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タイトル:[原理主義の罠]「日本人のカルト性」をめぐる対話  2007/05/16


[原理主義の罠]「日本人のカルト性」をめぐる対話
2007.5.16


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070516


ドイツの風景(フュッセン)
[f:id:toxandoria:20070516060450j:image]
2007.4.8、toxandoria撮影


国民投票法案が、5月14日に参院憲法調査特別委員会で採決され、与党の賛成多数で可決しました。しかし、問題は安倍普三・首相らが目指す“改憲のホンネ”が冷静な議論の俎上に上っている“部分的な”<改憲>などではなく、「9条をいじることを根幹としたまるごとの新しい憲法」であるということです。それこそが、“美しい国”が掲げる「戦後レジームからの脱却」ということです。このことが国民大多数の目にリアルに見えていないことが問題だと思います。


そこで、敢えて、日本人の弱点(=日本の民主主義の欠点?)ではないかと懸念している「日本人のカルト性の問題」(=欧米人に比して極端な親方日の丸意識)を下の記事(★)で抉ってみました。


★“狂女フリート”が黙示する「美しい国」のシミュラクール
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514


たまたま、昨晩のNHK・BSニュース(PM10:00〜 )で「アメリカイラク戦争の脱走兵」の問題を取り上げていたのを見て、色々と考えさせられました。それによると、「イラク戦争が国際法に違反する、イラク戦争の非人道的な残虐さが許せない」などの理由で隣国カナダへ脱走した米兵が、開戦以来のべ8,000人に達している」そうです。


カナダは、当初からイラク戦争の国際法違犯を理由に開戦に反対した立場から、これらアメリカの脱走兵の流入を黙認しているそうです。かつてベトナム戦争の時の脱走兵(同じような状況であった)の規模には遥かに及ばぬながらも、今も週あたり数人規模の脱走兵がカナダへ流入しているようです。他方、イラク戦争での米兵の死者数が遂に3,000人を超えたことも報じられていました。


ともかくも、今も、多くのアメリカ国民がこのように呻吟する姿を見せつけられると、ますます我われ「日本人のカルト性」(=欧米人に比して極端な親方日の丸意識)の問題が浮き彫りとなってきます。


なぜならば、国民投票法案が採決された同じ日にNHKが発表した「内閣支持率等の調査」(5/14、ラジオ・ニュース、PM7:00〜 )で「安倍内閣支持率」が急上昇したと報じられていたからです。また、同じ調査で「あなたは集団的自衛権の意味を知っていますか?」の問いでは、「知っている」と答えた人の割合が僅か8%であったことにも驚かされました。かくも、日本の「シミュラクール社会化」(=日本人のカルト性がもたらしつつある、一種の仮装・擬装社会化)は着実に進んでおり、背筋が凍るような想いがします。


(参考)


以下に、[“狂女フリート”が黙示する「美しい国」のシミュラクール、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514]のコメント&レスを再録しておきます。


・・・・・


pfaelzerwein 『toxandoriaさん、いつもご意見拝読しております。また日本国憲法改正への動きなどには重大な関心を持っております。


しかし、こちらでのような高度な論調は、到底ワンフレーズポピュリズムに対して太刀打ち出来る訳でなく、先日取り上げられた、宮台真司の論調にしても、 「国際政治はこうしたものだよ」とした現実主義者ぶった論調で選択肢を訴えるしかないのですね。しかし、そうしたヴァーチァルな対抗軸を築くべき、それに 匹敵するようなエリート政治集団が欠けていては致し方ない。


序に情報として、昨日のブレーメン州選挙で、社会学の教科書通り、大連立の大政党が有権者の手痛い鉄槌を受け、小政党が軒並み躍進してその中でも西ドイツ で初めて左派党が議席を獲得しました。これは、連邦共和国において囁かれていた「共産党の合法化」への芽を摘み、今後社会民主党左派への大きな影響を与え るものと思われます。


要するに議会制民主主義をモットーとする先進国では、大枠において政策の選択肢の可能性は限られており、専門店の良さと特産品を提供する小政党が、より多くの一般大衆を動員出来る大政党に寄り添う構造となるのでしょう。


pfaelzerweinさま、こちらこそ色々とご教示を賜りありがとうございます。


今後とも、どうぞよろしくお願いします。


ドイツ旅行記の方は、少なくとも後5〜6回ほど記事にすべき画像が残っておりますので、これからボチボチと書いてゆくつもりです。


実際に現地へ行かずにドイツの歴史等を学ぶことも可能ですが、一度でも現地へ出向いた経験があると同じ知識が全く違って見えてきます。


また、現地情報などのご教示もよろしくお願いいたします。』(2007/05/15 05:09) 


 そら 『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。


それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。


私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。


現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには厳しくないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。


あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』(2007/05/15 15:04) 


toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。


ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?


日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。


恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。


京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。


記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。


古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は紀元前後の古代ローマ文化との接点が気になっています。


メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

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