|
[参考情報]酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内) 2008.4.16 <span style="font-weight:bold;">●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。</span> <span style="font-weight:bold;">●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ『toxandoriaの日記』とイメージ的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URLは以下のとおりです。</span> <span style="font-weight:bold;">『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/</span> <span style="font-weight:bold;">同上・ページ1「toxandoriaの日記、アートと社会へのリンク」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html</span> <span style="font-weight:bold;">同上・ページ2「酔狂の風景」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html</span> <span style="font-weight:bold;">・・・・・以下は、<ページ2「酔狂の風景」>の再録です。</span> ・・・・・ <span style="font-weight:bold;">2008年4月15日 </span> [f:id:toxandoria:20080415223753j:image] <span style="color:#000000;"><span style="font-size:small;"><span style="font-weight:bold;">ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm−Gedaechtniskirche/2007年、春) </span></span></span> <span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">なお、第二次世界大戦で爆撃を受けた形のまま保存されているカイザー・ヴィルヘルム記念教会の象徴的な意味については下記★を参照乞う。ドイツの人々は、自らも加担した「戦争の悲惨と犯罪性」を日常生活(現実)の中に埋め込み、それを永遠に反省するという決意を共有している。</span> <span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">★[toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象(ベルリン編2)]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423</span> <span style="font-weight:bold;color:#000000;">・・・ここは、感銘を受けたフレーズ、そして自らの心象風景とスナップ画像などを折にふれ、ご紹介するページです。</span> ・・・・・本文・・・・・ <span style="font-weight:bold;"><span style="font-weight:bold;">何とも悩ましい話だが、活動(<span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション活動</span>)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。</span> <span style="font-weight:bold;">なぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に 依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件なのである。</span> <span style="font-weight:bold;">二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会など、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカ サマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。</span> <span style="font-weight:bold;">三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、ある いは、ニーチェが言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ 自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。</span> <span style="font-weight:bold;">そして、最後には、「人間(man)」(<span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象</span>)の見せかけの実現が「人間(men)」(<span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">絶対多数の国民・市民の現実生活</span>)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである(<span style="font-weight:bold;font-size:small;color:#000000;">( )内はtoxandoriaによる注記</span>)。---「思索日記」「1951年9月」より </span> ・・・・・ <span style="font-weight:bold;">以上は、[ハンナ・アレント著、ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房)の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕〜森〜小泉〜安部〜福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。</span> ・・・・・ |