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嵐の前 4 「無邪気な裏切り(上)」 主上と蔵人との逢瀬から一月ほど経った晩夏の夜― 主上は、暑さをしのぐため、格子を開けさせ、自身は白地に松菱を浮かび上がらせた薄物の袿を羽織って、女房に扇で風を送らせていた。と、そこに左京大夫の来訪が告げられた。主上は、入室を許可した。 左京大夫は、沈鬱な面持ちで、主上と対面した。年は四十をいくつか越した位だろうか。鬢に何筋か白いものが混じってはいるが、がっしりとした体格をして、知的な印象を与える美丈夫である。主上の乳母の夫であり、何カ国もの受領を歴任して、税を見事に取り立てる能吏ぶりを発揮しているため、主上も幼い頃から政の事について、何かと相談をして信頼を置いている。 その左京大夫が真夜中に拝謁を求めてくるのだから、よほど重大な問題が発生したのだろう、と主上は思った。 「蔵人・藤原高藤をお側に置くのはおやめ下さいませ。あの者をお側に置くことは危険です。」左京大夫はいきなり切り出した。 主上は思わず寄りかかっていた脇息を倒し、強い口調で詰問していた。 「何ゆえだ?理由を述べよ。」 左京大夫は口ごもった。 「なぜ、院も、そなたまでもが口をそろえて蔵人と朕との仲を裂くのだ。そんなにまろの蔵人への寵愛は常軌を逸しているのか?」 左京大夫の眉が曇り、まっすぐ主上の眼を見つめ、残念そうに囁いた。 「主上・・・お気づきになっておられませぬのか?」 「主上は、どうしようもないほど、蔵人に骨抜きにされておられるようです。・・・蔵人は我々を裏切ったのですよ!」 主上の髪が逆立ち、呼吸が一瞬止まった。 「それ・・・は、どういうことだ?」 「蔵人は院の女房と懇意になって、こちら方の情報を何もかも話したのです!今度誰を昇殿させるのか、誰を国守に定めるのか、陣の定でどんな話がされたのか、主上の今側近にしている公卿は誰なのか、ご寵愛されているのはどの女御かという事も・・!殿上人の誰も存じておりますよ!ご存知ないのは主上と、おそらく蔵人だけでしょう。」 左京大夫は表情を引き締めて、言い放った。 「おかげで出す宣旨出す宣旨の先回りをされて院側の体制固めをされるので、政がやりにくくてしかたありません。どうか、大宰介か、伊豆守などに任命して内裏から追放してくださいませ!」 主上はなんとか体勢を立て直し、かすれる声を絞り出して左京大夫を宥めにかかった。 「まてまて、左京大夫。本当に蔵人がこちらの情報を流したとは言えないではないか。今度朕が直接確かめてからではいけないか?」 「仮に単に噂だけに過ぎないとしても、そういう噂が出た事が問題です。蔵人は主上の近くに常に侍る職。行動にも気を配らなければなりません。この難しい時期に院の女房の許に出入りする事、それだけで内裏からの追放に値すべき罪です。」 左京大夫は主上を悲しげな瞳で眺め、一息ついた。 「主上は昔からお優しい気性でしたね。可愛がっておられた犬が病気になった時にも病気が移るのを心配した私どもが犬を引き離そうとするのを拒否されて、犬を連れて行かれないよう寝ずの番をしておられた。」 主上は憮然とした面持ちで左京大夫を睨んだ。 「でも耐え切れなくて三日目の晩に寝てしまったまろに黙って、犬を連れて行ってしまっただろう。あの犬はどうしたのか?殺したのか?そして、蔵人も・・そうするつもりか?」 左京大夫の片頬が歪んで、かすかに笑っているように見えた。 「主上に害をなすものとあれば。」 そう言って左京大夫は帰っていった。 主上は、蔵人を自室に置いておいたらすぐにでも左京大夫の手の者が連れて行ってしまいそうに思え、急いで蔵人を清涼殿に呼び寄せた。 蔵人はちょうど例の院の女房の所に行っていて、明日の帰邸になるとの事だった。主上は院の女房の許へだけは遣いはやりたくないと思ったので、その晩は何ともできず、まんじりともせずに夜を明かした。 次の朝、蔵人は眠そうな目で主上の許に参上した。 浅葱色の袍が夏らしく、蔵人の涼やかな目元がどれほど眺めても見飽きない美しさだった。急いで髷を結ったのか、かすかに鬢が乱れているのがこの上もなく色気をかもし出しており、主上は昨日の疑惑も忘れて蔵人の頬を撫でてしまいたくなった。 「昨夜はお召しがあったそうで・・失礼いたしました。」 蔵人はにこっと笑って頭を下げた。 「いや・・朕も突然使者を遣わしたからな。時に・・昨夜は院の女房の許に行っていたそうだな。」 「はい。それが何か?」 「それについて悪い噂が立っておるので、蔵人に直接確かめようと思ってな・・。」 「何でございましょう?」 蔵人は無邪気な黒目がちの目を輝かせながら、少し微笑んで主上の顔を見た。主上は蔵人の顔に一瞬見とれてしまったが、すぐに気を取り直し、威厳を取り繕い、問うた。 「院の女房に話しているそうだな。内裏での出来事何もかもを。」 「え・・・?」 蔵人はきょとんとして、息を吐き出しながら言った。 「まろと女房との閨の会話を・・・なぜ主上がご存知で・・・。」 「内裏の殿上人どもは皆知っているそうだ。おそらく女房が院に申し上げて、院の近臣から内裏中に広がったのだろうよ。」 主上は目を伏せながら、自嘲的に笑った。 「知らぬのはそなたと朕だけだった、と言うわけだ。昨夜、左京大夫が奏上したおかげで、初めて分かった。朕も、この間の行幸の時、やけに院がそなたへの寵愛振りについて詳しくお知りになっている事に疑問を持つべきであったよ。」 主上が目を上げると、蔵人の顔は蒼白になっていた。主上は優しく話しかけた。 「そなたが話したのだな?内裏の動きを全部。」 「は・・・い。」 蔵人は声を絞り出した。 主上は思わず蔵人に詰め寄っていた。 「・・何でそんな事を女房に話した?話すことはもっと他にあるだろう。」 蔵人はうつろな目を虚空に彷徨わせながら体を震わせた。 「あの女はまろが言い寄っていたとき、古歌をふんだんに散りばめた会話をしてきて、まろがそれに応えられない日は、気分が悪いといって逢ってくれなかったのです。でも、ある夜、珍しくすぐに逢ってくれて、有頂天になっているまろに、『面白い話をしてほしい』とねだってきたのです。『面白い話とは何か』と聞くと、主上とまろとの関係に興味があるようでした。それからその女の質問に誘導されるように内裏の事を話していってしまったのです・・・」 蔵人は縋るように主上の目を見つめた。 「それを話すことがそんなに重要な事なのでしょうか・・。」 主上は、院のおっしゃった「無学で刹那的な」と蔵人を評した言葉の意味が分かり、全てを握って黙っていた院への怒りと、余りに無用心な蔵人の行動に、頭にかっと血が上り、扇で蔵人の肩を叩き、大きな声を出していた。 「こんなに長い間朕の側にいて、なぜわからなんだか!今、朕と父院は政(まつりごと)の方針をめぐって水面下で争いをしておるのだぞ!」 蔵人は主上に叩かれたのも初めてなら、これだけ大きい声で罵られたのも初めてだったため、一瞬呆然としていた。 「左京大夫は、院が近臣に荘園を許可しすぎて租税の収入が滞るのを阻止するために夜も寝ないで荘園整理を進めておるのだ!それなのにそなたが女の気を引くためにいった情報のせいで、停止(ちょうじ)しようと思った荘園に、院が院宣を出して正式に認めてしまった・・・」 蔵人は、がばと体全体を地に投げ出した。 「申し訳ございません!もうしません!だからどうか、どうかおそばに・・・。」 (つづく) |