メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[スーベニール・シリーズ]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/ブリュッセル編  2008/04/02


[スーベニール・シリーズ]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/ブリュッセル編
2008.4.2


<span style="font-weight:bold;"><注記1></span>


<span style="font-weight:bold;">約3年前の記事を再編集しながら思ったこと、それは日本の現状がますます民主主義の根本から乖離しているということです。この頃に深刻化しつつあったベルギーの南北(言語)問題の帰趨については、下記記事★を参照してください。新しい情報が書いてあります。
</span>

★2008-03-22付toxandoriaの日記/フランドルの古都『ブルージュの風景』、ア・ラ・カルト30選、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080322



<span style="font-weight:bold;">【画像1】ロベール・カンパン(Robert Campin/ca1375-1444)の『受胎告知』(ベルギー王立美術館所蔵)</span>
[f:id:toxandoria:20080402114140j:image]


・・・ベルギー王立美術館所蔵の絵画、ロベール・カンパンの『受胎告知』です。ここで扱われる主題は天上的なものであるにもかかわらず、同時代のフランドルの他の画家たちと同じく写実主義の傾向が見られます。ただ、その写実性は現代のものと異なり、テーブルなどの家具が歪んだ遠近法で描かれています。このように「聖なる奇跡のドラマが日常生活を舞台に行われるという図像構想」はカンパンの独創で、描写の緻密さという点では同時代人のファン・アイク兄弟に比べやや荒削りですが、近年の研究では、身近な「室内の日常生活をリアルかつ微細に描く」というフランドル(ネーデルラント)派絵画の伝統はカンパンから始まると考えられています。


・・・ベルギー王立美術館の所蔵案内によると、同美術館は歴史上の妙な巡り合わせから、仏ナポレオンの文化政策を発端として設置されました。ナポレオンの新生フランスは、1794年、最終的にオーストリアを南ネーデルラントから一掃します。ナポレオンはルーブル美術館の所蔵を増やすため、1801年にベルギー美術館設立の政令を発布しましたが、この時、ベルギーでフランスの財産に新たに加えられた宗教芸術などの宝庫の中から、数々の傑作を選出して270の作品がフランスへ送られました。


・・・しかし、その4年後にブリュッセルの美術学院院長、ギオーム・ジャック・ヨゼフ・ポシャートはフランス共和国美術作品選定委員会が棄却した1,500点の作品の中から約100点を選出して、これをブリュッセルの古典美術館の所蔵とし、かつてシャルル・ド&#65395;・ロレーヌ城のあった所に第一次古典美術館を設立して彼自身が初代館長として就任します。つまり、現在のベルギー王立美術館は、それ以来の長い歴史と伝統を持つ美術館ということであり、それは古典美術館と近代美術館という二つの部門から構成されています。そのコレクションは15世紀から20世紀までの広範囲に及び、ベルギー絵画の豊かな伝統と多様性を余すところなく伝えています。現在の収蔵点数は約20,000点にのぼり、ベルギー王国を代表する世界でも屈指の規模を誇る美術館です。


・・・この美術館が所蔵する秀作はロベール・カンパン(ca1410-1440)『受胎告知』、ハンス・メムリンク(ca1465-1494)『聖セバスティアヌスの殉教』、ピーテル・ブリューゲル(ca1527-1569)『ベツレヘムの戸籍調査』、ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748-1825)『マラーの死』、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)『セーヌ川、グランド=ジャット島で』、ポール・ゴーガン(1848-1903)『緑のキリスト』、フェルナン・クノップフ(1858-1921)『愛撫』など、数え切れないほどあります。ここで列挙した名画は、同美術館のパンフレット「20の名画」から抽出したものです。なお、その貴重なコレクションから、傑作を選りすぐった油彩70点とデッサン17点(東京会場のみデッサン39点)が、下記のとおりの日程で日本で公開されまました。


【東京】
 国立西洋美術館 2006年9月12日(火)〜12月10日(日)
【長崎】長崎県美術館  2007年1月6日(土)〜3月25日(日)
【大阪】国立国際美術館 2007年4月7日(土)〜6月24日(日)


<span style="font-weight:bold;">【画像2】グラン・プラスの風景</span>
[f:id:toxandoria:20080402114410j:image]

・・・グラン・プラス(La Grand-Place de Bruxelles、蘭語Grote Mark/1998年、世界遺産に登録)の風景で、正面は「ギルド・ハウス」、左は「市庁舎」です。


<span style="font-weight:bold;">【画像3】ガルリ・サンチュベール</span>
[f:id:toxandoria:20080402114451j:image]
[f:id:toxandoria:20080402114514j:image]
[f:id:toxandoria:20080402114538j:image]


・・・グラン・プラスの北東に続くガルリ・サンチュベール(Galaries St−Hubert/ヨーロッパ最古のアーケード街の一つ)で、1846-1847にかけて建造されたものです。続くニ枚は同アーケード街にある書店(左)とチョコレート店(Corne)。


<span style="font-weight:bold;">【画像4】グラン・プラスの「王の家」(la Maison du Roi)</span>
[f:id:toxandoria:20080402114710j:image]


・・・元々は、パン市場(12世紀〜)として使われてきた木造建築物で、オランダ語で「パンの家」(broodhuis) と呼ばれていました。が、15世紀頃に石造となり、ブラバンド公の行政庁が置かれたため「公の家」と呼ぶようになりました。やがて、支配者がスペイン王になるとそれは「王の家」と呼ばれるようになりました。カール5世(Karl V/1500-1558/ハプスブルク神聖ローマ皇帝)は、自分の塔をゴシック様式で建てさせますが、その建物は残っていません。今の建物は1875年にネオゴシック様式(ルネサンス以後続いてきた古典主義様式に対する反動で、18世紀後半〜19世紀に起こったゴシック・リバイバル運動)で再建されたものです。さらに、その建物は1985年に改築され、今は市立博物館として使用されています。


<span style="font-weight:bold;">【画像5】ブリュッセル中央駅</span>
[f:id:toxandoria:20080402114801j:image]


・・・「ブリュッセル中央駅」の正面です。


<span style="font-weight:bold;">【画像6】凱旋門</span>
[f:id:toxandoria:20080402114843j:image]


・・・サンカントネール宮殿(この中に王立美術館・王立歴史博物館などがある)の入り口にある「凱旋門」の風景です。


・・・・・・・・


<span style="font-weight:bold;">2006年夏の「小泉首相・8/15靖国参拝」以降、日本の政権与党の政治家たちの多くは、ひたすらポスト小泉の「過半以上の大衆が支持する勝ち馬」に乗るため戦前型の愛国心を求める錯誤の道をゾロゾロと歩んできました。この雰囲気は紛れもなく戦前のプロセス(国家主義と軍国主義の融合がリアルになり始めた1930年代)に重なります。ほぼ意図的に格差社会をつくりながら、「訳の分からぬ鬱屈した不満を持つ国民層の心を派手なパフォーマンスで煽るやり口」(=ファシズム愛好的手法)と「威嚇と暴力で言論を封じる手法」の組み合わせは民主主義国の良識ある政治家にとっては禁じ手であった筈です。


<span style="font-weight:bold;">このような流れを俯瞰すると、今の『アわわわわ〜福田政権』下で“混迷と見える政治状況”でさえもが、日本会議(参照、http://www.nipponkaigi.org/)など極右的勢力の一定の思惑で企図された路線上で計算しつくされたものに見えてきます。例えば、愛国心のコトバが教科書に盛り込まれることになり、不気味な勢力の圧力で映画『靖国』が自主・上映中止となり、NHK(国際放送)に対するNHK・古森経営委員長による“国益”要請の発言など、表現・言論の自由についての“世相の風”が妙に血生臭くなりつつあることは、その証左かもしれません。しかも、あれほど殆どボロボロ(深刻なモラル・ハザードで実戦配備不能!)状態の自衛隊を恒久的に海外派遣するための検討が超党派で進められつつあります(参照、毎日jp/自衛隊海外派遣:恒久法を今国会提出 福田首相、整備に意欲、http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080326ddm001010035000c.html)。


<span style="font-weight:bold;"><注記2></span>


<span style="font-weight:bold;">“福田総理『あわわわわ〜!』”については下記記事◆を参照してください。</span>


◆2007-12-08付toxandoriaの日記/福田総理が『あわわわわ〜!』で掻き消そうとする防衛疑獄と特別会計の闇の深さ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20071208


<span style="font-weight:bold;">一方、オランダ・ベルギー両国民が持つ、自国の「権力の牙(リヴァイアサン)の暴走」に対する警戒心は相当のものです。そのためにこそ両国では多様な法整備の充実が執拗に図られてきた経緯があり、拡大EUの根本にもそのような精神が生かされています。しかし、今の日本は全くその逆であり、口先では自由主義と民主主義を標榜しながら、一方で国民を縛り上げるための法整備に血道を上げ始めています。明治維新以降の「超国家的な意志を上意下達で知らしめるべし、一般国民は従順にそれを受け入れるべし」というアナクロニズム精神からビタ一文の進歩も見られません。しかも、このような政治的危機を真正面から批判するメディアは少なくなりつつあります。
</span>


<span style="font-weight:bold;">拡大EUへの船出が前途多難な要素を抱えている(やはり少子高齢化傾向の下でEU加盟各国は医療・介護費用の抑制が求められつつあるなど)とは言いながらも、今回の旅で目にしたブリュッセルにおける「EU District」建設の一定の効果が、環境政策や健全な民主主義ルールの維持というような局面で着々と現れつつあるようです。喩えれば、それはEUが一種の濾紙効果の役割を果たしつつあるということであり、“改革”の大義名分の下で一方的にアメリカ型グローバリズム(市場原理主義)に飲み込まれて格差と矛盾が拡大するばかりの日本の現状とはいささか異なります。やはり、その根本には彼我の「市民意識の質の違い」ということがあるようです。
</span>


<span style="font-weight:bold;">下のように悲惨な現状認識から生まれる大衆の空気が<民主主義国家としての成熟した批判精神>に向かわず、それどころか、むしろアホのような『アわわわわ〜福田政権』から<戦前型リヴァイアサンの暴走=独裁型の軍事ファシズム政権に支配され、一時的に、そこで過激な快感と喜びを得る被虐的マゾヒズム精神=“小泉劇場&安部の美しい国”などのバカげた芸能化政治のリバイバル>への転向であることにこそ、厄介な日本の悲劇の真相が隠れています。そして、おそらくその深奥部には<ホッブスのリヴァイアサン(=必要悪としての国家権力の飼い馴らし方についての倫理・哲学的論考)>に関する不勉強が祟ったことによる<基本的に右翼・保守・政治犯罪(軍需・道路利権等の腐敗した闇)の三者を安易に混同し、同一視するという精神の混濁現象>が、別に言うならば“老人性認知症に近い、しぶとく晦渋で深刻化する一方の宿痾と化したグロテスクな病巣”が根を張っているようです。</span>


<span style="font-weight:bold;"><現代日本社会の悲惨な現状認識></span>


<span style="font-weight:bold;">これほど悲劇的な「日本社会の劣化」をもたらした根本は「IT革命による凡ゆる業務の平準化、グローバル市場経済化(→経済のマネーゲーム化・・・渦中の米サブプライム・ローン問題は、その弊害の典型)、誤った自己責任論(公正・公共意識の放棄=異常分配システムの放任)」であることは明らか。そこでは、獰猛な<格差拡大の牙>が若年層と高齢者層を狙い撃ちしている。</span>


<span style="font-weight:bold;">しかも、問題はそれだけではなく中間層の崩壊(破壊!)も着実に進んでいる。言うまでもなく、このような「日本の悲劇」の始まりは「小泉劇場」(“竹中チーム”に導かれた!/参照、http://pokoapokotom.blog79.fc2.com/blog-entry-557.html)からで、その流れが「小泉→安部→福田」と殆ど無反省に受け継がれてきたことは周知のとおり。</span>


●<span style="font-weight:bold;">日本の中間層家計の破壊が過激に進行中</span>
・・・無貯蓄世帯数の割合が1/4→1/3へ漸近しつつある。


●<span style="font-weight:bold;">日本の総雇用者数6,400万人の約34%(2,200万人)が年収200万円以下へ転落</span>
・・・実に日本の総勤労者数の1/3強が「年収200万円以下」となっており、その殆どは20〜40代の非正規雇用者(パート、アルバイト、派遣社員など)と重なる。


●<span style="font-weight:bold;">107万に及ぶ生活保護世帯数で高齢者世帯が占める割合は約44%(しかも、これが拡大傾向!)</span>


<span style="font-weight:bold;">・・・以下はブリュッセルについての概要・・・</span>


今回は欧州連合(EU)の中心地としてのブリュッセルにスポットを当てます。古くは、神聖ローマ帝国の皇帝オットー1世の文書(966)にブルオクセラ(古オランダ語で“沼の家”、つまり沼沢地に造られた城の意味)という地名が残っています。やがて、この地はブラバント公国、ブルゴーニュ公国の中心地となります。そして、1515年に神聖ローマ皇帝に在位(1515−1556)する前のカール5世(ハプスブルグ家)が近隣の高台に居城を築いたためネーデルラントの首都としての位置づけが強くなります。


人口約100万人の都市、ブリュッセルは西ヨーロッパとベルギー(オランダから独立(1830)した直後1831年に制定された立憲君主制の憲法により国民の基本的人権と主権在民が規定され、議会制民主主義と三権分立の原則が確立されている/また、この時にベルギーはザクセン=コ-ブルグ=ゴータ公で英国ヴィクトリア女王の叔父にあたるレオポルト1世を迎え国王に推戴した)のほぼ中心に位置します。


ブリュッセルは、二つの異なる性格を抱き合わせた特殊な位置づけの都市です。その一つは、その形から「五角形」とも呼ばれることがある中心部(小環状線と呼ばれる地下鉄で囲まれた中心部の地区)であり、もう一つは連邦国家ベルギーを構成する三種類の自治体制(自治体政府)の総元締めとしてのブリュッセル首都圏です。そして、後者のテリトリーの周囲は「大環状線」と呼ばれる高速道路が走っています。また、「五角形」の東方にあるシューマン広場に面して「EU Distric」が建設されており、NATO(北大西洋条約機構)の本部がブリュッセル郊外から北東約4kmに位置するエヴェールに跨って立地しています。(参照/ブリュッセルの地図、http://multimap.com/map/browse.cgi?client=public&X=487500&Y=6562500&width=700&height=400&gride=&gridn=&srec=0&coordsys=mercator&db=BE&addr1=&addr2=&addr3=&pc=&advanced=&local=&localinfosel=&kw=&inmap=&table=&ovtype=&keepicon=&zm=0&scale=500000&multimap.x=355&multimap.y=204)


ブリュッセル中心部の目玉はヴィクトル・ユーゴーが“世界で最も美しい広場”と称賛したグラン・プラス(仏Grand Place、蘭Grote Markt、独Grosser Marktplatz)です。この広場に一歩足を踏み入れると、その広場を取り囲む歴史的建造物(市庁舎、ギルド・ハウス、王の家など)が、まるでシンフォニーを奏でているかのような感動を与えてくれます。この場所は11、12世紀頃の市場(いちば)に発祥しており、17世紀頃までの間に現在見られる壮麗な建造物が取り囲むことになりました。


広場の南西部にある市庁舎(Hotel de Ville) はブリュッセルを代表する建造物のひとつであり、15世紀のフランボワイヤン様式(ネオゴシック様式=後期フランス・ゴシック様式)の建物です。その中央の塔の高さは約96メートルあり、先端の像はブリュッセルの守護聖人である大天使ミカエルです。市庁舎の向かい側にあるのは「王の家」と呼ばれている建造物ですが、ここに王が住んだことはありません。


[f:id:toxandoria:20080402115056j:image]市庁舎に向かって左の小道を少し入った四辻に有名な「小便小僧の像」(Manneken-Pis)が立っています。この像は17世紀にJ. デュケノワによって作られたものですが、その物語の真偽はともかくも、それはブラッセル市民の迷い子になったある男の子が放尿してフランス軍を追い払ったという伝説に基づいたものです(<span style="font-size:small;">画像はhttp://kunisaki.blog69.fc2.com/blog-entry-24.htmlより拝借しました</span>)。


芸術の丘( Mont des Arts)は、ブリュッセルの下町と山の手を結ぶフランス式庭園の公園で市民の憩いの場であり、この南東の丘の上からの眺望は素晴らしいものです。その南西側には王立図書館が、東側にはベルギー王立美術館(Musees royaux des Beaux-Arts de Belgique)、パレ・デ・ボザール(コンサートホール)、楽器博物館などがあります。


グラン・プラスの北、約400メートルにある「王立モネ劇場」(La Monnaie / De Munt les Ateliers de la Monnaie)は通称「モネ劇場」と呼ばれ、300年の歴史と名声を誇るオペラ劇場(1700年、スペイン領オランダ総督の財務顧問でイタリア人のジオ・パオロ・ボンバルダがこの場所にオペラ、演劇、バレエのための会場を建造したのが始まり)です。ここは、ヨーロッパ屈指の劇場(座席数1,152)の一つに数えられていますが、それは伝統を踏まえつつEUの首都ブラッセルという地の利を活かして、あらゆる国の文化の流れを取り入れることに力を入れているからです。


例えば、異色の人材である高田賢三、アントワープ・モードのドリス・バン・ノッテン、クリスチャン・ラクロアなどをオペラの衣装デザイナーとして起用してオペラ界に新風を巻き起こしています。ここでは、オペラだけでなくコンサート・ダンス・ミュージカルなども公演されており、1992年にはローザス・ダンスカンパニーを迎え入れています。また、2002年には日本人指揮者・大野和士氏を音楽監督に迎えています。なお、「モネ劇場」の名の起こりは、この劇場の創設が造幣局の跡地で行われたことにあります。つまり、お金を意味する「ラ・モネ」(la Monnaie)から、このように名づけられた訳です。


・・・<span style="font-weight:bold;">以下は、[2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象](2006.8.23付、toxandoriaの日記)の「コメント&レス」の転載です</span>。“とむ丸”さま、“pfaelzerwein”さま(ベルギーに隣接するドイツ南西部のラインラント=プファルツ州に在住の方)、“anversoise”さま(ベルギーのアントワープに在住の方)から新しい、関連情報を頂いております。・・・


[コメントを書く] 


# とむ丸 


『toxandoriaさん、素敵な夏休みを過ごされたんですね。


外の世界から戻られて今の日本の惨状を悲しまれるtoxandoriaさん提供の、「新しい視点を発見できる一種の喜びの場」を楽しみにしております。


TBが送れません。駄文ですが、また私の所もご訪問ください。リンクさせていただきますが、よろしいでしょうか。』


# toxandoria 


『●とむ丸さま、コメントありがとうございます。テロ騒ぎの直後だったので内心はハラハラ状態でしたが、今回は行った甲斐が十分にあったと満足しております。やはりフランドル地方にはイギリス、フランスなどと違う“光と空気”がありました。


●たまたま、ベルギーに隣接するドイツ南西部のラインラント=プファルツ州 (Land Rheinland-Pfalz/州都、マインツ)に居住されるpfaelzerweinさまから、“まさに少し言及されているように、欧州では神話(国民主権のルーツに繋がる?)を為政者から如何に取り返すかが課題となっています。一つのポストモダーンの現象でしょうが、これがなされる事で、従来の民族主義と近代を克服出来るのではないかと言う期待もあります”というコメント(to→「toxandoriaの日記」の別バージョン)を頂き、下のようなレス(・・・ 〜 〜 ・・・)をお返ししたところです。


・・・オランダ〜ベルギー旅行(8/12〜8/22)から帰ったばかりです。この旅の印象は一言で語れませんが、「<span style="font-weight:bold;">人間性への洞察に満ちた“したたかなバランス”力」を見せ付けられたような気がしております。更に、そのヨーロッパで為政者から神話を取り返す動きがあるとは驚きです。それに比べ、我が日本の政治(貧弱な)環境を想うと暗澹たる気持ちになります。それどころか、今の日本は「権力による新たな神話の創造」という全く逆の方向へ向かい始めています。もはや過半の日本人はファシズムをすら求め始めているように想われます</span>。・・・


●ともかくも、帰国前に凡そ見当はついていましたが、約2週間ぶりで目にした、あまりの日本の“惨状”に驚いています。<span style="font-weight:bold;">一言では何とも言い難いのですが、比喩的に言えば日本という国の人格・品性、及び政治権力者&メディアの内外とのコミュニケーション能力が著しく劣化したような印象があります</span>。


●pfaelzerweinさまのブログ(下記URL)も覗いてみて下さい。そのコメント部分にpfaelzerweinさまから頂いた“希望のコメント”が書いてあります。
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/3efb59cb503b38d264978c74dad0bb19


●リンクの件は、こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。撮ってきた写真は数がかなり多くなりましたので、追々、少しずつ記事と関連させながらUPしてゆくつもりです。』


# anversoise 『はじめまして。数ヶ月前より、ときどき覗かせていただいてます。アントワープに住んでいるのに、情けなくなるほどフランドルのことを知らないで、悲しいです。やはり生活に追われているせいでしょうか。


もう少し余裕ができれば大学生のころ学んだ言語学をやり直したい、と思っています。


ちょっと、EUについて、思うことですが。現実的なこととして、ベルギー王国にとっては、ものすごい経済効果、なんです。でも富の分配の部分でベルギー一般人は、ユーロクラットのためだけのEUだ、とかなり不満気味。北と南の対立もからみ、ブリュッセルだけがいいとこ取りして、という北の不満もたっぷりのようです。


ちょっと気になりまして、書かせていただきました。』


# toxandoria 『anversoiseさま、コメントありがとうございます。アントワープにお住まいの方からコメントを頂き、不思議に懐かしい気がします。まだtoxandoriaの脳裏にはフランドルの空気が漂っているようです。


たしかにベルギーは国策として「EU District」を積極的に誘致したとの説明を聞いておりましたので、そのような傾向があるのでしょうね。やはり、ベルギーでもグローバリズム傾向の拡大による経済格差の問題ですね。


しかしながら、オランダとフランスのEU拡大憲法案についての“国民投票ノー”以降は、ユーロクラットたちの反省が見られる(=EU本来の理念である地域と市民利益への回帰傾向が見られる)とも聞いておりますので、次第に地域への配慮と還元が生まれるのではないでしょうか?


それにしても、今回の旅行で気がついたことは思っていた以上に物価が高いな、ということです。5〜6年前に行ったイギリス、フランスなどとの感覚的な比較なのであまり当てになりませんが、そんな印象が残りました。これもEU統合の副作用なのでしょうか? 物価安定もEUの大きな目標の一つだったと思いますが・・・。


フランドル(フランデレン)での言語事情にも興味があります。フランデレンでもフランス語はかなり使われるようになっているのでしょうか? anversoiseさまの“anversoise”(=アントワープ(英)、アントウェルペン(蘭))の表記法から連想してしまいました。


今後とも、現地のライブ情報をよろしくご教示くださいませ。』


# anversoise 


『ありがとうございました。少しはユーロクラットたちも反省をしたのですね。ちょっと安心。ユーロに切り替わってから物価が上がったのは、実感です。ご近所も、隣国諸国の知人、友人みんな言ってましたから事実だと思います。これを称して、ユーロ変換を利用したカモフラージュ的実質値上げ、と一時言われていました。それから、庶民的に不満なのは、ドーヴァー海峡を越えたかの国のポンドが強すぎること。ユーロスターがどれほど値下げのプロモーションをしてくれても、最近はロンドンは遠くなりました。


北部のフランデレンでは、成人した人のほぼ90パーセントくらいの人はフランス語を理解し、フランス語も話できるのですが、使用したがりません。私はオランダ語は小学一年生くらいの能力、仏語は大学生くらい、で、苦労します。それで、普段は英語で用を済ませています。そのほうがフラマンの方たちは気持ちよく接してくれます。


それから愚問なんですが、ベルギーって、小さいのに、3っつほど政府(?)があるんですか?ワロニーとフランデレンとブラッセルと。自分で勉強すべきなのですが、トライするたびにすぐ挫折します。そのうち子供に教えてもらうようになるのかもしれませんが、何かご存知でしたら、教えてください。住まわせてもらっていて言うのも何ですが、不可解な国です。隣人たちはもうすごくいい人たちばかりですが、政治の形態が理解できないんです。情け無い質問で、すみません。』


# toxandoria 『anversoiseさま、コメントありがとうございます。


ユーロスターといえば、4年ほど前にパリからロンドンへ行くときに乗りました。たしか、ブリュッセル〜ロンドンの列車もありますね。


フランデレンの殆んどの人々もフランス語ができるとは知りませんでした・・・、認識を新たにしました。オランダでもそうでしたが、ベルギーのテレビ放送にフランス語の局が多いことに不思議な感じを持っていたのですが、この疑問が解けました。しかし、日本からの旅行者としては、どこでも英語が通じるので助かりました。


ベルギーの人々はナポレオン以降になって初めて統一国家を持ったという事情から、日本のような統一国家の歴史が長い国とは異質な面があるような気がします。根本にはブリュッセルのフランス語系住民の支配者意識に対するワロニー人(フランス語系住民)の反発のようなものがあったようですね。このため“中庸”と“妥協”を意識的に前に押し出す必要があったのかも知れません。


これらの人種・言語問題があるため、おっしゃるとおり<span style="font-weight:bold;">ベルギーの行政システムは他国では信じられないほど複雑なものとなっているようです。1993年に連邦国家としての基本が完成し、さらに1970年の憲法改正で「言語別文化共同体」と「地域共同体」の二種類の行政体が創られたはずです。それにブリュッセル地域(二言語地域)が加わり三種類の行政体が絡み合う形になっているようです。これら三系統の共同体は、それぞれ独自の議会と行政府を持っており、文化・言語・地域に関する独自の法律の制定・施行が可能とされている・・・という具合に知識の上で理解できても、anversoiseさまのように実際にベルギーで生活しない限り実感は理解できにくいようです</span>ね。

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。