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タイトル:[民主主義の危機]「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(2)  2007/05/22


[民主主義の危機]「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(2)
2007.5.22

<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522


(プロローグ1)


リブラ(中立・公正・司法の象徴)[f:id:toxandoria:20070522075923j:image]
http://serendip.brynmawr.edu/sci_cult/courses/beauty/justice.htmlより


ファスケス(fasces/共和制ローマ時代、執政官・権力の象徴)[f:id:toxandoria:20070522080003j:image]
http://www.legionxxiv.org/fasces%20page/より


『 ファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」のことです。ここから、ファシズムの特徴は過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化する、つまり一定の目標に到達した「美しい国」を熱烈に希求する、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念であることが理解できます。注意すべきは、いつの時代でもこのような意味での情念は人間であれば誰でもが普通に持っているという現実です。


また、ファシズム (fascism)という言葉が生まれたのはムッソ リーニを指導者とする「イタリア・ファシズム運動」の台頭によるものです。ヒトラーのナチズムは、このイタリア・ファシズム運動の刺激を受けたと考えられますが、ムッソリーニのファシズム運動にはナチズムのような余りにも激しすぎる人種差別主義は見られません。それどころか、1930年代の初め(ドイツがジュネーヴ軍縮会議と国際連盟を脱退した)ころにドイツを訪ねたムッソリーニは“ドイツは狂った人種差別主義者が作った収容所だ”と言ったとされています。 』


上の『〜〜〜』の部分は、以前に書いた記事[妄想&迷想、ヒトラー的なものについて、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070420]の部分的な引用ですが、この中に出てくる、共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」(fasces/執政官の権威の象徴/上の画像を参照)の中心にあるのが「鋭い刃を持つ斧」(=武器/暴力的権力の象徴)であることに、我われはよく注目すべきです。


つまり、古代のローマ人たちは、「共和制」の時代から、既に<政治権力の本質が暴力的なモノである>ことを理解していたということです。無論、ローマの歴史はそれに先立つ王制の時代を持っており、このような考え方の伝統はどんどん人間の歴史そのもの遡ることになると思います。


いずれにせよ、バイオポリティクス(生政治/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517の『生政治の定義』部分を参照)が喝破するとおり、政治権力・国家権力の深層には“生々しい暴力性”(=その象徴がfascesの斧)が潜んでおり、それが「美しい国」のような、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念(=閉鎖的なナショナリズムの情念)と結びつくことはとても危険です。従って、それを“公正・中立な司法の立場から適切に制御するための知恵の歴史とも見做せる欧米の法制の歴史”、その中でも、特にわが国の『大日本帝国憲法/明治憲法』(=“美しい国”の『戦後レジームからの脱却』が追憶する“カルト的な情念”の源流)へ大きな影響を与えたドイツ法の歴史について、より深く理解することが重要だと思われます。


(プロローグ2)


現代日本の政界で超保守的な考え方を代表する「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問)が、「美しい国」が掲げる『戦後レジームからの脱却』の応援団(歴史教科書問題などで安倍首相の盟友を自認するグループ)を結成したことが報じられています。古屋会長は、皇室典範改正・靖国参拝・民法772条などを列挙しつつ同じ方向をめざす同志を糾合し、行動できる集団機能の役割を果たしたいと述べています。


一方、作家・雨宮かりんの“若者たちの現状が目的のない戦場になっている”という重い意味のコトバに注目すべきです。これは、資本主義がグローバル市場原理主義という形で牙を剥き出している日本国内の現実に対して、本来なら『社会正義の視座と寛容の精神』を保持しながら先ず自らが範をたれ責任を負うべき保守政治(政権与党)も、企業社会も、大人たちもが、ことごとく為す術(すべ)を見失っている壮絶な現況を現しています。


本来であれば、安倍首相らの正統保守を自負する人々が最も重視すべき価値観は、このような形で日本の社会が崩壊へ向かわぬように真摯な努力の積み重ねによる「漸進的な改革を重視する」というスタンスを保守することであり、「過去の失敗に立ち戻る」というような愚かな行為(短絡的で極右・暴力団的な発想!)ではないはずです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070327)。


ところが、驚くべきことに「価値観外交を推進する議員の会」が熱烈に支持し、実現を目指す『戦後レジームからの脱却』の視野にあるのは紛れもなく「過去の失敗に戻る」ということであり、第二次世界大戦へなだれ込む道をつくった『大日本帝国憲法/明治憲法』の時代への回帰ということです。まさに、これは<「観念的同時」と「権力の暴力的本性」が癒着した恐るべき暗黒時代への回帰>です。


もしも、「価値観外交を推進する議員の会」の方々が、このように“残酷で惨憺たる若者社会に広がりつつある空気”を逆用するまでして<改憲(9条廃棄型)を急ぎ、その方向への空気を煽る意図>があるとすれば、それこそが全く“本来の意味で美しくあるべき日本の国益”に反することであり、非人道的・非人権的であり、何よりも健全な愛国心からは程遠い“反愛国的な行為”であることを自覚すべきです。


<本来の正統保守>の立場からすれば、「価値観外交を推進する議員の会」の方々のように異様な発想は、「絶対知的存在」への恐れも知らず、ひたすら奢り高ぶるばかりの人間の愚考の窮みに過ぎません。というよりも、そのような精神環境は『過去の軍神の亡霊に取り憑かれた一種のカルト・シンドローム』と見做すべきかも知れません。


★「観念的同時」、「権力の暴力的本性」、「絶対知的存在」については、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070521を参照。


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(本  論)


[第2回] 「プロイセン憲法」を手本とした「大日本帝国憲法」の特徴


<注1>このシリーズ記事は、大分前に[「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519]としてUPしたものを、部分的に手直ししながらシリーズ記事として再掲するものです。


<注2>なお、当シリーズの立場は、現代日本の象徴天皇による「立憲君主制」のあり方を否定するものではなく、本来の意味での「法の下での平等」を原則とする健全な民主主義のあり方を考えるものです。


●あまり話題に取り上げられませんが、「大日本帝国憲法」の第1章「天皇」の直前に「告文」と「憲法発布勅語」が置いてあります。大雑把に言ってしまえば、この内容は、国家主権が天皇にあることを権威づけるための序文(前置き)です。つまり、大日本帝国は皇宗(神武天皇)に始まる万世一系の皇室(天皇家)を仰ぐ神の国(神聖なる国家)である。このように畏れ多い主権者たる明治天皇から下賜された「大日本帝国憲法」を臣民は心して拝受の上、それを遵守し、決してこの憲法に背くことなどないように愛国心を大いに奮い立たせなさい、というようなことです。


●そして、ここで隠然と強調されるのが万世一系の天皇に仕える臣民(日本国民)が誇りとすべき民族精神(大和民族)の伝統です。このようなプレリュードの演出は、先に「(1)ナチズム誕生のプレリュード」の中で触れた「プロイセン憲法」の焼き直しです。プロイセン・ドイツの"名演出家”サヴィニーの国家理念づくりの「巧み」が日本の根本法の中で見事に生かされている訳です。そして、現在の日本における改憲論者の多くが着眼しているのは、このサビニーの“名演出”ぶりへの回帰ということです。


●これは誤った歴史の繰り返しに繋がる可能性が大きく、まことに危険なことです。しかし、もしも、このようなことを大声で主張すると、それは“杞憂でバカげた心配ごと”だと一笑に付す楽観主義的な傾向が強いようです。しかし、それは国家における「法」についての歴史的な意味と役割を十分シビアに理解していないだけのことです。どのような悪法であるにせよ、いったん決まってしまった「法」には絶対に従わされることになります。“マア、マアそこは常識で・・・”などと笑って済ませることは最早できないのです。鞭で叩かれ、銃口を向けて暴力的に強制されるまでもなく、それが「法の支配の原則」だということを理解すべきです。


(制定までのプロセス)


●1867年(慶応3)の大政奉還と王政復古の大号令に続き、明治維新政府は五箇条の御誓文の提示と政体書を公布して政府の組織を整えます。翌年(1868)に改元して明治元年となり、一世一元の制を定めました。この年には神仏分離令が公布されたため廃物毀釈の運動が広がり、それに神祇崇拝の風が重なって多くの寺院や仏像が破壊・焼却されました。


●更に、版籍奉還・廃藩置県・身分制の廃止(1871/明治4)が行われ、1873年(明治6)には地租改正の実施とともに徴兵令が出されて近代国家としての体裁が出来上がります。しかし、西洋諸国に伍して近代独立国家の面目を保つには富国強兵とともに近代的な法体系(法制)の整備を図る必要がありました。


●1874年(明治7)の民撰議員設立建白書が憲法制定への動きを促すことになります。その後、明治7年に設立された元老院が憲法案の作成に取り組み、ベルギー憲法などを範とする「日本国憲按」が1878年(明治11)に出来上がりますが、その内容が憲法偏重主義(民主的な色彩が強すぎる)などの理由で政府内部、特に岩倉具視(京都・岩倉出の公家、幕末に公武合体を説き王政復古の中枢の一人となった/維新後は右大臣・特命全権大使として欧米の文化・政治制度を視察)から強い反対を受け退けられました。


●また、明治10年以降になると自由民権運動が活発化しますが、その中から英仏の憲法を模範とする様々な「私擬憲法」(憲法私案)が作られます。しかし、明治維新政府はこれらの動きを無視し、やがて自由民権運動そのものが抑圧されるようになりました。しかし、「明治14年の政変」(1881/大久保利通の死後に起きた、大隈重信の追放事件/大隈重信が民営化(政府財産払い下げ)関連のスキャンダルに巻き込まれ、これを機に伊藤博文らの薩長藩閥が大隈の追放と10年後の国会開設の詔の発布を要求した)が切欠となり、1890年(明治23)を期して国会が開設されることになり、それまでの間に憲法が制定されることになります。


●伊藤博文(長州出身で英国に留学した政治家/憲法制定、初代首相、初代枢密院議長、立憲政友会結成、初代韓国統監などの重職を歴任/韓国併合を推進したかどで安重根によりハルピンで暗殺)が1882年(明治15)に欧州視察(プロイセン・ドイツ、オーストリアなど)を行い、帰国後に井上毅、伊東巳代治らとともに憲法案を起草します。結局、その憲法案が枢密院の諮詢によって1889年(明治22)に「大日本憲法」として公布されました。しかし、このような一連の憲法公布に至るまでの経緯は、長いあいだ日本国民に対して秘匿されてきたのです。


●「大日本帝国憲法」は、見かけ上ヨーロッパ諸国の近代憲法の体裁をとっていますが、君主の権威が強大なドイツ帝国(プロイセン・ドイツ)型の立憲君主制を手本とし、そこへ日本独自の「万世一系の天皇」を中心とする国家観を付与したものです。つまり、それは絶対君主主義的性格のものでもあります。結局、「大日本帝国憲法」は、「議会という立憲的要素」と「絶対君主主義的要素」の二つを併せ持つ憲法ですが、「外見的立憲主義」と呼ばれています。


(憲法構成上の特色)


●[天皇]天皇に費やされる条文量が17カ条(全76カ条の約22%を占有)であること、第1章が天皇であること(この点は現憲法も同じだが)などから、大日本帝国憲法(以下、旧憲法)は明らかに天皇を中核とした憲法であることが分かります。この天皇の地位は、先に述べたとおり、天孫降臨の神勅で根拠が与えられており「天皇は神聖にして侵すべからず」(第3条)と規定されています。ここから天皇は現人神(あらひとがみ)と解釈されるようになりました。また、「大日本帝国憲法は万世一系の天皇これを統治す」(第1条)とあり、日本国民ではなく天皇が主権者であることが示されています。また、この天皇が国家元首として統治権を総攬することになっています(第4条)。


●[国家ガバナンス構造]現人神たる天皇を頂点とする国家のガバナンス構造は、帝国議会、国務大臣、裁判所の三機関分離制の形をとっています。しかし、天皇に副立法権としての「独立命令権」(第9条/これに対し議会は関与できない)が認められていることや、衆議院(公選による)と対等な貴族院(皇族、華族、勅任議院から成る)が設置されており、事実上は一般国民の意思が抑制されていました。このような訳で、旧憲法は"非立憲(民主主義)的”な国家ガバナンス構造を持っていたのです。


●[枢密院の存在]先ず、憲法から超然たる地位にある枢密院が欽定憲法である大日本帝国憲法・草案の審議にあたりました。国会開設後の藩閥内閣と民党との間の憲法争議にあたっては天皇大権中心の立場から「憲法の番人」となる役割が期待されました。また、枢密院は初期議会での予算審議権等に関する紛議でも、その役割を果たしています。しかし、枢密院を構成する枢密顧問官は勅任で、国民の統制が及ぶ範囲ではありませんでした。この他の超然機関(「大日本帝国憲法」の外にある機関)としては、内大臣(天皇の輔弼機関)、元老、軍(統帥権の超然たる地位/天皇以外の関与を拒絶できる強大な軍統率権)がありました。


●[主権、基本的人権]旧憲法は、外見上は表現の自由などの権利を認めています。しかし、それはヨーロッパ諸国(特に英仏など)の自然権的な人間としての権利ではなく、主権者たる天皇が、恩恵的に、上から下の国民へ与えた権利に過ぎなかったのです。つまり、「信教の自由」以外は、いずれも法律で制限できることになっていました。この「信教の自由」にしても、「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」(第28条)という条件がついたものであったため、現人神(あらひとがみ)たる天皇及び国家神道(靖国神社、伊勢神宮)を礼拝することが臣民たる日本国民に強制されることになったのです。


●[非常大権]天皇は、あらゆる権利の上に立つ「非常大権」(第31条)を持つと規定されているが、旧憲法の解釈と運用に関しては、この天皇の「非常大権」を重視する「神権学派」(穂積八束など)と「立憲学派」(美濃部達吉など)の対立がありました。一時、大正デモクラシ-の時代には「立憲学派」が優位となりますが、昭和に入り軍部の勢力が強まるとともに責任政党による議院内閣制は崩壊し、「神権学派」の解釈が正統とされるようになります。やがて、陸・海軍大臣は現役の武官でなければならないとする「陸海軍大臣現役武官制」(1936/昭和11)が成立すると、非常大権を持つ天皇が軍部(大本営など軍令機関)の輔弼に対し消極的な対応をとったこともあり、この「天皇の大権」を後ろ盾とする軍部は内閣の進退も左右できるような強大な独裁的権限を持つに至ります。つまり、このころからの日本は、軍部の独走を誰も止めることができない政治制度の国となってしまった訳です。そして、この時に戦争突入の大義名分として利用されたのが「軍事国体論」と、上から国民に対して与えられ(強要され)た「愛国心」です。結局、国家ガバナンスの歯止めが効かなくなった日本は軍事ファシズムを許すことで全面戦争状態へ突入し、第二次世界大戦の悲劇・悲惨・敗戦をもたらすことになったのです。


(軍事国体論を掲げた日本が、無謀な太平洋戦争へ突入することになる顛末については、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419を参照)

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