メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[レーゲンスブルク編]  2007/06/12


[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[レーゲンスブルク編]
2007.6.12


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070612


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より
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ドイツの河川図(ウイキペディア)より
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レーゲンスブルクのプロフィールと地理


“美しい国”あるいは“美しい星”などの浮ついた美辞麗句が踊る割には、なぜか気ぜわしくウソ臭く詐欺的な閉塞感が広がるなか国民にとって最も肝心の“年金・福祉・医療・教育”が蔑(ないがし)ろにされている日本に比べると、<2000年の古都・レーゲンスブルク>に代表される“地道ながらもシッカリと地に足がつき、充実した市民の生活時間がゆったりと流れるドイツの空気”は羨ましいかぎりです。


その“恥さらしな美しい国”(参照、『toxandoriaの日記』/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070604、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070609)の安倍総理は、終わったばかりの「ハイリゲンダム・サミット」で自らが果たした役割と成果)を自画自賛しているよう(ブッシュとメルケルの仲を取り持ったつもり?)ですが、物理学者でもあるメルケル女史(ホスト国、ドイツの首相)の冷静で緻密な論理性と本物の人間性があればこそのハイリゲンダム・サミットであったことを忘れるべきではないようです(参照、下記★/安倍首相についての海外ジャーナリズムの誤報)。


★ニューズ・ウィーク誌まで“大誤報” 安倍首相、遺憾の意?(FujiSankei Business )、http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200706110002a.nwc


ところで、未だ日本には余りよく知られていないドイツ・バイエルン州の都市、レーゲンスブルク(Regensburg)の位置は下図(赤点および赤星の場所/ミュンヘンから北へ約140Km/バイエルン州東部、オーバープファルツ行政管区の中心都市)のとおりで、ドナウ川の畔(ほとり)にあります。その歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める古都(第二次世界大戦の被害を免れた数少ないドイツの歴史都市、ドイツで最も保存状態のよい古都)でユネスコの世界遺産にも登録されています。近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタット(Ingolstadt/自動車メーカーAudiの所在地、http://www.audi.com/audi/com/en2.html)があります。


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レーゲンスブルクの中心にある旧市街(Altstadt)には13〜15世紀の歴史的建造物が多く現存しています。 街の中を流れるドナウ川に12世紀に架けられたシュタイナーネ橋(Steinerne Brucke/石橋の意味)は レーゲンスブルクの発展に大きく寄与した歴史的建造物として街のシンボルとなっています。 レーゲンスブルクの郊外にはBMW、Siemensなどの工場があるため 旧市街の景観保存が重要課題(1970年代から厳しい保護条例が制定)とされており、建造物の修復についても熱心な取り組みが行われてきました。 またレーゲンスブルクでは、 目に見えないような細かい修復であっても、 必ず伝統的な顔料や方法を用いるというドイツの中で最も厳格な要求水準を満たしています。 


レーゲンスブルク大聖堂(聖ペテロ大聖堂/Dom St. Pete)の風景
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レーゲンスブルク大聖堂・内部の風景
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[f:id:toxandoria:20070612072117j:image]http://www.bistum-regensburg.de/borPage000393.aspより


ドイツのゴシック教会の代表であるケルン大聖堂と似ているとされるレーゲンスブルク大聖堂は二本の尖塔(高さ105m)を持つゴシック教会ですが。ケルン大聖堂の重厚さよりも、フランスのシャルトル大聖堂のような軽快さが感じられます。この大聖堂の建築は13世紀に始まっており、16世紀には大体の形ができていましたが尖塔が完成したのは19世紀に入ってからです。大聖堂・内陣の窓は14世紀のもので、その美しいステンドグラスの前ではレーゲンスブルク少年合唱団(詳細後述)のミサが行われます。


ケプラーの家
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ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler/ 1571-1630)が晩年に住んだ家が残されています。ケプラーは、レオンベルグ(Leonberg/シュツットガルト(Stuttgart)近郊)に生まれ、レーゲンスベルグで晩年を過ごしました。周知のとおり、ケプラーは神学・数学も学んだ天文学者です。1577年の大彗星を見て感銘を受け天文学を志し、1589-1596年にチュービンゲン大学で神学等を学び学位を取得しますがプロテスタント(ルター派)のため神学活動はできませんでした。


グラーツのギムナジウムで数学と天文学の講師を務めましたが、そこも追われることとなり、放浪の後にプラハに招聘されていたティコ・ブラーエ(Tycho Brahe/1546-1601/デンマークの天文学者)の弟子となり、ブラーエ死後の1601年に観測データを整理して「ルドルフ天文表」を完成し(1627)、やがて「ケプラーの3法則」を発見することになります。 


シュタイナーネ橋(Steinerne Brucke)の風景
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街の中を流れるドナウ川に12世紀に架けられたシュタイナーネ橋(Steinerne Brucke)は レーゲンスブルクの発展に長く貢献した歴史的建造物(歴史の証人)として街のシンボルとなっています。“ゆっくり流れるレーゲンスブルクの時間”は、この橋とドナウの流れが生み出しているように感じられます。


神聖ローマ帝国の帝国議会(1663‐1806)が置かれた旧市庁舎
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レーゲンスブルクは、1245年に神聖ローマ帝国の帝国都市(領邦から独立した都市)となりますが、1663‐1806年間には帝国議会が市庁舎で常設として開かれるようになっていました。


オスカー・シンドラーが住んだ家
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オスカー・シンドラー(Oskar Schindler/1908-1974)はチェコで生まれたドイツ人(実業家)ですが、ナチスから迫害を受けたユダヤ人たちを救ったことで知られる人物です。この家は、一時、そのシンドラーが住んでいた所です(参照、映画『シンドラーのリスト』、http://www.geocities.jp/qqppk513/schindler.html)。


レーゲンスブルクの歴史


カエサル(Gaius Julius Caesar/BC100-BC44)のガリア征服後(BC58〜BC49)の古代ローマによるヨーロッパの占拠はライン川からドナウ川に至る地域に限られていました。それは、リーメス(Limes/英語limit(限度・限界)の語源)と呼ばれる約550kmに及ぶ国境の防塞によって区切られており、オランダ国境のライン川中流域(クサンテン(Xanten/古代ローマの軍営都市)、コブレンツ(Koblenz/同じく古代ローマの軍営都市/語源は古代ローマ人の保塁Confluentes)辺りからドナウ川の上流域までを結んでおり、その東端にレーゲンスブルクが位置しています。


ローマ皇帝ドミティアヌス(Titus Flavius Domitianus/位81-96)の時代に、それまでのライン川流域軍管区が属州へ変わりますが、この時にマインツ(Mainz/中世以降はマインツ大司教座聖堂の所在地で、活版印刷の発明者グーテンベルクの出身地)を首都とする上ゲルマニア(ライン上・中流地域のゲルマニア≒ラインラント地方(Rheinland))とケルン(Koeln/ゴシック様式の建築物としては世界最大のケルン大聖堂がある)を首都とする下ゲルマニア(ライン下流地域のゲルマニア)ができます。


因みに、この地域を含むゲルマニア(ドイツ)で最も古い都市(兼ローマ軍の駐屯地=古代ローマの軍営都市)はモーゼル渓谷の緑に囲まれたトリア(Trier/ルクセンブルグとフランス国境に近いドイツ西南部の都市/BC16年に皇帝アウグストスの命令で征服した原住民トゥレヴェル族(ケルト人)を使って建設された)で、トリアはドイツ(ゲルマニア)で最初(最古)のローマ軍の駐屯地(軍営都市)でもあったのです。


つまり、ケルン・マインツ辺りからレーゲンスブルクへ至るライン左岸およびドナウ川から南の一帯は、ローマ帝国の属州時代のゲルマニア(ドイツ)で最も繁栄した地域であり、約200年におよぶローマ帝国最盛期(2〜3世紀頃)の平和な時代を体験していることになります。古代ローマ人(共和制ローマ〜ローマ帝国)によって支配されたこれらの地域では、軍の宿営地や国境の城塞の建設とともに多くの軍営都市(ローマ人の植民都市/Kolonien)が発生します。これらは城壁によって囲まれたローマ市民(主に退役兵士たちと家族)が住む都市であり、それはローマ文化の前進基地でもありました。


レーゲンスブルクには古くから集落があったケルト人の時代を入れると優に2000年を超える長い歴史があります。BC90年頃にはローマ人が軍事基地として ケルト人の集落を拡充させたことが知られています。やがて、五賢帝の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(Marcus Aurelius Antoninus/121 - 180)の時、179年に現在の旧市街の辺りにカストラ・レジーナ(Castra Regina/“軍団の城”の意味)と呼ばれる要塞が建設され、 これがレーゲンスブルクの語源となっています。 


このカストラ・レジーナは4世紀に入ると移動してきたゲルマン人に占領されますが、更に535年頃にはバイエルンの支配者の居城となります。670年ころ修道院が創られ、739年には司教座が置かれて南ドイツのキリスト教化の中心地となります。カール大帝のころにはフランク王国の領土となり、王国の集会がここで開かれるようになり、レーゲンスブルクはボヘミアへ出陣する基地の役割を果たしました。フランク王国(カロリング朝)の崩壊後にはバイエルン大公領となります。


レーゲンスブルクの黄金時代は商業・交易が栄えた12〜14世紀です。ここでは早くから市場が開かれていましたが、12世紀頃にはロシアの商業中心地であったキエフやノブゴロドへ行き東方の産品を買い付ける商人が大勢存在しました。第2回、第3回十字軍はレーゲンスブルクに集結して聖地へ向かって出発しています。また、イタリアとの交易活動も非常に盛んであり、ヴェネチアのドイツ人商館ではレーゲンスブルクの商人の数がトップを占めていました。これらの商人たちの豊かさと力を今に残すのはドナウ川にかかる長さ330mの「石の橋」(建造1146/Steinerne Brucke)や城郭のような豪邸です。


イタリア風の塔のある邸宅も多く、かつては市中に60の塔がそびえていたとされています。1245年には神聖ローマ帝国の帝国都市となりますが、14世紀以降はニュルンベルク、アウクスブルクなどの商人に押されるようになって衰退期に入りました。1663‐1806年には同帝国の帝国議会が旧市庁舎で開かれました。1809年にはナポレオンの攻撃で被害を受け、翌1810年にバイエルン王国に組み入れられています。


エピソード


(レーゲンスブルク少年合唱団)


レーゲンスブルクには、ウィーン少年合唱団と並ぶ名声を残し、1000年以上の歴史を持つ「Regensbuerger Domspaetzen」(大聖堂の雀たち)と呼ばれるレーゲンスブルク少年合唱団があります。この合唱団の起こりは、大聖堂(聖ペテロ大聖堂/Dom St. Peter)に付属した音楽プログラムを持つ学校が975年に創立されたことに始まります。第一次世界大戦・勃発のショックで逝去したとされるローマ法王ピウス10世(Papa Pio 10/位1903-1914)はレーゲンスブルクの教会での少年合唱団の音楽活動を世界の模範だと賞賛しています。


(池田理代子の名作『オルフェウスの窓』の舞台、レーゲンスブルク)


[f:id:toxandoria:20070612073308j:image]http://comics.yahoo.co.jp/10days/ikedariy01/oruhuxeu01/shoshi/shoshi_0001.htmlより


『ドイツ・レーゲンスブルクの音楽学校、聖ゼバスチアンの塔に400年前から伝わる「オルフェウスの窓」―――男性がその窓から地上を見下ろしたとき、一番 はじめに眼界に入った女性と宿命的な恋におちるという伝説を持ったその窓で、ユリウスとイザーク、またユリウスとクラウスはそれぞれ出会う。ところが伝説 には続きがあり、その恋はオルフェウスとエウリディケの悲恋にならって必ず悲劇に終わるという…。』(http://comics.yahoo.co.jp/10days/ikedariy01/oruhuxeu01/shoshi/shoshi_0001.htmlより)


これは、20世紀初頭のレーゲンスブルクの音楽学校で知り合った3人の若者の運命を、第一次世界大戦やロシア革命といった史実を織り交ぜながら描いた池田理代子の名作漫画『オルフェウスの窓』のイントロです。今でも未だレーゲンスブルクは日本でよく知られた都市ではありませんが、この名作漫画でレーゲンスブルクの名を知っている方々は多いと思います。

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