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[サン・ヴィクトールの著書『ディダスカリコン(Didascalicon)』からの引用 部分]について(追記) 2007.1.8 ◆サン・ヴィクトールの著書『ディダスカリコン(Didascalicon)』からの引 用部分が“直訳”で分りにくかったので、下記のとおり“意訳”に改めまし た。 ・・・・ 既述のサン・ヴィクトールの著書『ディダスカリコン(Didascalicon)』の中 には次のように辛辣な言葉もあります。・・・多くの人は、その生来の能力不 足ゆえに、簡単なはずであることも、ほとんど知的に理解することができない ままだ。さらに、それらの人々は二つの種類に大別されると思われる。まず は、自分の能力不足を自覚しながらも、学識を得るためにできる限りの努力を する人々がいる。この場合、彼らは不断の勤勉さと努力によって、少ないなが らも然るべき学識を身につけることになる。つまり、彼らは意欲(意志)の結果 として、その学識を身につけるのだ。一方には、重大なことを自分が理解でき るとは決して思わず、簡単なことも見逃してしまう人々がいる。彼らは、怠惰 と無為ゆえに安寧に暮らしており、本当は理解できる簡単なことすら学ぼうと しないため、とても重大なこと、つまり真理を照らす光をすら見逃してしまう のだ。そのため詩篇には次のように書いてある。「彼らは、正しい行いをする ことを理解しようとはしなかった」(注1)。「知らないこと」と、「知ろうと しないこと」(←これがナルシシズム化、あるいはカルト化の意味!/toxandor ia<注記>)との間には大きな違いがある。もし本当に知らないならば、それ は能力がないためだが、知を忌み嫌うのは歪んだ意志(=ナルシシズム、ある いはカルトの意志/toxandoria<注記>)のなせる業なのだ。(注1);詩篇36 の4[この部分は、http://www.medieviste.org/archive/versio/Didas_I.htmlよ り引用] |