新聞報道によれば、ある青少年研究所が先ごろ日本、アメリカ、中国の高校生に対して「尊敬する人」に関するアンケート調査を行ったが、その結果、日本の15の高校の1303人の回答の中で、第一位は父親、第二位は母親で、アメリカの13の高校の1051人の回答の中で第一位は父親、第三位は母親だったのだそうだ。ところが、中国の22の高校の2201人の回答では、第十位が母親、第十一位が父親だったという。
いつから「尊敬する人」は、未成年の学生だけに対する設問になったのだろうか?中国の小中高の教師は、しばしば学生に「私の尊敬する人」というような題の作文を書かせる。日本の大学生も、就職面接の練習のとき、同じような内容を自問することが多い。だが、而立の年(30歳)になり、不惑の年(40歳)になった人々にとっては、中国にしろ日本にしろ、「尊敬する人」について言及するのは少々照れくさいものだ。
数日前のある静かな夜、自分の人生の半分近くを過ごしてきた日本での日々に思いをめぐらせていた時、ふと、何人かの日本人が、かつてその人柄の、ある輝かしい面によって、私の心を強く感動させ、流れる河のような人生の静かな水面に、容易に静まることのないさざなみを立てたことを思い出した。
世界中に名声を馳せている建築家・プロダクトデザイナ−は、新しい事物に対して常に尽きない興味を抱き続け、その旺盛な好奇心が彼の果てしない創造の源泉を掻き立てている。50歳を超えて起業したある社長は、各方面の有識者に対して常に温かく心を開き、それによって多くの人望と堅実な発展の基盤を得ている。道を歩いていても思いついたことを手帳に書き留める勤勉なある翻訳家は、このたゆまぬ努力と責任感で一流企業の信頼を獲得している。まだ若いが、「世界一周」をしていたある友人は、温厚な人柄と不屈の行動力で、奇跡とも思えるようなすばらしい成果を上げている。……心からの偽りのない気持ちで、彼らはみな私が最も「尊敬する人たち」なのである。
歴史上の人物は、年代があまりに離れているし、毀誉褒貶も定まらない。また現代のスターたちも、空虚な華やかさばかりであるか、スクリーンのイメージと現実生活がまったく違っていたりで、大人たちはもはや、純粋な子供のように彼らを軽々しく崇拝したりする気分にはなれない。だが我々の日常生活には(育ててくれた両親も含めて)、年齢や性別に関係なく「尊敬」に値する人々が必ずいるものだ。我々は彼らを、この「尊敬する人」という言葉で呼ぶよりも、彼らが与えてくれた人生における感動を自分自身の成長の原動力に転化していかなければならないと思う。 |