デパートやスーパーから、「母の日」の色鮮やかなカーネーションが撤去されたと思ったら、待ってましたとばかりに「父の日」の横断幕と豪華なプレゼントの数々が登場した。商人たちのすばやさと、一ヶ月を隔てた二つの行事をつないでしまう抜け目のなさに感服せざるを得ない。
だが、ネット調査の結果にはちょっと驚いている。日中両国は、国情は違うが「父の日」に対する意識は一致していて、「父の日はあってもなくてもいい」と考える人が半数近いのだそうだ。この「一家の主」に対する関心の薄さは、日増しに大人になる息子や娘たちだけではなく、父親自身も同じ感覚らしい。だが、父親たちが発する「無駄な金は使うな」とか、「その日だけ祝ってもしょうがない」などのやるせない感慨からは、説明しがたい期待の気持ちがはっきりと感じられる。父の日とは、天下の父親たちにとって困惑させられる行事なのだ。
母親の愛が温かく細やかであるのと比べて、父親の愛は往々にして理性的で粗野なものだ。歌に歌われているように「お母さんの愛は蜜の甘さ」ならば、父親の愛は一杯の濃厚なお茶である。苦味を味わった後で、その甘みが後味として残るのだ。父親には母親のような温かい抱擁が欠けているかもしれないが、その背中で安心して暮らせる世界を支えてくれている。父親は母親のように気遣って声をかけてくれないかもしれないが、彼の沈黙の中には深い心遣いと家族を優しく守る気持ちがこめられているのだ。
東京の地下鉄駅で配られる月刊「ゴールデンミニッツ(GOLDEN min.)」のことをふと思い出した。この50代のサラリーマンを対象としたフリーペーパーの末尾には、毎号、有名女優たちが書く「お父さんへのラブレター」が載っている。それらの平凡だが心のこもった手紙を読むと、いつも目頭が熱くなってしまう。
父親は意識的にせよ無意識的にせよ、黙って子供に対して無私の愛情を注いでいる。彼らは何も大げさなことや、声高な感謝を望んでいるわけではない。鉛筆で書いた「肩たたき券」や、子供っぽさの溢れた「お父さんの似顔絵」をもらうだけで、父親が胸いっぱいの感動を静かに味わうのには十分なのだ。彼らにとっては、このような子供たちのささやかな気持ちに触れることができれば、毎日が「父の日」になるのである。 |