メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[参考情報]サブプライムローンが炙り出した日本政府(小泉劇場→安倍の美しい国)の根本的誤謬  2007/09/02


[参考情報]サブプライムローンが炙り出した日本政府(小泉劇場→安倍の美しい国)の根本的誤謬
2007.9.2


[本 題][Souvenir Ser.]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ編1

<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070901

<所 見>


●当記事の初出は[2006.9.18付/2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ編1]です。理由は分かりませんが、そのオリジナル記事が“文字化け状態”となっていました。そこで、折角なので昨年夏(7月の)『オランダ・ベルギー旅行記』のすべてを[Souvenir Ser.]として再録することにしました。


●記事全体をそのまま転記するか、あるいは必要に応じて誤記訂正、加除・追記などの手を入れながら[Souvenir Ser.]シリーズとして再録してゆきます。丁度、8月下旬に『ドイツ旅行記シリーズ』が終わったところなので、比較すべき観点などがあるかも知れません。


●ホイジンガ(Johan Huizinga/1872-1945)が「レンブラントの時代」と名づけた17世紀オランダの黄金時代にもバブル(チューリップ・バブル)の記録が残っており、レンブラントとフェルメールもその被害に巻き込まれた可能性があるようです。


●今、アメリカ発の不動産バブルの崩壊(サブプライムローン問題)が株式・金融関連市場のみならず全世界の実体経済へ暗い影を落としつつあります。今は、17世紀オランダの黄金時代とは到底比較にもならぬほど巨大化したグローバル市場主義経済の時代ですが、バブルをもたらす根本的なメカニズムについては未だ十分に理解されたとはいえないようです。


●例えば、かつてアメリカの著名なジャーナリストであるトーマス・フリードマン(Thomas L. Friedman/1953- /ニューヨークタイムズで国際関係を担当するコラムニスト)は、グローバリズム経済を讃える著書『フラット化する世界』(The World is Flat、2006)で“国境を越える企業の活発な投資活動が古典的地政学の対立を抑制する”(つまり、ゆくゆくは貧富差の拡大も抑制される)と主張しました。恰も、それは新自由主義思想による予定調和的な世界平和論のようです。


●しかし、ここ一両日のサブプライムローンを巡る出来事で、このように楽観的なトーマス・フリードマンの主張は見事に裏切られました。なぜなら、今回のサブプライムローン問題の拡大を懸念したブッシュ政権が「小さな政府」(=新自由主義思想)の政策に根本的に違反する、ある意味では新自由主義政策にとって禁じ手である<住宅ローンの借り手(弱者)救済策>へ大きく舵を切らざるを得なくなったからです。


●サブプライムローン(低格付け消費者に対する超高金利住宅ローン/その規模は130〜150兆円程度とされ、少なくともその1割程度が既に不良債権化したと看做されている)問題の根本には、この10年で経済のパイ(GDP規模)が約1.7倍に増えたにもかかわらず、家計所得の中央値が1999年をピークに低迷しており、かつ上位1割の階層が全米における富の7割を占有するまで深刻化したアメリカにおける「中間層の没落」と「極端な貧富差の拡大」という悲惨な現実がかかわっています。


●考えてみれば、市場経済には神ならぬ“弱肉強食の生存競争”という悪魔(=市場のダークサイド)が巣食っています。いや、敢えて言うならば<人間が生きる修羅場>には疑いなく“神と悪魔”が共存しており、この現実から目を逸らすことは許されないのです。だからこそ、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes/1883-1946)はグローバリズム市場における資本主義の適切な管理で「悪魔的な効果」を抑制し、「神的な効果」を引き出すことを重視したのです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070826)。


●ところで、アメリカ(UCLA)の経済学者ジャック・ハーシュライファー (Jack Hirshleifer/1925−/不確実性、情報、投資の関係を探求)の炯眼は、「人間が政治的な闘争を好む」理由について次のように述べています(出典:2007.8.18・朝日新聞『格差問題の真相』)。これは、だからこそ市場の見えざる手に任せつつ、市場を通した予定調和的平和の実現へ向かう方が効率的だという文脈で語られているようです。


『持つ者、持たざる者のいずれにとっても、生産活動に真摯に取り組むより、政治的な闘争(それがナショナリズムへ傾斜すると戦争へ接近?)へ参加する方が合理的な選択になるという現実がある。自分で生産できるものはたかが知れているが、政治的な闘争技術を磨くことによって政府の再分配政策を変化させ、利益を手に入れることができれば、その方がずっと割がいい。』


●しかしながら、結局、このハーシュライファーの炯眼は全く逆の文脈の中に置くこともできそうです。つまり。新自由主義思想が唱えるごとく市場の成り行きのままに放置すれば、「見えざる神の手によるパイの増大→トリクルダウンによる貧者救済の実現」などはカルト化した市場原理主義者の戯言に過ぎないということです。そして、奇しくも渦中のアメリカ発の「サブプライムローン問題」は、ブッシュ政権に対して、このようなシビアな現実(ハーシュライファーの炯眼を逆の文脈の中で読まざるを得ないという厳しい現実)を突きつけてしまったようです。


●それよりも、第二次世界大戦後のドイツのように真摯な歴史への反省に基づく漸進的な学習を大切にするミメーシス的発想(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070828)による再分配の調整(個々の国家の役割)へ注力して市場機能の“悪魔的な性質(ダークサイド)”を合理的に制御するという方向こそが賢明であり、ひいては地球環境・地球資源の壊滅的な浪費に歯止をかけることができると思われます。近年における日本政府(小泉劇場→安倍の美しい国)の根本的誤謬は、このような意味での根本的理解を欠落しながら、そのことを偽装的手法で誤魔化しつつ、口先だけで“地球環境、国際貢献、平和、テロとの戦い”などのコトバを国粋主義的でアナクロな心中から吐き続けてきたことです。


●ところで、資本主義についての管理技術は「政治・行政的な意味での国家によるガバナンス」、「科学合理的な意味での生産技術」、「市場で競争相手を出し抜く技術」の三つに分けることができます。前の二つについての説明は不要と思いますので、三つ目の「市場で競争相手を出し抜く技術」について考えてみます。


●先ず、それを具体的に見るなら、例えば「a 企業レベルでの権力闘争技術」、「b 情報の非対象性を操る技術(顧客を巧妙に誘導する技術)」、「c 政治権力を篭絡・操縦し、より効率的に利益を誘導する技術」、「d トリック的手法で法を破る技術(談合・カルテル等)」などが考えられます。


●これらの中でも特に「c 政治権力を篭絡・操縦し、自社にとって、より効率的に利益を誘導する技術」は最も大きなメリットをもたらします。つまり、「利益競争」を「政治の場面」へ置き換えることができるならば、その方が利益獲得のため遥かに効率的だという訳です。かくして、ビジネスも政治工作と政治的な権力闘争に深くかかわることになります。

●そして、この「c 政治権力を篭絡・操縦し、自社にとって、より効率的利益を誘導する技術」(アンフェアーな技術)の肥大化こそが、「中間層の没落」と「極端な貧富差の拡大」という現代民主主義社会の全体ににおける二大デメリットの大きな供給源であることが分かります。具体的に言えば、それは各種の政府審議会などで跋扈する<政商的財界人と御用学者らの増殖>ということです。

(参考資料)


米住宅ローン(サブプライムローン)問題 米政府、借り換え支援(借り手救済、大統領が発表/米、政策を総動員)http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2007090102045486.html


●また、今こそ(記事の終わりの方で、その歴史的背景に触れますが)、我われ日本人は、1600年(慶長5年)の「リーフデ号の豊後(大分)漂着」から数えると延べ400年を超えることになる「日蘭交流史」の重みを真剣に受け止めるべき時代になったと思われます。なぜなら、オランダの日本学研究者たちの中では、既に約10年ほど前から、<近年における日本の宗教・文化・社会・政治を巡る研究姿勢が内向化(国粋化・極右傾化≒歴史修正主義化)していること>に懸念を表明する向きがあったからです。


●つまり、オランダの日本学研究者たちは、我われ一般の日本国民やメディアが気付くよりも前のかなり早い時期から<小泉劇場→安倍の美しい国>へ至る『日本政治の(偽装)極右政治化』への懸念を深めていたようです。当然ながら、このような日本政治の極右化(=極右派政治家らの根本的な次元での民主主義についての誤解)への懸念はドイツのアカデミズム、メディア、政治家らの多くも共有しているように思われます。


【画像の説明】


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一枚目は、あまりにも有名なレンブラントの大作『夜警』(1642/Oil on canvas 359ラ438cm Rijksmuseum、Amsterdam)です。この絵画はオランダの宝であり門外不出です。


今、当館は当美術館史上で最大規模の改修工事を行っているところですが、『夜警』を含めた主要な収蔵作品は本館併設の「フィリップス棟」に展示されています。レンブラントは、この作品で17世紀にオランダ国内を風靡した集団肖像画に決定的な記念碑を打ちたてました。少し古い記事ですが、この作品へのオマージュのつもりでtoxandoriaが過去に書いた記事の一部を若干見直しつつ下[◆]にコピペしておきます。二枚目、三枚目はこの「国立アムステルダム美術館」の外観です。


◆「2004.4.15、『オランダの光』の伝説(6/6)-1」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050324
、より部分転載(一部記述を修正)


・・・・・


17世紀に入った頃のオランダで、後世に大きな影響を与えたという意味で注目すべき風景画家が現れます。実景に即しつつ抑制的な単色に近い色調で、かつ恰も写真のようなリアルさで描く「単色様式(単色色調様式)の風景画」を確立したサロモン・ファン・ライスダール(Salomon van Ruisdael/ca1600−1670)とヤン・ファン・ホイエン(Jan van Goyen/1596-1656)の二人です。


しかし、この二人のうちヤン・ファン・ホイエンは、チューリップ・バブルに首を突っ込んだ不運な画家です。画家として成功したホイエンは、稼いだ金をチューリップ相場に投資しますが、結局はバブルの崩壊で破産していたのです。そして、ホイエンはチューリップ・バブルの崩壊から20年後の1656年に世を去りますが、その時点でも未だ897ギルダー(現価換算で約1,800万円)の負債が遺族に残されていました。気の毒にも、それまでの間、ホイエンは巨額の負債の返済のために優れた風景画をせっせと描き続けたことになるのです。


チューリップ・バブルが発生したのは1634年ですが、この頃のレンブラントは“サスキアとの結婚、アムステルダムの市民権獲得、聖ルカ組合(アムステルダムの画家組合)入会”と順風満帆でした。その2年前には、彼の名声を一気に高めた『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』(http://www.abcgallery.com/R/rembrandt/rembrandt114.html)を完成させています。そして、1639年にレンブラントは1.3万ギルダー(現価換算で約26,000万円)の大邸宅(現在の記念館「レンブラントの家」(Rembrandthuis))を購入しています。


しかし、この邸宅を買ってから14年後、レンブラントが47歳になった時に8,470ギルダー(現価換算で約17,000万円)の未払い金を請求されて、更に9,180ギルダー(現価換算で約18,000万円)もの借金をしています。ピーク時には年収が0.5万ギルダー(現価換算で約10,000万円)もあったとされるレンブラントは、どのように帳尻を合わせていたのでしょうか。レンブラントがホイエンのようにチューリップ相場に手を染めたかどうかは分かりません。


ともかくも、オランダのみならずヨーロッパ中に名声を馳せたレンブラント工房の巨人(マイスター)は、破産状態で63歳の生涯を終えたのです。破産で生涯を終えたということではフェルメールも同じです。彼の妻の証言記録によれば、晩年のフェルメールは兼業していた画商の仕事も「第三次英蘭戦争」の余波を受けて不振となり、11人の子どもを抱えた生活が困窮したまま病で生涯(享年43歳)を閉じています。フェルメール没後の一家は破産宣告を受け、絵も含めたフェルメールの全財産は競売になりました。


17世紀「オランダの光」の代表者といえるレンブラントとフェルメールが、ともに家計の経済バランスを失ったまま生涯を終えていますが、このことによって彼らの作品の芸術価値が貶められるとは思われません。それどころか、神の領域に到達したかと見紛うばかりの高い精神性と優れた表現技術の水準まで達しながら、一方では今でも万人を驚嘆させるほどの冷静な視線で現実を直視し続けたレンブラントとフェルメールの、リアリズムの頂点を極めた美の造形は猛スピードでモノカルチャー化する一方の社会環境の中で混迷と不安の度合いを高めつつ生きざるを得ない我われ人類に対し、何か未知の希望の「光」を未来から照射しているように思われます。


レンブラントとフェルメールの芸術が、今も、このように世界中の多くの人々の心の奥深くに限りなく浸透し得る個性的なミメーシスとアウラの創造を求めて自らの芸術家としての孤高な精神環境の中で悲惨ともいえる格闘を続けたこと、そして、彼らがその自らの決して幸せとはいえぬ人生を真摯に生き抜ぬいたという歴史と比べれば、ひたすら私腹を肥やすことと意地汚く権力と家産(私的財力)を保守することだけにしか目が向かず、拝金原理主義のデミウルゴス(demiurgos)を唯一の絶対神として崇める、まるでカルト化したような「市場原理主義」に嵌った現代日本の寄生政治家たち及び軽薄な見栄え、偽装的パフォーマンス、口先三寸で無垢・善良な国民を誑かしつつ、まるでリフォーム詐欺師でもあるかのように国民一般を日銭稼ぎの道具と見做す悪徳政治家、悪徳官僚、御用マスコミ人、御用財界人らの酷薄で悪辣な魂胆こそ貶められて然るべきです。


・・・・・


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四枚目は、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)の世界最大のコレクションを有する「アムステルダム・ゴッホ美術館」(VAN GOGH MUSEUM/http://www3.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?lang=en)の新館のイメージです。これは専ら特別展示に使われる建物ですが、日本の黒川紀章氏の設計で1999年にオープンしたものです。


たまたま、今は『日本の季節展/日本帝国の不思議、カリリ・コレクションの明治美術』(Japanse Zomer/http://www.holland.or.jp/nbt/holland_feature_articles_2006.07.htm)が開催中です。イラン出身の富豪でケンブリッジ大学(ニューカレッジ)教授でもあるカリリ博士の膨大な日本コレクションの中から厳選された200点が展示されており、まさに圧巻です。幕末〜明治期の日本美術がゴッホへ与えた影響が大きいというだけでなく、オランダを始めヨーロッパ諸国が日本の伝統美術へ向ける並々ならぬ関心が窺えます。


<参考>


The Khalili collection was assembled by Professor Nasser D. Khalili. ?orn in Iran in 1945, the scholar, patron and businessman has assembled several impressive art collections in the last forty years, from Islamic art and Spanish metalwork to Swedish and Indian textiles. ? His collection of Meiji art comprises some 2,000 items. ?he entire Khalili collections comprise more than 25,000 objects.
http://www.orinst.ox.ac.uk/nme/nesp/visiting.htm


五枚目は「国立アムステルダム美術館」の遠景ですが、左の建物はこの「ゴッホ美術館・別館」の裏手部分です。六枚目は、『日本の季節展/日本帝国の不思議、カリリ・コレクションの明治美術』のポスター・イメージで、七枚目は「ゴッホ美術館」所蔵のゴッホが描いた『花咲く梅ノ木(広重作品模写)』(1887 oil on canvas/Japonaiserie: Plum tree in Bloom (after Hiroshige). September-October 1887. Vincent van Gogh Foundation, Rijksmuseum Vincent van Gogh.)です。ジャポニスムへ大きな関心を向けたゴッホですが、浮世絵の明るさ、鮮明な色彩、ユーモラスな滑稽味が感じられる細部の描写が特に気に入っていたようです。


八枚目は、「ゴッホ美術館」の方から名高い「コンセルトヘボウ」(Concertgebouw)を望む景観です。これは、1888年に開設された世界で最高の音響設備を誇るコンサートホールです。当然ながら、世界三大オーケストラ(ウイーン、ベルリン、コンセルトヘボウ)の一つである「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」の本拠地です。


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九枚目は、「アムステルダム中央駅」のイメージです。あいにくの悪天候で撮影に失敗したためフリー画像を借用しました(by フリー画像http://www.h3.dion.ne.jp/~aqua21/kabegami.htm)。建てられたのは1889年(明治22年)で、東京駅・丸の内駅舎のモデルになったとされています。ここから「旧証券取引所」(Beurs van Beritage/現在は、「オランダ・フィルハーモニー管弦楽団」の本拠地となるホール)を通り、観光の拠点となる「王宮」(Koninklijk Paleis/17世紀のオランダ連邦共和国・独立の時に建てられた市庁舎を王宮と呼ぶ/代々の国王の使用を経て、今は迎賓館)がある「ダム広場」まで徒歩で10分位です。


十枚目は、「聖カタリナ教会」の別名を持つ、14世紀末に建てられた後期ゴシック様式の「新教会」(De Nieuwe Kerk Amsterdam)で、「旧教会」に次いで造られたためにこう呼ばれます。1814年以降、この教会では国王の戴冠式が行われています。未だに塔の一部が未完成のため工事中の姿です。十一枚目は、同教会周辺の景観です。十二枚目は、この新教会のすぐ西側を流れる運河の風景です。なお、「ダム広場」(Dam)の北東約500m位のところに「旧教会」(Oude Kerk)があります。13世紀から建設が始まり、途中に都心での「新教会」の建設で遅れ、完成するには15世紀頃までかかりました。また、最後の修復が終わったのは1998年です。ルネサンス期のステンドグラスやパイプオルガンなどが見所となっています。


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十三枚目の右手前で人ごみが見える建物は「アンネ・フランクの家」(Anne Frank Huis)の“入り口”付近の風景です。アンネ・フランクは、第二次世界大戦中にナチス・ヒトラー政権の迫害を受けたユダヤ人の一人です。彼女の一家8人は、ナチスの目を逃れ1944年7月から1944年8月までのあいだ、この一角の建物に潜んで生活しました。隠れ家のある建物は「後ろの家」にあり、「前の家」は父オットー・フランクの会社のオフィスでしたが、1941年以降はユダヤ系市民は会社経営も禁じられていたため、オットー・フランクは別人の名前で会社を登録していたのです。しかし、1944年8月4日、何者かがゲシュタポ(秘密警察)へ密告したため、一家はアウシュヴィッツへと送られることにな
ります。


13世紀頃、ザイデル海(今はエイセル湖となっている)の入り江に注ぐアムステル川の河口の湿地帯に漁師たちが定住するようになります。彼らは海岸に堤防を造りますが、やがて海水の逆流を防ぐため河口にダムを築きました。これがアムステル「ダム」の始まりとされており、十四枚目は、その初めてダムが築かれた場所と言われる辺りの風景です。やがて、この小さな漁村は発展を続け、1275年には領主ホラント伯から都市の特許状を受けています。ここは「ダム広場」にも近く、アムステルダムの名も、この最初のダムに始まるとされて
います。


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十五枚目は、「ダム広場」から更に徒歩で10分ほど南下したところにある「ムント塔」です。この「ムント塔」は、15〜17世紀までは市内の見張塔でしたが、1620年の大火で防壁が消失して塔だけが残りました。現在は、アムステルダム中心の交差点のシンボル的な存在です。なお、“ムント”(硬貨の意味)と呼ばれる訳は、1627〜1628年頃、ここでネーデルラント連邦の硬貨が鋳造されていたためとされています。


この「ムント塔」と運河を越えた西側には、有名な「シンゲルの花市」(花屋は、すべて運河に浮かぶ船の上にある)があります。この花市と反対に、「ムント塔」の東へ向かうと直ぐに「レンブラント広場」に出ます。この広場の東側の運河を越えたところに「レンブラントの家」(Rembrandthuis)があります。十六枚目は、アムステルダムの運河クルーズをするボートが並んだ船着場の風景です。


十七枚目は、アムステルダムで最も古い伝統を誇る「ガッサンダイヤモンド工場」(Gassan Diamondsd、http://www.holland.or.jp/nbt/holland_amsterdam_no2_gassan_diamonds.htm)の建物です。ガッサンダイヤモンドは「ファイヤー」と呼ばれるダイヤモンドの炎の様な輝きを引き出す最高峰の研磨技術を育てた19世紀の旧蒸気駆動式研磨工場を持っており、今もその伝統の技術が生きています。なお、ベルギー(アントワープ)編で触れませんでしたが、加工ダイヤ取引の中心地としてのパワー(取引量)は、今はアントワープの方がアムステルダムを凌駕しているようです。いずれにしても、オランダ・ベルギー両国の加工ダイヤモンドの取引量は合わせると今でも世界の90%を超えるようです。


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十八枚目は、アムステルダム中央駅から南下すること徒歩で約20分の距離(ローキン通りとレンブラントの家の中間辺り)にある「アムステルダム大学」(University of Amsterdam HP、http://www.uva.nl/index.cfm/la=en/th=main)のロゴマークです。「アムステルダム大学」のすぐ北側には、今は同大学の施設の一部となっている「東インド会社の建物」(Oostindisch Huis/16〜18世紀のオランダが東インド植民地や日本からの茶・銀・香辛料などを扱った独占的特許会社)があります。


アムステルダム大学は1632年に「Athenaeum Illustre」(アテナイオン学園)として出発し、1877年に現在のようなアムステルダム大学となりました。現在は、7学部で学生数が2万人強の総合大学となっています。なお、オランダで最古の大学はライデンにある「ライデン大学」(1575年創設)です。ライデン大学(Universiteit Leiden、http://www.leidenuniv.nl/)は、「オランダ独立戦争」(1568-1648)で、長期にわたりスペイン軍に包囲されましたがよく耐えて、オラニエ公ウイレムの救援で漸く解放されます。このため、ライデン市民たちの勇敢な抵抗運動を称えて「ライデン大学の創設」がオラニエ公から許されました。


その後、ライデン大学はカルヴァン派の中心となりますが、一時、アルミニウス派(予定説を認めない立場)の拠点となったため激しい宗教論争と学者らへの迫害などが起こりますが、カトリック側の対抗宗教改革に対峙する学術保護のため17〜18世紀には人文学・天文学・解剖学・植物学・物理学・化学などの部門をもつヨーロッパで有数の大学となります。1885年(明治18年)には「日本学科」が設立されたこともあり、今やライデン大学はヨーロッパで屈指の日本研究(及び日本語教育)の拠点・窓口となっています。


幕末には西周、榎本武揚、津田真道らが留学(1862-1865)し、1851年にライデン大学で最初の日本語教授となっていたJ・J・ホフマン(Johan Joseph Hoffman/1805-1878/シーボルトの大作『日本』の編集・刊行に協力/日本書のオランダ訳の刊行にも尽力し、特にその著書『日本文法、Japansche Spraakleer』》(1867)は画期的な労作)は彼らから日本語を学んでいます。ライデン大学の文学部に所属する「日本学センター」(スタッフ約25名、学生数約350名)には膨大な量のシーボルトが持ち帰った貴重なコレクションがあります。


1600年(慶長5年)の「リーフデ号の豊後(大分)漂着」から数えると、延べ400年を超えることになる「日蘭交流史」の重みを我われ日本人は真正面から受け止めるべき時代になったと思われます。なぜなら、今、オランダの日本学研究者たちの中では、近年における日本の宗教・文化・社会・政治を巡る研究姿勢が内向化(右傾化)していることに懸念を表明する向きがあるからです。彼らの日本研究方法の特徴は、徹底した“原資料主義・原典主義・現地言語主義”の伝統に則っていることです。この意味で、オランダの日本研究は今でもヨーロッパの窓口であることを侮るべきではないと思われます。


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十九枚目は、1639年から1658年までレンブラントが住んだ家で(大作『夜警』もここで描かれた)、今は記念館として公開されているの「レンブラントの家」(Rembrandthuis)の外観イメージ(by ARTNET NU de Site voor Kunstminnaars HP、http://www.galeries.nl/mngalerie.asp?galnr=1624&vane=1&sessionti=683186241)です。

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