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[民主主義の危機]「陰気な改憲」で行くか「陽気な論憲」とすべきか? 2007.5.17 <注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517 正義を量る天秤『リブラ』(libra)、フランクフルト、レーマー広場にて [f:id:toxandoria:20070517063642j:image]2007.4.10、toxandoria撮影 レーゲンスブルクのお嬢さんたち [f:id:toxandoria:20070517063751j:image]2007.4.7、toxandoria撮影 レーゲンスブルクの街角風景(四重奏) [f:id:toxandoria:20070517063842j:image]2007.4.7、toxandoria撮影 <注> 「論憲」というコトバは、改憲か護憲かの「前のめりで二者択一的な空気」から一歩抜け出すため、毎日新聞が考案したメタ言語らしいのですが、ここでは、具体的に凡ゆる論点を出し合いつつ率直に「日本国憲法」およびその前提となる「国民投票法」について明るく語ることが、これからますます日本国民にとって大切になるという、ごく普通の意味で使うことにします。 「陰気」は“何らかの先入観的バイアスの空気がある”こと、「陽気」は“可能な限り客観的で中立・公正な空気がある”こと位の意味を表わしたつもりです。ここで言うバイアスには、極端に一つの方向へ傾斜した政治的立場、カルト的・閉鎖的・非民主主義的な特殊な精神環境、ビジネスチャンス的な動機あるいは内政干渉・独善的国益観・人種的文化的偏見などの外部的な要因などが考えられます。 ・・・・・・・・・ (結 論) いずれにせよ、日本政府は、民主主義国家にふさわしく明朗で「陽気な論憲」をこそ演出すべきだと思います。まさか、ヒトラー監視下の「オーストリア併合の国民投票」ではあるまいし、得体が知れぬ嫌な空気が漂う中で「陰気な改憲」へ誤導され、必ず後になって悔やむことになる暗澹たる日本社会を創ること(=バイオポリティクス政治(この詳細は後述)への誘導)だけは避けるべきだと思います。 そもそも、国中に満ちたあまりにも暗く演出された空気の中にありながら、観念的なコトバ遊びのような「美しい国」のための希望を創るなどという変テコリンな理屈が成り立つはずがありません。 (本 論) 『イエスの長兄ヤコブがこの教会のなかで栄誉ある地位を占め、ペテロと並んでその精神的な首長であった。二人は説教しながら公衆の前に現れ、来るべき神の国を告げらせ、あまたの人々を洗礼を通じてかれらの同盟に向かい入れた。改宗者の数は急速に増えていった。原始教会の人々は、イエスを通じて歴史的現実のなかに啓示された神を信じ、無条件な献身と信頼においてイエスと結ばれているのを感じ、かれが間もなく再臨するとの期待に生きていた。この世の終末が近いという観念が大きな役割を演じた。この観念はまた、イエスが命じたとおりに、現世の事物や外的な財貨を軽んじ、欲望を制し、きびしく道徳をまもり、ひとと和合しつつ生きるための強力な動機でもあった』 この文章(上の『〜〜〜』の部分)は、著名な法制史家であるヘルベルト・ヘルビック著、石川 武・成瀬 治共訳『ヨーロッパの形成』(岩波書店、p24])からの引用です。これは、古代ローマを通してヨーロッパ中世の基層に流れ込んだと考えられている「イエルサレム周辺においてイエスの死後まもなく行われた、初期キリスト教会が創立されたころのイエスの弟子たちや彼の一族および若干の同志たちの心象風景」の描写です。この部分だけを読むと、まるでかつて日本中を騒然とさせた恐るべき某カルト教団の描写ではないかとさえ思われてきます。 しかし、この原始キリスト教会の不文律のひとつには「すべての人々は平等である」ということがあり、これが原始キリスト教会とカルト教団の決定的な違いであったと見做すことができます。無論、このようなことはキリスト教に限る訳ではなく、仏教・神道・イスラム教など、その他の正統宗教においても極端に閉鎖的なカルトとの区別の最も基本的な条件の一つが、遍(あまね)く人々を平等に扱うという意味での普遍性(カソリシティ/catholicity)あるいは寛容(liberality、tolerance)ということであるようです。 <注>敬虔なキリスト教徒であるヘルベルト・ヘルビックは決してキリストのカルト性を暴くようなつもりでこの本を書いている訳ではなく、それどころかヘルビックは、この著書の中で、明確な歴史的な陳述の証拠であるドキュメント(新約聖書・写本・信頼に足る引用などの存在・・・ヴァティカン本、シナイ本、ロンドン・パピルス、アンブロシウスなどミラノの使徒後教父たちの著書での古いパピルス巻物からの引用、古シリア語聖書、コプト語聖書、ゴート語聖書などのテキスト)を示すことによって、キリストの実在性が客観的な動かし難い真実であることを論証しようとしています。 ここから、例えば、ある政治イデオロギーなどが、それに影響を与え、それで統制しようとする特定の精神環境がカルト的なものなのか、あるいはそれが正統な政治哲学であるかの違いが実は紙一重であること(=普遍性あるいは寛容があるかどうかということであること)が理解でるはずです。従って、これから日本国民は、5月14日に参院憲法調査特別委員会で採決された「国民投票法案」の先に安倍首相の“美しい国”(政治理念?)が何を見て何を意図しているのかを、冷静かつ客観的に自分一人ひとりに関わる問題として真剣に検証する必要があります。もはや、これは決して他人事ではないのです。 ところが、巷(ちまた)には“お前は改憲の立場か?、護憲の立場か?”の二者択一で国民一人ひとりへ、まるで<踏み絵を迫る>かのような奇妙な雰囲気、あの小泉劇場での「郵政解散総選挙」という悪夢のような雰囲気が再び漂い始めています。喩えれば、それは「陰気な改憲」の空気とでも言うべき尋常ならざる異様な空気です。このことは、試みに全国紙5紙(日経・朝日・毎日・読売・産経)と地方紙8紙(北海道新聞・河北新報・東京新聞・中日新聞・信濃毎日新聞・京都新聞・中国新聞・西日本新聞)の「国民投票法案」にかかわる<報道・解説記事及び社説>を読んで実感したことです。 総じて見えてきたのは、大方の地方紙が「愈々これから日本国民が冷静に論憲すべき時がきた」という、いわば国民の立場に身を置く客観的で中立・公正な論調であるのに対し、全国紙5紙は「大方の地方紙と同様」の“冷静な論憲の立場”と、「戦後60年の無責任な政治体制を脱し、これで漸く改憲へ踏み出す条件が整った」(=戦後レジームからの脱却を完成させる条件が整った)という些か与党政権(と言うよりも安倍普三・首相)寄りで“前のめりの論調”とに二分されていたことです。このスタンスの違いは、恐らく全国紙の方が様々な意味で中央政治のバイアスを強く受け易い(例えば、国民投票に関するビジネスチャンスの大きさなど)ということがあると思われます。 ごく普通に考えれば、いやしくも日本が民主主義国家である以上は、未だ何をどうするかも決まっていないのに“お前は改憲か否か?”の踏み絵を国民一人ひとりへ迫るような、あるいは国民どおしが互いに顔色を窺い疑心暗鬼の心理に嵌るような、ある種のただならぬ「陰気な改憲論」の空気を意図的に作るのは余りにも理不尽(非民主主義的)なことです。その一方で、冷静かつ十分な論憲が行われて一定の改憲方向が定まり、中立・公正な国民投票の結果が「改憲決定」と出れば、それが国民の総意であるという結果が出たいじょうは、それに従わざるを得ないのは当然のことです。そして、この点は、toxandoria自身の“改憲は未だ早すぎる”という立場とは全く別次元の問題です。 最も危うい問題は、安倍普三・首相らが目指す“改憲のホンネ”が冷静な議論の俎上にのぼっている“部分的な”<改憲>などではなく、同じ信条の同志や特定の支援者集団の声に応えて「9条をいじることを根幹としたまるごとの新しい憲法」(=例えば、自民党が2005年に独自に作成した憲法草案の内容)であるということ、つまり、それこそが“美しい国”が掲げる「戦後レジームからの脱却」だという確固たる意図があることです。しかも、このことは今まで一部のメディアの報道で再三にわたり取り上げられ、論じられてきたことであり、ある意味で周知のことであるはずです。しかし、それを大方の国民が自分自身の問題としてリアルに認識しているかどうかは甚だ疑問です。この点こそが、今もっとも懸念されることです。 <注>この「それを大方の国民が自分自身の問題としてリアルに認識しているかどうかは甚だ疑問だ」というtoxandoriaの問題意識については、下記のブログ記事(★)を参照してください。 ★日本人のカルト性」をめぐる対話 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070516 従って、いま最も肝要なことは、今回の「国民投票法決定」に関して大方の地方紙が論じているとおり、「愈々、これから日本国民が冷静に、かつ中立・公正に自分自身の問題として、主権在民の立場から論憲すべき時がきた」という認識を日本国民一人ひとりが凡ゆる偏見をかなぐり捨てて自分や家族の未来の運命に関わることとして現実的に自覚することです。これが全ての基本であり、スタートラインとなるべきことです。 このように見たとき、中立・公正で客観的な「論憲」のための参考となる、別に言うならば冷静で「陽気な論憲」のために参考となりそうな視点(記事★)がありますので、その要点を下に再録しておきます。 ★堀田 力氏(元・東京地検特捜部検事)の提言『9条は分けて審議を、議論の誤導を避ける必要』・・・2007.5.15、河北新報 (運動の規制は問題) ◆最低投票率の不在 ・・・憲法9条を改めたい安倍政権は、改正のハードルを下げるため、最低投票率を設けなかった。しかし、この改正は日本国民の<生命>そのものにかかわる重大事である。少なくとも「投票権者の半数以上」とすべきでなかったか(toxandoria注記/全国紙の一部にはフランスなど外国の例を挙げて“最低投票率の不要”を論じたものがある・・・しかし、これは他国の諸条件(例えば、過去の投票実績、歴史的経緯、民主主義の成熟度の違いなど)と統計学・科学的・中立的な観点を欠いた誘導的な記事である)。 ◆公務員や教育者の地位利用による運動の規制 ・・・これは、労働組合による運動を嫌ったもののようであるが、あまりにも政治的な発想である。ことは、選挙でどの候補者を当選させるかのレベルの投票ではなく、現在および未来の国民の生き方(toxandoria注記/例えば徴兵制の導入、無制限な戦線拡大への参加など)を決める問題である。 ・・・従って、あらゆる場で、少しでも多く情報が提供され、意見の陳述や交換が行われるべきある。ところが、国民投票法の規則は、その内容が曖昧なため、憲法についての学校の授業や議論を萎縮させる恐れがある。 ◆9条問題と、それ以外の問題の混同の回避の必要性 ・・・次の国会から施行される憲法審査会の論議では、9条問題と、それ以外の問題を混同させてはならない。施行60年、日本国憲法は人類普遍の原理(toxandoria注記/平和への意志、普遍性、寛容など)に基づき国の形を定め、国民の権利と生活を守ってきた。 ・・・いくつか補正・追加した方が望ましい事項が出てきている。例えば、環境権やプライバシーの保護、共助の仕組みの取り入れ、地方自治体の独立した権限などである。そういう改正を望む人たちを入れると、「改憲派」は多数を占める。 ・・・しかし、安倍普三・首相が問う「改革の争点」は「9条問題」である。この問題になると、国民の多くは現状維持に傾く。これこそが「日本国憲法の基本原則」に関わるものであり、また「国民の生命」に関わる極めて深刻な問題であって、国民の意見もこのことを巡り激しく分裂している。 ・・・従って、これを他の問題と同じプロセスで扱うことは、重大な問題の議論を誤導することになる。憲法審査会は、議題を完全に分別して審議すべきである(toxandoria注記/安倍普三・首相の独特な曖昧さと分かりにくさの演出の中には、むしろ、この問題の誤導への戦略的な意志が浮き出ている)。 ◆民意との隔たりをどうするつもりか? ・・・「9条問題」で危険なのは、国会議員が国民の意向を正しく反映していないという現状があることだ。各種の世論調査を見ても、「9条改正反対」が国民の多数派であるのに、「自民党議員は改正でまとめられ」ており、民主党にも改正派が少なくない。 ・・・このような中で、「自衛隊を実態に沿って軍と認めるか」、「固有の権利である集団的自衛権を認めるか」という問題提起をすると、答えは形式論でイエスに引きずられやすい。 ・・・しかし、問題は形式論にあるのではなく、「現在の世界情勢の下、いかに平和を維持するか、そのために日本はどうすべきか」という実質論にある。 ・・・選択肢は、(1)アメリカと軍事的にも協調するか、(2)国連軍に参加するか、(3)現行の武力不保持・不行使路線を貫くか、であろう。この論点を正直に真正面から提示し、国民の熟慮と判断を求めるべきである。 (toxandoria補足) 米本昌平著『バイオポリティクス』(中公新書)によると、堀田氏が指摘している、「国民の生命」に関わる極めて深刻な問題はバイオポリティクス(biopolitics/生―政治学、 生物政治学 )の問題だと見做すことができそうです。そして、[池田光穂、医療人類学辞典/http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060630biopolit.html]によると、この『バイオポリティクス』には4つの用語法があります。 <注>関連内容として、下記ブログ記事★も参照してください。 ★日本政治の「カルト&バイオポリティクス」化への懸念 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070513 (1) 後期ミッシェル・フーコーによる、アナトモ・ポリティーク(権力構造を解体する意味での解剖政治学)の対語としてのバイオポリティクス(人口管理の政治学) (2) 政治学的現象を説明する際に社会生物学や進化生物学の理論を援用する議論としてのバイオポリティクス (3) ヴァンダナ・シヴァが提唱する先進国の多国籍企業が開発途上国の住民をもつ「豊かな生物多様性」をさまざまな技術や法的手段を行使して搾取するバイオパイラシーを正当化させる、グローバルな政治的枠組みを指示することばとしてのバイオポリティクス (4) 先端医療や生物技術を行使する政策としてのバイオポリティクス この分類からすると、今の日本で特に懸念されるのは(2)と(4)であることが分かります。例えば、そこには、超高齢化社会における医療・福祉のビジネスツール化の問題、多発する薬害・臓器移植や遺伝子操作に関連する問題、あるいは戦争と平和の問題など人権・ヒューマニズムなどの価値観を十分に視野に入れながら、より慎重に対応すべき深刻な政治課題が山積しています(なお、私見では「教育問題」もバイオポリティクスの範疇に入ると思っています)。 ところで、(2)の意味でのバイオポリティクスについて敷衍すると、つまるところ「政治権力の本質的な暴力性」の問題になります。戦争のみならず、犯罪者を探索(捜査)・逮捕・拘束・取調べを行うような行為ができるのは、当然ながら、このような性質を帯びた国家権力があればこそです。このことを、堀田氏は元検事であったからこそ強烈に経験的に自覚されているのだと思われます。無論、このような司法行為の一環として行われる権力的行為は、日本が法治国家であるいじょうは刑法などの厳しい制限下で行われています。 ところが、戦争の暴力は「イラク戦争」でも分かるとおり、事実上、国際法は有って無きが如くに取り扱われるものです。ことの如何を問わず、これが厳しい現実(国際関係のリアリズム)であることを我われ先ず理解しておく必要があります。そして、実は国際関係のみならず国内でも「本質的な暴力性が剥き出しの世界」があり、それはヤクザ・暴力団などの犯罪集団の世界です。 そして、この「戦争の暴力」と「ヤクザ・暴力団などの犯罪集団の暴力」には何ら本質的な意味での違いはありません。その意味でヤクザの喧嘩や恐喝行為と戦争の暴力は、まったく“平等”なのです。片方の暴力が高貴またはお上品で、もう一方の暴力が下品で非人間的だなどということはあり得ません。そこで作用するものは只一つ、それは「あるトポス(場所)を支配するガキ大将の論理」です。つまり、体力と武器の装備に支えられ「暴力的体力としての腕力・暴力・怒声と武器・武装力」が全てを制圧するという訳です。(2)の意味でのバイオポリティクスの恐ろしさは、ここにある訳です。 (その他の目に付いた論点・問題点/各紙の記事より) ●ビジネスチャンスとしての国民投票・・・CMを流す腕力の差(カネの力)、つまり資金力が投票の結果を左右する不条理のことである(今回のフランス大統領選挙でも、この問題が分析されている)。 ●論憲、国民投票をナショナリズム高揚や人気投票、あるいは忠誠心計量の場とすることは危険で不条理なこと(ヒトラー現象、小泉劇場の事例)である。 ●国民投票関連の過剰なメヂア規制の問題・・・これはメディア自身の堕落問題とも絡み深刻化している。 ●短兵急な「成年条項の見直し=18歳引き下げ論」の弊害・・・段階的な検討が必要ではないか。訳が分からない若者、知識がない若者らをドサクサ紛れに洗脳し、見方にするという淫(みだら)な邪心がないか? ●「60年以上放置された憲法体制の欠陥論」の危うさ・・・「戦後レジーム体制からの脱却」に呼応する論であるが、この発想自体の中に歴史を軽視するという危ういイデオロギーが隠れている。そもそも、色々な政治プロセスを経た結果として今があるのではないか? このことを無視す精神構造の中にこそカルトの種が存在するとも考えられる。 ●国民投票法は首相だけの道具ではない・・・これは安倍普三・首相が憲法の「授権規範性」(憲法の役目=権力への一定の縛り、国家の主権者=国民)を無視していることを指摘したもの。宣(むべ)なるかなである。 ●政党と異なり、「改憲を目指す内閣」がそもそも憲法違反ではないか?・・・発議は国会と定められ、首相以下の内閣が行政機関であるという根本からすれば、あり得る議論。 ●改憲への動き(国民投票法の整備)と「9条の解釈変更(集団的自衛権の絡み)を検討する有権者懇談会設置」の矛盾・・・これは、矛盾というより、是が非でも戦争条項を解禁したいという安倍普三・首相の強い意志の表われである。つまり、何としても「安倍方式の改憲」へにじり寄りたいという強力な意志(あるいは支持勢力の強固な意志)が存在する。 ●改憲手順を示さずに「自分たちで書いた憲法」をという思い(情熱、情念?)ばかりをメディアでぶち上げる無責任政治の指摘・・・たしかに、このような傾向が強すぎる。これは、今夏の参院選にテレビ朝日の美形・局アナを立てて国民を誑かすような魂胆とさして変らぬ「人気取り、美人投票型の改憲運動」に堕してしまう恐れがある。このようなムード先行の方法で「国民の生命を自在に左右するバイオポリティクス」を実現するという非人権的な意識を些かも見逃すことは危険だ。 |