです。


■2008-04-18付toxandoriaの日記/イラク空自活動、名古屋高裁の違憲判断の意義を考える、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080418


第二次・森改造内閣いらい設置されてきた「経済財政諮問会議」の設置根拠は内閣府設置法第18条とされていますが、財界を代表する民間・財界委員二名(第二次・森内閣〜第三次・小泉内閣=牛尾治朗(ウシオ電気会長)、奥田碩(トヨタ自動車社長、会長歴任)/福田内閣=御手洗 冨士夫(キャノン会長)、丹羽宇一郎(伊藤忠商事会長))と民間・学者委員二名(第二次・森内閣〜第三次・小泉内閣=本間正明(阪大教授、近畿大教授歴任)、吉川洋(東大教授)/福田内閣=伊藤隆敏(東大教授)、八代尚宏(国際基督教大学教授))は、丹羽宇一郎を除けば、主に自民党の派閥・清和会と深い仲と見るべき新自由主義思想(ネオリベ)の信奉者で固めらており、明らかに人選が偏ってきたと考えられます。


特に、「小泉劇場」時代には自民党内や中央省庁の抵抗勢力をターゲットとした、いわゆるB層戦略と官邸主導政治を巧みに演出し、規制緩和と市場競争原理を導入・推進することで重要な役割を果たしてきました。しかし、奥田・御手洗らの財界人委員は自らが属する経済界・産業界に有利な“誘導改革”を提言してきた節があり、当会議が中立性と公平性を確保してきたかについては大きな疑義があります。なお、自由原理主義者ではない丹羽宇一郎だけは公平かつ中立的人物と見なせますが、このように優れた人物が“偽装政治の道具”(参照、本論・第一部)として使われざるを得ないところに日本の保守政治の悲劇的な現状があります。


しかも、当会議は「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書(年次改革要望書/参照、http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20031024d1.html)」と「アーミテージ報告(米国防大学国家戦略研究所(INSS)特別報告書/参照、http://www.hyogo-kokyoso.com/infobox/messages/155.shtml)」などに基づく郵政改革、医療制度改革、金融・保険・農業・教育分野等の原理主義的な自由化と規制緩和促進に関する米国発の規制改革・自由化要求を日本国民へ“見かけ上だけ合憲的”に強制する役割を積極的に担ってきました。


このような観点からすれば、「小泉劇場」以降の「経済財政諮問会議」の仕事は、自公連立与党政権が“見かけ上だけ合憲的・合法的”に演出しつつ独裁型私益政治を推進する「御用商人と御用学者による集団指導体制(集団型の側用人政治)」の役回りであったことになります。極論すれば、「小泉劇場」以降の「経済財政諮問会議」は米ブッシュ政権の日本総代理店(Sole-Agent)を引き受けてきた訳です。


この問題の本質を喩えるなら、宗主国・アメリカが、日本の自公連立・傀儡政府の内部に「アルキメデスの点」を仕込んできたということです。つまり、それはアルキメデスが発見したとされる『梃子(てこ)の原理』を作用させるための仕組みであり、最小限のエネルギー投入で「日本国民の主権」を毀損しつつアメリカの国益の最大化を操る実に巧妙で実利的な仕掛けであり、その効果の大きさは『思いやり予算』(参照、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080426-00000923-san-pol)の比ではありません。誰の知恵かは知りませんが、このように狡猾な仕掛けを装備した小泉劇場は、まさに歴史上で売国政権(売国奴)の名を残すに値すると思われます。


(今後の経済財政諮問会議の動向で特に注視すべき点とは?)


ところで、本論・第一部では「小泉劇場の七つの大罪」を論じましたが、いずれにせよ「小泉劇場への真摯な反省」がなければ現代日本の政治・経済の混迷から抜け出すことはできないと思われるので、ここでは別の角度から、その反省点を探ってみます。そこで、先ず言えるのは「小泉劇場〜安部の美しい国」で行われたことが、実はそれが欧米流の新自由主義思想による「改革」とは似て非なるものであったということです。


言い換えるなら、今こそ、神道・軍事国体論的な極右思想をネオリベの仮面で覆い隠した「偽装ファシズム」とでも言うべき“けったいな代物”であった「小泉改革、小泉劇場」に対する反省を、より冷静な観点から、より具体的にイメージすべきだということです。当然のことながら、「改革」そのものは善でも悪でもなく、そこに潜む政治哲学とその方向の妥当性こそが問題なのです。そこで、2002年以降の景気拡大傾向の実績を視野に入れつつ、今後の経済財政諮問会議の動向(経済財政諮問会議そのものを「改革」すべき方向)で特に注視すべき点を整理すると以下のようになります。


(1)平和憲法理念の再強化と改革論議の方向転換(ネオリベ思想と市場原理の教条主義的解釈の停止)
・・・広島・長崎の被爆経験、ドイツにおける大戦後の持続的反省などを教訓としつつ全国民的な思索深化の方法を考える(参照、下記HP★)。


★HP『酔狂の風景/“ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の風景”が意味するもの』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html


(2)日本国民の厚生・福祉・医療体制の充実と個人消費環境の底上げ重視(消費性向の向上政策)への発想転換
・・・規制緩和と規制強化のメリハリをつける。問題の本質は「改革」、「規制緩和」、「市場原理」らのコトバ遊びではなく、国民の生命と日常生活を支える個々のサービス内容等の質的充実とレベルアップにある。


(3)内需型産業に傾斜する中小企業と非製造業を重視する政策への転換/輸出政策と内需市場政策のバランス回復
・・・これまで日本の景気は外需の恩恵を受けた大企業(製造業)に特化し過ぎてきた。しかし、大企業の雇用は日本の全産業の1割程度であり、同じく中小企業(非製造業)のそれが約6割を占めるという現実を直視すべき。
・・・これこそが「格差拡大」傾向へのブレーキ(絶対的貧困・相対的貧困双方の底上げ効果)となる。なお、多様な社会のあり方を尊重する観点からすれば、このような産業別・産業規模別の雇用構成比の現状について、その是非を軽々に評価することはできない。


<注記3>


このような発想転換のために役立つのは、やはり「本論・第一部」でも触れた“グローバリズムと市場原理を有効活用”(←決して、その暴走は許さぬ姿勢で!)しつつある『拡大EU、5億人の成長戦略』(参照/NHK・クローズアップ現代、http://www.nhk.or.jp/gendai/)に潜む根本理念である。なお、その詳細については下記記事■を参照乞う。


■2007-12-27付toxandoriaの日記/市民の厚生を見据えるEU、軍需利権へ媚びる日本/リスボン条約の核心、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20071227


なお、現在、経済財政諮問会議の「専門調査会」では『21世紀(平成)版、前川リポート』(参照、下記記事▲)の準備のため、日本の経済・社会の新たな方向性について、世界の最新潮流も見据えた議論が進みつつあるようですが、このような時にこそ、マスメディアは同「専門調査会」の議論内容を積極的に取材し、中立・公正な観点で全国民向けに分かりやすく報じ続けるよう努力すべきです。そして、“密室の御前会議”が『カムバック小泉劇場』と『御用商人&御用学者』らにとって都合よく、また“世界の潮流に敢えて背を向けた、日本のネオ・ファシスト一派(左右イデオロギー対立のトラウマに、未だに取り憑かれたまま日本会議、つくる会などを極右セントラルドグマの御神体と崇めるアナクロ・ナショナリスト一派)の目的達成”のため、この<新・前川レポート>が再び偽装(厚化粧?)されることを許すべきではありません(日本会議については、下記記事★を参照乞う)。


▲前川レポートとは?、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B0%C0%EE%A5%EC%A5%DD%A1%BC%A5%C8


▲前川リポート (1986年、内閣総理大臣・中曽根 康弘へ提出された全文)、http://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/maekawarep.htm


★日本会議とは?、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B2%F1%B5%C4


★つくる会とは?、http://www.tsukurukai.com/


(ハンナ・アレントの危機意識=“労働の疎外”と”公共の喪失”)


ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)によれば、我われ人間の「活動的生活」(vita activa)の構成要素は「労働、仕事、活動」の三つに分けることができます。この「活動的生活」とは、我われ人間が、何らかの条件づけられた存在としてこの世に生まれた瞬間から周辺環境へ働きかける内発的な能力のことです。そして、「労働」(labor)とは“我われが自らの身体の生物学的プロセス(メタボリズム/新陳代謝)への対応のために繰り返される活動”のことで、例えばそれは日常生活の衣食住を支える家庭内での活動などを指します。


いわば「労働」は人間と動物に共通する活動の一部であり、その特徴は“かぎりなく循環的で、かつ自然的という意味で生物としての人間に必然的なプロセス”だということになります。一般に我われが馴染んでいる用語法では「労働」と「仕事」は殆ど区別がありませんが、アレントはこの二つの意味を峻別します。アレントによれば「仕事」(work)とは、「労働」が意味するところの“人間の個体維持のための消費”に抵抗しながら作用しつつ形あるものや諸制度・作品などとして、我われの死後にも継続して在り続ける「世界」(world)の材料を創り出す働きのことです。


分かりやすくするため、アレントは“台所でオムレツを作るのが「労働」で、彼女がタイプライターで作品を書くのが「仕事」だ”と喩えています(・・・志水速雄・訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)の訳者解説より)。別に言えば、アレントの「労働」は“人間の生命維持に必要な消費のための最小限度の働き”であり、同じく「仕事」とは“過去から未来へと流れ生きてゆく人間が、それぞれ各自の一時期を過ごすことになる人工的な世界を作るために貢献する働き”のことだと言う訳です。つまり、非常に広く見れば「労働」も「仕事」も“人間の生命維持のために必要な消費を支える働き”であることに変わりはないのですが、「労働」と結びつく「消費」の方には一定の必要限度が想定されるはずだということになります。


一方、アレントの「活動」(action)とは“直接的に人と人が関係し合う作用”のことであり、別に言うなら、それは“人と人が「世界」(world)を舞台にしてかかわり合いながら、何か新しいことを創始(beginning or initiating)する作用”です。更に言えば、それは人と人の「多数性」(prurality)の関係が「言語活動」(speech)を介してコミュニケーションを創生する働きのことだということになります。そして、このコミュニケーションには“複数の他者との関係性の中で自分自身は何者であるかを明らかにし暴露する働きがある”と言うのです。ただ、この「活動」の生産物である言語的な演技(言語活動によるパフォーマンス)の特徴は、それが形として残り末永く持続することができないという点にあります。


また、アレントは、およそ18世紀の産業革命期頃から以降の時代において、我われ人間の「活動的生活」(vita activa)の構成要素である「労働、仕事、活動」の三つのうち「労働価値」が突出して勝利することになったと言います。いわば、ギリシア・ローマの古典古代期においては最も低い立場に置かれていた「労働価値」(それ故、ギリシア・ローマの古典古代期においては、生命のメタボリズムに専心するために奴隷が家事労働を担わされた)が最高位の価値を持つ立場に躍り出てきたというのです。また、このために動員されたのが「アルキメデスの点の発見」→「ガリレオ・ガリレイの地動説の眼」へ向かった科学知の流れ、及びデカルトの「方法的懐疑の哲学」(cogito ergo sum)と「機械論的世界観」の三つだということになります。


ともかくも、この「労働価値」の勝利によって、更に驚くべき位相の転移が起こったとアレントは言います。つまり、それまでの「消費」は専ら人間の生命活動維持のプロセスであるメタボリズムにかかわる労働がもたらすものに専心してきましたが、いまや「労働価値」の下位に「仕事」が位置づけられることになったため、今度は「仕事」の生産物である「世界」そのもの(今までは、観照的生活(vita contemplativa)を仕事の最上位の源泉と見なす伝統の中で、それは活発に消費されることを拒んできた)までもが「消費」の対象となる可能性が高まることになりました。


古典・古代期においては、人間のメタボリズムのプロセスを支える「労働」とほぼ直結した「消費」には、自ずから市場原理的な暴走への抑制が期待できたと考えられます。つまり、このようなアレントの眼からすれば、“現代の世界は、マルクスが言う「世界化された人間」がその巨大な胃袋を満たすために自らのすべて、つまり「労働」と「仕事」が創造する「この世界の全て」を消費する(喰らい尽くす)”ようになったのです(・・・志水速雄・訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)の訳者解説より)。まさに、これこそが現代についてのアレントの危機意識の一つである『労働の疎外』ということです。しかも、その危機は、アレントの慧眼が予見したとおり、今や我われの生命そのものまでをも脅かしつつあるようです。


アレントの危機意識にはもう一つ『公共の喪失』ということがあり、アレントはそれを現代の「大衆社会」の中に見ています。先に取り上げたようにアレントの「活動」とは人と人の「多数性」(prurality)の関係が「言語活動」(speech)を介して実現するコミュニケーションのことでした。しかし、それには、そのままの形を残し、かつ末永くその形を持続させることができないという弱点があります。しかし、にもかかわらず我われが周辺世界の意味を理解し、いささかなりとも生きがいを感じ取ることができるのは、このコミュニケーションの働きによる意味づけがあるからです。このようにして、我われは周辺の制度的・文化的・物質的世界に対し絶えず新たな意味づけを行い、そのリアリティを多くの人々との間で共有できるからこそ日常を安心して生きられるということになります。


かつて、古代ギリシアのポリスには家事的な意味での「労働」から解放された自由市民が集う公共空間が存在し、そこでは言語活動による活発な議論(コミュニケーション)による意味づけと自己の暴露が絶えず行われ、次々と新たに意味づけられた「公共のリアリティ」が持続的に存在し、そのような状態はヨーロッパの伝統として近世まで続いてきたとアレントは言います。やがて、19世紀後半頃から、そのヨーロッパの伝統の中に残されていた公的領域と私的領域の境界線が次第に消滅し、代わりに現れたのが「大衆消費社会」だという訳です。この「大衆消費社会」の特徴を一言で言うならば、それは消費活動の循環的な流れとしての「思考パターンとライフスタイルの画一化」ということであり、ここにこそ現代的な意味でのファシズム(全体主義)が芽生える土壌が出現する訳です。


(ハンナ・アレントの“危機感の対象”を逆用した小泉劇場の“冷血”)


ここまで見てきたハンナ・アレントの二つの大きな危機意識、つまり『労働の疎外』と『公共の喪失』ということが、実はバブル崩壊後から小泉劇場〜安部の美しい国〜福田政権の誕生を経て現在に至るまでの日本社会の姿にあまりにもピタリと当て嵌まることに驚かされるはずです。このプロセスで日本政府(小泉劇場のクーデター体制の継承)で行われてきたのは、本論・第一部の「小泉劇場の七つの大罪」で分析したとおりのことです。繰り返しになりますが、そのポイントを簡略化して再録すると次のとおりです。


(1)盲目的に「新自由主義(ネオリベ)」に心酔し、隷属的対米関係と悲惨な格差拡大を一層深刻化させた


(2)日本国憲法の平和主義と政教分離の原則を蹂躙し、アナクロ・ナショナリズムの流れを国政の中枢に招き入れた(靖国神社への拘り)


(3)日本国憲法の主権在民と授権規範性を蹂躙し、強引な国会解散劇(クーデタ)で政治を暴政化した


(4)「改革の美名」の下で財政赤字を一層拡大した(国債増発、約250兆円)


(5)政治倫理を冒涜し、日本の政治をポルノクラシー化した(芸能・淫猥政治化)


(6)国民主権を無視し「非合理な外交」で世界の中で日本を孤立化させた(米国自身の反省にもかかわらず日本政府だけがイラク戦争の無謬性をいまだに主張)


(7)弱者層蔑視政策で日本の教育・医療・福祉の現場環境を著しく劣化・荒廃させた


周知のとおり、今まで見てきたハンナ・アレントの危機感の背景には「ヒトラー・ファシズム政権による収容所生活→米国へ亡命」という彼女の惨(むご)い経験が存在します。つまり、彼女はこの過酷な亡命プロセスで、ナチス・ドイツの全体主義がもたらした“国家なき人間”(a stateless person)としての極限状態ともいえる『生存の基本的恐怖』を自ら体験した訳です。


アレントのこの惨い経験は、彼女がナチスによる危機を察してドイツを去り、フランス滞在〜強制収容所生活を経て米国へたどり着くまでの約20年にも及びました。しかも、このような歴史的事実を認識すると、再び、我われは、ハンナ・アレントが、そのように過酷な経験があってこそ認識できたと思われる彼女の危機感の対象たる社会現象が、現代日本の小泉劇場以降の政治状況(過剰に画一化した消費主義・市場原理主義の弊害でニヒリズム化した弱者層の支持を圧倒的に集めた、いわゆるB層戦略が象徴する、一連の小泉型冷血政策による国民の深刻な疎外化現象)がもたらしたもの(=『労働の疎外』、『公共の喪失』)と余りにもピタリと重なることに驚かされるとともに、思わず背筋が寒くなる思いがします。


このような観点からしても、「小泉劇場」の“冷血な隠れファシズム政治”を甘く見るべきではないと思われます。ましてや、今回の「衆院・山口2区補選」での連立与党の敗北を受けて、もはや福田首相の求心力低下は避けられないので“愈々、自民党の顔として期待できる『小泉・前首相』の出番だ! 『カムバック小泉劇場』のタイミングだ!”とメディアの一部をも含めて騒ぎ立てる有様では、とても、このような日本を民主主義国家と見なすことはできそうもありません。しかも、小沢(民主党代表)=平沼(日本会議、国会議員懇談会会長)の接近までもが報じられる有様では(参照、http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008042801000772.html)、日本の右傾化・ファシズム化への流れは止まるところ知らずの状態です。


既に述べたとおり(これはアレントが指摘したことですが・・・)、「労働、仕事、活動」の三つのうち「労働の価値」が突出して勝利する(仕事と労働の位相転移が起こった)ことになり生じたのが『労働の疎外』と『公共の喪失』であり、更に別に言うならば、それは『世界疎外』(=無世界性/worldlessness)ということです。つまり、かつて古典ギリシアのポリスに存在した「公共空間」(公的領域のモデル)は次第に遠ざかり、代わり勃興したのが「社会」(society)です。喩えれば、この「社会」は国民国家の規模まで拡大した家族のようなものに他ならず、そこではポリスの理想であった“自分が他人とは異なるという個性的な思考と卓越”を言論で主張する「活動」に代わり、基本的に自分が他人と同じであることを表現する画一的な「行動」(behavior)が求められるようになりました。


これは、見方を変えれば、現代社会では他人と行動を同じくするファシズム(全体主義)の条件、つまり「行動の画一化、シンクロ化」を育てるための種が、特に邪悪な政治権力によって蒔き散らされるハイリスクが絶えず偏在することを意味します。それ故にこそ、市民社会の中で意識的に「公共空間」を創造し、積極的にそれに個々の市民が参画する意義が浮上します。しかしながら、更にこの観点を深めるには、いささか記事が長くなり過ぎたので、この論考の続きは「本論(第三部)」へ譲ることとします。


・・・・・以下、本論(第三部)へ続く・・・・・

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