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[民主主義の危機]人生イロイロの「ワンフレーズ・ポリテクス」がノーベル平和賞に値するのか? 2008.1.24 <注記>お手数ですが、画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080123 【画像1】リスボン条約調印式の風景(ウイキメディアより) [f:id:toxandoria:20080123215633j:image] 【画像2】 Lara Fabian - Je suis malade( I am sick ) 日本が“あわわわわ〜!”の福田政権の下で“ブシャラフ化”(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080117)する一方で、あの軽薄な“小泉元首相にノーベル平和賞を受賞させようとする動きの胎動”がある、あるいは“安部元首相の復権を促すグループ(おそらく追憶のカルト一派らの工作グループ)が密かに結成された”など一般国民を小ばかにしたような怪しからぬ噂が、実(まこと)しやかに広がりつつあるようです。 しかし、日本の社会基盤を食い散らかした調子がいいだけの「ブッシュのポチ」がノーベル平和賞を受賞したり、まことに無責任な形で約4ヶ月前に「首相の職責を放り出して逃げた(職務放棄した)ばかりのダメ男」が再び首相候補として担ぎ出されたりする異様な有様では、只それだけで<日本株の大暴落>に繋がることは間違いがないでしょう。 このような国民主権を手玉に取るような政界の不遜な蠢きは『どこかの国で、異なる大学の二人の大学総長が“部下の女性職員らに対する強制ワイセツ(痴漢、強姦?)”で立て続けに逮捕された』という真に貧相でけったいな事件の背景に通底するものがあるかも知れません。 つまり、それは日本の政界・財界・学界・官界らパワーエリートらの精神的な劣化現象、彼らの品性の下劣化現象ということです。いや、それは“品性の下劣化”どころか、もはや“政界・財界・学界・官界らパワーエリートらの野獣化、ケダモノ化”というべきです。 例えば、財界のケダモノ化の事例としては『鹿島建設、キヤノン大分工場関連の架空外注費で6億円の裏金づくりの闇』の問題(参照、http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071210/crm0712101737020-n1.htm)があります。しかも、この問題は数十億円規模の闇に拡大しているようです(情報源:週刊ポスト・2008.2.18号ほか)。あるいは“薄汚い噂に事欠かない政界”で相変わらず目が離せないのは防衛疑獄・政界ルートの真っ暗闇です(参照、http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/169.html)。 ともかくも、このようなわけで、日本の社会から急速に“文明的・文化的な空気”が失われつつあるようです。どうやら、現代日本のパワー・エリートらは“日本が独立国であるということ”および、自らは一般国民の先頭に立って独立国家としての矜持を持ち続けるべきだ”という最低限度のモラル観念をすら捨て去ってしまったようです。 一方、2年前のオランダとフランスの国民投票の結果によって拡大EU憲法が頓挫したとき、日本の大方のパワーエリートらは『EUは死んだ!』とほくそ笑んだはずですが、それにもかかわらず、今や“市民参加型のEU構想の完成”は「リスボン条約の締結」によって目前の圧倒的な現実となりつつあります。 そして、ドイツとの和解による「フランス=ドイツ間の政治協力の制度化」の実現で後のEU統合への道を拓き、あくまでもフランスの偉大さにこだわり続けたシャルル・ドゴール(Charles A. J. M. de Gaulle/1890-1970)の以下の言葉(『大戦回顧録』の書き出し部分)が思いだされます。 【・・・私は、終生、フランスに関し、ある種の格別の考えを心に抱いてきた。私のそうした考えは、理性によるとともに、感情によって導かれている。・・・フランスは、第一等の地位にある場合にのみ、紛れもなくフランスといえるのである。・・・我が国は、他の諸国のなかにあって、存亡の危機にさらされても、高みを目指しつつ、まっすぐに立ち続けていなければならない。一言でいえば、私にとって、フランスは偉大なフランスでなければフランスではない。/出典:山田文比古・著『フランスの外交力』(集英社新書)】 ・・・・・以下は[2008-01-21付toxandoriaの日記/ララ・ファビアンと無縁な日本社会の異様な空気、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080121]へのTB&レスの再録です。・・・・・ [TB、kaisetsuさま to toxandoria](http://blog.kaisetsu.org/?eid=624404) ララ・ファビアンの魅力⇒Media Point性 2008.01.22 Tuesday ララ・ファビアンについて、海舌は、2007.10.17 に次のように書いた。 『toxandoria氏、御紹介のララ・ファビアンの歌声⇒とてもナイーブな情感を激しく揺さ振られる。 遠い昔には確かに在った情感が蘇ってくる。懐かしい。しかし、何処か不確かな情感。とてもナイーブだが、しかし、とても激しく情感を揺さぶる。ララ・ファビアン!』 ララ・ファビアン La Difference 2007.10.17 Wednesday この強い情感の根源的エネルギーの発信源について、やはり、toxandoria氏のコメントが参考になる。つまり、「ララ・ファビアンは千変万化のコトバがふさわしい位に雰囲気が変わる」。 つまり、ララ・ファビアンの個性とは、「千変万化」なのである。現象的「千変万化」と、精神的な「普遍性⇒哲学の一貫性」が、我々の心を揺さぶるのである。異なる個性の共存と対立の混在、「共振」状態が、Media Pointである。 まさに、e^Θi現象と精神の混在形式)= cosΘi現象界)+ isinΘi精神界):Θの変数化の具現化である。 『toxandoria の日記、アートと社会』2008-01-21 ララ・ファビアンと無縁な日本社会の異様な空気 (抜粋) それにしても、ララ・ファビアンは千変万化のコトバがふさわしい位に雰囲気が変わるので、歌というよりも、まるで“名優の演技かドラマの一コマ”を観ているような気にさせられます。もっとも、You Tubeで見たり聴いたりするかぎり、そこでは新旧おり交ぜての画像がUPされているので、いろいろな年代のララ・ファビアンを同時(simultaneously)に観るという不思議なことになっている訳です。 [レス、toxandoria to kaisetsuさま]2008/01/22 21:28 kaisetsuさま、TB(ララ・ファビアンの魅力⇒Media Point性)ありがとうございます。 “精神的な「普遍性⇒哲学の一貫性」が、我々の心を揺さぶる・・・・・異なる個性の共存と対立の混在、「共振」状態が、Media Pointである”に全く同感です。 ところで、何事につけ、“欧米は〜〜”というコトバの使い方で両者を一緒くたに論ずる向きが一般に多いようですが、“欧州”と“米国”は根本的に異なっており、“米国”は“欧州”の土壌から生えた徒花のようなものだと思います。 “欧州”は“異なる個性の共存と対立の混在、「共振」状態”ですが、“米国”で主に見られるのは「異なる個性の競争と孤立、そして狂騒」状態だと思います。そして、ララ・ファビアンの魅力は明らかに前者に根づくものです。 つまり、このような米国型の「競争・孤立・狂騒」状態に毒された日本でララ・ファビアンの魅力が理解されないのは無理からぬことなのかも知れません。 |