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[机上の空論]冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相カムバック』に国民は何を期待するのか?(1) 2008.4.25 <注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080425 【画像1】ジェリコー『エプソンの競馬(1821年のダービー)』Theodore Gericault(1791-1824)「The Derby at Epson 1821」 Oil on canvas 92 x 123 cm Louvre 、 Paris [f:id:toxandoria:20080425064911j:image] ジェリコーは大作『メデューズ号の筏』(1819、Louvre/参照、http://www.abcgallery.com/D/david/gericault4.html)によって名声を博し、フランス革命後の激動の時代にロマン主義芸術とリアリズム絵画の先駆けとなり、わずか33歳で落馬事故で逝った天才画家ですが、彼は、この成功の次にイギリスに渡り馬の描写の研究に取り組んでいます。 良馬の選別を目的に始まったとされる競馬ですが、やがて競馬を見るという余暇的・娯楽的・趣味的傾向が優先されるようになり、他国に先駆けて産業革命が本格化したイギリスでは、それが18世紀の半ばころから貴族や富裕層(ブルジョワ)の間で流行するようになっていました。特に、エプソンの競馬は、創始者ダービー卿の名にちなみダービー(Derby)と呼ばれるようになり、今日に至っています。 生来の馬好きであったジェリコーは、イギリスの競馬を観察して多数の作品を残していますが、この『エプソンの競馬(1821年のダービー)』は傑作とされる一枚です。しかし、この馬の疾走の姿、つまり前の両足が前方へ、後ろの両足が後方へ同時に伸びきった疾走の姿は現実のものではありません。それは、現代の速写撮影が実証するように、実際にはあり得ない疾走の形なのです。が、その颯爽たる疾走感は我われの眼に、深く、こころよく焼きつきます。 長い絵画の歴史の中で見れば新参者である遠近法についても同様のことが言えますが、現代人が合理的と思い込んでいる絵画技法(or絵画鑑賞法)の中にも、実は“ジェリコーの疾走する馬の前後に伸びきった四つ足”に似たような“視覚の習慣化”という、今まで存在し得なかった「リアリズムの創造」が多く見られます。そして、これが過剰に堕すと「騙し絵」に接近することになります。 つまり、そもそも平面の中に立体を見ることは“不自然”であった筈なのですが、どうやら「人間の眼」には、いったん身についてしまうと、その習慣からちょっとやそっとでは抜け出せなくなるという“厄介な性質”があるようです。ともかくも、この“ジェリコーの颯爽たる馬の描法”は、成熟へ向かいつつあった資本主義とブルジョワ社会の発達の中で天才画家ジェリコーが創造した『仕事の眼』の賜物であったようです。 【画像2】『ラスコーの馬』(Cave painting / Lascaux Horse・・・ウィキメディアより) [f:id:toxandoria:20080425065254j:image] フランスのドルドーニュ県にあるラスコー洞窟の壁画群(馬、野牛(ビゾン)、鹿、山羊などが描かれている)は約15,000年前のクロマニヨン人(後期旧石器時代)の“美術作品”とされています。が、これらの壁画の殆どは外光が入らない洞窟の奥深くで漆黒の闇に溶けた壁面や天井に描かれています。 従って、これらの絵は我われが言うところの観賞用の美術作品と見なすことはまず無理であり、ましてや日々の狩猟活動に命を懸けた旧石器時代のクロマニヨン人たちが暇つぶしの目的や余暇の手遊(てすさ)びで描いたものとは、とうてい考えられません。 しかし、間違いない事実があるとするなら、それは、我われ(現代人)はこの壁画から何か途方もないエネルギーというか、我われが忘れ去ってしまった強烈な命の存在感のようなものが感じられるということです。おそらく旧石器時代の人々にとって最大の関心事は“見栄えと格好が良い颯爽とした馬の絵”などではなく、これらの“動物たちの限りない繁殖と捕獲ということ、すなわち彼らの日々の命が懸かった現実”であったと考えられます。 なぜなら、それこそが彼らの日々の命を繋ぐ糧であり、だからこそ、彼らの狩猟活動という名の労働には自らの命と全エネルギーを投入するだけの大きな「価値と意味」があった訳です。松明の焔が揺らめく中で、現代人にとっては余りにもリアル過ぎるこの『ラスコーの馬』を凝視した旧石器時代の人々の眼は、まさに “目前で永遠に生き続けるべき馬”を見ていたのです。ハンナ・アレント風に喩えるならば、それは“労働の眼”と名づけることができるかも知れません。 <注記> ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)の「活動的生活」(vita activa)の構成要素である「労働、仕事、活動」については「本論(第二部)」で取り上げます。 ・・・・・以下、本論(第一部)・・・・・ (断末魔の福田政権、そして沸騰するリバイバル小泉内閣への期待) ナチス・ゲットーばりの「後期高齢者医療制度」への大不評の嵐にとどまらず、今や各メディアの調査による「福田内閣支持率」は軒並み20%台と、まさに地に堕ちた体たらくとなっています。一方、ここにきて『小泉・元総理大臣のリバイバルへの期待』がますます強まりつつあるようです。例えば、直近のメディア上でザッと目に付いた次のようなヘッドライン(◆)を拾うだけでも、“小泉カムバック!”の熱烈なラブコール・フィーバーを感じ取ることができます。 ◆時事世論調査/小泉氏トップ、2位麻生氏=首相にふさわしい人(時事ドットコム、http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008042000071) ◆今、日本には信長型リーダーが必要だ=改革と破壊と大研究(小泉・前首相への期待が滲む特集記事/情報源:雑誌『文芸春秋、5月号』記事) ◆小泉特集記事/「小沢潰し」に立ち上がる小泉(情報源:雑誌『FACTA、5月号』記事) ◆日経・世論調査=次期首相に相応しい人物は?/自民党支持層に限ると小泉氏が30%でトップ・・・全体では麻生・前自民幹事長が21%でトップ、小泉氏が20%で次点(情報源:2008.4.22付・日本経済新聞) ◆産経新聞社とFNNの合同世論調査/次の首相に一番ふさわしい人は小泉氏(情報源:産経ニュース、http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080404/plc0804041944016-n1.htm) しかしながら、この4月から始まった「後期高齢者医療制度」の余波から一家心中事件(参照、下記ニュース▲)まで起きてしまったため“今や、かわいそうなくらい非難の集中打を浴びつつある福田政権”ですが、その悪政の象徴と化した「後期高齢者医療制度」にしても、改めて言うまでもなく、その火元は「第三期・小泉内閣の閣議決定」であったはずです。にもかかわらず、今や、この異様とも思えるほどの「小泉リバイバル・フィーバー」が起こりつつあるのは何故でしょうか? 普通に考える限り、とても<その異様にネジレた一般国民の心象風景>を論理的に理解することはできません。 ▲山形で87歳母と無理心中が発生・・・「後期高齢者医療制度」を悩んだすえか?(情報源:http://www.chunichi.co.jp/s/article/2008042201000299.html、http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080422/crm0804221645025-n1.htm) 当然ながら、とっくの昔にジャーナリズム精神を喪失した日本のマスメディアが、なりふりかまわず“賞味期限切れ前の売れ筋商品と値踏みした小泉・前首相”を再び“政治市場”へ担ぎ出そうとすることは、それなりに理解できます。しかしながら、5年5ヶ月に及ぶ小泉政権(小泉劇場)下で「冷血なまでに過剰な規制緩和と過当競争社会下での格差拡大の犠牲」(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080405)を強いられてきた一般国民の多くが、その“真犯人である(しかも確信犯の可能性が高い)小泉純一郎・前首相”に、再び必死ですがりつこうとする、まさに「泥棒に追いゼニとも見える日本国民の精神環境」は到底理解し難いものです。 そこで、このように余りにも「奇矯な日本国民のリアリズム感覚」の背景を再考してみることにします。 (第一〜第三次小泉内閣、5年5ヶ月に及ぶ小泉劇場が犯した七つの大罪/下記記事★より修正・転載) ★2005-11-14付toxandoriaの日記/「小泉劇場」の七つの大罪/「ポスト小泉体制」の批判に必須の視座、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051114 (1)盲目的に「新自由主義思想(neoliberalism)」に心酔し、米国指令の対日要望書などに基づき隷属的対米関係と悲惨な格差拡大を一層深刻化させた(参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829) (2)日本国憲法の平和主義と政教分離の原則を蹂躙し(複数のカルトが国政の中枢を侵食するままに任せ)、維新期〜太平洋戦争期のファシズム的熱狂(神憑りの軍事国体論)を引きずるアナクロ・ナショナリズムの流れを国政の中枢へ呼び込んだ(この象徴が靖国神社参拝問題) (3)日本国憲法の「主権在民の根本たる授権規範性」を蹂躙した(非武力的クーデタによる国会解散劇を偽装し、政治を暴政化した) (4)「改革の美名」の下で成果を上げ得ぬばかりか、主権者たる国民との公約を破り財政赤字額(国債)・約250兆円を増加させ国家危機の病巣を深刻化させた( ← そんなコトは大した問題ではない!の暴言のオマケ付き) (5)「政治的倫理」を冒涜し、日本の政治を下卑たポルノクラシー(大衆迎合型、芸能・淫猥政治化)まで低下させた(参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829) (6)国民主権を無視した「非合理な外交」によって、世界の潮流の中で日本を孤立化させた(戦争の当事国である米国自身がその誤りを認めているにもかかわらず、“イラク戦争の無謬・正当論”を未だに貫くのは日本政府のみ) (7)青少年及び弱者層(=現実的な社会構成の多様性)に対する理解と慈愛に欠け、日本の教育・医療・福祉の現場環境を著しく劣化・荒廃させた(参照 →http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050610/p1) 既に述べたとおり、この4月に福田政権下で始まった、まことに理不尽な「後期高齢者医療制度」も元を糺せば『小泉内閣の閣議決定(2003年3月)』によるものであり、上の「小泉劇場」の七つの大罪に照らせば、それは(7)に該当します。これら「小泉劇場」がもたらした“七つの大罪”の淵源は、アダム・スミス(Adam Smith/1723-1790)へ大きな影響を与えたイギリスの政治思想家マンデビル(Bernard de Mandeville/1670‐1733) の“「私的悪徳と傲慢」こそが最終的には「国家・社会の公共的便益」をもたらす”という特異な考え方がベースとなっています。言い換えれば、それは“贅沢、虚栄、虚勢、我欲、強欲、嫉妬、過酷な競争”など凡ゆる悪徳と人間の傲慢こそが「経済の繁栄」をもたらすとする“狂想の一種”であり、マンデビルは “むやみに公権力が、それらを制限すると国家が衰退する”とまで主張しています。 更に、この考えを現代的な経済理論風に見かけ上の偽装を施したものが、供給サイドへの傾斜を強調する「サプライサイド経済学」であり、それが“小泉=竹中流・新自由主義思想(neoliberalism/通称ネオリベ)”の土台です。また、その上に小泉・前首相の「靖国神社参拝」への拘りというネオリベとは無関係な偏執(パラノイア)的復古主義(アナクロニズム)が加わることで、いつの間にか日本社会の空気が極端に右へ傾き始め、更にそれが「安部の美しい国」という狂信の蟻地獄へ引き継がれて日本社会の精神風土が戦前型の「神憑る日本」へ接近したことは記憶に新しいところです。つまり、「小泉劇場〜安部の美しい国」で行われたことは、実は欧米流の新自由主義思想による「改革」などではなく、むしろ神道・軍事国体論的な極右思想をネオリベの仮面で隠した「偽装ファシズム」というべき“けったいな代物”だったのです(この論の詳細は、下記記事■を参照乞う)。 ■2008-04-05付toxandoriaの日記/【改定版】冷血小泉の狂想が生んだ後期高齢者制度(ナチス・ガス室まがいシステム)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080405 しかも、このネオリベの仮面に潜ませた「小泉流・偽装ファシズム」が行った、あのナチス・ドイツの“生存権の拡大政策”(参照/下記記事★)にも匹敵する冷血で「非人道的で過剰な規制緩和と過剰な競争原理主義政策」は教育・医療・福祉など日本の青少年と弱者層を支えるインフラ基盤と関連システムを直撃しつつ、その現場環境を激しく翻弄し、それらを劣化させ破壊してきました。つまり、それは“米国ブッシュ政権の要求に媚びつつ徹底的に国民主権を見下すという矛盾に満ちた二枚舌がもたらした非情かつ冷酷な政策”であり、しかもその恐るべき真相は、神道・軍事国体論的極右勢力が糸を引く「美しい愛国心と国民に犠牲を強いるアナクロな国益概念」によって、一見、口当たり良く偽装されるという、独特のあくどさを帯びていたものだったのです。 ★2008-02-09付toxandoriaの日記/日米の『軍事・利権顔(ヅラ)』周辺に漂う“ネオ・ナチズム”の臭い、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080209 ここで見逃すべきでないのは、その“あくどさを帯びた冷酷な政策を推進させてきた参謀本部”に匹敵する中枢組織がポスト小泉劇場でもしぶとく生き続けてきたという<恐るべき現実>があることです。そして、それこそが安部〜福田政権に対しても「小泉流の狂想的な過剰規制緩和&競争政策」を指令し続けてきた「経済財政諮問会議」の存在です。渦中の「後期高齢者医療制度」も、実はこの「経済財政諮問会議」の落とし子であることは言うまでもありません。日本経済の羅針盤を自負する日本経済新聞も、流石に、この<小泉劇場の落とし子たる異常な参謀本部>の存在の危険性に気づき、以下のような論評▲を書き始めています。そこで、この「経済財政諮問会議」の最も問題と思われる点にスポットを当ててみることにします。 ▲2008年4月18日付、日本経済新聞・記事より部分転載 『今回の金融危機の震源は1999年のグラス・スティーガル法(http://money.infobank.co.jp/contents/K300013.htm)廃止で銀行と証券の垣根が取り外されたことだ。米国ポールソン財務長官が発表しG7で承認された「金融安定化フォーラム」の勧告は、凶暴な資本主義に規律を取り戻し、制御可能な金融市場の再構築を目指したものだ。これまで進めてきた規制緩和路線の転換だ。今回の金融危機を教訓に再発防止のための制度設計が急務であり、リレギュレーション(Reregulation/再規制)の時代が始まろうとしている。金融危機が収まったとき、世界経済は大きく変質しているだろう。第一は、過去30年間、世界の潮流となってきた自由化、小さな政府、市場経済原理に代わり、規律と公益と環境を重視する時代が来る。第二は、主役の交代だ。米国の覇権は揺らぎ、価値観と生活様式が異なる多くの文明圏が共存する時代になるはずだ。第三は、国際的な大再編の始まりだ。・・・過去10 年、我が国は構造改革の名の下に米国モデルを導入してきた。だが、世界の潮流が変わり始めた。せっかちな(?)四半期決算や時価会計で近視眼化した企業経営、従業員の処遇悪化と消費低迷をもたらした利益最優先経営、過度の自由化による秩序崩壊など、時代遅れのモデルの見直しが急務だ。・・・』 <参考> 関連、参照情報 ■NHKクローズアップ現代、4月24日(木)放送『拡大EU 5億人の成長戦略〜バローゾ委員長に聞く〜』、http://www.nhk.or.jp/gendai/ ・・・・・以下は(第二部)へ続く・・・・・ |